私だけの宝物
紙野 七
1
人の疎らな地下鉄の扉に背をもたれて、薄汚れたコンクリートが延々と続く窓の外を眺める。
木曜日の午後九時過ぎ、都心から郊外に向かうこの電車には疲れ切って背中を丸めたサラリーマンばかりが乗っていて、重苦しい静けさを誤魔化すようにガタゴトと車両の揺れる音だけが響いている。
時折ガラスに映る自分の顔に焦点が合うと、その荒んだ姿に思わず自嘲してしまう。目の下にはくっきり隈が引かれて、唇はひび割れて青黒く滲んでいる。たいして中身の入っていないビジネスバッグを肩にかけ直し、わざとらしく深い溜め息を吐いた。
大学を卒業した頃は、自分が毎日決まった時間に会社に行って、真面目に働いている姿なんて想像もできなかったというのに、三年も経てばすっかりきちんとした社会人のふりができるようになっていた。最近では新人の教育も任されるようになり、先輩面してあれこれ指示を出している自分を客観視すると、出来の悪いコントをしているようでおかしく思える。
社会に出てみて、自分は案外器用なんだということに気付いた。仕事はやり方さえ覚えてしまえば他の人よりも比較的上手くこなせるし、手を抜くところは抜いて効率よく成果を上げられる。苦手な気がしていた人間関係も割り切ってしまえばどうということはなく、上司や同僚とは程よい距離感を保って接することで十分な信頼を築けていた。
一流企業でバリバリ働くエリートに比べれば凡庸だろうけれど、就職活動で落ちこぼれた私が拾ってもらった中堅のシステム開発会社の中では、それなりに〝出来る〟人間として扱ってもらえていた。井の中の蛙と言われればそれまでだが、一生をその井戸の中で終えるなら何ら困ることはない。
しかし、そうやって社会に馴染んで普通に生きているふりをしていると、じわじわと心が蝕まれていくような感覚があった。決して毎日が苦しいとか、仕事が大変だとか、そういうことではないのだけれど、ずっと自分に嘘を吐いて、本当の自分を心の奥底に追いやっている気がしてしまう。
自分は周囲と違う、変わった人間なんだということが、私のアイデンティティだった。ずっと漠然とした生きづらさを感じながら生きてきて、大人になんかなれないと思っていた。
それなのに、無理矢理大人にさせられたら意外に何とかなってしまっている。そのことが自分のこれまでの人生を否定しているように思えて、社会に馴染んでいくほどに、自分を裏切っている気分になるのだった。
もしかすると、自意識過剰が過ぎると笑われてしまうかもしれない。けれど自分から進んで厭世気取りの自己愛者になったのではない。その発端には、自分では制御できない周囲との「ずれ」が確かに存在していた。
私が最初に違和感を覚えたのは四歳くらいの頃だった。
母が読書家だったこともあって、幼い頃から読み聞かせをしてもらっていた私は本がとても好きだった。物心が付いて自分で物事を判断できるようになると、毎日のように母にねだって図書館に連れていってもらい、好きな本を借りてきては夢中になって読み耽っていた。
そんなある日、私が幼稚園で本を読んでいると、同級生のあみちゃんが突然声をかけてきた。
「その本知ってる! 面白いよね!」
無邪気にそう言って、私が読んでいた本を横から覗き込んできた。
たぶん彼女にしてみれば、共通の話題を見つけて嬉しくなったのだと思う。しかし、私はその言葉に驚きと動揺を隠せなかった。
――この本に書かれているのは、私だけの物語じゃないんだ。
私にとって、本というのは自分一人で楽しむものだった。
幼い頃は母に読み聞かせをしてもらうこともあったけれど、その時の母はあくまでも文字を音声化しているだけの、いわば物語側の人間だったので、その本を楽しんでいるのは自分だけだと思っていた。文字が読めるようになってからはずっと一人で黙々と本を読んできて、それを誰かと共有したり、ましてや誰かと一緒に読むなんてことは考えたこともなかった。
だから自分が読んでいたその本を彼女も読んだことがあると知ったとき、そこに書かれている物語が自分一人のものではないということに初めて気付いた。
図書館から借りた本なのだから自分以外も読んでいるのは当たり前で、そもそも世の中には同じ本が何万冊と存在している。いかに子どもだったとはいえ、少し考えればわかることだったが、何故かその瞬間までは思いも至らなかった。
「この中に出てくるワンちゃんが好きなの! ちょっと太っちょなのが、うちで飼ってるぷっちょに似ててね……」
あみちゃんは楽しそうにその本の好きなところや自分の生活との繋がりを語り始めた。それを聞かされているうちに、大切なものがどんどん汚されて、膝の上に置いた本が無価値なものへと変わっていく。
あんなに心躍った冒険も、友達との楽しい思い出も、不思議でちょっぴり怖い出来事も、どれも私だけのものではなかった。宝石のように輝いていた大好きな物語たちは、手垢で汚れたひどく陳腐な紙の束に成り下がってしまう。
その日の帰り道、母に手を引かれて家路を辿りながら、ただ茫然と自分の足元を眺めていることしかできなかった。朝は晴れていたはずの空がすっかり灰色の雲に覆われ、街中に暗く重たい影を落としている。知らない人とすれ違うのが恐ろしくて、誰かが通りかかる度にぎゅっと目を瞑った。
「今日は図書館に寄らなくていいの?」
気を遣った母の優しい言葉に、私は無言で首を横に振る。彼女はそんな私の様子を見て呆れた顔をすると、手を握り直して歩みを早めた。
家に着いて自分の部屋に入ると、まず真っ先に机の上に積まれた本の山が目に入った。今週は三連休で明日から幼稚園が休みだから、たくさん本を読めると意気込んで図書館で借りてきた本たちだった。
今日の朝まではどれから読もうかとウキウキしていたはずなのに、もはやその気持ちを全く思い出せなくなっていた。試しにパラパラと本をめくってみても、文字の上を目が滑って、塊として認識することができない。
そうやってしばらく本と無意味なにらめっこを続けているうちに、私は唐突にある妙案を思い付いた。
――そうだ。誰か他の人が読む前に、この本を無くしちゃえばいいんだ。
私は途端に嬉しくなって、ちょうど昨日読み終えていた本と本棚に刺さっていたお気に入りを何冊か手に取ると、それを抱えて部屋を飛び出した。
「どうかしたの?」
リビングへと降りてきた私を見て、母が不思議そうに声をかけてきた。私は「何でもない」と適当に誤魔化しながら、窓を開けて庭に出る。
両手に抱えていた本をドサッと地面に落とすと、父の書斎からくすねてきたライターをポケットから取り出す。そして一番上に乗っていた猫の絵本に火を近付けると、小さく弾けるような音を立てて、端から黒い焦げが広がっていくようにゆっくりと本が燃えていった。
――これでもう誰にも取られない。
私は火が燃え広がって静かに消えていく本たちを見下ろしていると、心の中に安堵が満ちていった。
「何してるの!?」
様子のおかしい私を不審に思ったのか、庭を覗きにきた母が慌てて大声を上げた。そして鍋に汲んだ水を燃える本にかけて、小さな炎はすぐさま消し止められてしまった。
「こんなことしたらダメでしょ! これ、優衣花の大切な本じゃない……」
母は怒りよりも困惑が勝っているような声で私を叱りつける。
「でも、こうしないと私のじゃなくなっちゃうから……」
「やだ、図書館の本もあるじゃないの! まったくもう……」
そのときは母もちょっとした悪戯だと思ったのか、「もうこんなことをしてはダメ」ということを諭されるだけに留まった。
でも私は何故それがいけないのかがわからなくて、その後も何度か衝動に駆られて、同じように本を燃やしてしまった。灰になって消えていく本を眺めている間だけは、心がすっと穏やかに安らいでいく気がした。
「ほんと、どうしてこんなことするの……」
回数を重ねるうちに、母の顔には困惑の色が濃くなっていった。四回目になるともう彼女は怒る気力もなくなったようで、ただ悲しそうにうなだれながら、まるで化け物を見るような恐怖の滲んだまなざしで私のことを呆然と見つめていた。
その次の日から、私の家では本を読むことが禁止になった。両親が集めていた大量の本もいつの間にかすべて処分され、当然私の本もすべて無くなっていた。物が減ってすっきりとしたはずの部屋は何故か前よりも狭く感じた。
そこで私は初めて自分と世界との間の「ずれ」に気が付いた。
理由はわからずとも、自分の中に湧き上がるこの欲望を満たすことは許されない行為なのだと、空っぽになった本棚を見て理解した。
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