2 城址の絞殺死体の謎
私たちがひとつ目の相談事を片づけると、島本刑事の奥さんが紅茶とココナッツサブレというお菓子を出してくれた。紅茶は砂糖だけのストレートティーだ。
一息つき、脳に糖分を補給する。
「それじゃあ二つ目の事件について説明しよう。これは去年の十月に起こった事件で、岩手県警からの依頼だよ」と島本刑事が私たちに言った。
「一年近く前ですね?」
「そういうこと。まだ未解決の殺人事件のようだよ」
「え?殺人事件ですか?」
「そう」
「何人かいる容疑者の中から犯人を当てろという依頼ですか?」そのような状況であれば、まさに探偵小説のクライマックスシーンだ。
「いや、違うよ。犯人の目星は全然ついてなくて、これといった被疑者はいないんだ」
「じゃあ、殺害方法を当てろということですか?」
「死因も殺害方法もわかっているようだよ」
私は何が謎なのか、まったく思い当たらず、「とりあえず事件の概要を教えてください」と島本刑事に頼んだ。
「場所は盛岡城の
「どこからか流れて来た浮浪者だったのかな?」と立花先生が聞いた。
「そのようだね。秋になったから、もう少し暖かい所へ移動している最中だったのかもしれない」
浮浪者は東京や大阪などの大都市に集まる傾向がある。地方では人目につきやすく、警察に追い払われることが多いからだろう。
「公園の比較的大きな木の根元の後側に浮浪者は倒れていた。首に帯状の索状物で絞められた痕があり、顔は赤くうっ血していた」
「絞められた痕跡?絞殺死体なのかい?」と立花先生が聞くと、島本刑事はうなずいた。
「首の前から左右に幅三センチから五センチくらいの帯状の圧迫痕が水平方向に伸びていて、その圧迫痕より上部の皮膚がうっ血していたそうだ」
「確かに帯状のもの・・・手ぬぐいのような細長い布で絞められたような痕跡に聞こえるね。写真を見ないと正確なことはわからないけど」
「写真は手元にないけど、立花先生が言う通り、司法解剖でもそういう見解だったそうだ。ただし、首の後側にはまったく絞め痕がなかった」
「それはどういうことですか?」と私は立花先生に聞いた。
「首の後側に髪が伸びていたり、服の襟などで覆われていて、その上から索状物を巻きつけて首を絞められたとしたら、はっきりとした痕跡が残らないんだ。あるいは、仰向けで倒れているところに、両手で持ってピンと伸ばした手ぬぐいのような索状物を、被害者の首の前から押しつけるように圧迫する方法でも、首の後側に絞め痕は残らないだろうね」
「なるほど。必ずしも不自然というわけではないんですね」
「首の皮膚に本人の爪痕、つまり
「そうだね」と立花先生。
「首の後側には絞め痕がなかったけれど、前側には水平方向に伸びる絞め痕があり、首に皮下出血があり、顔はうっ血していた。これらは死因が絞殺であることを示している。・・・で間違いありませんね?」と私はまとめてみた。
「それから遺体の血中からアルコールが検出された。その濃度は血液一ミリリットルあたり約二・〇ミリグラムだったそうだ」
「かなり酔っていて、千鳥足になったり、ろれつが回らなくなる濃度ですね」と、私は以前に立花先生に聞いた酩酊の症状を思い出しながら言った。
「殺害された時には酔っていたからあまり抵抗できなかったろうね」と立花先生。
「遺体のそばには空の日本酒の一升瓶が転がっていた。高価な特級酒で、その浮浪者が買えそうなものじゃなかった。犯人が買って来て浮浪者に飲ませたのかな?」
「その日本酒の購入者を調べなかったのかい?」と立花先生が島本刑事に聞いた。
「調べたけど、観光客や地元の人間がよく買う酒で、犯人の特定には至らなかったようだ。日本酒の瓶から被害者以外の指紋は見つからなかったし」
「それでどこが謎なんですか?」と私は島本刑事に聞いた。
「死因自体は絞殺で問題ないんだが、妙なのは凶器の索状物と思われるマフラーが、遺体の頭上の木の枝に結ばれていたということなんだ」
「木の枝に?」
「地面から高さ一メートル五十センチぐらいのところに横に伸びている枝で、薄汚れてすり切れた長さ約一メートルの細いマフラーの一端が結びつけられていた。被害者の身なりと合っていることから、被害者のマフラーだろうね。マフラーのもう一端は垂れ下がっていて、その下あたりに遺体が横たわっていたそうだ。この状況を最初に見た捜査官は、そのマフラーの両端を木の枝に結んで、U字形になったマフラーで首吊りし、死んだ後でマフラーがほどけて地面に横たわったんじゃないかと考えたけど、解剖結果から、首吊りではなく絞殺と判断された」
「高さ一メートル五十センチのところにある木の枝に長さ一メートルのマフラーを結びつけて首を吊ったら、足は地面に着きますね?」と私は立花先生に聞いた。
「その通り。足や膝が地面に着いていても、首に十分な体重がかかれば、首が絞まって死ぬことは可能だよ。索状物を首の前からかけ、足が地面から完全に離れた状態の首吊りを定型的縊死と呼び、足が地面についている状態の首吊りや、首にかけた索状物が左右不対称である場合の首吊りを非定型的縊死と呼ぶんだ。ただ・・・」
「ただ?」
「非定型的縊死の場合でも、首にかけた索状物は斜め上方向に引っ張られるから、絞め痕が完全に水平になるはずはないんだ。マフラーは襟の上にはかからず、顎のえらの下から耳の後にかけて絞め痕が伸びるはずだよ。だから解剖医は、縊死、つまり首吊りとは判断しなかったのだろうね」
「首吊りではない。・・・それなのに木の枝に凶器かもしれないマフラーが結びつけられていたということは、被害者を絞殺した犯人が首吊り自殺に偽装しようとしたのでしょうか?」
「そうかもしれない。しかし首吊りに偽装したのなら、首には水平方向の絞め痕に加えて斜め上方向の絞め痕が残っているはずだよ。それがなかったのなら、遺体の首を吊るさなかったことになる」
「でも、どうして遺体の首を吊るさなかったのでしょうか?・・・死んだ人の体を持ち上げて首を吊らせるのは重労働ですが、マフラーをU字型に結んだのなら、U字部分までは一メートルちょっと持ち上げれば届くはずです。犯人が男性なら、その高さまで遺体を持ち上げて首を吊らせることはそれほど難しくなかったと思いますが?」
「じゃあ、犯人は非力な女性ってことかい?」と島本刑事が聞いた。
「非力な人だった可能性もあるし、人が来たので首を吊る前に逃げ出したのかも」
「発見は早朝だけど、死亡推定時刻はいつ頃かな?」と立花先生が島本刑事に聞いた。
「早朝の夜明け前頃と鑑定されている。日の出前だけど、あたりが明るくなってきた頃かな?」と島本刑事。
「ちょっと早い気がするけど、公園なら散歩する人が来てもおかしくないね」
「今までの話をまとめると、犯人は絞殺死体を非定型的縊死に偽装しようとしたが、マフラーの一端を木の枝に結んだだけでやめ、そのままその場を離れたということか」
「その程度のことなら岩手県警の刑事も考えるんじゃないですか?わざわざ島本刑事に意見を聞くまでもないことのように思われますが」と私は言った。
「もうひとつ謎があって、それは現場で見つかったメモなんだ」と島本刑事が言った。
「大学ノートの切れ端が遺体の近くに落ちていてね、指紋は検出されなかったけどまだ新しく、被害者が死んだ頃に落ちたもののようなんだ」
「メモと言うと、何か書かれていたのですね?」
「そう。鉛筆で『
「
「
「これは・・・短歌ですか?」
「岩手県警の刑事に聞いた話だと、岩手を代表する詩人のひとり、
「十五歳の
「学校を抜け出したとは書いてありませんが?」
「うろ覚えだけど、この短歌の前に『教室の窓より
「よくわかりました。・・・で、このノートの切れ端に残されたメモを読むと、『空に吸はれし』が『空に誓いし』になっていますし、『十五の心』が『十五の
「そうだね。そのまま読むと、盛岡城の草の上で寝転がって空を見ながら十五個の
「
「試験の『試』じゃなく、実験の『験』の漢字を使ったことに意味があるのかな?」
「もしこの
「何の実験を誓ったんだい?」と聞く島本刑事。
「それは、すぐそばで浮浪者が殺害されていたから・・・」
「まさか、殺人の実験かい?」驚く島本刑事。
「実験と称して人を殺したとなると、まるで快楽殺人犯じゃないか!」
「人を殺すだけなら実験とは言えないんじゃないかな」と立花先生が言った。
「実験と称するなら、殺害方法や犯罪の隠蔽方法がうまくいくか、試してみることだろう」
「死因は絞殺。それを犯人は非定型的縊死に偽装しようとした。・・・偽装は失敗したので、実験が失敗したということになるのでしょうか?」その時私はあることを思いついて考え込んだ。
「恐ろしい話だな。・・・他殺を偽装する実験を行うために、身元を調べにくい浮浪者に酒を飲ませて殺害したのかい?やっぱり快楽殺人犯じゃないか!」と島本刑事。
「一色さん、何か考えついたのかい?」考え込んでいる私を見て立花先生が尋ねた。
「絞殺死体を非定型的縊死に偽装しようとしたけど中断した理由について、犯人が非力だったとか、他人が近づいて来たからじゃないかとか考えましたが、もうひとつの可能性を思いつきました」と私は思い切って言った。
「どんな可能性なんだい?」
「犯人が首の絞め痕が水平になっているのを見て、これは首吊りには偽装できないと判断して途中であきらめたという可能性です」
私の言葉を聞いて、立花先生と島本刑事が黙り込んだ。
しばらくして立花先生が口を開いた。
「それって首吊り死体の絞め痕の特徴を知っている人が犯人だって意味だよね?・・・となると、犯人は警察官か法医学者、つまり僕たちみたいな人物ってことになるじゃないか?」
「医学生か、私のように法医学のことを教えてもらった人かもしれません」
「でも、僕たちなら絞殺死体を首吊り死体には偽装できないことは常識として知っている。絞め痕の走行がまったく違うから、試してみるまでもないと考えるけど?」
「以前、先生から、『地蔵背負い』という殺害方法について聞きました」
「『地蔵背負い』とは被害者の首に索状物をかけ、犯人と被害者が背中合わせになって被害者を背負うようにして首を絞める方法だね」
「もし立花先生が犯人で、私が『地蔵背負い』されたとすれば、背が低いから索状物の絞め痕は斜め上方向に向かい、非定型的縊死と区別がつきにくい痕跡になったでしょう。でも、犯人と被害者の背が同じくらいだったら、あるいは被害者の方が背が高かったら、絞め痕は水平か、場合によっては斜め下方向に伸びて、非定型的縊死には偽装できないでしょう」
「犯人は地蔵背負いで殺害した被害者を非定型的縊死に偽装できるか実験してみた。しかし身長差のことまでは思い至らず、絞め痕を見て首吊りへの偽装を断念したのか?・・・だとしたら、犯人はやっぱり法医学の知識がある人だ」と立花先生が言った。
「そうか。・・・それなら犯人像が絞り込めるな。もっともたまたま見かけた浮浪者を殺害した行きずりの犯行だったら、浮浪者の身元や交友関係からは犯人にたどり着けないだろう。・・・地元の人間が犯人かな?」と島本刑事も言った。
そのとき私は立花先生が愕然としているのに気づいた。
「どうしたんですか、立花先生?」
「十月頃には各地方で法医学の地方集会が開かれている。法医学教室や警察が主催して。・・・去年の十月の東北地方の集会は盛岡市で開催された。その地方集会に参加した東北地方の法医学者か警察官の犯行かもしれない」
もし法医学者が犯人だとしたら、立花先生が知っている人かもしれない。その可能性を考えて立花先生が衝撃を受けているようだった。
(註、この話はフィクションです。昭和四十三年十月に盛岡市で法医学の地方集会は開催されていません)
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