第四十六話 スローモーションのような時

「一番、セカンド、京極」



 関東ドームに颯太の苗字がコールされる。


 ネクストバッターズサークルで素振りをしていた颯太は、木製バットから重りを外し、ゆっくりと歩きだす。


 マウンドには初回から変わらず、優次郎が上がっている。


 優次郎の視線は一瞬だけ、颯太に移る。


 優次郎が再び正面を見据えると、籠崎工業の内野手四人とキャッチャーが歩み寄る。そして、優次郎を囲むように立つ。


 その瞬間、颯太は一度ネクストバッターズサークルに戻り、輪が解ける時を待つ。


 優次郎はキャッチャーの言葉に時折頷きながら耳を傾ける。


 しばらくして輪が解け、各々がポジションに戻る。


 颯太はキャッチャーがしゃがみ込むと同時に、ゆっくりと歩みを進める


 白線を越え、右バッターボックス内に入ると、足場を作る。


 土を眺める颯太の瞳はやがて、自身が両手に持つ、木製バットを映す。


 

 初球はどこに、どの球種を投げ込んでくるのだろう。


 そして、二球目のコースは……。


 颯太の頭の中で、このような考えが判断を遅らせる。



 ふと、三塁側ベンチ内を目に映すと、淳伍は特にサインを出すことなく、颯太を見つめてた。



 颯太は淳伍と目が合うと、心の中で監督に尋ねる。


 初球は、バットを振らずに待ってみますか?


 

 すると、颯太の心の中で発した問いにこたえるように、淳伍は小さく頷く。


 淳伍からの無言のメッセージを受け、今度は颯太が小さく頷く。



「一球目は、待ってみますね……」



 颯太は淳伍を見つめ、そのように口を開くと、マウンドを注視する。


 マウンド上の優次郎はしばらくして、キャッチャーのサインに頷くと、静止する。


 颯太はグリップをやさしく包み込むように持つ。


 その数秒後、白球が颯太の目に映る。


 颯太の視線は徐々に下方向に映る。


 やがて、球審がコールを発する。



「ボール」



 白球はホームベースに当たりワンバウンドし、そのままキャッチャーミットに収まる。


 キャッチャーは白球の土を右手で払い、優次郎に返球する。


 優次郎は返球された白球を右手で取り、汚れ具合を確認する。


 優次郎は交換を求めることなく、プレートに両足を乗せ、キャッチャーのサインに顔を覗かせる。


 颯太はグリップを握り直し、二球目に備える。


 

「一球目が真ん中への縦の変化球。二球目が読みにくいな……」




 やや険しい表情で颯太は呟く。


 マウンド上の優次郎は首を縦に振り、ピッチングに移る準備をする。


 数秒間静止した後、優次郎の左足が動き始める。


 颯太は優次郎の左膝が高く上がった瞬間、目つきを鋭くさせる。



 颯太の目には、白球がはっきりと映る。


 まるで、白球の縫い目までを目視できるほどに。



 よし……!


 颯太は心の中でそう言葉を発すると左足を僅かに浮かせ、バットを振る準備をする。


 白球はやがて、ホームベースの二メートル手前まで迫る。


 颯太はタイミングを見計らい、スイングを始める。


 この瞬間、颯太の周囲だけがスローモーションのような時を生み出す。



 颯太の木製バットのヘッド部分は徐々に白球に近づく。


 木製バットのヘッド部分は白球のちょうど中心を捉えようとしていた。


 それからコンマ数秒後、ヘッド部分が白球を捉える。


 そして、木製バットはしなりを伴いながら、白球を弾き返す。



 カァン!



 鋭い打球音が関東ドームに響き渡る。


 白球は弾丸ライナーのような軌道で、センターに飛ぶ。


 颯太は木製バットを置くと、打球の行方を目で追いながらファーストベースに向かって駆け出す。


 

 打球は強烈な勢いを伴いながら、センターの守備に就く選手と競走する。


 白球は選手を追い抜いた瞬間、軌道をやや下げる。


 センターの守備に就く選手は白球に向けて、グラブを出す。


 

 捕られるか……。


 颯太の心にそのような気持ちが走る。


 しかしそれは、すぐに拭い去られる。


 颯太の耳に飛び込んできたのは、スタンドからの歓声と、三塁側ベンチ内からの選手の声だった。


 複数の声を聞き、颯太は安心したように息をつくと徐々に加速し、やがてセカンドベースに到達する。


 その数秒後に、白球が中継に入ったショートを守る選手に返球された。


 同時に三塁側ベンチ内から、拓郎達の「ナイスバッティング!」という声がグラウンドに届く。


 颯太はセカンドベースを左足で踏み、拓郎達の声に頭を下げてこたえる。


 そして颯太がバッティンググローブを外した瞬間、関東ドームのスタンドから「京極!」と叫ぶ声が起こる。


 声の主は一人だけではない。



 颯太は声が発生した方向を見つめる。


 そこには、数名の男性の姿があった。


 遠目からで、はっきりと姿は見えない。


 しかし、颯太は彼らの声に聞き覚えがあった。


 すると、颯太の表情が徐々に変化する。



「もしかして……」



 信じ難い光景でも見たような表情で颯太はスタンドの一点に視線を集中させる。


 それからすぐ、颯太の頭の中に複数人物の顔が浮かんでくる。


 彼らは、颯太をよく知る人物だ。



 しかし、そのようなことあるはずがない。


 休日は土曜日で、平日のこの日は仕事をしているはずだ。


 颯太は自身に心の中でそのように言い聞かせると、マウンド方向に目線を移す。


 そこには、優次郎がマウンド上でピッチングコーチと言葉を交わす姿があった。



 しばらくして、優次郎が一瞬だけ颯太に目線を移した。



 彼の視線は一体、何を示しているのだろう。


 そのようなことを考えながら、颯太は優次郎の背中に視線を集中させた。

 


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