6 有田教授の葬儀
私が声をかけて振り返った立花先生の顔は青ざめていた。
その横についていた島本刑事も私の声に気づいて振り返り、神妙な顔をして、
「やあ、一色さん」と言った。
立花先生も「やあ・・・」と力なく答えると、両手に持っていたハンカチで手を拭き終わり、そのハンカチをポケットにしまった。
「・・・」ハンカチが手首にかけられた手錠を隠すものだと一瞬誤解したために、私は拍子抜けしてしまった。
私は誰かに止められることもなく、立花先生と島本刑事のそばに近寄った。
「何があったんですか?」
「実は法医学教室の有田教授が昨晩亡くなられたんだ。我々は殺人だと考えている」との島本刑事の言葉に絶句した。
「それで昨夜一緒だったという立花先生たちに、有田教授と別れるまでの状況を聞いてたんだ」
島本刑事の話しぶりだと、立花先生が殺人の容疑者になっているのではなさそうだった。いや、それはまだ断定できない。生前の有田教授に最後に会っていたのが立花先生なら、まだ容疑は完全に晴れていないのかもしれなかった。
「どんな状況だったのですか?」
「それは僕から説明するよ。一色さん、こっちへ」と立花先生は私をいつもの法医学検査室の方へ導いた。
島本刑事は入室しないようだったので、軽く会釈をして通り過ぎる。その時、島本刑事と立花先生が一緒に出てきたドアを見た。・・・男子トイレの入口だった。
立花先生と島本刑事は一緒に用を足し、洗った手をハンカチで拭いていただけだったのだ。・・・島本刑事がハンカチを使っていなかったので勘違いしてしまった。・・・島本刑事は手を洗ったのかな?
私は立花先生について法医学検査室に入った。いつものように私に木の丸椅子を勧めてくれる立花先生。
「ほんとうに有田教授が亡くなられたんですね?」
「ああ。・・・島本刑事にも説明していたことを話そう。昨夜は有田先生と上野先生と一緒に、大学近くの居酒屋で夜十時頃まで飲んでいた。二人は終始ご機嫌で、とても楽しい時間だったよ」
「そうでしたか・・・」
「そして居酒屋を出てまず上野先生と別れた。僕は有田先生を駅まで送って行って、改札口の前で別れた。・・・あれが最後に見た、有田先生の生きている姿だったなんて」青ざめた顔を伏せる立花先生。
「顔色が悪いですよ。とてもショックだったんですね?」
「半分は二日酔いのせいだけどね」
「有田教授はどうしてお亡くなりになられたのかわかりますか?」
「有田先生のご遺体は、自宅近くの住宅街の一角の空き地で今朝発見された。自宅には戻れなかったようだ」
「島本刑事は殺人だと仰っていましたが?」
「有田先生の顔には殴られた痕のような皮膚変色があった。そして上着が剥ぎ取られ、ワイシャツの右腕の袖がまくり上げられて、肘窩、つまり肘の内側に注射痕があったらしい」
「・・・そ、それって、まさか、空気塞栓症の実験の痕ですか?」
「ご遺体は今日の午後、都立医大の方で司法解剖されたそうだ。警察に顔が知られている有田先生の身元は発見後すぐにわかり、僕と上野先生にも連絡が来たんだけど、最後に会っていたのが僕たちだということで、状況を聞くまでここで待つよう言われた。だから司法解剖には立ち会えなかった・・・」
「死因は、空気塞栓症だったのですか?」
「島本刑事は死因は現時点で不明だと言っていたけど、心臓に空気は溜まっていなかったらしい」
死因が空気塞栓症じゃない?そうだとしたら右手の注射痕は、注射器で空気を注入された痕跡ではなかったのか。
「じゃあ、毒殺か何かでしょうか?」
「そうかもしれない。・・・その場合、血中から薬物を検出するまで正確な死因はわからない」
「これからどうされるんですか?」
「ご遺体は明日自宅の方に運ばれる予定だ。・・・明日の夜がお通夜かな」
「お葬式は・・・明後日ですか?」
「そのようだね。明日、大学の掲示板に告別式の会場と日時が貼り出されるだろう」
「ご気分は大丈夫ですか?」
「ショックと二日酔いとで最悪な状態だよ。今日は早めに帰って休むけど、明日はお通夜の手伝いに行ってるよ」
「わかりました。それではお大事に」立花先生が早く休みたそうだったので、私は別れを告げて下宿に帰った。
下宿に帰ってから考える。有田教授とは今まで親しく話したことはなかったけど、立花先生の上司だった人だ。私もお通夜に顔を出し、お葬式に参列した方がいいだろう。
・・・でも、喪服を持っていない。
大学に入学した時は両親にカジュアルな服しか買ってもらっていなかったので、こういう時に困る。
高校生だったら制服ですませられたのに。・・・いくら私が背が低くて中学生に間違えられがちだったとしても、さすがに女子高時代のセーラー服を来て行ったら、私のことを知っている人はみんな引いてしまうだろう。
そんなことを考えながら夕飯の準備を終えた頃に兄が帰ってきた。
「兄ちゃん、お帰り」
「おう、ただいま。・・・どうした?なんか暗い顔をしているぞ?」と、珍しく私の様子に気づく兄。
「実は立花先生の上司の教授が亡くなられて、明日からお通夜とお葬式があるんだけど、着ていく服がなくて・・・」
「そ、そうか、それは大変だな。・・・だが、心配するな!兄ちゃんに任せとけ!」
これまた珍しく胸を張って断言する兄。
「え?礼服を買ってくれるの?」
「いや、芙美子さんに借りられないか聞いてみる。確か黒服を持っていたはずだ」
「そ、そう・・・」芙美子さんとは兄の同僚で交際相手の松村芙美子さんのことだ。私より背が高いが、スカート丈を何とかごまかせるだろうか?
「昼休みに抜け出してもらうよう頼むから、千代子はここで待ってろ」
「わ、わかった。お願いね、兄ちゃん」
翌日の昼、私が下宿で待っていると、玄関のドアをノックする音が聞こえた。すぐにドアを開けると、紙包みを持っている芙美子さんが立っていた。
「千代子さん、黒服を持って来たわ。さっそく合わせてみましょう」と芙美子さん。
「お願いします」と言って中に招き入れる。
その後試着してみて、ウエスト位置の調整でなんとか着れることがわかった。袖も長めで、折らなければならなかったが。
私は芙美子さんにお礼を言い、その日の夕方になって喪服姿で有田教授のお通夜と告別式が行われる斎場に行った。
受付で記帳し、香典を渡す。その時、受付の少し後で上野先生と年配の女性が立っているのに気づいた。その様子から、女性は有田教授の奥さんではないかと思われた。
その女性が突然険しい目つきで私を見た。・・・どきっとしたが、その女性が見たのは私ではなく、私の後方だということにすぐに気づいた。
私がさりげなく振り返ると、喪服を着てハンカチで目頭を押さえている女性と、その横に付き添っている男性が目に入った。その男性と女性はいずれも四十代位だ。
その女性は有田教授の親戚なのだろうか?一般の弔問客よりも悲嘆にくれているように見える。一方、男性の方は無表情に近かった。
私は有田教授の奥さんの目線から逃れるようにお通夜の会場に入った。奥の方で立花先生が斎場の関係者らしい人となにやら話している。私に気づくと目配せだけしてきたので、私は軽く会釈をして会場後方の出口に近い席に座った。
やがて参列者が揃い、お坊さんが来てお経を唱える。それが終わると参列者が前の席から焼香に出た。しばらくして私の順番が来ると、有田教授の奥さんと、横に並んでいる上野先生、立花先生に一礼してから焼香を行った。
そして喪主(奥さん)のあいさつが終わると、そのまま帰る人に混じって斎場を出た。
翌日は朝十時前に再び斎場を訪れた。受付で記帳を行い、葬儀・告別式会場の後方の席に座る。やがてお坊さんが入場し、読経をしてもらった後、明応大学医学部長が弔辞を読み上げ、その後司会者から弔電の披露があった。
そして焼香し、お坊さんが退場すると、参列者は順番に用意されていた小菊の花を一本ずつ棺桶の中に入れ、出棺を見送るために斎場の入口前に移動した。
やがて数人の男性によって柩が運ばれてくる。家族、親戚か友人だと思われるが、その中に上野先生と立花先生も混じっていた。
柩が霊柩車の中に運び込まれると、遺影を持った奥さんがおじぎをしてから霊柩車の助手席に乗り込んだ。他の家族や親戚らしき人たちと上野先生、立花先生は後続のライトバス(マイクロバス)に乗り込み、やがて斎場から出発していった。
斎場に残った他の参列者たちは三々五々と帰って行く。私も帰ろうとしたら、
「一色さん!」と呼び止められた。見ると喪服を着た島本刑事だった。
「島本刑事も参列していらっしゃったのですね?」
「もちろん。有田教授にはお世話になったからね。・・・ところで、どこかで少し話さないか?」
島本刑事に言われて私たちは近くの喫茶店に入った。喪服を着ていると人目を気にしてしまうが、島本刑事は平気なようだった。
ホットコーヒーを二つ頼んでもらう。コーヒーが到着すると島本刑事がおもむろに話し出した。
「有田教授の死因の件なんだが、ペニシリン・ショックの可能性が高いということがわかった」
「ペニシリン・ショック!?」私は思わず聞き返した。
「ペニシリンって世界で最初に開発された抗生剤ですよね?」
「ああ。詳しいことは立花先生に聞いてほしいんだが、雑菌の繁殖を抑える薬で、傷口の化膿などの感染症に効果がある。日本でも戦後に普及し、魔法の薬として多用されるようになった」
「ペニシリンは知っていますが、ペニシリン・ショックとは?」
「ペニシリンを一度でも体内に投与すると、体内で異物として認識されて免疫が形成されることがある。そのためペニシリンを再度投与すると、発疹、発赤などの皮膚症状や呼吸困難、血圧低下などのアレルギー症状が出現し、強い症状が出た場合は死亡してしまう危険があるそうだ」
「薬なのに体に異常をきたしてしまうなんて・・・」
「都立医大の法医学の教授の説明では、法医学会では昭和二十九年からペニシリンによるショック死の報告が出始めたそうだ。そこで医学界に警告したが、一般の医師にはなかなか伝わらなかったため、ペニシリンは多用され続けた。昭和三十一年に東大法学部教授が抜歯後にペニシリンを注射されてショック死した事件が起こり、大きく報道されたため、ようやく世間にペニシリンの危険性が知られるようになった」
「死因が解剖直後にはわからなかったそうですが?」
「ペニシリン・ショックで死亡した人には注射痕のほか、上気道の浮腫、つまり気管や喉頭というところの粘膜が腫れてきたり、肺に水が溜まる肺水腫という所見が見られたりするそうなんだが、それだけではペニシリン・ショック死とは断言できない。ただ、注射痕周囲の皮膚に赤い発疹があったため、薬剤アレルギーの可能性を疑って急いで検査を行ったんだ」
「検査?」
「うん。有田教授の血液と注射痕周囲の皮下組織を解剖時に採取して、ガスクロマトグラフでペニシリンの有無を調べた。微量だったせいか血液からは検出されなかったけど、注射部位の皮下組織からは検出されたので、死因が確定したんだ」
「そうですか。・・・死因の判定も大変ですね」
「そうなんだ。有田教授は五十代半ばだから、過去にペニシリンを注射されたことがあったのかもしれない。ただ、ペニシリンを二度以上注射されても、ショックが生じるかどうかは不確実だそうだ」
「ペニシリンを射たれた痕があった。・・・時刻的にも病院に行ったとは考えられないから、誰かが死ぬ危険があることを承知で有田教授にペニシリンを注射したんですね?」
「確実に死亡するかわからない手段で人を殺そうとすることを未必の故意の殺人と呼ぶ。問題は誰が何の目的で犯行を行ったかだ」
「目的?」
「有田教授に殺意を抱いていたか、あるいはペニシリンを注射してどういう反応が出るか、興味本位で行ったかだ」
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