化け物退治
マリナとアリーの失踪はたちまち住人の知るところとなった。彼らは捜索への協力を惜しまなかったが、他の被害者同様見つかることはない。テイリスを気遣う言葉はただ虚しく響くだけだ。きっと帰ってくる、大丈夫だ、と励ますには命を失いすぎた。
翌朝、長く降り続いた雪は止み、一面に銀世界が広がった。湿度の低いさらさらした雪に足跡が刻まれていく中、一人部屋に戻る。夜通し心当たりを一つずつ探り体力が限界を迎えていた。浅く睡眠をとり、次に目が覚めたのは夕刻だった。テイリスが仕事に戻ろうと受付に声をかけたところで、近所に住む世話焼きの女性が声をかけた。その手には温かいスープとパンがある。
「まさかこんな時に働こうってんじゃないだろうね」
女性は目を光らせた。
責められたところで、テイリスには他にすることがない。母が死に、父を失い、妹も友人も消えてしまった。テイリスは全てを失ってなお曖昧に笑う。ついに向き合うときがやってきたというのに、どうすればいいのか分からない。
「あのねえ、何もしなくていいんだ。ゆっくり寝てな。必要なのは休息と時間だよ」
昔からよく面倒をみてくれる女性だった。受付の女性も後ろで大きく頷いていたので休養をとる事にした。無理にでも導いてくれてありがたい。
「ところであの女の人はどうしたんだい?」
「……今日は隣町に出ています」
「へえ、忙しいんだねえ」
「……」
テイリスは微笑み、パンとスープを受け取って部屋に戻った。
彼女を心配する声はない。この町と彼女のつながりはテイリスだけだ。姿を消してしまったことさえ、テイリスが誤魔化せば無かったことになる。
初めは依頼に関わる要因で姿を見せないのだと思った。だからこそ不在を誤魔化して協力したのだが、彼女は丸一日帰ってこなかった。不審に感じて合鍵で開けた部屋に残っていたのは血痕だ。彼女は理不尽な暴力をもって連れ去られたとみえる。あえて連れ去られた可能性はあるだろうか。だがわざわざそうする理由も思いつかない。
彼女はただのか弱い女性だった。テイリスの前で無防備に寝姿を晒し、その気になればいとも簡単に命を奪ってしまえそうだった。しかし事実として彼女は店主であり、その《店》で引き受ける依頼には何かしらの暴力装置を必要とする——依頼を持ち込んだ時点で想像していた内容だが、追求はしなかった。彼女には何かがあるのだ。理屈や常識を超越した何かが。
彼女に関する違和感は他にもある。林檎を切っていて怪我をしたという手の傷である。手のひらを斜めに鋭く切り裂く傷が痛ましかった。だが左手で林檎を支え右手でナイフを使ったとして、果たしてその位置に深く傷がつくだろうか。
彼女の部屋の窓もずっと気になっていた。滞在中、彼女は部屋の窓に鍵を掛けていなかった。部屋が三階だったとはいえ《店》としてはむしろ厳重に鍵をしたいだろうし、実際部屋の入口の扉はいつも鍵をかけていた。
すべて馬鹿げた考えなのかもしれない。しかしテイリスの足は彼女の部屋に向かっていた。部屋は清掃せずに残すよう指示している。一応ノックをするが返答がないので合鍵を使って入った。部屋には手提げの鞄の他、たいした荷物はない。テイリスは床に落ちた血痕をじっと見下ろし、窓に視線を移した。窓枠の中に雪の風景が広がっている。雪化粧で眩しく輝く森の額縁は不自然に濡れている。彼女が滞在していた最中もそうだった。明らかに窓は開閉され、外の雪が吹き込んだ形跡が残る。窓に手をかけて、冷たい空気を部屋に招き入れる。
「出てきてくれませんか」
ほとんど確信に近い疑惑のもと、静かな森に声をかける。《あちら》に一歩踏み入る。
「……」
吐いた息が白く溶けた。返答はなく、テイリスは自らの手を見つめた。彼女の傷の謎をとくには、同じ傷を作って考えればよい。試す価値はあると判断し、ナイフを取りに戻ろうとした瞬間。窓枠が軋む音がテイリスを呼びとめた。
振り返ると、窓辺に男が腰掛けている。軽装だが凍えている様子もない。
「どうも」
「はい、はじめまして」
テイリスはあっさりと頷き不審な男を受け入れた。一見すれば普通の人間だが、目を離したほんの一瞬で姿を現した身のこなしは明らかに一線を画している。よってすぐに彼女の協力者だと理解した。フィードと名乗ったその男は、テイリスの淡白な反応に目を見開き、くっくっと笑った。
「フィードさん、協力しませんか。彼女はまだ間に合うと思います」
今からでも、今更でも、助けるべきだ。同じく行方を眩ませているマリナやアリーはともかく、彼女のためなら力を貸してくれるのではないだろうか。打算がどの程度伝わっているのかは分からない。しかし冷めた目で首を振られた。
「……協力ったって何処にいるんだか」
「いえ、およそ分かってはいます」
紳士的な笑顔で淡々と提案する。声さえ聞かなければ、彼は優しく微笑んでいるように見えただろう。決して冷たい声ではない。
だが温かな声でもない。
——ただの無機質な音であり、そこにあるべき温度はなかった。言葉を拾えば丁寧な申し出だというのに高慢な印象を与える。フィードは面白そうに笑って提案に乗った。
二人で宿を離れる頃には外が薄暗くなっていた。夕刻を過ぎた曇天の銀世界は時間の経過が分かりにくい。フィードが人目を厭うので、町を囲む用水路に沿って坂を上っていく。膝が埋まる高さまで積もっていた雪も、通りの部分は住人の手で整えられていた。だが建物の裏手になっているので人通りはほとんどない。雪に沈んだ歩道を割るように水が流れた。戻ることなくどこまでも、流れ去っていった。
マリナとアリーはすでにこの世を去っており、それは当初依頼していたこの町の化け物のせいではないらしい。フィードの口ぶりはあまりに軽く、テイリスは小さく笑った。意味するところは理解できるが、上手く実感が湧かない。横からじっと視線を向けられていることには気付いていたが、何も言ってこないので返答はしなかった。
広場を過ぎる頃、寄り道をすると言ってフィードが姿を消した。待っているうちにとっぷりと日が沈んで視界が悪くなったのでランプに火を灯す。柔らかな灯が辺りを照らすが、体を温めることはない。
少し間を空けて男の遺体を抱えたフィードが帰ってきた。先日行方が分からなくなっていたテイリスの友人だった。無残に体は解体され、大きく裂けた腹に臓器が詰め込まれている。遺体を町に戻すのは、彼女の指示だった。
「……なるほど、近いんだな」
遺体を通りの上へと無造作に捨て、フィードはにやりと笑った。
「近い……というと?」
「《こっち》側に」
「……」
フィードの言葉はテイリスに向けられていた。
善良な小市民であるテイリスは戸惑いを浮かべる。それが正しい反応であるはずだったが、今度は声をたてて笑われてしまう。フィードは面白そうに遺体を指差した。
「お前にはこれが何に見える?」
「……ただの屍肉でしょう」
「ははっ、そうだな」
俺にもそう見える、と当然のように告げられて胸を撫でおろす。友人だろうが家族だろうが死んだ後の肉にかける情はない。町の住人たちが何故肉に執着し涙を流すのか、テイリスには今も分からなかった。
真白の雪に落ちた墨はよく目立つ。テイリスは上から雪を厚く重ねた方が生きやすいのだと知っている。いつもは周りをよく見て合わせるのだが、彼女もフィードも凡庸とは程遠く、難しい。
「これで人間ってのが信じられねえ」
「……人間ですよ、私は」
「だからだろ」
フィードは呆れたように眉を上げた。彼女とは対照的に、腹に何も抱えていない素直な反応だ。テイリスは足を早めた。
遺体を通りに置いてすぐ、フィードが何かに気付き満足そうに頷いた。ランプを持ち上げて確認すると、雪道の中央を蜘蛛が下りてくる。町が真っ白な雪で覆われていなければ見落としてしまいそうな蜘蛛だ。蜘蛛は二人の前で脚を止め、くるりと向き変えて引き返し始めた。
「……これは?」
テイリスは首を傾げた。信じがたいことにどうやらその蜘蛛はフィードを先導しているのだった。一定の距離を保ち、時折振り返りながら脚を動かす姿はそうとしか表現できない。まるで幼い頃に読んだ童話のようだ。童話の世界では全ての生き物は言葉を発し、人間のような生活を送っていた。
「まあ、特技みたいなもんだから気にすんな」
フィードからは面倒くさそうな返答が返ってきた。特に説明する気もないようなので言葉のまま受け入れる。奇しくも、あるいは必然と目指す方向は同じである。そもそも坂の上にはジロフル子爵の屋敷しかない。
今夜は雲も晴れ、針葉樹に挟まれた屋敷を月明かりが照らしている。訪問客の少ないジロフル子爵の屋敷の前に積もった雪は踏み荒らされることなく、柔らかな陰影が生まれていた。入口の大きな扉には鍵がかかっていた。フィードが言うには裏手の窓は開錠されているらしい。
「俺はこっちから行くけど」
「ではここで」
テイリスは礼儀正しく頭を下げた。正面からジロフル子爵を訪問しに来たのであって、フィードとは優先順位が違う。
「……少々予定が狂いましたね」
「ん?」
ぽつりと呟いた言葉にフィードは振り返ったが、テイリスはにっこりと微笑んだ。それはありきたりで紳士的な優しい笑顔だった。
フィードの背中を見送ってから正面扉のドアベルの紐を引いた。驚いた鴉が夜空に飛びたち、震えた枝から雪が落ちた。冷たい夜の中では普段以上に音が響いて聞こえる。屋敷の使用人は昼間だけ雇われているので夜間は反応が遅い。間もなくして扉が開くと、テイリスはまっすぐに額縁の間を目指した。ジロフル子爵の屋敷には慣れている。両親を失ってからよくアリーの面倒を見てくれていたし、山小屋だって元々はジロフル子爵の所有物だった。
額縁の間の壁一面に絵が飾られていた。人物画、風景画、静物画などが入り乱れ、天井画から手のひら大のものまで大きさもまちまちだ。収集家とあって一つ一つが至上の絵画である。しかしそれが故、壁を埋め尽くすそれらは見るものを圧倒し息苦しい空間を作り出していた。
額縁の間の中央には椅子が一脚あり、そこに座ったのは屋敷の主人ではない。
「テイリス、マリナが行方不明らしいじゃないか。心あたりはないのか?」
テイリスが額縁の間に入るなりジロフル子爵は眉をひそめた。腕を組み、口髭を弄んでいるジロフル子爵に首を振る。フィードの話をわざわざ教えてやるつもりもない。そんな必要ももうなくなってしまった。
「言っておくが私は関係ないぞ。君たちに手を出しても意味はない」
「分かっています」
ジロフル子爵は口先だけマリナを気にかけたものの興味は無さそうだった。昔から手を差し伸べてはくれたが、テイリスにもマリナにも何の興味もないのだ。知っていたのにずっと付き合い続けていた。
「そろそろ終わりにしませんか?」
「……ほう、いいのかね」
ジロフル子爵は余裕の表情を浮かべている。出来るわけがないと高を括っている。テイリスは一歩距離を詰めた。怪訝そうに眉が動いた。
本当はもっと早くに気付くべきだった。希望なんてないのに現実から目を逸らし続けた結果がこの有様だ。
「終わらせるときが来たんですよ」
それでも何の感慨も湧かなかった。テイリスは凡庸な微笑みを浮かべていたがその声は淡々としていた。温度のない声にようやく本気だと気付いたのか、ジロフル子爵は目を見開いた。後ずさりしているが、もう遅い。
「テイリス……私は……」
「何も言わないでください」
椅子から立ち上がり月光を鈍く反射するナイフを振り下ろす。響く悲鳴を壁一面の絵が静かに聞いていた。
欠けることのない月が頭上に浮かんだ夜、しとしとと落ちる雫を他人事のように眺めた。朦朧とした記憶の中、月が見えていても雨は降るのだと思ったことを覚えている。さらさらと胸の内から抜け落ちていくそれらを止めることは出来ず、いや止めようともせず、ただ自分ではどうにもならないそれを他人事のように感じた。頭にかかった霞は晴れることなく、けれど晴れたところで何もない。奥底から消えたものに辿り着くことはできない。
いつの間にか闇に包まれた地下室は見覚えのある教会に代わっていた。振り仰ぐとルデジエール城に月がかかっている。夢だ、とそこで理解した。これは一体いつのルデジエールなのだろう。教会は今と同じ荘厳な佇まいで、夜が更けた通りに人はいない。ロクテーヌは腕を組み、難しい顔で教会の前の通りを進む。身に纏うくたびれた服は、給仕服や店主の服よりみすぼらしく、白く滑らかな肌が浮いている。昔のロクテーヌが好んで着ていた服だ。
「……!」
ロクテーヌははっと顔をあげた。教会を過ぎると墓地があり、入口で鴉が羽を休めている。闇に紛れた夥しい数の黒い羽が大きく蠢き鳴いた。共同墓地の奥にシャンペルレ家の墓地もある。ずらりと並んだ十字架から十字の影が伸び、地面を埋め尽くしている。
胸の動悸は鼓膜の奥にまで響き、胸を苦しく締め付ける。これくらい何ということもないはずなのに、逸る感情が止められない。ただ足を前に進める。縺れそうになりながら、体を崩しながら、前へ前へと足を進める。いくつもの十字架をすぎ、何羽もの鴉に送られ、いつもの場所を目指す。墓地を取り囲む木々の中でも一番立派な大木の下だ。迷うことはない。
「フィード……」
「——何だよ」
思いがけず声がして、ロクテーヌは目を開けた。墓場は消え去り、代わりに深い闇が広がっている。闇の中に淡い光が灯り、ぼんやりと地下室を照らしている。
「……おはようございます」
浅い眠りから意識を引きはがし、気怠い酩酊の中で体を起こす。冷たく固いベッドでは眠りも浅く、大した休息は取れなかった。フィードは面白そうに地下室を観察していて、壁に空いた小さな穴から反対側を覗いていた。眠りを妨げないように待っていたのだろうか。どれくらいそうしていたのかはロクテーヌには分からない。休んでいる姿を見られるのは不本意で、唇を引き結んだ。
「テイリスもいるけど屋敷の正面で別れた」
「そうですか」
どうやら行動を共にしていたらしいが、テイリスならば問題ない。《店》にも店主にも、あるいは人の命さえ興味はないのだから、言いふらすこともないだろう。しかも屋敷の正面で別れたのであればその目的も明白だ。少なくともロクテーヌを助け出すためではない。
ロクテーヌは裾と髪を整え、ベッドから足を下ろした。そしてブーツの横に足枷が落ちていることに気付く。足首から体温を奪っていたはずが、今は床の上だ。太く重苦しい円形が歪み、細くだらしなく伸びている。相変わらずの馬鹿力だ。
「さあ行きましょうか」
ロクテーヌは自由になった足で立ち上がる。地下室入り口の鍵はフィードの前で意味をなさず、既に壊された後だ。扉の外には階段が続いており、フィードが持ってきたランプを手に踏み出せば、その冷気に体が震える。
「……さっ……!」
「何だって?」
「……っいえ、何も」
ロクテーヌは口元に手を当てて声を抑え込んだ。平気な顔をしているフィードの前で口にしても不毛だ。軽装で外套を着ていないので防寒着を奪うこともできない。ただ、隣から伝わる空気はそれほど冷たくないことに気付く。
「……フィード、貴方」
「何?」
ロクテーヌはじっとフィードの腕を見て、迷うことなく掴む。
「何っ?!」
期待通りの熱がロクテーヌの指先を温めた。軽装でも問題ない訳だ。温かな肌に引き寄せられるように距離を詰める。たじろぐフィードの前でほっと息を吐いて、その事実に首を傾げる。
「おかしいですね……」
ジロフル子爵への嫌悪感のせいだろうか。温もりと安らぎを誤認するなんて。
「なあ、聞いてねえだろ」
「聞いてますよ。返事はいらないと判断したんです」
「……なお悪い」
眉間に皺を寄せたフィードを黙殺し、地下階段から廊下へ進んだ。先程よりもフィードの近くを歩く。真冬の冷気の中では仕方ない。文句があるようならどうにか言い負かしてやるつもりだったが、不満はないのか指示通りに屋敷に残る人の気配を辿った。
屋敷に残る気配はあと一つだけだった。テイリスは用を済ませてさっさと帰ったようだ。薄情というよりは《店》の事情を知りすぎないように気を利かせたのだろう。この先は店主が引き受ける。ロクテーヌは二階の一室に向かった。
フィードにはその部屋の扉の前で待っていてもらう。さらりと頷いて渋らなかった理由は扉を開けた瞬間に分かった。絵で埋め尽くされた壁の中、ジロフル子爵はすでに床へと伏していた。ランプをかざし、その惨めな姿を目に焼き付ける。質のいい生地の服は血にまみれ、立派な絨毯も黒く染められていた。
「あらあらあら。どうされたんですか」
「き……み、は……」
地を這い低く唸る姿をくすくすと笑いながら見下ろす。足の付け根のあたりに深く切り裂かれた傷口があり、血はそこからとめどなく流れていた。
「これから死にゆく気分はいかがですか?」
「……テイ……リス……が……」
「返事が欲しいわけではありませんよ。口を閉じて私の言葉を待ちなさい」
ロクテーヌは口元の前で指を立て、沈黙を促す。ジロフル子爵にも見えるようにしゃがみ込んで微笑んだ。手を伸ばしても届かない場所から、無邪気に笑う。
「どうしてくれましょうか。爪を剥いで指を落として……ああ、解体もするんでしたっけ」
指を一本一本立てながら、計画していく。そんな面倒なことをするつもりはなく、恐怖を与えられるなら何でもいい。声にならない悲鳴を上げたジロフル子爵に心の底から愉快な気持ちになる。怖いのならば思う存分恐怖し、脅えたまま死ねばいい。
「人、を……なんだ……と……」
「貴方は何だと思って殺したんですか?」
ロクテーヌは虫のように這うジロフル子爵に問いかける。その顔はもう笑ってはいなかった。ジロフル子爵は青ざめて言葉を失っている。
頭上の煌びやかなシャンデリアが揺れた。ロクテーヌが持ち込んだランプの淡い灯を微かに反射して輝いている。高い天井に至るまですべての壁が絵画に埋め尽くされて、確かに贅を尽くした魅了の部屋だ。
ちゃんと返事を待ってやったのに一向に答えないのでロクテーヌは不思議そうに首を傾げた。
「何故答えないんですか? こんなにも下らなくて一考の価値もない……しかも貴方自身の事なんですから分からないわけでもないでしょうに」
「……」
「つまり貴方にとってはただの道楽なのでしょう? ……素敵な趣味ですね」
この壁にかかる素晴らしい絵画と同じだ。収集家が往々にして周囲の理解を得られないのは他の人間にとってそれらが十分な価値を持っていないからである。ジロフル子爵も一連の事件においてある価値を見出したに過ぎない。
ロクテーヌは絨毯に広がっていく黒い染みに触れた。たっぷりと血液を吸い込んで、指で押せばじゅわりと滲む。この雪の中では体を離れるとすぐにその温度を失ってしまう。このまま絵画だらけの部屋に放置しておけば失血で死ぬ可能性も高い。朝まで使用人は来ないはずだ。
「あるいはあなたも被害者なのでしょうが」
ロクテーヌは立ち上がり、見下すように笑いかけた。
「私の依頼主はテイリスさんですから」
引き受けた依頼は、サン・シエル町の事件を引き起こしている化け物退治。店主として着実に遂行するだけだ。化け物を無慈悲に理不尽に打倒し、サン・シエルは幸せな結末を迎える。
「そんな……そ、んなはずは……」
ジロフル子爵は目を見開き、わなわなと唇を震わせた。驚愕は怨恨に変わり、噛み締めた奥歯が音を立てた。使い物にならない脚をぶら下げて腕の力だけで這い寄るが、伸びた手をロクテーヌはひらりと避ける。
そしてその美しい顔に微笑みを浮かべながら、壁の絵を鑑賞し始めた。招待を受けた貴族の屋敷で美術品を見学するときのように、ランプの灯だけで繊細な筆致を楽しむ。見た者が立ち尽くしてしまうような迫力ある素晴らしい美術品だというのにロクテーヌを圧倒し満足させることはない。自覚している以上に気が立っていた。
「素敵な絵ですね」
ロクテーヌはジロフル子爵にも分かるように、一つの絵画に手を伸ばした。両手で持ち運べる大きさの風景画である。朝霧に包まれたサン・シエルが描かれ、指先から凍えてしまうような朝の空気が伝わってくるようだ。豪華な額縁で飾り立てられ、ずっしりと重たい。
「や、やめ……ろ! 私の、私のものだ……!」
「貴方の?」
ロクテーヌが何をしようとしているのか察したらしいジロフル子爵が喚く。地面に転がり、血を流し、見苦しい。
「違いますよ」
ロクテーヌはきょとんとして、直後に嘲笑う。
「だって、宛名がありませんもの」
一切の躊躇なく絵画を地面に叩きつける。何度も何度も繰り返すと、ロクテーヌの細腕でも修復不可能なほど割ることが出来た。静かなサン・シエルの情景がいとも簡単に滅茶苦茶だ。叩きつける度に狂ったように悲鳴が上がるので、楽しくなってくすくすと笑った。
後生大事にしているものを踏みにじり、塵だと言わんばかりに投げ捨てる。まっすぐに向けられた憎しみさえ好ましく、ロクテーヌは喚き声を聞きながら満足そうに額縁の間を出た。
扉を開けると、フィードは廊下の壁に背中を預けて待っていた。廊下のカーテンはすべて開いており、月光に照らされてはっきりと姿が見える。晴れ間が覗く夜空のもとでランプの淡い灯は不要かもしれない。
「もういいのか?」
「ええ、どうぞ殺しておいてください」
「……依頼じゃねえのに?」
その場を去ろうとしていたロクテーヌの背中に思わぬ言葉があびせられる。そういえば何も説明していなかったと脱力しそうになりながら、足を止めた。何も理解していない癖にその言葉はよく刺さった。
「…………ま、いいけど」
フィードは返事を待っていたが、そのまま扉に手をかけた。月が雲の中に隠れ、その光は嘘のように遮断された。ロクテーヌと闇との境界線があやふやになっていく。
「これは依頼の範疇ですよ。サン・シエルの化け物は一人ではなかった」
ロクテーヌは振り向くことなく呟いた。普段通りの口調で平静な態度なのに、何故かフィードに見咎められる。
「じゃあ何俯いてんだ」
「……俯いていませんが。目がおかしいのではありませんか」
「へぇ……」
ロクテーヌの憎まれ口に言い返しもせず、それ以上聞くことはない。理解の放棄が、むしろ全て見透かされているようでやりにくい。
ロクテーヌは苛立つと同時に後悔し反省しているのである。今回の依頼は《店》にとって初めての、そして完全なる失敗だった。違和感や疑問を抱いていたくせにろくにテイリスと話をせず意図に気付くことができなかった。
「ただ……ただ、マリナさんとアリーさんは生かすべき存在でした。それだけです」
ぽつりと落ちた言葉にフィードは答えない。
後悔しても反省しても失った命は戻らないのだから、前に進むしかない。噛み締めた唇を離して振り返った。月が雲間から再び顔を出す。淡く光を纏うロクテーヌにフィードは目を細めた。
「フィード、部屋中の絵画を全て叩き割っておいてください。勿論、這い蹲っている彼の目の前で」
あの収集物に執着する男がどんな醜態を晒すのか見物である。
「……了解」
二人はいたずらっぽく笑い、ロクテーヌは今度こそ背中を向けて歩き始めた。
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