法医学実験による連続殺人事件

変形P

第1章 日本各地で事件が起こる

1 凍死の謎

昭和四十四年九月の某日曜日、私、一色千代子は朝十時頃に立花先生と一緒に島本刑事の自宅を訪問した。


私は今年明応大学に入学したばかりの文学部の学生だ。ミステリ研究会に所属して日々探偵小説を読み耽っている。背が低いので時々中学生に間違えられるのが難点だ。


立花先生は明応大学医学部法医学教室に勤める医師で、一応、その、私の婚約者だ。


婚約者と言ってもまだ正式に結納を交わしたわけではない。しかし両家の両親と既に顔を合わせており、公認の仲になっている。


立花先生と私は十歳ぐらい年が離れている。私が大学を卒業する三年半後まで先生を待たせてよいものか?というのが最近の悩みどころだ。


学生結婚という手もあるが、目立ちそうなのが困りどころだ。かと言って大学を中退するのも躊躇する・・・。


その話はここでは置いておこう。次は島本刑事を紹介しよう。


島本刑事は警視庁の刑事さんだ。四十代で、奥さんと中学生の娘のみちるさんと暮らしている。私と立花先生は、これまでに何度も島本刑事から事件の相談を受けたことがある。


今日は私と立花先生の二人が島本刑事のご自宅に招待されたのだ。島本刑事の自宅に着くと玄関戸をガラガラと開け、「こんにちは、一色です」と声をかけた。すぐに玄関に出て来る島本刑事の奥さんとみちるさん。


「おはようございます」


「ようこそいらっしゃい、一色さん」「いらっしゃ〜い」


「こちらが明応大学医学部法医学教室の立花先生です」と、私は後にいた立花先生を紹介した。立花先生が島本家を訪れるのは今日が初めてだったからだ。


「いらっしゃい、立花先生。お噂はかねがね」と奥さん。


「おはようございます。本日はよろしくお願いします」と立花先生もあいさつした。


「どうぞ、お上がりください」と言われて私たちは靴を脱ぎ、島本刑事が待っている居間に通された。


「やあ、二人とも、今日はわざわざ来てもらって悪かったね」と歓迎する島本刑事。


「いつもの小料理屋でも良かったんだが、今日は案件が多くてね、時間がかかりそうだからうちに来てもらったんだ」


「また、一色さんに事件の相談をして、自分の手柄にする気?」とみちるさん。


「今回もよその県警の刑事らから相談されたんだ。事件解決の助けになればいいと思っているだけで、解決しても俺の手柄にはならんよ」と答える島本刑事。


以前に島本刑事のお宅を訪問した際には、長野県警の刑事から相談を受けたという事件について助言を行った。それが事件解決に役立ったということで、長野県警の刑事が褒められ、島本刑事は感謝されたが本人の手柄になったわけではない。


「でも、父さんが名刑事だっていう噂が広がってるんでしょ?一色さんに頼れなくなったらどうする気?」とみちるさんが指摘した。


「先方もだめ元で聞いてきているだけだから、『いろいろ考えたがわからない』と回答すればすむことさ」


「お気楽ね。・・・じゃあ、行ってきます」とみちるさん。


「外出するの?」と私はみちるさんに聞いた。


「父さんの話に興味がないわけじゃないけど、今日は前から友だちと遊びに行く約束をしてたの。・・・夕飯もうちで摂るんでしょ?その頃には帰って来るわ」


「そう。いってらっしゃい」と私はみちるさんを送り出した。


「他の県警への協力ですか?警察の上層部は知っているのですか?」と島本刑事に聞く立花先生。


「いや、個人的に相談事に乗ってやっただけだ。正式に警視庁に応援を頼むには、刑事部長やら本部長やら、上を通す必要が出てくるからな。・・・その場合は、俺まで相談が回って来ないだろう」


「そこまでの事件じゃなければ、個人的に意見を聞くしかなさそうですね」


その時、奥さんが私たちの前にお茶を出してくれた。


「ありがとうございます」と私がお礼を言うと、


「ごゆっくり」と奥さんは言って奥に引っ込んで行った。


「それではさっそくだけど、まず北海道警の事件から説明しよう」と島本刑事。


「これは二月の雪が積もった日に郊外の住宅街で起こった事件だ。住宅街と言っても民家と民家の間は少し離れていて、畑が多い地域だ。・・・被害者は四十三歳の男性で、朝、自宅の玄関前で死亡しているのが発見された。当日の最低気温は氷点下六℃。死因は司法解剖の結果凍死と判断された」


「どうやって凍死と判断できるのですか?」と私は立花先生に聞いた。


「凍死の判断根拠はまず寒いところで死亡していること。寒いと言っても気温十℃台でも凍死することがあるから、寒い地域だけで起きるとは限らない。日本全国で起こり得るよ」


「十℃台でも肌寒く感じることはありますが、その程度でも凍死するんですね?」


「栄養失調でやせていたら寒さに対する抵抗力がなくなるからね。薄着だったり、体が濡れていたらより冷えやすくなる。飲酒している場合も体の血管が拡張して、体から体温が逃げやすくなるよ」


「なるほど」


「解剖所見では、死後経過時間と比較して体温が低下し過ぎていることがまず挙げられるね。もっとも一日以上経っていたら体温が気温と同じになっていて、早く体温が下がったのか、そうでないのか、判別できないけどね」


「死後比較的速やかに発見されて、体温が下がり過ぎていたら凍死が疑えるんですね」


「それから死斑が明るい鮮紅色をしていること。これは血液中に酸素ヘモグロビンが多く含まれていて、血液が鮮紅色になっていることを反映しているんだ」


「一酸化炭素中毒の場合は一酸化炭素ヘモグロビンができて、血液や死斑が鮮紅色になるとお聞きしました」


「そうだね。ただし一酸化炭素中毒の時と違う点は、心臓血の色調に左右差が認められるということなんだ」


「左右差ですか?」


「そう。生きている時は肺に吸った酸素が血液中に取り込まれて酸素ヘモグロビンが作られ、心臓の左心房に戻る。そして左心室から大動脈や動脈を通って全身に酸素が送られる。この肺から左心を経て全身に至る血液は酸素ヘモグロビンの色、鮮紅色になってるんだ。体の隅々で酸素は細胞に渡され、酸素が乏しい血液が静脈を通って右心房に戻る。この血液中には酸素と結合していないヘモグロビンが多く、赤黒い暗赤色をしている。そして血液は右心室から肺に送られて再び酸素を取り込む。このように左心血、つまり左心房と左心室の中の血液は鮮紅色、右心血、つまり右心房と右心室の中の血液は暗赤色をしている。これが心臓血の色調の左右差なんだ」


「それは生きている時の話ですね?」


「そうだよ。普通は死亡すると自然に酸素ヘモグロビンから酸素が解離して、左心血も暗赤色になってしまう。だから死体の血液はすべて暗赤色なんだ」


「死体の左心血の色は生きている時とは違う色なんですね」


「ところが死体が死後寒いところに置かれていると酸素の解離が進まず、左心血は鮮紅色のままで、右心血は暗赤色だから、色調の左右差が維持されるんだ」


「死因が凍死でなくても、左右差が認められることがあるんですか?」


「うん。死因が何であれ死体が冷えたところにあると見られる現象なんだ。ただ、凍死は寒さで死ぬことだからね、心臓血の色調の左右差が認められることが多い」


「一酸化炭素中毒では心臓血の色調の左右差は認められないんですね?」


「一酸化炭素はヘモグロビンから離れにくいので、全身の血液が鮮紅色になるんだ。だから左心血と右心血は同じ鮮紅色で左右差はない。そこが凍死と違うところだね」


「凍死した人には、ほかにどんな所見が見られるのですか?」


「胃粘膜に小さな楕円形の粘膜下出血がいくつも認められることがよくある。この出血はヴィシュネフスキー斑と呼ばれている」


「胃粘膜の出血は凍死特有の現象なんですか?」


「胃はストレスに弱くて、いろいろな死因で胃粘膜に出血が生じることがあるんだ。ヴィシュネフスキー斑も寒さによるストレスで起こった出血と考えられている。ただし、ほかの死因の胃粘膜出血とは見た目が少し違うから、識別は可能かな?」


「ほかにはどんな所見が見られるのですか?」


「ほかにも凍死で認められる死体所見がいくつかあるけど、以上が代表的なところだよ。ほかに死因となりそうなけがや病気、窒息、中毒の所見がなければ、総合的に凍死と判断するんだ」


「死因は疑いなく凍死だったんですね?」と私は島本刑事に聞いた。


「うん。死因は確からしい」


「なら、何が問題なんですか?」


「この男性の車が自宅から十五メートルくらい離れたところで道路脇の雪の中に突っ込んで停車していた。車内は暖かかったらしく、本人のジャンパーが車の中に脱ぎ捨てられていた。男性は車外へ出て自宅へと向かったが、車から十メートルくらい進んだところで力尽きて凍死している。いくら寒い北海道とはいえ、そんなに早く凍死するものかな?そこが疑問視されたようだ」と島本刑事が説明した。


「確かにおかしいね。その男性はやせていたのかい?あるいは飲酒していたのかな?」と聞く立花先生。


「中肉中背で、やせてはいなかったし、血液からアルコールは検出されなかったそうだ」


「なら謎だね」


「当日は雪が降っていたのですか?」と私は聞いた。


「雪は積もっていた。ちらほらと雪が降っていたけど、吹雪というほどではなかったらしい」


「猛吹雪の中だと周囲がまっ白になって、一寸先も見えなくなることがあるね。視程障害ホワイトアウトと言うんだっけ?そのような状況なら五メートル先の自宅が見つけられず、迷って凍死する可能性もありそうだ」と立花先生。


「そんな天候ではなかったようだね」と島本刑事。


「ところで、車内にジャンパーが脱ぎ捨てられていたと言いましたが、本人は十分に着込んだ状態で死亡していたのですか?」


「セーターと肌シャツを着ていたが、いずれもお腹のあたりがまくり上げられて肌が露出していた。・・・これは凍死に特有の『矛盾脱衣』と呼ばれる現象らしい」


「矛盾脱衣?」


「凍死しそうになるほど体温が低下すると、脳の温度感覚がおかしくなって、寒いのに暑いと感じて服を脱ぐことがあるんだそうだ。雪上なのに全裸や半裸の状態で死んでいることはよくあるらしい」と立花先生が説明した。


「でも、最低気温が氷点下六℃前後ですよね?車には暖房があったのでしょうが、いくら家が近いからといって、ジャンパーを着ずに車の外へ出るのはおかしくありませんか?ジャンパーの下がセーターと肌シャツだけなのも薄着過ぎる気がします」


「北海道では冬場は家の中でストーブをがんがん焚いて、暑いくらいだと聞いたことがある。だから家の中では薄着でいることが多いらしい。その感覚でうっかりジャンパーを着ずに車外に出たんじゃないかな?」と島本刑事。


「でも、車の外に出たら氷点下六℃ですよ。いくらなんでもジャンパーを着ようと思うんじゃないでしょうか?」


「それは『矛盾脱衣』で・・・」と島本刑事が言いかけたが、私はそれを遮った。


「寒い中を進んで、途中で凍死しかけて、『矛盾脱衣』で服を脱いだのなら、ジャンパーは当然遺体のそばに脱ぎ捨ててあったはずです。車の中に置いておくのはどう考えてもおかしいですよ」


「じゃあ、どういうことが考えられるのかな?」と立花先生が私に聞いた。


「ひとつは、その男性が死んだのは別のところで、誰かが発見現場に遺体を運んだ可能性です」


「それはなさそうだぞ」と島本刑事が言った。


「その日の夜はあまり雪が降っておらず、その男性本人の足跡がうっすら残っていたそうだ。誰かが遺体を運んできたなら、その誰かの足跡も残るはずだ」


「もうひとつ考えられるのは、車から降りた時には既に体温が低下していて、凍死寸前だったということです。温度感覚が既におかしくなっていて、ジャンパーを着ずに車外に出て、十メートル歩いたところで力尽きたということです」


「車の暖房はついていたのかい?」と立花先生が島本刑事に聞いた。


「道路脇に停まっていた車のエンジンは切ってあった。暖房については聞いてないな」


「車に乗る前から体が冷え切っていたら、体が暑いと錯覚すると同時に意識がもうろうとしていて、運転を誤るのかもしれないし、車外に出て間もなく意識を失って、そのまま凍死するかもしれないな」と立花先生が言った。


「ただ疑問なのは、車に乗る前にどこで体が冷えたかということだよ。北海道民なら寒さに備えているはずだけど・・・?」


「そこは北海道警の刑事に調べてもらうことにしよう」と島本刑事。


「まだ状況がわからないところはあるけど、これで北海道警に回答できるな。その男性が車からたった十メートル歩いたところで、しかも自宅のすぐ前で凍死したのは、車に乗る前から異常をきたすほど体温が低下していた可能性が高いと。・・・その男性が車に乗る前の足取りを詳細に調べるよう進言しておくよ。一色さん、立花先生、どうもありがとう」


「どういたしまして」


「一色さんがいなければただの凍死で片づけられたろうね。・・・捜査結果によってはただの事故ではすまないかも」と立花先生が意味深に言った。

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