第二十三話 一番厄介だったバッター

「ゲームセット!」



 球審のコールとともに、颯太は三塁側ベンチを出てホームベース前で整列し、台府銀行の選手と正対する。


 颯太の目の前には、翔太の姿があった。


 

「二対一で、台府銀行の勝ち! 礼!」


「ありがとうございました!」



 両チームの選手が帽子を取り、頭を下げる。


 颯太は帽子を左手に持ち、翔太と握手を交わす。



「『いい選手がいる』という噂は耳にしていました。実際にプレーを見て、あなたの技術の高さをこの身で感じました。全ての打席でいい当たりを飛ばし、守備では追いつけないだろうと思った打球に追いつき、アウトに仕留め……」



 丁寧な口調で話した翔太は苦笑いに近い表情を浮かべ、颯太を見つめる。



「いえ、私は全然……」



 颯太は謙遜するように首を横に数度振る。


 苦笑いに近かった翔太の表情は徐々にやさしい笑みへと変わる。



「そんなことないですよ。あなたの技術の高さを実感したのは私だけではありません」



 翔太はそう話すと、視線を正樹へと向ける。同時に、正樹が翔太へと視線を向けた。


 翔太は正樹の目を見つめながら小さく頷くと、颯太に言葉を贈る。



「正樹に『マウンドに立って、一番厄介だったバッターは?』と問い掛けたら彼はきっとこうこたえますよ。『京極さん』と」



 颯太は翔太の言葉に一瞬耳を疑った。



「え……」



 颯太が無意識に言葉を漏らす。同時に、翔太は颯太へと視線を戻す。



「都市対抗野球には独自のルールがあります。もし、我々が全国へ駒を進めたら……」



 翔太は僅かに口元を緩めるとゆっくりと颯太に背中を向け、一塁側ベンチ内へと歩を進める。


 颯太は立ち尽くすように、彼の背中を見つめる。


 翔太が一塁側ベンチ内へ入ったと同時に、健二郎の声が耳に届く。



「行くぞ」



 颯太は我に返ったように、視線を健二郎へ向ける。



「はい」

 


 颯太は一瞬だけ一塁側ベンチへ視線を向ける。そこにはすでに、翔太の姿はなかった。


 颯太は一つ息をつくと、ゆっくりと一塁側ベンチへ背中を向ける。そして健二郎に促されるように、三塁側ベンチ内へと歩を進めた。



 

 五月二十一日の月曜日。


 

「そう……」



 昼休みの社員食堂内で、千恵は悲しげな声を漏らす。


 彼女の左隣の席に着く颯太はご飯茶碗をゆっくりと置き、小さく頷く。



「やっぱり強い。さすが、県内ナンバーワンのチームだと思った。複数安打を記録できただけでも大きな収穫だよ」



 颯太はそう話すと、腕を組む。


 颯太の言葉を聞いた悟は傾けたグラスをトレーにゆっくりと置く。



「でも、一点差だろ? それだけ、相手を苦しめたという証拠だぞ」



 悟の言葉に、颯太は僅かに口元を緩め、首を数度横へと振る。



「うちが上手く抑え込まれただけだよ」



 颯太はそう話し、豚汁の器に左手を伸ばした。



 千恵は箸を持とうとした右手の動きを止め、颯太を見つめる。


 彼女の姿を見て悟は静かに息をつき、腕を組む。



 颯太は特に気にすることなく、豚汁の器をゆっくりと傾ける。喉に温かい感覚が伝わると、豚汁の器を置く。そして、ご飯茶碗へ左手を伸ばす。


 

「俺にとって、全国は夢のまた夢だな……」



 颯太は微かな笑みを浮かべると、小声でそのように呟く。


 千恵は颯太の言葉を聞き逃さなかった。



 颯太は口の中が空になると、ご飯茶碗をトレーに置く。それを見て、千恵が口を開く。



「もしかしたら、近いうち……」



 千恵の言葉と同時に、颯太の左手の動きが止まる。


 颯太の目は左を向く。そこには、嘘偽りない眼差しで颯太を見つめる千恵の姿があった。


 颯太はしばらく、千恵の目を見つめる。そして口元を僅かに緩めると、ゆっくりと視線を窓へと移す。


 この日の上空には、薄い雲がかかっていた。


 颯太はしばらく窓を見つめると、ゆっくりと目を閉じる。

 


「二次予選が終了しないことには、分からない。でも、一つだけ言えることは、俺に声はかからない。インパクトを残すことができなかったからね」



 颯太はそう話すとゆっくりと目を開け、千恵を見つめる。


 千恵は「でも……」と言うように、颯太を見つめる。


 

「俺よりいい選手なんていくらでもいる。俺なんか、そんな選手の中に埋もれちゃうよ」



 颯太は自身をあざ笑うように言葉を発し、左手に豚汁の器を持つ。


 千恵の表情はこの日の空模様のように晴れない。


 

「一つの大会が終わった。今週からは次の大会に向けて平日は仕事に、土日は野球の練習に励む。それだけだよ」



 颯太は言葉を繋げると、器を傾ける。


 千恵は颯太が器を置くと同時に、悟と視線を合わせる。そして、お互いの気持ちが一致したように小さく頷く。



「見逃すはずないよ、颯太のこと……」



 千恵が囁くような声量で言葉を発すると、テレビ画面にメジャーリーグの試合のハイライト映像が流れ始めた。



 

 午後六時二十七分。


 颯太は吊革に掴まり、隹海駅まで揺られる。



「まもなく、東山取ひがしやまとりです」



 車掌のアナウンスからすぐ、二人のスーツ姿の男性が席を立ち、ドアの前へ立つ。


 颯太は周囲を確認し、ゆっくりと席に着く。


 同時に、ドア前に立つ男性二人の会話が颯太の耳に届く。



「いい選手だ。もし、うちが全国へ駒を進めることが叶ったら、あの選手にオファーを出す。次も頼むぞ」


「はい」



 すると、携帯電話を背広の右ポケットから取り出そうとした右手の動きを止め、颯太は視線を二人の後ろ姿に向ける。



「オファー……?」



 彼らの正体は一体……。

 

 

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