ルゥヒ・始まりの水鏡

 生まれたばかりの赤子を抱きかかえ、ルゥヒは涙でぐしゃぐしゃになった顔をどうすることもなく――できず、木々のあいだを進んでいく。

(どうして、双子で生まれてきてしまったの)

 湿地はただでさえ歩きにくい。そのうえ魔法の要素を多く含んだ草木は鬱蒼として、人間を快く迎えてはくれない。ルゥヒはなんども足をとられてしまう。

 転ぶたびに赤子が頭を打ってしまわぬよう守る彼女へ、うしろから嘲笑う声が投げられる。

「どうせ殺すのに、健気なことだわ」

 艶のある声ににじむのは人ならざる者の冷酷さ。

 声までも美しい妖精を振り返り、しかし睨むような勇気はなく、ルゥヒは切実な思いだけを乗せて反抗した。

「せっかく、生まれてきたのです……痛い思いばかりをさせるわけには、いきません」

 それにはなにも答えず、妖精は「早く立ち上がりなさい」と急かした。

 逆らうことはできなかった。ルゥヒは、この妖精に飼われているのだ。

 ルゥヒだけではない。村の人間はみんなそうだ。妖精に飼われ、彼らのための娯楽としてその生涯を終える。 他の生きかたを知らないルゥヒたちには、逆らうという選択肢すらないのかもしれない。

「これに懲りたら、むやみに増やさないことね」

 人間は末子一人のみ成人することを許す。

 そんな掟を作っておきながら、彼らが人間の繁殖を促していることを知っている。そうして生まれた余分を親自らの手で壊す瞬間の働哭を、楽しんでいることも。

 なにが楽しいのだろう。彼らの残忍さを、ルゥヒはまったく理解できなかったし、したいとも思わない。けれど、運悪く初産できょうだいを作ってしまった彼女は、 その理不尽が当然となった環境に身を置きながら、それを正しく理不尽と認識した。


 この森は全体的に魔法に富んでいるが、とくに顕著なのが水だ。人間には濃すぎるため、普段ルゥヒたちが使う水はすべて、妖精が魔法で管理している。

 そんな水の湧き出る泉に、ルゥヒは我が子を浸した。

(せめて……)

 子供の生きるはずだった時間が、溶け消えていく。

 ならばせめて、人間の体を失って自由になったその時間だけは、安らかでありますよう。

 不快感にぐずる赤子が、その末端から輪郭を失っていくのを、ルゥヒは悲愴な面持ちで見つめ続ける。腹の底をかき回されるような、ぐわんと乱される思いとは裏腹に、水面は徐々に凪いでいき、やがて完全に静まった。

 さあっと、水面に淡い光が走る。


 ルゥヒはそれからよりいっそう慎ましい生活を送るように思われたが、そうではなかった。いっしょに飼われている夫とともに夜の営みに励み、そうして新しい命が誕生するたび、以前の子を泉へ浸した。

(やっぱり、光るのね)

 狂ったように子供を拵えはじめた人間を愉快そうに眺める妖精のもとで、ルゥヒはなんども同じことを繰り返す。

「人間の身体は水に耐えられない。でもあの子たちの時間は、運命は失われてはいないのだわ」

 なにも成せないまま妊娠出産と年齢を重ねてぼろぼろになっていく彼女を見て、妖精たちは羽をびかびかと光らせながら悦んだ。

 いっぽうで、その狂気になんらかの執念を見たのは、同じ境遇にいる人間たち。

 身体を持たない運命も、きっと。たくさん集まれば。

 ルゥヒの意思は広がっていく。春に生まれた命。夏に生まれた命。秋に、冬に生まれた命。

 それから先を生きるはずだった人間の時間が、泉を満たしていく。


 ある日のことだった。

 飼い主である妖精の監視のもと、数人で連れ立って赤子を泉へ浸した直後。

 いつものように凪いでいくはずの水面は、その途中でぴしゃんと跳ねた。不協和な音は収まることなく反響し続け、なにか・・・が増幅する。

 やってくるのはどこまでも透明な、悪意。

 そのおぞましさに妖精たちは身構えたが、魔法を持たぬ人間はそれを神聖さの現れであると誤認した――救いがきたのだと。

 水は鏡。映るは少年。

 その身は慈愛を孕むように淡い光を帯び、明らかに人間のものではない。だがその背には妖精の羽もなく、また竜の威厳も、聖人の気配もない。

 透き通る水のような髪と、蠢く闇のような瞳が対照的で。

 ただただ畏れおおいと、ルゥヒたちは――妖精すらも、少年から目を離せなかった。

「こんにちは。母さんたち」

 軽やかな甘い声をこぼしながら、少年はにこりと嬉しそうな笑みを浮かべる。

「ちっぽけで、弱い生き物だねー。うんうん。人間は、味方だ!」

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