第三十七話 怖いものなどない
「ありがとうございました!」
紅白戦が終了し、颯太をはじめとした選手は整列すると帽子を取り、頭を下げる。
颯太がゆっくりと顔を上げると、やさしい笑みを浮かべる元樹の姿が映る。
颯太は帽子を被り、一塁側ベンチ内へと足を進めようとした。
すると、颯太の足の動きを止めるように、元樹がやさしい声を発する。
「初めて見ました。京極さんのようなセカンドは。私がボー捉えるルをバットで捉える前に打球の位置を予測した動き。そして、堅実なキャッチングとスローイング。セカンドはいつから始められたんですか?」
颯太は元樹の問いを聞き、僅かに口元を緩める。
「小学校一年生からです」
今度は、颯太がやさしい声を発した。
元樹は颯太の答えを聞き、小さく数回頷く。
元樹の視線は一瞬だけ、セカンドの定位置に向く。視線を颯太に戻すと、元樹はこう言葉を掛ける。
「バッターが打つ前に、位置を移す。それは、リスクも伴う。しかし、京極さんが位置を移した周辺に打球が流れた。そして捕球し、ファーストに送球してアウトにして見せた。それは、経験だけではできない気がするんです」
元樹はまっすぐに颯太を見つめる。
経験。
颯太は野球を始めて以降、セカンドをたくさん経験してきた。その中で、グラブさばきやスローイングの技術を身に付けた。
だが、打球を予測するような動きは経験の中で身に付けたものではないと、颯太自身も感じていた。
颯太は元樹の言葉を聞き、上空を見つめる。
いつ、打球を予測するような動きを身に付けたのか。
颯太は自身に問う。
しかし、その答えは返ってくることはなかった。
一瞬だけ目を閉じた颯太は、ゆっくりと視線を元樹に戻す。
颯太の表情には、微かな笑みが浮かんでいた。
一瞬雲に隠れた太陽が再び顔を出すと同時に、颯太は口を開く。
「自分自身も、あの動きが身に付いたきっかけは、分からないんです。ですけどそれは、生まれながらに持ったものではないということは分かっています。野球を始めたばかりの時は、そのような動きができませんでしたからね」
颯太はそう話すと口元を緩め、視線をセカンドの定位置に向ける。
すっかり足跡だらけになったのグラウンドの土を眺め、颯太は腕を組む。
すると、野球を始めたばかりの頃を思い出す。
打球の予測など全くと言っていいほどできなかった少年の頃の自身の姿を。
打球を予測できず、ただただボールを追いかけていた少年は年を重ね、二十三歳になった。その二十三歳の青年はセカンドの定位置の座を掴んだだけでなく、補強選手という形ではあるが、全国の舞台に立つかもしれない状況まで上り詰めている。
「小学生の俺にこんなこと話しても、信じないだろうな……」
颯太は、囁くように言葉を漏らすと、ゆっくりとを閉じる。
それからしばらくして、やさしい風が颯太の頬を撫でる。
その瞬間、颯太はゆっくりと目を開ける。
改めて元樹に視線を戻すと、颯太は頭を下げる。
「ありがとうございます。こんな私のプレーに興味を持っていただいて。私はまだまだ皆さんの足元にも及びません。残り一回の練習で、どこまで差を縮めることができるか分かりませんが、絶対的な戦力になれるように頑張りますので、よろしくお願いします」
颯太が言葉を発すると、元樹は口元を緩め、ゆっくりと目を閉じる。
そして、颯太が顔を上げたと同時に元樹は目を開け、正面を見据える。
「こちらこそ」
やさしい声を発した元樹は右腕を伸ばす。
それからすぐ、颯太も右腕を伸ばす。
二人が握手を交わすと同時に、上空の太陽は輝きを増す。そして、二人影をより濃く映し出した。
七月十八日の水曜日、午後一時三十七分。
都市対抗野球全国大会一回戦前の最後の練習が終了すると、颯太はマウンド付近で、淳伍をはじめとした首脳陣と言葉を交わす。
「お疲れさまでした。今日で、大会前最後の練習が終了です。明日、台府駅から新幹線で関東に向かいます」
淳伍は続けて出発時刻を伝えると、行きの切符を颯太に手渡す。
「帰りは二十日になるかもしれませんし、伸びるかもしれません。ですけど、我々は二十日に帰りたくはない」
淳伍の力強い言葉に共感するように、颯太はゆっくりと頷く。
「優勝したい。ただそれだけです」
淳伍の続く声に、コーチ陣が一斉に頷く。
それからすぐ、渉が颯太に言葉を掛ける。
「優勝を目指す我々のチームに、京極さんという心強い味方が加わった。怖いものなどない。あなたがそう思わせてくれた。長くて二週間程しか一緒に戦うことができないのが惜しい」
渉の表情にはすでに、名残惜しさのようなものが滲み出ていた。
渉は一瞬だけ顔を俯けると名残惜しさのようなものをなんとか抑え、笑みを浮かべる。
そして、力強い声でこう続ける。
「絶対に優勝しましょう! 京極さん!」
渉の言葉が耳に届いた瞬間、颯太は目を閉じる。すると、自身の心に何かが染み込んでいくような感覚を覚える。
染み込んだ何かは、徐々に颯太の心を熱くさせる。
そして、心を真っ赤に染めた。
颯太はゆっくりと目を開け、渉を見つめる。
その表情は気合のようなものに満ち溢れていた。
「はい!」
力強く、どこか爽やか声で颯太がこたえると、強い日差しがグラウンドを照り付ける。
グラウンドは熱気に包まれ、颯太の心を更に熱くさせる。
誰にも触れることができないほどの熱い心を胸に抱き、二十三歳の野球青年は翌日、決戦の舞台となる関東に乗り込む。
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