凛音の帰郷

くらいや

1.帰郷

 戻っておいでと、母に言われた。帰郷しようと思ったのは、そんな単純でありきたりな理由だった。





 こうしてバイクを走らせて、何時間たったんだろうか。


 何十分ほどか前にやっと山を越えたのはいいものの、そこからちっとも景色が変わる気配がない。周りに広がるのは、果てしない田園風景ばかりだ。



 彼女は数分間そんな田んぼ道を走っていたのだが、おもむろにバイクを減速させ、そしてやがて停車する。


 何時間かぶりにヘルメットを脱げば、緑の青々とした匂いとともに澄んだ空気が肺へと流れ込むのを感じた。溜まりに溜まっていた疲労感も、なんだかそれだけで薄れた気がする。


 ああなるほど、空気がうまいってこういう感じか。


 空を眺めぼんやりそんな事を思った後、彼女は背負っていたリュックサックをごそごそと探り一枚の地図を取り出す。それは紛れもなく、ここ周辺の地図である。



_五年ぶりに帰る故郷は、四方を山に囲まれた小さな村だ。北の山のふもとに民家や学校、店などの生活圏が集中しているため、反対側の南の山のふもとには雑木林や田んぼが広がるばかりである。


 ど田舎であることに、別に不満はない。ただ不便なのは、村と外をつないでいる道が、南の山に位置しているということだ。


 もし仮に村と外とをつなぐ道が北の山に整備されていたならば、何時間も山道を走りさえすればすぐに村に着くことができたというのに、実際道があるのはその真反対。長い時間山道を走ったうえで、さらにまた長い時間、この変わり映えしない田んぼ道を走らなければならないという訳である。



 長い長い山道は、先ほどやっと走り終えた。いい加減尻が痛い。



 そろそろ村に着くだろうかという期待を込めて、彼女は地図に視線を落とす。走った時間と照らし合わせて、現在地をおおよその現在地に検討をつける。




「…まだまだじゃん。」


 思わずため息がこぼれた。期待した分、余計に気落ちした。この先ガソリンだけじゃなく、気力がもつかも心配だ。



 げんなりとしつつも地図をしまい、代わりに麦茶を取り出した。じりじりと容赦なく照り付ける日差しのせいか、買ったばかりの時はあんなに冷たかった麦茶はすっかり常温になってしまっている。これではつめた~いじゃなくてぬる~いだ。


 今までメットをかぶってたこともあって汗だくの体は冷たいものを求めていたのだが、他に飲み物もないので文句は言うまい。




 彼女が麦茶をごくりと飲んだ。冷たくなくとも、カラカラに喉がかわいている時に飲む麦茶は美味しい。



__と。そんな時、後方から車の走る音が聞こえてくる。


 

 キャップを閉めつつ振り返る彼女。見れば、一台の軽トラがこちらに向かって走って来ているではないか。

 軽トラは、道のど真ん中で停車して通行を妨げている彼女とどんどん距離を縮めて、やがて停車した。



 うぃーと小さく音をたてて、運転席の窓が開く。そうして間髪入れず、運転手がそこから顔を出す。



「おい、何こんな道のど真ん中で止まってんだ!通行の邪魔だぞ!」



 運転席に座っていたのは、がたいの良い30代くらいの男だった。男の声は糸を張ったみたいによく通り、果ての見えない田園の上をその声が通り抜けていく。

 

 怒られてしまった。でも、まったくもって男の言う通りだ。こんなど田舎の田んぼ道、どうせ車も通らないだろうと完全に高をくくっていた。


 まっず……と急いでバイクを路肩に移動させようとハンドルを握りかけた彼女。しかしふと、何かに気づいたようにその手を止める。


 彼女は、運転席のその男にもう一度視線を向けた。


 

「……りょう兄ちゃん?」


「あ?なんで俺の名前知って……。

 ……いや、待て、お前凛音りんねか?」


 男は、一瞬怪訝な顔をした後に、はっとした様子で彼女にそう尋ねる。


 彼女_凛音が「うん、そう。凛音。」と答えれば、涼兄ちゃんと呼ばれたその男はパッと顔をほころばせ、「おー!」と嬉しそうに声をあげた。


「やっぱりそうだ!ひっさしぶりだなぁ!」

「ひさしぶり、相変わらず声でっかいね。」

「お前は相変わらず生意気だな。はー……そうかそうか、お前だったか。随分大人っぽくなって、最初誰かわかんなかったぜ。」

「そりゃあ、20歳ですからね。立派に大人やってるよ。」

「はっはっ!減らず口は健在か!」


 豪快な笑い声が響く。五年経ってもこの声のでかさは変わらないんだな、なんて思う。



 渡りに船、田んぼ道に軽トラ。


 幸いなことに、長時間のバイク走行で疲労していた凛音の状況を知った涼が、バイクごと村まで乗せていってくれることになった。

長時間の山道運転に、果ての見えない田田んぼ道。体力的にも精神的にも疲れていた凜音にとっては、願ってもない提案だ。凜音は、気づけば彼の提案に賛同し、なんなら助手席に乗り込んでいた。

 移動時間は変わらないだろうが、一人で永遠と田んぼ道を走るのと知り合いと話しながらただ座席に座っているだけでは、大違いである。



「何年ぶりだ?確か、高校生になったのと同時に村を出たよな?」

「五年だよ、五年ぶり。」

「はぁ、五年かぁ……。」


 感慨深そうにそういう涼。でかくなったなぁ……と再び言われ、隣で凛音はあははと笑った。お前が言うか。


 涼は、その爽やかな名前とは裏腹にがたいのいい兄貴分だ。昔っから力自慢だった彼は、ちびっこに遊び相手を頼まれる傍ら年配者から農作業の手伝いを頼まれとモテモテだったのをよく覚えている。頭にタオルを巻いて肌もこんがり焼けたところを見るに、きっと今も変わらず太陽の下で力仕事をしているのだろう。


「なんかおじさん臭くなったね涼兄ちゃん。」

「おいおい、おじさんっつーのは秀雄ひでおのおっさんのことをいうんだよ。」

「それ、秀雄さんに会った時言っちゃおうかな。」

「ばっかやめろ、ぶん殴られる。」


 再び笑う凛音。つられて涼もはっはっはっ!と豪快に笑う。


「向こうの生活はどうだったーとか、いろいろ聞きてぇところではあるんだが。ま、どうせ村着いたらおっさんたちから死ぬほど聞かれるだろうからな。そん時のためにとっとくよ。」

「ははは、そうだね、そうして。」

「にしたって、ほんとでかくなったっつーか、大人っぽくなったなぁお前。こりゃ、怜たちもびっくり仰天すんだろ。」

「それはお互い様だよ多分。私だってみんなと会うの五年ぶりなんだし。」

「あぁ、確かにそうか。はっはっ!じゃあお前もびっくり仰天することになるぜ。

 昔一番ちびだった風太が、今じゃお前らの世代で一番ののっぽになったんだから。」

「えっ、嘘。」

「ほんとだほんと。」


 

 ジジジジジ……と、セミの鳴く声が聞こえる。半分開いた窓からさぁっと風が吹き抜けて、緑の匂いを運んでくれる。

 笑い声や怒鳴り声、話し声が入り混じったあの都会の喧騒も、音の鳴る信号機や至る所で響いている工事現場の音も、ここにはない。


 帰ってきたんだと、凛音は改めて実感した。


 …あぁ、帰ってきたのだ。生まれ育った、この場所に。


 


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