第5話 必死の治療

 まろび落ちるようにオリヴィアはブレイズの背から降りると、もう息をしていないように見えるアックスに覆いかぶさるように身を乗り出す。

 すぐそばの剣にこびりついた緑色のものを少し指で拭うと鼻の近くにもっていった。

 スンスンと臭いをかぐと顔をしかめる。

「この微かに甘みがある臭いは……」


 眉根を寄せていたが毒の種類に思い至ったの軽く頷いた。

「うん。間違いない」

 指先を上着の裾にこすりつけて毒を落とすとその手をアックスの心臓の辺りに当てる。

 口の中で呪文を唱え始めた。


 ブレイズから降りてすぐそばで気づかわしげにアックスを見つめるローランドに目もくれない。

 右手から治癒力を帯びた魔力が流れ始めるのを感じると、オリヴィアは空いている左手をアックスの傷に被せるように添える。

 再び呪文を唱えた。


 治癒魔法が利き始めたのを感じるとオリヴィアは優しくアックスに語りかける。

「もう大丈夫よ。辛かったでしょう。私は治療師のオリヴィア。あなたを治してみせるわ」

 実は口に出した台詞ほど本人に自信があるわけではない。

 ただ、治療を施す自分が不安そうでは患者も安心できないだろうといかにも自信があるように振舞っていた。

 周囲から半人前と言われていようとも、治療師としての責任を果たすつもりである。


 ただ、治癒魔法は効果を発揮しているはずなのだが、アックスの体に目に見える変化は現れない。

 オリヴィアはひょっとすると命を救えないのではないかという疑念が頭をもたげるのを感じた。

 その不安を振り払うようにもう一度呪文を唱え、魔法を重ね掛けする。


 同僚に比べてオリヴィアが治療を施した騎士の数は少ない。

 それでも、その後に何頭もの馬に治癒魔法を使っていた。

 さすがにオリヴィアは体が鉛のように重くなってきているのを感じている。

 これは体内の魔力が枯渇し始めていることを表していた。

 ただ、同僚がとっくに昏倒していることからすれば驚くべき気力と魔力量である。


 ここを先途とオリヴィアは体内の魔力をかき集めた。

「絶対に助けるんだから」

 鼓舞するようにつぶやく。

 オリヴィアが戦っているアックスの毒はしぶとかった。

 この毒は体を麻痺させ動かなくさせるものであり、心臓に到達すると血液を送り出せなくして死に至らしめる。


 人であればとっくに亡くなっていてもおかしくはない。

 ただ、ハックスハウンドは大型であり、毒の周りが遅かったようである。

 ダークエルフの体を貫いた際にその血によって毒が少し洗い流されたことも影響していた。


 オリヴィアから滲み出した魔力は少しずつアックスの体内に浸透し、毒を無害化して麻痺した部分の働きを正常化する。

 右手と左手のそれぞれから染み出していったものの先頭がアックスの体内で出会い一つに交じり合った。

 それを感じてオリヴィアは気力を新たに奮い起こす。

 ここで気を抜いてはいけない。


 アックスの体内の隅々まで治癒力を帯びた魔力をいきわたらせる。

「ふご」

 アックスが気の抜けた声を出し、ゆっくりと体が膨らみしぼんだ。

 触れている右手にぬくもりも感じてオリヴィアは治癒魔法が毒に打ち勝ったことを知る。

「やった。あともう少し……」

 安堵と喜びに包まれると同時についにオリヴィアも限界を迎えた。

 くたりとくずおれるようにアックスの上に倒れる。

 

 アックスが生色を取り戻したことにほっとしていたローランドはオリヴィアがいきなり意識を失ったことに慌てた。

「おい……」

 その声にアックスが目を開ける。

 目の前に大好きな主の姿を見出すと、もぞりと体を動かして立ち上がりローランドの頬をぺろぺろと嘗め回した。


 その動きでアックスにもたれかかっていたオリヴィアの体が滑り落ちる。

 コン。

 頭巾を被ったオリヴィアの頭が堅い地面に当たって音を立てた。

 愛犬が命拾いをしたことに感極まり、アックスの頭を撫でていたローランドはそちらを見る。


 ローランドは人間、特に女性は嫌いだった。

 それはこれまで生きてきた経験によって染みついたものである。

 それでも最低限の義理と人情はわきまえていた。

 アックスが九死に一生を得たのは地面と接吻をしているオリヴィアの功績によるものは間違いない。

 その恩人をこのままにしておくのは良くないことだとの認識はあった。

 しかし、すぐには体が動かない。

 

 ローランドに代わってブレイズがオリヴィアの服の肩の辺りを噛んで仰向けにした。

 ちょんちょんと飛び跳ねてきたジェイドがオリヴィアの顔を覗き込む。

 土埃にまみれていたがその顔は意外と晴れやかな表情をしていた。

「ロー。治療する人、どうする?」

 小首を傾げてジェイドがローランドに尋ねる。

 ブレイズも大きな目でローランドを見つめていた。

 最後にアックスがワンと鳴く。


 愛鳥と愛馬と愛犬の視線を向けられてローランドはたじろいだ。

 その視線には非難が含まれている。

 ブレイズは走りすぎて熱を帯びていた体を冷まし疲労を癒してくれたことに感謝していた。

 ジェイドは一部始終を目撃してオリヴィアが為したことを理解している。

 アックスも治療を受けたときは意識を失っていたが、体内に残る魔力と倒れているオリヴィアの香りが同じことに気が付いていた。


 これから夜がくる。

 人間は地面にそのまま横たわって寝ることはない。

 それに夜露も降りるしこのままだとすっかり冷たくなってしまうだろう。

 オリヴィアをランスタットの町に連れて帰らなくてはならない。

 考えるまでもないことだった。


 しかし、ローランドはそのことを認めるのを渋った。

 いや、連れて帰ることはやぶさかではない。

 ただ、そのためにローランドがオリヴィアを抱き上げなくてはいけないという単純なことをしたくないのだった。


 ジェイドに目を向ける。

 ラバホークは大型の鳥ではあったが成人をつかんで飛ぶことはできない。

 アックスはオリヴィアを括り付ければ運ぶことはできそうだった。

 しかし、つい先ほどまでは半死半生の体であり、今も万全の体調とはいいがたそうである。

 

 ブレイズはオリヴィアのそばで前脚、後脚と順に折って座り込んだ。

 首を巡らせて小さくいななく。

 まるで早く乗りなさいよと言っているようだった。

 ジェイドは口を開ける。

「お腹すいた」

 それに賛同するようにアックスも小さく吠えた。

 3体の圧が凄い。

 

 腹が減っているんだから、早よせんかい。

 ローランドも空腹を覚えていたが自分だけなら我慢できる。

 しかし、これだけ催促されれば渋々ながらも動かざるを得なかった。

 ダークエルフに刺さったままの槍を回収し、穂先にカバーをかけると斜めに背負う。


 あからさまに嫌そうな顔をしながらオリヴィアの横に跪くとため息をついた。

 ローランドの気持ちなど知らぬように安らかな寝息を立てている。

 なんの夢を見ているのか、ふにゃりと笑った。

 まるで赤子のようなその様子は少しだけローランドの嫌悪感を和らげる。


 オリヴィアの背中と膝に腕を差し入れた。

 その体はご令嬢のような柳腰ではないが、戦場を駆け巡るために鍛えたローランドの体は女性1人を持ち上げることなど苦ではない。

 なるべく腕の中のものを見ないようにしてブレイズに跨った。

「ブレイズ。頼む」


 声をかけられるとブレイズは前脚を伸ばす。

 ローランドは衝撃に備えて体を後ろに傾けた。

 ブレイズが後脚を蹴って立ち上がるとオリヴィアの体を落とさないように腕に力を籠める。

 仕方ないこととはいえ、女性を抱き上げていることを再認識し、ローランドは舌打ちしそうになるのをこらえるのだった。

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