第58話 部屋は片付いてました

 シェアハウスに帰れば、あのセイレーンの絵本があった部屋に私の荷物が運びこまれていた。


 ベッドなんかもちゃんと新しい物が置かれていたのは嬉しい。


「ごめんね。お詫びの印に、ベルゼに返した物は、新しい物を買って胡桃ちゃんの部屋に入れておいたから」


 ブレスが謝ってくれる。

 どうやらブレスがこの部屋に荷物を入れてくれたらしい。


「いや、いいよの。それより、私、ここの部屋にあったセイレーンの絵本を勝手に開けちゃったんだけれど大丈夫だった?」

「あ、あれ読んだの? 姉の置いていった絵本なんだけれどもね。人懐っこいセイレーンが出てくるんだよ」

「いや、喰われかけましたが?」

「あっはっは! 胡桃ちゃん、面白いね!」


 どうして私が喰われそうになったのが、そんなに面白いのか。ブレスは思い切り笑い出す。

 いや、何も面白くないのよ。ブレス。

 美味しそうって言ってたし。


「まぁ、とにかく確認してよ、荷物」


 そうブレスに言われて部屋に入る。

 ブレスは、さっさとどこかへ行ってしまった。荷物は……。

 元々転生間もない私の少ない荷物、ちゃんと全部揃ってそうだ。

 ユルグに借りた大切な本は、ちゃんと鞄に入れている。

 絶版になった本を、ユルグがわざわざ手に入れてくれたのだ。貴重な本だもの。早く読んで返してあげなきゃ。


 うっとりするような綺麗な表紙絵を眺めて、まず感動する。

 こんな素敵な本でも絶版になってしまうのだから、世の中理不尽だ。出来れば、映画化されたのだから、続編はぜひ出てほしい。


 表紙をめくった見返しは、海の青。微かに波の音が聞こえる。

 扉には波打際が広がり、砂地に波がキラキラと揺れている。海鳥の鳴き声まで聞こえてきて、作品への期待感が深まる。


 夢中になって私はページをめくる。

 映画も素敵だったけれど、原作も違った素敵さがある。映画の愛くるしい少女の表情が、文章を読むたびに再生されて、切ない感情表現に涙がこぼれる。

 

 『ずっとずっと、忘れたつもりでいただけだった。こじ開けられた感情の扉は、もう二度と閉じてくれはしない。草原に一人立つミネアは、翼をゆっくりと広げて、風に呼応するように羽ばたいた』


「そう! そうなのよ!」


 この後の展開を思って涙があふれる。

 ずっと当たり前だったほのぼのとした日常が、この次の場面から急展開するのだ。


 優しい隣人に囲まれたほのぼのとした日々。

 だけれども、少女はずっとはここに居られない。だって、ここはそもそものミネアの故郷じゃない。だって、少女ミネアは成長するのだもの。だけれども、優しい少女は、とても全てを無碍には捨てられない。

 ここの生活は、あまりに優しかったから。

 そして、少女の葛藤と少年への想い。少女を見守る少年の切ない想い。

 

 ぐずっ……。もう涙で私の顔はボロボロだった。


「タ、タオル!」

 

 ハンカチでは足りない。

 ガタガタと引き出しを開けてタオルを取り出す。良かった。職場で読まなくて。こんなの外で読んだら大変だった。


 コンコンと扉を叩く音がして、扉を開ければユルグが立っている。

 扉を開けた私の顔を見て、ユルグが青ざめる。


「え、どうしたの?」

「え?」

「またベルゼが何か?」

「ち、違うの。本、ほら、本!」


 ユルグを部屋の中へ引っ張り、読みかけの本を見せる。


「なんだ」


 ユルグがホッと表情を緩める。


「まだ途中なの。返すのもうちょっと待ってくれる?」

「いい。これは胡桃ちゃんにあげたんだよ」

「でも、絶版になっている貴重な本よ?」


 しかも、映画で人気になっているから、そう簡単には手に入らないはずだ。

 そんな本をもらうのは、心底申し訳ない。

 

「大丈夫だよ。だって、読みたくなったら胡桃ちゃんが貸してくれるでしょ?」

「それは……そうだけれど……」


 じゃあ、いいのか?

 すごく嬉しいけれど……。


 二人して並んで座って、本の見返しを開ける。本にかかった魔法が、また波音を再現してくれる。


「聞いていると、あの場所へ行ったの思い出すね」

 

 ユルグの言う通りだ。聖地巡礼して良かった。本への感動が深まった気がする。


「ごめんね?」

「え?」

「いや、やっぱりあれはやり過ぎた気がする」

「ううん。怖かったけれど、思い返せば、あれも楽しかったし」


 電話でも、気にしないでいいって言ったよね、私。ユルグ、まだ気にしていたんだ。

 私には、すごく良い思い出だ。

 死ぬかと思ったけれど。

 今でも怖すぎて、一周回って笑えてくるくらいのインパクトのある思い出。

 吊り橋効果どころではない恐怖だった。


「ありがとう。連れて行ってくれて」


 そう言う私の頬をユルグが両手で挟んで、軽く触れるだけのキスをした。


 ーーはい?


 ええっと……。

 若干パニくる私は、私には手に余る甘い雰囲気に、どう動いて良いのか分からなくて固まる。

 今、ユルグと、キス……。


 ーーはい?


 いや、付き合っているんだから、普通のことでしょ。落ち着け、私。

 落ち着けば、ちょっとユルグの顔が直視出来なくてうつむく。


「おやすみ」


 そう言って立ち上がるユルグに、「おやすみなさい」と蚊の鳴くような声で返すのがやっとだった。

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