第59話 赤い屋根の家

 図書館の休館日、アンバー館長の家に私は向かう。

 アンバー館長の奥様と語り合ってみたいという欲望に駆られてだが、考えてみれば職場の上司の家にお邪魔するのだ。

 少し緊張する。


「ええ! 胡桃ちゃん、緊張なんてするの? あんなに毎日モフモフしたいとか言っているのに!」


 心の底から驚いているのは、私を図書館まで迎えに来てくれたアンバー館長だ。

 私の緊張を全否定したい気持ちも分からなくはない。

 上司と言えども、猫姿のアンバー館長だ。アンバー館長の猫姿を見て、モフモフしたいとか、セクハラ発言を繰り返しているのだから仕方ない。


「す、すみません」

「気にしないでいいよ。別に。気楽に働いてくれているってことでしょ。良いじゃない。委縮して何も言えない方が問題だよ」


 思えば、転生前は極限まで委縮していたな……。

 アンバー館長の運転する車の助手席から流れる景色を観ながら思い返す。

 前の上司はとても怖かったのだ。何か失敗すると、朝礼の時に皆の前で反省させる。お客様の前で商品の名称を間違えた社員は、ネチネチと上司に責め立てられて、その日の午後には「こんな会社辞めてやる!」と言って出て行って帰って来なかった。誰が苦言を呈しても、上司はミスをする方が悪いんだと言って憚らなかったし、職場の空気は最悪だった。

 ドンドン辞めていく社員達、積み重なる業務。全員がキャパオーバーで、ミスは増えて益々機嫌の悪い上司。

 気の弱い私は、何も出来なかったのだ。


 それが今では、こんなに優しいモフモフ猫上司の下で、大好きな本に関わる仕事が出来ている。最高じゃないか。


「アンバー館長の部下で良かったです」

「そう? そう言ってくれるのはありがたいね。でも、モフりたがるのは、勘弁してほしいな」

「駄目ですか……」


 そこは残念だ。

 猫獣人の皆様には、人間の習性としてモフ行動を許していただきたいのだが。


「ほら、あそこの小さな家、赤い屋根の……分かるかな? あれがウチだよ」


 アンバー館長が指す方には、確かに赤い屋根の木造の家がある。

 二階建ての小さな家は、住宅街に、白い低い塀に囲まれて建っていた。


 車から降りてアンバー館長と一緒に玄関から家の中へ入ると、奥様と思われる女性が奥からにこやかな笑顔を浮かべて出てきた。


「いらっしゃいませ!」


 四十歳くらいのほっそりとした品の良い女性は、アンバー館長とお似合いの人柄の温かそうな人だ。


「本日はお邪魔いたします」


 私は、頭を下げて手土産を渡す。

 ミュルルのカフェで売っているハーブ入りのクッキーだ。今回は、あの忠犬ゴブリン饅頭ではない。


「あら、ありがとうございます。植物園のクッキー、美味しゅうございますわよね」


 奥様は喜んでくれた。ラーラに勧められた粘液入りにしなくて本当に良かった。


「ミヨと申します。人間は少ないので、ワクワクして待っておりました」


 アンバー館長の奥様、ミヨさんは、握手を求めてくれる。

 私は、ミヨさんの手を取って、自己紹介する。



「山下胡桃です。図書館で、働いています。アンバー館長には、とてもお世話になています」


 ありきたりな事しかいえないけれども、これでいいよね?

 私は、緊張しながら靴を脱いで玄関をあがる。


「わ、すごい!」


 通された部屋を見て、私は感激する。

 本だらけだ。本棚に囲まれて、その間に椅子やソファが置かれている。

 本好きの夫婦が、自分達がくつろげる空間を実現した結果なのだろう。


「どうぞ、こちらへ」


 ミヨさんに案内されたのは、テーブルのある温室。

 床はテラコッタタイルが張り巡らされて、観葉植物が並んでいる。

 ガラスの向こうには、芝生の庭が広がっている。


「本が読みやすいように、温室は北向きにしていますのよ」


 ミヨさんが「凝り過ぎたかしら」と、ほがらかに笑う。

 これは……本を読むことに特化した家なんだ。

 きっと、希少本を保管する倉庫なんかもあるに違いない。

 本好き夫婦の理想を形にした家なんだ。


 ミヨさんがお茶を淹れて、持って来たクッキーとともにスコーンやサンドイッチ、ケーキの載ったティースタンドを出してくれる。

 クロテッドクリームのついたスコーンは、とっても本格的だ。


「さ、遠慮せずに。ミヨのスコーンは絶品なんだよ」


 アンバー館長が、私に勧めてくれる。

 勧められたスコーンを皿に載せて二つに割れば、まだほのかに蒸気が立ち上る。温かいスコーンの上で、かすかに溶けるクロテッドクリームは、こってりとして、すっきりとした味わいの紅茶とよく合う。


「美味しいです!」


 私の素直な賛辞に、ミヨさんもアンバー館長も満足そうな表情を見せる。


「でしょう? このクロテッドクリームのレシピを見つけてから、ずっとスコーンにはまっていますのよ」

「レシピ、ぜひ知りたいです!」


 こんな美味しいスコーンとクロテッドクリームが作れるようになるなら、どんなに楽しいだろう。料理は……控えめにいって苦手な部類だが、練習すれば、一品くらい得意料理も出来るかもしれない。

 ユルグにも作ってあげたいし。


「良いですわよ! 材料さえきちんと計量すれば案外簡単だから、作ってみてください」

「はい」


 読書家のミヨさんは、色々なことをよく知っている。穏やかな人柄で話しやすくて、つい色々と聞いてしまう。


「そう言えば、ミヨさんはあの図書館の常連さんだったんですよね?」

「ええ。そうですのよ。アンバーが一人で頑張っていたころ。モフモフの毛を揺らして、一生懸命に走り回っていましたわ」

「アンバー館長が?」

「ええ。失敗ばかりして、私は見るに見かねて、よく手伝っていましたの」

「ミヨ? あまりそういう話は……」


 自分が若い頃の話をされて気が気でないアンバー館長の髭がピクピクと揺れる。


「そんなに心配しなくさらなくても。変なことは言わなくてよ」


 笑ながらポフンと、アンバー館長のモフモフの胸に、ミヨさんがもたれる。

 あれは気持ちよさそうだ。

 アンバー館長も、奥様のミヨさんならば、そのままもたれさせてゴロゴロと喉を鳴らしている。


 仲の良さそうなアンバー夫婦の様子は、見ていてとても和む。


「猫モフモフ……うらやましいです」

「でしょう。とってもモフモフですのよ」

「モフモフ……太ったかなぁ」


 アンバー館長が、あまりにもモフモフだと言われて気にしている。


「大丈夫ですよ。アンバー館長はどんどん増えてください。猫はモチモチも可愛いですから」

「分かりますわ! 太った猫には太った猫の良さがありますのよ!」

 

 とっても上品なミヨさんは、興奮気味に猫愛を語る。良かった。仲良くなれそうな人だった。

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