暗い部屋の男
凍り付く空気の中、ロクテーヌは固いベッドの上で腕を組んだ。体を抱え込むようにすれば少しでも寒さが紛れた。瞼は開いているが明かりの一つもないために視覚は機能していない。果てなく続く闇からは得られる情報も限られており、目を覚ましてからずっと脱出を試みているが何一つ成果が上がらない。そもそも頭に鈍い痛みが残り、思考を邪魔されている。暗闇の中では目を開いているのか閉じているのかも分からなくなり、瞬きすることでそこに間違いなく暗闇が存在していることを確認する。
小さく息を吐いて重たい足を組む。それに合わせて金属音が響き、ロクテーヌを苛立たせた。このよくわからない場所から逃げ出せないのは暗闇以前の問題で、重量感のある足枷が移動を阻んでいるからだった。手の届く範囲で壁を探ったが、分かったのはここが窓一つない小部屋だということくらいだ。しかもこの足枷は金属製のためロクテーヌの足首から容赦なく体温を奪っていた。履いていた靴はベッド下に転がっている。ベッドに毛布が用意されていたが、気持ちが悪いので出来るだけ使いたくない。とはいえ凍えて死ぬのも馬鹿らしいので膝にかけて足先を温めるために使った。
最も気がかりな点は暗闇ではなく、足枷でもなかった。ロクテーヌは殴られた痛みの残る頭をさすり、そのままその美しい金の髪を指で梳いた。柔らかく波打つ絹のような髪である。数日間ウィッグの下で編みこまれて窮屈だった髪が、今や解放されてロクテーヌの肩に落ちている。手で探った範囲のどこにも愛用していたウィッグがない。殴られた時点で眼鏡は諦めたものの、ウィッグは深刻さが異なる。問題は失ったことでソミュールや店主への変装が出来なくなることではなくて、変装が何者かに知られたことである。
サン・シエルを訪れてからの自分の足取りを思い出す。基本的にはテイリスと行動を共にしていたし、至近距離への立ち入りを誰にも許してはいない。そもそも近くで見つめられたところで変装だとわかる出来ではない。そんな杜撰な仕上がりであれば、ルデジエール城で多くの目を欺くことはできない。
静かな室内に、鍵を開く音が響いた。がちゃがちゃと騒々しく、ロクテーヌは顔をしかめる。差し込む光が扉の輪郭を明確にした。闇に慣れた目には手燭のほのかな明かりすら眩しい。扉の建て付けは悪いようで、ゆっくりと重そうに動く。足枷のせいで届かなかった場所だ。手燭の光のおかげで鉄の扉が嵌められた石造りの部屋だったことが分かった。ベッドの他は、正真正銘何もない。
鉄の扉から部屋に身を滑らせた男は、入口付近の壁に手燭を掛けると恭しく礼をした。まがいなりにも貴族とあって仕草だけは一流である。男の赤い耳飾りが手燭の光を反射して揺れていた。
「はじめましてセーナさん。気が付かれたようで何よりだ」
「……昨夜はどうも」
昨夜はどうも、身分をわきまえずよくぞ殴ってくれました。
どうにか微笑もうとしたが、苛立ちが勝る。
フィードを送り出した後、ノック音にテイリスが来たのだろうかと扉を開けるとこの男、ジロフル子爵が立っていた。にやついた顔でロクテーヌに近付き、声をあげる間もなく殴りつけられたところまでは覚えている。思い出しただけで気分が悪くなった。
ジロフル子爵は目を見開くと、悲痛な面持ちで首を振った。いちいち動きが大仰でロクテーヌの癇に障る。
「残念ながら君を手に入れたのは一昨日の事なのだよ。ああ可哀想に、もしかして今が昼なのか夜なのかも分からないのだろうか」
「……ふふっ」
馬鹿なのかこの男は、と詰ってやりたかったが状況的に不利だという自覚はあるためぐっと堪える。こんな光一つない部屋で時間なんて分かるわけがない。
機嫌が急降下していくロクテーヌに対して、ジロフル子爵は目を輝かせた。短い口髭に手を当て、品定めするようにロクテーヌを見つめる。
「その目……私の支配下にありながら気高さを失わず反抗的だ……。実に素晴らしい!」
「そうですか」
「もっと……もっと見せてくれ」
何を言っているのか全く理解できない。奇人変人の類だということは理解した。できれば一生近寄りたくないタイプの人間だ。息を荒くしているジロフル子爵を喜ばせるのも癪なので顔をそらし目を閉じる。これでもっと見たいらしい目は瞼の下に隠れた。
「……ふ……くっくっく……」
ジロフル子爵は腹の底からこみ上げる笑いに身を任せた。美しい金色の髪も、長い睫毛も、澄んだ碧い瞳もすべて隠したセーナと名乗る女があまりに面白く、興味をそそられる。それがあからさまだったのでロクテーヌはうんざりして息を吐いた。
「君は何も聞かないね。気にならないのかな?」
「……心当たりはありますから」
自分を殴った張本人に現在地を聞いても無駄だ。真偽の判定ができない。殴られた理由も想像がつく。ロクテーヌはこのサン・シエルにおいて余所者であり、化け物退治のために犯人捜しを行っていた。テイリスが友人としてロクテーヌを紹介していても、見るものが見ればその動きは不審だったはずだ。そもそも追いかけていることを隠すような細工はほとんどしていないに等しい。
「この町の殺人犯は貴方ですね。ジロフル子爵」
「おや、よくわかったものだ」
ジロフル子爵は驚嘆し、驚きを拍手に変えてロクテーヌを称えた。言い当てられても焦る様子はなく余裕の笑みさえ浮かべているのは、ロクテーヌを逃がすつもりがないからだろうか。
「そうでなければ私がここにいる理由がありませんから」
宿に侵入し、姿を見られるリスクを冒してでも捕らえに来たのは、追いかけられると困るから、すなわち殺人犯だからである。殴られたことでロクテーヌには徐々に真相が見えてきた。
マリナが犯人だったのは間違いない。解体現場は町を囲む用水路の上流側で、川からの疎水沿いに彼女が勉強に使用している山小屋があった。遺体が幾重にも切り付けられ、惚れ惚れするほど丁寧に解体されていたのは、そうすることでしか得られない知識を得るためだ。マリナは医者を目指しており、しかし十分な技能を身に着けるにはサン・シエルという町は小さかった。
ただし、腑に落ちない点もあった。何故医者という人を救う職を志しながらこの事件が起きたのか、だ。マリナと直接話した印象も明るくお節介なただの幸せな少女であり、多くの人間を殺したようには見えない。それに行方不明となったアリーを探す切羽詰まった姿は本物だった。
「そもそも解体した犯人と殺した犯人が同一人物である必要はなかった。無残な遺体はマリナさんの手で作られたものですが、殺したのはジロフル子爵……そうでしょう」
「いいな……凄くいい……」
ロクテーヌの静かな問いを嬉しそうに受け止める。
「小屋の前に転がして置くとね、面白いものが見られるのだよ。震えながら涙を流しながら遺体の腹を裂くんだ。傑作だろう」
「貴方とは感性が異なるようですね」
「私は優しいからね。何度も用意してやったよ。その度に同じことの繰り返しさ……だが、どうして解体した遺体を町に運んでいたんだろうな。うら若き女性には重労働だろうに」
「……さあ、どうしてでしょうね」
ロクテーヌは静かに目を伏せた。ジロフル子爵には到底分からない感情がそこにはある。切り分けた臓器は遺体に詰め込まれた状態で発見されている。少女が運ぶには、遺体は重く町も遠い。人に見つかる可能性だってある。それでもわざわざ町に運んでいたのは、あるいは帰していたのは、誰かにとって必要だったからではないかと推測する。
マリナを含め三兄妹は両親を失っている。遺体として見つかった母親のフェリンティアと、遺体すら見つからなかった父親のレイシャ。いつまでも行方不明のままでは前に進めない。複雑な心境を腹に抱えて体の内側をかき乱される羽目になる。ロクテーヌだってそうだった。
「どちらにせよ、死人に口無し……考えるだけ無駄というものでしょう」
「ふむ……ところで、君の答えがよくわからなかったんだが、説明してくれないか」
ジロフル子爵はにこやかに尋ねた。
「確かに私は多くの人間を殺めたが、それがどうして君を誘拐することになるんだ」
「!」
ロクテーヌは顔をしかめた。心臓の音がやけに大きく響き、脳内を巡る。
何かがおかしい。ボタンを掛け違えたように会話にずれが生じている。ロクテーヌは殺人犯を追っていたのだから返り討ちに合って然るべき……ではなかったのか。
「私はただの町娘、殺す価値はありませんよ」
「ああ、二十一人目になると思ったのかな?」
「……」
ロクテーヌは注意深くジロフル子爵の様子を窺っていた。ただの町娘と聞いて何の反応も見られない。ただ楽しそうに目を細めただけ——何も知らない人間の反応だ。
理解した瞬間に猛烈な自責の念にかられた。この慇懃な態度の男はロクテーヌが追っていたことも、店主であることも、ましてや本当の身分も知らないのだ。自分の言動を振り返る。余計な情報は与えなかった。穴はないはずだ。
「では、どうして私は誘拐されてしまったのでしょう」
ロクテーヌは意識的にゆっくりと言葉を紡いだ。どうやら殺されるわけではなく、殺そうとしていることもばれていない。どういうからくりかはともかく、大抵のことは許容出来ようというものだ。
「君が芸術品であったからだ」
ジロフル子爵の指は組んで離れてを繰り返し、子供の指遊びのようだ。ロクテーヌの頭からつま先まで視線が這い、勝手に品評される。
「美しい白い肢体に、聡明な碧の瞳……しかも柔らかな光の色をした髪の毛は黒髪の下に秘められていた……完璧だ! 秘められていると暴きたくなる。……だが暴いた後は無用の長物だな。燃やしておいたよ」
「……今、何と?」
「ふふっ偽物は要らないだろう。大丈夫、君は本物だ」
ロクテーヌは耳を疑った。何が大丈夫なのか全く分からない。この男、愛用していた黒髪のウィッグを燃やしたと言ったのか。余計な仕事を増やされた。ジロフル子爵は静かに殺意を燃やすロクテーヌに気付くことはなかった。
「芸術品を集めるのが私の趣味でね」
「聞いていませんが」
「そうでもしないと暇で仕方がないのだよ。遊んで暮らすだけの金はあるんだが、如何せん貴族というのは生温くてつまらない」
「……」
公爵令嬢の生活は退屈だ。少なくともロクテーヌの肌に合うものではなかった。しかしジロフル子爵に共感はできなかった。飽くほどの暇を持て余したことなどなかったからだ。ならば財を持つ資格はないし、そもそも子爵はそこまで暇ではない。ジロフル子爵の正体は貴族の放蕩息子がいいところだろう。
「君は私の退屈を紛らわせてくれるだろうか」
「この部屋から出してくださるならあるいは」
「はは、代わりに一生不自由はさせないよ」
ジロフル子爵はベルトに固定していたナイフを取り出した。笑顔で冗談を言っているようなのに、その目はじっとロクテーヌの指を見つめている。マリナが遺体を解体したのはその知識を身に着けるためである。その過程において指を奪う必要はない。収集家、と嫌な言葉が頭をよぎった。
ジロフル子爵が握り締めると黒い柄の表面がぱらぱらとはがれ落ちた。乾燥した黒いそれはナイフの刃にも付着している。
ぞっと鳥肌が立った。足には鉄の鎖が付いており逃げることはできない。フィードは必ずこの場所を見つけるだろうが、今ではない。この男の前に、ロクテーヌの細腕は無力である。
ロクテーヌは店主の仮面を取り去った。
「離れなさい」
気品あふれる凛々しい声は、ジロフル子爵の動きを止める。ここがいかに牢屋のような場所であろうと、気概や品位は侵されない。どちらの立場が上なのかを態度で示してやる。
——時の流れが止まった。
呼吸も躊躇われるような緊迫した空気の中ジロフル子爵は膝をつき、そうせざるを得なかった己に驚愕して目を見開いた。気迫を纏った不可侵の美貌はもはや神々しいほどで、崇めるように仰ぐ。ロクテーヌは取り落としたナイフを拾い、ベッドの下へと遠ざけた。
「……やはり威嚇だった」
ぽつりと床に膝をついたままジロフル子爵が溢した。同時に鬼気迫った表情も消えたので怪訝に思っていると、呆けた様子で続ける。
「……人には輝ける瞬間というものがあると思わないかね。家事をする姿が美しい女がいれば、帰りを待つ姿が美しい男もいる。君はきっと威嚇だと思っていた」
「ではその輝ける姿の肖像画でも集めてみてはいかがですか。退屈も紛れるでしょう」
「ふ……くく……とっくの昔に試したよ」
うっとりと目を細めてロクテーヌに微笑みかける。冷たい目線すら甘美な褒美に変化し、正面から受け止める。
「フェリンティアの命が散る瞬間も、レイシャの狂気も素晴らしかった……ああ、狂気は難しかったな。爪を剝いで、指を落としてしまうまで狂ってくれなかったから」
「……!」
「でも本物の輝きはなかなか出会えるものではなくてね」
ジロフル子爵は残念そうに溜息を吐いた。
宿屋の壁に飾られていた凡庸な家族の肖像を思い出す。幸せそうな家族の肖像と、フェリンティアの横顔だ。この口ぶりでは三年前の事件でおそらくレイシャも殺されている。
「ではアリーさんは氷漬けだったんですか?」
「ははは! 彼女はどうだろうな。連れ去ったのは彼女の輝ける瞬間のためではなかったからね」
「……人質だったんですね」
「あんまりな言い草だな。悲しいよ」
眉を下げ、縋るような目をする。それが敬虔な教徒のように見えて、ぞっとする。勝手に信仰の対象にされてはたまらない。
「愛する妻の肖像画を描いて貰おうと思っただけさ。ほら、テイリスの宿に飾ってあるあの肖像画がそうだ。二人の愛のおかげで美しかっただろう? なのに……あんな酷いことをするなんて」
苦々しい表情で吐き捨てた。
ロクテーヌは話半分に聞き流した。何かがあったのだとしても、昔話は今の状況を打破してくれない。代わりに高圧的に問いかける。
「私の輝ける瞬間とやらに満足していただけたのであればここから出していただきたいのですが」
「とんでもない!」
ジロフル子爵は壁を指差した。牢屋のように何もない部屋だが、その殺風景な壁に小さな穴が空いている。手を伸ばしても足枷に阻まれて届かない位置にあり、小指の先ほどの大きさだ。暗く、冷たく、吸い込まれそうな暗闇がぽつりと壁に染みを作っている。
「もっともっと美しい君を見せてくれ」
にたりと曲がった口から、跪いているとは思えない言葉が飛びだす。ロクテーヌは余裕の表情を浮かべたかったが上手くできたのか分からない。
ジロフル子爵は持ってきていた蝋燭を一本、ロクテーヌの手の届かない場所に立てて部屋を出ていった。壁の小さなそれが覗き穴だとするならば、ロクテーヌの居場所を照らす必要があるのだろう。
蝋燭の炎を眺めながら、頭を整理する。レイシャは絵を描くことが趣味だった。アリーを連れ去ることでまんまと二人をおびき出し、レイシャに絵を描かせ、その輝ける瞬間とやらを目に納めてから殺した。それが三年前の顛末だ。
「……!」
ここにきて、全てを理解した。手遅れになってから気付くなんて間抜けもいいところだ。店主としては及第点かも知れないが、どうも品質が悪くなってしまった。歯噛みしたところで後の祭りだ。
壁を小さな蜘蛛が這っている。蝋燭がなければ気付くこともなかっただろう。
「……まあ、十分に楽しめたのでよしとします」
ロクテーヌは誰にともなく呟いた。現在地もおおよそ分かっている。気温は低いが外気ほどではなく室内着のまま放置されても凍傷には至っていない。静かで音も気配もなく、採光窓さえない部屋。恐らくジロフル子爵の邸宅内の地下室だ。
落ち着いた様子で固いベッドに横になる。足の鎖が鳴ったが勝利を確信したロクテーヌには些細なことである。
やがて蝋燭が消え、再び部屋の中は闇に包まれた。その頃には静かな寝息が響いていた。
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