こけし
海中図書館
こけし
講義の最中ふと前を見るとこけしがいた。木でできた円柱の体に丸い頭をくっつけて黒板隅にチョークとともに転がっている。おかっぱ頭で顔には笑っているようなあの薄い微笑みを載せて講堂に階段状に座る僕らを眺めている。席から距離があるので始めは見間違いかと目を凝らしたが、確かにこけしだ。誰かがいたずらでおいたのだろうか。いやそれなら講義が始まった際に気がつくはずだ。
周りの様子をそっとうかがう。前の席のだれもこけしに注意を向けてはいないし、後ろでざわめきも聞こえない。右の桃田はいつものごとく居眠りしてるし左を向いたら真面目そうな女子に変な目でみられた。きょろきょろしている僕を怪しんだのだろう。慌てて向き直り教授を観察することにした。
線形代数を論じている数学教授は隅のこけしを見もしない。彼が講義のために持ってきたのではないようだ。今までもそれなりに話は聞いていたけど面白みのないベクトルの説明ばかりでこけしのこの字もでてこなかった。まあ持ってきたとして、一体何に使うんだという話だけど。
隣の桃田を肘でつつく。
「おい、起きろ」
体をびくっとさせ、眠そうな目を開いた奴はおっくうそうに聞いてくる。
「あー? 柿田、何だよ?」
「ほら、あれ。見えるか?」
「見えるって何が?」
僕が指さした方を見ても桃田はぼんやり視線を揺らすだけだ。
「あれだよ、あれ。あのこけし。黒板の隅にあるやつ」
桃田はやっと目が覚めたのか、大きく伸びをして座りなおす。そしてじっくり僕の指の先を睨んだが、目的物の発見には成功しなかったようだ。
「なんの事言ってんのかわかんねぇ。もう起きたから大丈夫だって」
どうやら奴は僕が彼を起こすために頓狂な法螺を吹いたと思ったらしい。大丈夫と言いながら交差した両腕を連結机の上に置く。また眠りの世界に入るつもりだ。
「ほんとに見えないのか? あんなに場違いに転がってるのに? あそこだぞ?」
「見えない見えない、見えませーン……おやすみ」
桃田は顔を伏せてしまった。僕は呆然とする。もしかしてあれ、僕だけに見えている? そんなこと、あるわけがない。オカルトや心霊など元から信じないたちだ。ましてやそれが身に降りかかるなんて、意地でも認めない。恐怖と不安、困惑を抱えて悶々としていると授業が終わる。すぐさまこけしの実在を確かめようと向かったが、こけしはいつの間にか消えていた。そこで見間違いだと思うことにした。そうだ、そうに決まっている。ちょっと疲れてチョークが変なものに見えただけなんだ。
またこけしを見たのは一週間後、政経が始まってすぐだった。配られたレジュメを眺めながら話を聞くだけの退屈な授業。凝った首を回したら視界に変なものが入った。こけしだ。今度は連結机の上に直立してこちらを見ている。距離が離れているので一瞬水筒かと思った。こけしのすぐ隣に座っている女子の持ち物だろうか。八段ほど下にいるので様子がうかがえない。しかし周りの生徒は不思議がっているふうでもない。講義中にこけしなんか机にのっけている女生徒がいたらさすがの教授も注意しそうなものだが相も変わらず専門用語を垂れ流して催眠術を操るだけ。おしゃべりな女子もやんちゃな男子も指を指して笑ったりもしていない。そもそもあれが見えていないようだ。
意を決して立ち上がった。まずはあれが実在しているのか、それとも僕だけに見えている幻覚なのか確かめねばならない。トイレに行くふりをして席を下る。こけしの近くの女子には悪いと思いつつ、近づく。「あっと」よろけたふりをしてこけしに肘を当てた――当たった。こけしは鈍い音をたてて倒れる。確かに幻覚ではない。ちゃんと存在してる。女子がむっとした顔で僕を見る。どうやら彼女の所有物であったようだ。「ごめん」言いつつこけしを机に立て直し、急ぎ足で講堂を出た。周りの視線が痛かったが仕方がない。
外で適当に時間を潰し、僕だけの幻覚ではなかったことへの安堵とともに軽い足取りで席に戻った僕をしかし、桃田の言葉が再び恐怖の底に突き落とした。
「柿田、お前なんであの子の水筒倒したんだよ? 好きなのか?」
はぁ? 水筒? とっさに反応できず言葉に詰まる。
「いや、あれはこけしで……」
「何言ってんだよ。さっきあの子の水筒倒しただろ? 知らないとは言わせねえぞ? にしても、もっと適切なアプローチをだな……」
桃田は隣でぶつぶつ寝言を言っているが全く耳に入ってこない。
あのこけしは、僕以外の人間には水筒に見えている? 背筋に寒いものを感じながらこけしの方を向くとぶるっと体が震えた。先ほどは向こうを向いていたこけしがこっちを見ている。女子が置きなおしたのか?
「なぁ桃田、あの子の水筒、向き変わってるか?」
「あ? いやそのまんまだぜ」
そんなはずはない。だって、だってもしそうなら……。
僕にしか見えないこけしが勝手に動いて僕を見たことになる。
事実を認識してあまりのことに泣きそうになる。なんてことだ。今すぐ席を立って逃げ出したい衝動に駆られる。
「おい、どうしたんだ? まぁそんな顔面蒼白にしなくてもいいさ。これを失敗だととらえて、次いこう! 次!」
勘違いした桃田の慰めなど何の足しにもならず、こけしは授業時間中に消えた。
それから一カ月の間いろいろなところで不定期にこけしを見た。通学路の道路わき、食堂の隅、コンビニの駐車場など。自分の頭がおかしくなったかと思い病院にも行ってみたがまともに取りあってくれない。出されたお薬だってこけしを消し去らないのだ。こけしは特に何をするわけでもない。ただ遠くからこっちを見ているだけだ。でもその距離がだんだん近くなっている。こけしを見るようになってから得体の知れない恐怖が僕をつかんで離さない。あれと僕の距離がゼロになったら、僕はどうなるんだろう。じわじわと迫るこけしにおびえながら日々を過ごす。そんな時間が続いた。
一か月後、僕は初めてこけしを見た講堂にいた。ここしばらくこけしを見ていない。直近で見た時は五メートルほどしか離れておらず、いよいよ眠れなくなっていた。しかし今ではだんだんとその恐怖も忘れ、一時性のストレス性障害なのだろうと考え始めていた。数学教授の話を聞きながらノートをなんとなしにめくる。
今日は桃田が来ていない。授業中は大抵寝ている奴だが遅刻はすれども欠席はしない。だから珍しいよなと思いながらもう少しで終わる講義に耳を傾ける。
と、そこで講堂の扉が開いた。ちらりと目をやって――固まった。全身にぶわっと鳥肌が立つ。寒気が全身を包む。顎が固まって声が出ない。入ってきたのは――こけしだった。人間大のこけし。それが薄っぺらい不気味な笑みを木でできた顔に張り付かせ、滑るように移動する。僕の方にその顔を向けたまま。
ヒッと声が漏れた。手足ががくがく震えて気持ちの悪い汗がふき出る。逃げろ、今すぐ逃げろと本能が警告するが腰が抜けて立てない。
こけしはまっすぐ僕の方に向かってくる。そしてどんどん近づいて来――空いている僕の隣に着いた。僕を見たまま。
限界だった。カバンをひっつかんで飛び出す。そのまま講堂を出て大学を出て通学路を走り自分の部屋に逃げ込んで鍵をかけた。何なんだあれは、何なんだよ本当に。僕が何したっていうんだ。そんなことを思いながら頭を抱えてうずくまる。誰か、誰か助けてくれ。お願いだから。
チャイムが鳴った。びくっと肩が跳ねる。心臓はさっきから早鐘を打ち続けている。恐る恐るドアに近づき、のぞき穴から部屋の前にいる相手を見た。
こけしだった。ほとんど反射的に悲鳴をあげる。ドアから飛びのき布団を頭からかぶる。やめてくれと叫んだかもしれない。布団の端を握りしめながらとにかく祈る。早く、一刻も早くこの悪夢を終わらせてくれ。頼むよ。
チャイムがまた鳴る。聞こえないようにぎゅっと耳を塞いで体を縮める。意味をなさない不明瞭なうめきが口からもれる。助けてくれって言ってんだろ。誰でもいいから。ふざけるなよ。お願いだ。ちくしょう。思考が途切れ途切れになって歯を食いしばる。不愉快な動悸が止まない。
さらにチャイムが激しく鳴る。コツコツとドアが叩かれ、次第に大きくなり、ついにはドンドンと音を立て始めた。ひたすらに耐え布団の中で震えていると突如ぴたりと静寂。シーンとして、さっきまでのがウソみたいだ。汗びっしょりの体をゆっくり布団から出し、外をのぞく。何もいない。
安心して振り返るとこけしが僕の前に立っていた。
柿田が学校に来なくなった。俺はペンをくるくる回す。あいつはいいやつだった。真面目だったがゆえに無理をしすぎて大学がしんどくなったのかもしれない。もう退学してるのかも。しかしそれなら俺に連絡ぐらいしてくれりゃあいいのによ。
講堂では物理の教授が何やら黒板に書きつけている。どうして大学の科目はこうも退屈なのかね。もうちょっと楽しくできないものか。だがしかし、とレジュメを睨んだ。もうすぐ試験だ。こいつのは難しいと聞く。そろそろまともに聞かなくちゃあな。
と、そこで教授の足元に何か置いてあるのに気づいた。目を凝らしてよく見る。こけしだ。おかっぱ頭に線でできた目と口で笑ってる。始めは変な物持ってきてんなと思ったが、授業で使う可能性に思い当たってにやりとした。たまにはやってくれるじゃねぇか、先生。
伸びをして座りなおす。そのままこけしの出番を待ったが授業が終わる。なんだ、期待外れかよ。食堂に行こうと講堂を出ようとしたとき、ふと柿田がこけしがどうたら言っていたことを思い出す。もしかして、さっきのか? もう一度こけしを探してみたが、見つからない。
「何だぁ……?」
変な感覚を覚えつつ、食堂に足を運ぶ。今日は肉野菜炒めを食おう。デザートを買う金はあるかな。
こけし 海中図書館 @established1753
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