緋色妖奇譚
林さん
序章
家の床の間には一本の刀が置いてあった。誰の刀なのかは当時、一緒に暮らしていた祖父にも分からないのだという。しかし、大事なものだということは常々言われていた。どうやら、家に代々から受け継がれてきたものなのだという。しかし、それがどうしてここにあるのかは分からなかったが考える必要はないほど明白だった。
『緋莉、』
床の間に手を合わせながら、祖父はポツリと少女に声をかけた。その時の祖父の顔はよく覚えている。常に少女に優しく笑いかけていた彼にしては珍しく、どこか悲しげな表情だったからだ。少女が心配そうに見つめる中、刀を見ながら、祖父は続けて話し続けた。
『もし、この刀の本当の持ち主に会うことになったら……………これを持つに相応しい人がいたのならば、伝えてくれないか──────』
よくよく考えれば、あれは祖父の遺言だったのだろう。なぜなら、その数ヵ月後に祖父は家の縁側で静かに息を引き取ったからだ。少女が高校進学を決め、志望校に合格した矢先のことだった。
そして他人事ではあるが。
こんなことを今考えるということは少女、龍神緋莉のこの記憶は、俗にいう走馬灯というものだろうと目の前の異形を見ながら思う。
額に二本の短い角があり、目は一つ。首のない馬の上に座ってそれは緋莉を見下ろしていた。学校の生徒から頼まれ事を請け負って、いつもより帰りが遅くなってしまった矢先だ。学校から出た瞬間にそれ…………『妖』と呼ばれる異形と目が合ってしまったのだ。
もちろん、そのまま襲われるわけにもいかない。目が合った瞬間に緋莉が取った行動は逃げの一択。しかし、人成らざるモノ達に逃げが通用するはずもない。あっさりと追い付かれ、地面に転がされてしまい、冒頭に至る。
己の不運を緋莉は心の中で恨んだ。学校でばったり会ってしまったため、身内に連絡を取ることも出来ない。次の瞬間には自分は妖の腹の中だろう。
『一か八か』と態勢を整えようとした時、緋莉の動きをさらに止めようと妖が乗っていた馬が嘶き、体を反らした。馬の蹄が緋莉の頭上に振り下ろされる。
避けることは出来なかった。
何より態勢が悪すぎる。
とっさに自分の顔を腕で覆ったその瞬間。
何者かが緋莉の上を飛来した。
馬が悲鳴を上げる。ハッとして緋莉が顔を上げると、馬の足が宙を飛んでいたのだ。そして次に見たのは、その断面から飛び散る赤い液体。馬はバランスを崩して、彼女の手前で大きく倒れた。
一瞬、何が起こったのか緋莉には分からなかった。一方の妖は自身の背後を睨み付けていた。つられて緋莉もその方向へ目を向けると、月明かりに照らされながら誰かが立っていた。
着物と袴という服装。技術進化した現代と比べるとその人物の姿は今とだいぶ時代錯誤を起こしていた。狐の面で被っているため、顔は分からない。頭の高い位置で一つ縛りにされた黒髪長髪から一瞬だけその人物は女なのだと緋莉は思った。しかし、臙脂色の着物から覗く鍛え上げられた腕は、紛れもなく彼が男だと示唆している。
男の右手には切っ先が赤く染まった日本刀があった。あれが馬の足を斬り落としたのだ。ゆっくりと男は立ち上がり振り返った。月に照らされ、静かに輝く耳飾りがシャラ、と音を立てる。
妖は怒りをにじませながら唸り声を上げる。それと同時に、妖の小さかった体は膨れ上がるように巨大化した。もう緋莉には意識を向けていないようだった。『この男を殺さなければならない』と直感したのだろう。巨大化した妖が剣士に襲いかかった。緋莉が思わず、声をかけようと口を開く。それよりも前に、剣士は姿を消していた。
剣士は迫り来る手をかい潜り、刀を持ち変えると妖の足の腱に素早く二回、刃を入れる。妖が背後にいた剣士に拳を振り下ろすが彼にとってそれは『遅すぎる』。突き出された妖の腕を斬り落としながら頭上を軽々と跳躍で躱すと飛び越えた。
人の手によって首の骨を断つのは、相当な技術が必要となる。骨の繋ぎ目を正確に捉えなければ、硬い首の骨を断つことが難しいからだ。斬首刑があった時代も処刑人の技量が足りなければ、何度も首を斬りつけていたという。
しかし、目の前の男は違った。どこを斬れば殺せるかが分かっていた。男の刀は骨に引っかかるわけでもなく、たったの一刀で妖の首をはね飛ばした。綺麗な弧を描き、地面に落下すると妖の身体は死亡したことを意味する灰になって崩れた。男は見向きもせずに刀を血振りすると鞘に仕舞う。その所作は無駄がなく美しかった。
「あの!」
慌てて立ち上がってから、無意識に緋莉は男に声をかけた。男は顔だけ緋莉に目を向ける。顔は分からなかったが、その瞬間だけ目が合った気がした。緋莉が口を開いたその時。
「緋莉!!」
聞き慣れた声がして緋莉は振り返った。すると、道の奥から一人の少年が駆け寄って来ていた。癖のある短いボサボサの黒髪と黒ジャージ。首元にはチョーカーがつけられている。それだけ見るとただの少年のようだった。しかし、そう見えるというだけ。彼は明らかに人ではなかった。その頭には髪と同じ色をした猫耳、腰元には二本の尻尾が生えていた。化け猫、または『猫又』と人々は言うであろう彼も先ほどの妖と似たモノだ。
「帰りが遅いから探しに来たんだよ。ったく、何してんだ!」
驚いて目を丸くしている緋莉に鋭くそう言うと、猫又の少年は緋莉の背後に目を向けた。我に返って振り返ると、そこには灰になって散っていく妖の死体以外、誰もいなかった。静かな通りがあっただけだった。
「………………何もんだ?アイツ……」
猫は耳が良い。おそらく何が起きていたかは音だけとはいえ、聞いていたのだろう。警戒するようにクロは金色の目を細めた。緋莉は「分からない」と首を横に振った。クロは崩壊していく妖に近づき、傷口を確認した。
「でも、悪い人……ではないと思うよ。」
「どうだか………前々から言ってんだろ。お前さんはお人好し過ぎんだよ。ただ単に獲物を横取りしようとした可能性だって───────」
ふと、死体を確認していたクロはそこまで言ってから口を閉じた。その視線はまだ崩れずに残った妖の腕を見ている。緋莉も気になってそちらに目を向けると、その腕に刺青がされていることに気がついた。
「…………………『虎』?」
「だな、」とクロは頭をかいて肯定する。一匹の虎が刻み込まれていた。しかし、見てみると入れ墨が入っているのはその腕だけだった。そして、微かではあるがその刺青からは妖が持つ魔力……妖気が感じ取れた。
(なんだろう。ただお洒落したというよりも──────)
「この刺青…………どっかで…………」
ポツリとクロがそう呟いて、顔をしかめたその時。二人の頭上をカラスの群れが通り過ぎた。クロは思考を止めてカラスの群れを睨み付けるとジャージのポケットに手を入れて頭を雑にかいた。
「とりあえず、ここに長居するものじゃねぇな。最近は妖共が異様に殺気立ってやがる………おい行くぞ、緋莉。」
帰ったら説教だかんな、と付け足してクロは歩き出す。緋莉は一瞬だけげんなりした顔を浮かべたがふと、先ほどまで男がいた場所に目を向けた。
「………お礼、言いそびれた………」
ポツリと緋莉はそう呟いた。
なぜだか分からないがあの時、無視してはいけない瞬間だった気がした。
〈 続 〉
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