貧困家庭であり、学校でも虐められている少年が、将来有望なアリスお嬢様と脳移植で入れ替わるお話

@yukinokoori

貧困家庭であり、学校でも虐められている少年が、将来有望なアリスお嬢様と脳移植で入れ替わるお話

「なぁ、お前。あの回答用紙なんて書いた?」


 クラスメイトの1人がそう隣席の奴に声を掛けた。


「あぁ、あれね。あんなの適当でしょ?馬鹿みたいだし、真剣にやってる人なんていないでしょ」


 これに受け答えた1人の少女は軽い調子に今し方終えられたアンケートに対する感想を述べた。


 其処で僕は意識を教室の喧騒から逸らして手元の文庫本へと視線を落とす。


 ─彼等の言う通りだ


 そう脳裏へと浮かぶ言葉に心中で頷いた。


 と、気持ち悪い自問自答する僕へと唐突に与えられる声がある。


「おい真咲くぅーん。またエロ本読んでんのー?ちょっと俺にも見せてくれないかなぁ?」


 その声色は関心こそ示しているものの、凡そ其処には友好的な気配が無く、如何にも相手を貶める様な意図が透けて見えた。


 無論事実無根であり、今手元にあるのはその様な類の代物ではない。


 だが声の出所は十中八九後ろの席に座る男だろう。


 これを理解して僕は、抵抗を諦める他になかった。


 何故ならば過剰な反応をすれば相手を楽しませてしまうだけであり、それで幾度も痛い目を見た経験がある為だ。


 出来るだけ同じ轍は踏みたくない。


 こういうのは嵐が過ぎ去るのを頭を低くして待つのが最善の選択だろう。


 反論などしてもそれがこの場に適した振る舞いとは到底過去を振り返れば思えない。


 そして悪意の入り混じる響きの一声に対して、便乗する者もまた存在した。


「おっ、いいねぇ、何読んでんの?見せろよ、おい」


 更に彼は、声と同時に席から立ち上がると、僕の持つ文庫本を断りもなく取り上げた。


「うっわー、これって他人と入れ替わるってやつ?キッモいの読んでんなぁ」


 そう、彼等は僕へと執拗に絡んでくる輩であり、どうやら暇を持て余している様だった。


 この様に僕を一方的に笑い物にして、話の肴としている。


 揶揄われるのも不快で一応付けていたカバーも、その抵抗も虚しく剥がされてしまったらしい。


 一時的に聞こえる周囲が嘲笑する声。


 彼等はこうしてクラスカーストでの地位を得ている。


 所謂何処にでもいるお調子者というやつだ。


 そんな者達の話題を提供している僕もまた、この小さな社会の歯車として貢献出来ているのだろうか。


 そうであれば何よりだ。


 これが妥当な落とし所というやつだろう。


 ただそれも長くは続かない。


 何故ならば風紀を取り締まる役目を負った者も、行き過ぎ無いよう注意する為に集団には必要だから。


「ちょっと其処の男子っ。今はホームルーム中だから静かにして」


 透き通った印象を受ける少女の声が、教室へと凛と響く。


 これには僕を揶揄う彼等も耳に痛い様で、相変わらず軽い調子で受け答えた。


「へいへい。俺たちは退屈なこの場を盛り上げただけだぜ。な?」


「そーだ。そーだ」


 と、言いながらも席に着いたお調子者達は、渋々といった感じで委員長の言葉には従った。


 そんな塩梅に、相変わらず変わらぬ僕の日常は過ぎてゆくと思われた。


 けれどそうではなかった。


「はいはい、一時限目はこのまま体育館に移動だから予めトイレは行っておいてねー」


 担当教師がそう教卓の前に立ち、生徒達へと促したのである。


 急遽授業内容が変わるとは今日は厄日だと思った。


 時間割通りであれば、次は僕の大好きな道徳の授業である筈だった。


 だが、一時限目は教師の言葉により無情にも露と消えた。


 この日は何故か平素とは異なり、ホームルームでの内容が一時間目にも及ぶ様なのだ。


 そうして廊下へと出た生徒達に混じり僕は、体育館へと赴いた。


 移動中に視界の端へと捉えた見慣れない制服を着た人達に内心で首を傾げながらも、特別不思議ではないと思い直した。


 昨今では国の政策が学校へと導入されることは珍しくない。


 それなら今日は公演でもしてくれるのだろう。


 これから講釈を垂れられる退屈な時間を億劫に思いながら、体育館へと足を踏み入れて整列する。


 そして同時に少なくない驚きを覚えた。


 何故なら同所へと集う生徒がそれ程に多かったからだ。


 どうやら到着は、屋内の空きを見るに僕等のクラスが最後の様だ。


 まさか全校生徒に向けての公演とは思わなかった。


 窮屈に並び、腰を落ち着けると、後は黙って始まりを待つ。


 そしてちょうど、一時限目開始の鐘が鳴る頃合いに差し掛かると、複数の足音を立てて、先程目にした制服を身に纏う者達が壇上へと現れる。


 次いでマイクを持った1人のパリッとした雰囲気の、何処か理知的な印象を受ける白衣を着た女性が切り出した。


 黒髪を腰元まで伸ばした長髪の彼女は、自分達一団を国の政策に携わる者だと名乗った。



「ねぇ、これって」


「うん、あれだよね」


 これには周囲のクラスメイトも朝のホームルームにしたアンケートが関わっているにだと気付いた様で、小声で言葉を交わしあっている。


 ヒソヒソと囁き声で普段は関心さえ見せない彼等がスマホを傍に置き、公演に好奇心を示していた。


 珍しいと思う。


 まさか平素であれば皆スマホに夢中で講演者の言葉になど耳を貸さない。


 にも関わらず今回は例外で、政策委員の方々の話に聞き入っている様子が傍目にも見て取れた。


 そしてかくいう僕もどれほどのものなのかと少なからず興味をそそられたため、手元の文庫本から顔を上げた。


 すると、壇上の女性は相変わらず淡々とした口調で言う。


 曰く、ここに集う特定の生徒達に対してはこの世に生を受けてからこれまでの人生において、無論両親の同意を得て、幾度となく検査を実施してきたとの事。


 これは政策の為の前段階であり、同時により良い社会実現に向けての一歩でもあるそうなのだ。


 政策に対しての適性を長年に渡り計測し、その中での選別を行うのだと女性は語る。


 少し荒唐無稽に過ぎるのではないかと僕は思う。


 けれど説明されている内に司会者の真剣な口調に影響されてか、段々と真実味がある話に思えてくるのだから不思議だった。


「え〜、なんかすごいね」


「うん、マジでヤバくね」


 当然周囲の生徒も興奮した様に、文字通り瞳を丸くして各々会話を繰り広げていた。


 そんな最中呆然としている僕達に司会者の女性は宣言した。


「しかしその試みも漸く本日を持って身を結び、今回はその旨を伝え、これまでの感謝をこの場を借りて皆様に捧げます」


 独特な言い回しだったが、そのまま彼女は深々と頭を下げた。


「以上です」


 次いでくるりと踵を返した女性は、どうぞ帰ってください用済みです、とでも言わんばりの態度で壇上から降りていった。


 突然生徒の興味を唆る話をしたかと思えば、一時間と関わらず終えられたその話に、場は熱を持て余した。


 一体何だったのか。


 まるで嵐の様に来て去っていく女性の後ろ姿を見て、この場に居合わせている人々はやはり上手く言い表せない消化不良を感じているみたいだ。


 その証左として少なくない不満の声が挙がっている。


「は?マジで意味わかんねー。結局何だった訳?」


「どうせあれだろ?企業秘密です。みたいな?」


 そんな大勢の声も聞こえている筈だが司会の女性は歯牙にも掛けずに何処吹く風といった塩梅だ。


 だが、不平を漏らす彼等も内心では、その政策とやらも皆自分には関係の無い事だと疑わない。


 所詮国の方針など、一介の学生が考えた所で何が変わる訳でもないのだから当たり前だ。


 意識を高く持ったとて、栓なき事に相違ないのだから。


 故に司会の女性の姿が完全に見えなくなり、校長先生が礼の言葉を述べた所で、僕の日常は再び動き出した。


 解散の言葉と同時、周囲の人々の口からは今し方に行われた公演の内容が語られた。


 聞いていると、考察する者や嘲笑する者、或いはこれに対して意義を抱く者など様々だった。


 もしくはこれとは全く無関係の話をする者も中には居た。


 とはいえ今日はこの話題が生徒達の間で肴とされるに違いない。


 そう思って僕は同体育館に備え付けられているトイレに向かった。


 ここで皆と同じ様に外に出れば人混みに押されてしまう。


 それは避けたかった。


 だから特に尿意も無いのに個室へと入り、鍵を掛けた。


 中で制服の裏に隠している文庫本を広げると暫くの間待つ。


 外からの喧騒が次第に収まっていくのを感じ取り、完全に音が消えるのを確認して外に出た。


 そうしたら誰かが扉の前に居るのに気付いた。


 不意に頭に過ぎるのは、人と対面するの事への不快感と、単純に嫌だな、という感情である。


 けれど今更戻るのは流石に不審すぎる。


 意を決してここはそのまま正々堂々と戸を押し開いた。


 そして一枚の扉の隔てた向こう側、その廊下に出た瞬間─



「真咲 聖様ですね。貴方は政策の被験者に選ばれました。おめでとう御座います」


 見覚えのある、先程に壇上で司会をしていた黒髪長髪の女性が、怜悧な無表情で僕にそう言った。


 しかし思考があまりに唐突であったせいか、与えられた言葉に対しての理解に及ばずに纏まらなかった。


 突然の予期しない対応からか、普段から読書をしている癖に肝心な所で言葉は何も浮かんでこない。


 そんな下らない考えが脳裏を一瞬だけ過ったが、それも次の瞬間には露と消えた。


 驚愕の為思考が滞り、何事かを返すべく意識的に努力した。


 そう思いながら受け答えようにも、言葉は喉に詰まり、口には出来なかった。


 だがすぐさま返答を出来ない僕に対して、女性は怜悧な、そして至極理知的な瞳で、依然として此方を真正面から見据えていたのであった。





「おめでとうございます真咲 聖様。貴方の適正は被験者の中で誰よりも突出して、非常に高い数値が示されました」


 至極事務的な口調で彼女はそう言った。


 そしてこの場には彼女以外にも外部の者が居合わせていた。


 女性の背後にはまるで控える様にして、複数人の男性が佇んでいる。


 彼等に表情は無く、圧が感じられた。



「えっと‥どう言う事でしょうか?」


「えぇ、極めて異例であり、貴方を除きこの政策における被験者は他に居ないと私達は確信を抱いています」


 私達というのは彼女の言う所の政策者という事だろうか。


 ─つまりは研究者


「申し訳ございません。詳細はここではまだお話しする事が憚られますので、御返事はまた次の機会に伺いに参ります。どうかご協力をお願い致します」


「‥‥わかりました」


 だが突然の事で混乱しながらも次第、脳裏へとその言葉が浮かんだ次の瞬間には、眼前の女性は此方に向けて頭を下げていた。


 それから彼女は一言失礼しますと礼を払うとと共に踵を返した。


 すると傍らの男達も特別何か促される訳でもなく、それに追随した。


 そして一人取り残された所で、再び心の平穏が戻る。


 妙に緊張してしまい、息を詰めていた為漸く呼気が落ち着いた。


 暫くその場に留まり、それから教室へと向かった。


 クラスメイトは既に皆が席に着いていて、僅かに戻るのが遅れて気恥ずかしい。


 とはいえ日々の送る日常の逸脱はこれ以上は無く、時刻は無事に迎えた放課後となる。


 クラスメイトの談笑を交わす声の喧騒の中で鞄を背負う。


 平素通り無言で教室を出て、真っ直ぐに家へと帰宅する。


 だが驚くべき事に、庭を隔てた路肩には大きな黒色の車が停車されていた。


 そして玄関を開けると家中には複数の人の気配が感じられた。


 家族以外の見た事が無い靴もあり、恐らくは例の政策の件に関して話に来たのだろう事が予想出来た。


「お邪魔しております」


「‥こんにちは」


 案の定リビングには家族と共に学校で見た女性が居た。


 彼女は今朝とは異なり黒色のスーツを着ていた。



 他にも複数の同様の装いをした者達が居合わせていた。


 異様な雰囲気だった。


 だが特別呼び止められる事も無く、再び僕の家族との話し合いに彼等は興じた。


 だから取り敢えず落ち着く為、自らの部屋に鞄を置きにこの場を離れた。


 階段を登る途中で朝に話された政策の内容に頭を巡らせる。


 国からの政策は任意な所があるものの、基本何か事情がない限りは拒否できない。


 表向きの建前では任意で、善意での協力を求める。


 それは周知の事実であり、世間の人々も既知が故に安易に非協力な姿勢は示さない。


 社会的な制裁は誰しも受けたくない。


 それは当然だ。


 けれどもまさか自分がその対象になるなどとは到底夢にも思わない。


 だからこそ動揺してしまうのもまた致し方無いのではなかろうか。


 自らの部屋へと入るとベッドに鞄を投げ置き、卓上のPCで政策について調べた。


 公式のホームページを開くと、その内容を読み込んだがやはり政策の内容は上部のみ記載されていた。


 抽象的というよりかは曖昧と称するのが妥当だろうか。


 ただ、より良い社会を築く為との文言が強調されていた。


 要するに彼等曰く、国の政策に従わなければどうなっても保証はしないとの旨が、無論直接的では無いものの、言外に匂わされている。


 日々の授業でも習ったが改めて調べざるを得ないのでは、前者に比べて後者に感じられる恐怖は雲泥の差である。


 と、その様な事を考えているのも束の間、不意に部屋の扉越しに声が与えられた。


「聖、あの人達、話があるみたいだから下来てね」


 木製の板を隔てた向こう側に人の気配が感じられる。


 恐らくは妹だろう。


 声色から渋々彼女も話し合いに立ち会っているのが窺える。


 家族全員が必要な、それ程重大な事柄なのだろう。


「わかった」


 一言返事をして、パソコンの電源を落とすと、腰を落ち着けていた椅子から立ち上がる。


 そして妹の背を追う様にして階段を下った。


 階下には思わず部屋に入るのが躊躇われるまでの重苦しい雰囲気が漂っていた。


 その理由は明白であり、件の女性が醸し出す圧が緊張感を生んでいるのだ。


「では、此方にサインを」


 彼女は淡々とした口調でそう言った。


 その声は妙に同所へと響いては聞こえた。


 これに対して言葉を与えられた父母は頷くと、無言でペンを取り、一枚の紙切れに了承の意を示したのであった。




 *



 それからはもう怒涛の勢いで、目まぐるしく物事は運ばれていった。


 まるで流れる様な動作で僕を外へと促した国の政策委員の女性は、更に外へと停められている車内へと案内された。


 どうやら車内はスモークが張られていて、外部から覗き見る事は出来ない仕様になっている事が乗車する際に確認出来た。


 車のシートへと腰を落ち着けてから女性の説明を受けて、その内容を理解した途端否が応にも絶句した。


 とてもではないがそれの意味を咀嚼して空いた口が塞がらなかった。


 何故ならばその政策の詳細が今の僕自身の立場全てを捨てるのと同義であるとの内容であったが所以。


 到底認められる様な話では無かった為である。


「幸いにも聖様のご両親、そして妹様、弟様、御兄弟の皆様には大変快く受け入れて貰えました。これにおかれましては契約に基づき、我々からも補償を提供させて頂きますので、どうかご安心くださいませ」


 だが此方の思考をまるで掻き乱す様にして、眼前の女性は続けた。


「まさか‥そんな‥父と母が‥」


「聖様」


 思わず口とした嘆きに対して、それを正確に読み取り彼女は再び冷たい声色で言い放つ。


「私の言葉に嘘偽りは御座いません」


 そしてこの一言を最後に再び車内には沈黙が訪れて、静寂に包み込まれた。


 だが思いがけないショックに身を苛まれている此方を他所に、再度言葉は続けられた。


「無論、聖様にも充分な補償はさせて頂きますので、それでも尚ご納得頂けない様であればどうぞ何なりとご用件をお申し立てください」


 粛々と彼女は義務を果たすかの如く、そう言い含める様に立て続けに言葉はもたらされた。


 否が応にもその言葉は耳に入り、脳裏で反響する。


「もう僕には要求を呑むしか無いんですか?」


「それは聖様、貴方が決める事です。あくまで任意ですので。しかしながら我々はより良い社会実現の為、善意の元で活動しています。どうか理解を得られる事を願っています」


 断ろうとの自暴自棄が浮かぶも、口とした言葉をあえなく一蹴されてしまった。


 けれど彼女の声色はあまりに真摯でいて、一切の揺らぎがない。


 拒否しようにも思わず二の句が告げなかった。


 それなら─


「あの‥猫を、猫を保護して頂けませんか」


「猫‥ですか?」


 先程言われた申立てを早速叶えて貰うべく次の瞬間には声を挙げていた。


 この望みに対して、女性は怪訝な面持ちで首を傾げた。


 艶やかな黒髪がサラリと横に流れて頬を隠す。


「‥なる程。ええ。構いません。普段から聖様が可愛がられているアメリカンショートヘアーと日本の混血種でよろしいでしょうか?」


 しかしすぐさま合点がいったとでも言わんばかりに姿勢を正す。


 すると特別教えたわけでもないのにも関わらず、彼女は一つの携帯端末を取り出すと、僕に確認を取って、何処かへと連絡した。


「失礼致します」


 そう言葉を残し、何事かのやり取りの後、一分と掛からずにその電話は終えられた。


「聖様の要求は今、確かに叶えられました」


「えっとそれはどういう‥」


 あまりに目まぐるしく動く物事に上手くついていけなかった。


 だから困惑頻りな自身でも理解出来る様な情けのない声色で、そう問い返す事しか出来ない。


 その様な塩梅に更なる疑問を口としようとしている所に、今度は携帯端末の着信音がこの場へと鳴り響いた。


 これに眼前の彼女は再び失礼致します、と礼を払うと共に、端末を手に取った。


 そして画面を此方へと差し出してきた。


 次いで思わず視線を向けた先の液晶には、よく見知った猫の姿が映し出されていた。


 広い一室の中、充分な餌と水を与えられて、心地よさげに眠っていた。


「聖様のお申立てを果たさせて頂きました。無論一時的ではなく、聖様の意向の有無により保護は継続されます」


 次いで与えられた声に画面から顔を挙げると、変わらぬ無機質な表情でそう言われた。


「‥どうもありがとうございます」


 以前から学校の帰り道などで見掛けていた野良猫だった。


 けれどうちは貧乏だから保護も出来なかった。


 だが人間機会を与えられれば感情が我儘を突き通してしまう。


 その礼に漏れず自身もそうして、気が付けば望みを口走っていた。


「聖様、どうか貴方の答えを聞かせては頂けないでしょうか?」


 そして内心では自身が成した偽善に自嘲する僕へと言葉が投げ掛けられる。


 有無を言わせぬその物言いで、最早頷かざるを得ない様な感覚に苛まれた。


「あの本当に、具体的に何をするか、どんな処置を受けるかなどを知る事は出来ないのでしょうか?」


 だから自らの勇気を奮い立たせる為、思わずそう聞いていた。


 政策を受けるにあたっては当然の疑問だろう。


 何故ならば先程に説明を受けたとはいえ、酷く曖昧な物言いで抽象的なより良い社会実現の為の計画を一方的に語られたのみである。


 僕自身が一体どの様な処置を受ける、何をするかなどの詳細は一切教えられなかった。


 薬物投与の治験か、或いは思考実験の類いであるのか、何も知らされていない僕には凡そ検討が付かない。


「はい。被験者には一切何も知らぬ状態の、白紙の元で政策を受けて頂きます。それ自体に意味がある実験ですので」


 だが此方の心中に渦巻く疑問と不安を恐らくは見透かした上で敢えて彼女はそう受け答えた。


 当然緊張から定まらない思考で重ねた両手を思わず揉みほぐしながら視線を彷徨わせている者の胸中など、酷く知るに容易いに違いないだろう。


 意識的に僕は自らを客観視する様にして俯瞰すると共に、一度落ち着くべく深く呼吸した。


 するとこれを狙っていたのだとでも言わんばかりにある程度平静を取り戻した僕へと、およそ眼前の女性が口としたとは思えない様な柔らかな声が与えられた。


「ただ、被験者が痛みを感じる事や、障害などを負われるケースは一切ありません。そして無論、命の保障もさせて頂きます。予めこれを御約束致します」


 次いで語られた至れり尽くせりな内容を耳としては現在の状況的にも断れる訳もなく、否が応にも二者択一の選択は迫られていた。


「聖様の要望におかれましては、あらゆる万全を果たさせて頂く所存に御座います。如何でしょうか?」


 否、家族を懐柔されて外堀を埋められた挙句、これに加えて、此方の唯一の要求までをも電話一つで先程ものの数秒で容易く叶えられてしまった。


 その上、やはり国が振り翳す強権を前としては、虚しくも抵抗など意味は無く、不毛な悪足掻きでしか無かった事実を理解させられた。


 莫大な補償やその権力からもたらされる力を前としては最早選択の余地はない。


 僕は不意に眼前の女性の怜悧な瞳を見据えた。


 互いの視線を交錯させて尚も、眼前の彼女は顔を逸らす事も無く延々と僕を捉え続けていた。


 漆黒の、揺らぎの無い理知的な理性の輝きが宿る瞳が此方を怜悧に射抜いた。


 自らの性格や日々の生活や習慣など何から何まで全てが見透かされていると思い知らされて、心底から可笑しな話だったが、それで漸く覚悟が決まった。


 だから、言葉を絞り出すかの如く、しかしながらはっきりとした返答を今までになく、鮮明に口とする事が叶う。


「僕は─」




 暗闇から徐々に意識が浮上する。


 次第に鮮明となってゆく感覚があり、閉じていた瞼は自ずと開かれた。


 目覚めたのを、何処か霧がかかった様な頭で漸く確認した。


 自身でも急激に焦点を結んでゆくのが、ぼやけた視界から徐々に鮮明になっていく情景により理解出来た。


 ─ここは


 車の中で唐突な眠気に襲われて、寝てしまったのだろうか。


 やはり意識が途切れたのは車内であり、最後の記憶はサインを促された後。


 自らの了承の意を示し、そして例の女性から何かを言われた様な気がする。


 けれども幾ら考えた所でその言葉は一切思い出せなかった。


 駄目だった。


 果たして本当に睡魔に襲われただけで、これ程までに記憶障害を起こしたと称して差し支えない症状になると言うのだろうか。


 ─嫌、まさかそんな筈


 否、そもそもたかが眠気に抗えないなど前提からして可笑しな話である。


 本来であればそのまま人前で、加えて話しているのに意識を手放すなどあり得ないし、あってはならない事だ。


 増してやナルコレプシーでも無いのにこの様な状態に陥るなど、途端に底知れぬ恐怖に苛まれた。


 だがそれ以上に不快な感触に否が応にも思わず瞳を見開いてしまう。


 それが自覚出来た。


 そう、股関の辺りが濡れているのを感じたのだ。


 信じたくは無いが、その冷たい感触は鮮明に肌へと張り付いていた。


 つまりこの歳になって粗相をしたのかという醜態に思い至り、自分自身を呪いたくなった。


 濡れている衣服が既に冷え切ってしまっているのだろう。


 酷く心地の悪い思いを得た。


 そうして呆然と、暫くの間その場に留まっていると、自分がベッドの上に身を置いているのに及びがついた。


 すると平素から見慣れた部屋では無いのに気が付いた。


 視線を広々とした室内に巡らせるとやはり知らない間取りになっていた。


 否、ここまで大きな所謂天蓋付きのベッドとでも称するべきだろうか。


 その様な代物、本来であれば自室にあるはずが無いのだ。


 思わず苛まれる緊張からか自然と腰を浮かせかけていた。


 すると次の瞬間には立ち上がると、否が応にもあり得ない違和感を突きつけられた。


 目線が低く、視界へと映る景色に気持ち悪さを覚えた。


「え‥」


 思いがけない感覚に苛まれ、自ずと喉の奥から声が漏れた。


 そしてこれが更なる驚愕を生み出した。


 今し方まで考えていた事柄全てがどうでも良くなる程に頭が混乱した。


 それ以外何も考えられなくなる。


「え‥?え‥?どういう事?」


 妙に可愛らしい高い声が耳たぶを打つ。


 心臓の鼓動がドクンドクンと脳裏へとその音を伝えているのが自分でも分かる。


 取り乱しているせいか定まらない視線は四方八方を彷徨う。


 だから次いで視界が収束して、捉えた大きな姿見に映る自身の姿を目の当たりとして衝撃を受けた。


 焦点はあまりの驚きからかその場に留まり、文字通り頭が真っ白になった。


 何も考えられずに思わず鏡面を注視する。


「う‥そ‥」


 反射的に口とした自分の言葉は、痛いほど震えていて、やはりその声質は明確な少女の響きだった。


 それも今眼前の姿見に映る外見に相反する事なく、年齢相応に幼い子供の声。


 信じられないその光景に対して自ずと手を伸ばす。


 幻覚では無い。


 その証左として、鏡面のひんやりとした冷たさが小さな手のひらへと伝わるだけだった。


 夢にしてはあまりに異常な程、触覚が現実的に過ぎる。


 気が付けば自然、衝動が赴くがままに姿見の中の少女の頬に触れていた。


 顔立ちは子供でありながら素晴らしく整っていて、瞳はぱっちりと大きく可愛らしく、対して鼻筋も通っている。


 何よりも目立つ金色の長髪は触れずとも見れば理解出来るほどに艶やかで、サラサラと頬に掛かった。


 まるでお人形の様な容姿で、極めて可憐である。


 唇もみずみずしい薄桃色に血色も良く、傍目にも色白の肌に良く映える。


 酷く綺麗な少女だ。


 大変美しい。


 幼いながらもその年齢に反した色香もある様で、成長を遂げればさぞかし美人になるのだろう事が容易に理解出来る。


 だからこそ、信じられなかった。


「何だ‥これ‥」


 あり得ないと思うと同時に、けれどもこれは認め難い歴とした事実なのだと、脳裏の片隅で警笛が鳴り響くのもまた聞こえた。


 つまりはこれがあの女性が言っていた政策の一部、要するに実験の類という事なのだろうか。


 そんな思考を巡らせていると、不意に声が聞こえてきた。


「アリス、ご飯が出来たよ。今日は家政婦さんは居ないけれど、一人で起きれるかい?大丈夫かな?」


 それは優しげな物言いながらも、酷く威厳の感じられる、声だった。


 思わずびくりと身体を震わせて、部屋の扉を凝視した。


 恐らくそれを隔てた向こう側に声の主は佇んでいるのだろう。


 咄嗟の事で受け答える事が出来ず、パクパクと口が動くのみだった。


「アリス?このままだと学校に遅れてしまうよ。パパが中に入っても構わないかい?」


「まっ、まって!」


 だが次いでノックの音と共に扉が開け放たれようとしたすんでの所で如何にか大声で静止の言葉を言う事が出来たのであった。


 そして取り繕うべくして漸く声が出た。


「ご、ごめんなさい、パパ。あのね、今行くからまっててほしいの」


 その声色は自分が発した言葉では無い様な、まるで温かいホットミルクにたっぷりと砂糖でも流し込んだかの如き、甘ったるい響きが感じられた。


「ああ。わかったよ。それじゃあ待ってるからね」


 だが驚愕とは裏腹に、演技で上手く誤魔化せた様で、踵を返してこの場を徐々に離れていく足音が聞こえた。


 ─靴の音?


 屋外でも無いというのに、やはり違和感を隠せない。


 否、それよりも現状を如何にか乗り切らなくてはならない。


 まずは政策委員の方と連絡を取りたかった。


 けれど室内に携帯電話なども見つからず、それも当然かもしれない。


 どうやらこの部屋の持ち主の年齢は未だ幼く、同所には固定電話すらも無い。


 だが必ず家の中の何処かにはある筈で、第一の目的としては、件の女性との連絡を繋ぐ事を目標として定めた。


 だから一旦思考を巡らせてから今も切迫した状態である事に漸く気が付いた。


 そうだ。


 先程父親と思しき男性が呼びに来たのではないか。


 それなら早く行かないと何かあったのかと怪しまれてしまう。


 下着の冷えなど、この際は二の次である。


 今はそれ以外に優先すべき事柄が山程存在していた。


 そう、全ては此方の正体が仮に看破される様な事態になれば、その時は全てが終いであるのだから。


 もしも今の状態で中身が露呈すれば、最悪な結末を迎えるだろう事は想像に難く無い。


 そんな結末を招くのは、自身も政策に関わっている立場な以上本意では無いし、それだけは如何にかして避けたい所だった。


 幸いにしてまだ見破られてはいない様で、演技で騙し通す猶予はある。


 先程も特別自身の振る舞いに対して、言及される事は無かった。


 或いはもしかすればだが、この付け焼き刃な素人甚だしい演技でも、成り済ますだけの余地はあるのかも知れない。


 だからこそすぐさま傍らに綺麗に揃えて置いてある、ピンク色のサンダルを履くと、部屋の扉を押し開けた。


 筋力が無いせいか妙に重たい。


 すると次の瞬間には驚愕していた。


 何故ならば眼前に映る景色はあまりにも現実離れしていた為である。


 なんと、たかが廊下如きが物凄く広い造りをしていたのだ。


 それが奥まった角の突き当たり、其処は自分が今佇む位置から凡そ距離にして人が20人程は寝そべる事が叶う空間だった。


 それ程までに長い廊下に加えて豪奢だが品のある装飾に施された広く高い天井が続いていたのだ。


 とてもではないが予期しない光景を目の当たりとしたのだから息を呑んでも致し方無いだろう。


 相当に名が知れた名家か、或いは富豪であるに違いない。


 だがこれ程の資産家の娘であれば、先程の父親の家政婦という言葉も腑に落ちた。


 そう納得して手探りに廊下を歩んでいくと、人の気配が感じられた。


 談笑を交わす声が広い空間に響いてくる。


「アリスちゃん、遅いですね。何かあったのでしょうか?」


「はは、まさか。彼女はまだまだ子供なんだ。初めて一人で起きると言い出してまだ初日だし仕方がないじゃないか」


 声の主は男女二人だった。


 片方は女性で、もう一方は先程声を掛けてきた父親と思しき男性だった。


 あまりに広い、恐らくは大理石とでも言うのだろう代物で誂えられた食堂で、彼等は食事を摂っていた。


 傍らには控える様にして召使いと思しき装いの者が控えている。


 だだっ広いこの空間からは、青空と共に思わず魅入ってしまう程の広大な景色が見えた。


 もしかしたらこの屋敷は山奥、それも相当な秘所地にあるのやも知れない。


 まるで下々の民家などを見下す様に、この家は位置していた。


「あのね‥パパ‥」


 そして二人の人物を前として自らの振る舞いに確信が持てない為、これには安全策を取った。


 粗相をした下半身を両手で隠す様にして抑え、目を伏せて声を掛けた。


 いずれにしても下着が濡れてしまっているのは事実である。


 加えてその粗相が今自身の着ている衣服のドロワーズにも染みているのは、傍目にも理解出来るだろう。


 ならばこの機会を利用して、子供らしいアピールをするというのもまた、選択の内の一つに違い無い。


 すると此方の心中など知る由も無いだろう彼等は、特段違和感を抱いた様な素振りも無く、笑顔で頷いて見せた。


「偉いじゃいないか。一人で起きれたなんて。これはお祝いをしなくてはいけないね」


「もう‥。あなたったら‥、大袈裟なんですから」


 他人の身体で他人の両親から叱られるという意味不明な事態を覚悟しての苦肉の策であったが、逆に褒められてしまうとは思わなかった。


 此方の呼びかけに初めに応じたのは父親の方で、目覚めたばかりの折は壁を挟んでの対応であったが故に、その容姿は確認できなかった。


 だが自分は今賭けに勝ち、予想は的中した。


 仮に目覚めてすぐの際、自身に与えられた声が別人からであったのならば非常に危うかった。


 何故ならばもしも予想が外れていたならばの話ではあるが、実の父親を実の娘が間違えたという意味不明な事態になっていたに相違ないからだ。


 そうなったら本当にどう言い訳をしようかと思った。


 取り繕うにも限度というものがあるのをゆめゆめ忘れてはならない。


 そう自らに教訓として言い聞かせた。


 けれどもこうして実際に対面してみると、この身体の父親であるという事実には頷かざるを得ないだろう。


 知らずともこの身体の容姿との血縁関係を連想させるくらいには傍目にも理解出来る程に、眼前の二人の男女の容姿は極めて美しい。


 娘のアリスという少女に負けず劣らずに整った顔立ちをしている。


 加えて一見しただけで母親であると理解出来てしまう女性も例外ではなく、ただ此方は娘とは少しばかり勝手が異なる。


 その容姿はアリスの可憐な顔立ちとは違い、絶世の美と表現するのが良く似合う女性だった。


 これはそう称するのが一番適切に違い無い。


 いずれも堀が深い容姿から、その人種が日本人では無い事実を改めて思い知らされた。


 けれど唯一疑問なのは何故敢えて日本語を使っているのかは首を傾げざるを得ない。


 もしかすれば何か事情があるのやも知れない。


 否、窓から覗ける景色からここが鮮明に国外では無くて、日本だと理解出来る。


 だからだろうか。


 ─良かった


 まさか何処とも知らない国に連れてこられてしまったのでは無いかと思ったが、一応は現在地が日本である事実に今更ながらホット胸を撫で下ろす。


 その様な塩梅に状況を確認して落ち着いていると、不意に父親と思しき彼は言った。


「ほら、どうしたんだい。そんな所に居ないでこっちに来て一緒に朝食を摂ろうじゃないか」


 やはり日本語だ。


 何かしら英才教育でも施されているのか、果たして聞くわけにもいかないし真相は分からない。


 ただこの場で取るべき正しい振る舞いとはただ一つ。


 それは起きて間もない、少なからず未だぼんやりとした頭でも鮮明に理解出来た。


「はぁい、パパ。わかったわ」


 ここは子供らしく、先程の対応を鑑みるに、まるで甘える様な演技で慎重に振る舞い必要性があるのを知った。


 だからこうして受けた言葉にも素直に従って見せるのがこの場においては最善の選択だろう。


 不自然ではない様に子供らしさを装い、促されるがままに、彼の隣席へと着席する。


 そして不意に、思いがけない突然の憂鬱に苛まれた。


 これからは元の身体に戻る為、万全を期して慎重に振る舞わなければならない。


 それを叶える為、自身の一挙手一投足に生命線が掛かっているのだと思うと酷く先が思いやられた。


 更にはこの憂いさえ次第に脳裏の片隅へと追いやられて、今度は違う思考が浮かんでくる。


 やはり平素とは異なり何かが違う違和感が生じているのは間違いではなかった。


 情緒の起伏が大変激しく、すぐさま冷静さを取り戻して、平静にならなくてはならない。


 この酷い感情の乱れは、恐らくこの身体特有の生理現象であるに相違ない。


 だから一度落ち着くべくして、傍目には分からない様に深く息を吐いた。


 子供特有の脈絡の無い考えに衝動的に至り、思わず口に出してしまいそうになるのを如何にか抑えた。


 迂闊に思考を口に出すのは現状では流石に憚られる。


 それをしてはいずれ何かボロが出てしまうだろうから。


 もしかすれば肉体年齢に少なからずともこの自身の精神さえ引きずられているのかもしれない。


 まさか幼児退行などという、一番至りたく無い状態は流石に起こしたくは無かった。


 想像するだに恐ろしい話である。


 そういえば遅ればせながらに今更気付いた事だったが、心臓の鼓動に一番精神が影響されている様な感覚がある。


 これが原因なのかは専門家では無い自身には分からないが、否が応にもそう思わずにはいられない程、その確信を得ていた。


 その様なあまりに悍ましく、思わず目を逸らしたくなる様な可能性さえも、現状がはっきりしない今では存在した。


 だからこそ口を引き結び沈黙を貫く事こそが吉と見た。


 そう結論を下した。


 それから心中でこの様な不可解な現象に対して嘆くと共に、この先の自らの身の振り方に思いを馳せたのであった。




 突如としてアリスという少女となってしまった聖は今現在、窮地に立たされていた。


「アリスちゃん良いかしら?学校では関わる人をちゃんと選ばなくてはならないわ。そうね‥まずこの子とこの子はダメね。育ちが─」


「クリス、あまりアリスにそういう事は言わなくていいんじゃ無いかな?まだそういうのが分からない年頃だし、早いと思うよ」


 何故ならば今し方にも語られる通り、アリスの父母は互いの意見を白熱させていたが為である。


 その原因は偏にアリスの教育方針についてであるのだが、本人を他所に会話は続けられていた。


「ダメよルイス。貴方は相変わらずアリスに甘いのね。けれどそれでこの子が変な事を覚えてしまったらどうするのかしら?」


「まさか‥アリスに限ってそんな事はあり得ないさ」


 どうやら人間関係の取捨選択について話しているらしい。


 それは分からない振りをして傍目に聞いているアリスには理解出来た。


 その依代たる身体こそアリスではあるが、中身は真咲 聖である為、知識は肉体年齢に反して、それを凌駕するだけの蓄積を有している。


 クリームシチューと厚切りの上品な食感のパン生地へとジャムを塗り、口へと運ぶアリスは、内心で思う。


 ─件の政策委員の女性への連絡先がわからない‥


 そう彼女もとい彼は、先程の自らが考えていた浅はかな策に対して、肝心な要素を見落としていた。


 そもそも相手の連絡先を知らなければ電話は繋がらないというのを混乱もあってかすっかり失念していたのである。


 それはただ一筋の絶望の中の光明にして、希望にしていたに違い無い唯一の頼みの綱。


 それが自身でも予期しない過ちから途中で梯子を外された形となる。


 自業自得と言われてしまえばそれまでだが、これまでの波瀾万丈な経緯を鑑みるに、それはあまりに酷というものだろう。

 

 とはいえ改めて思い返すとアリスは情けない自身への不甲斐なさと、朝の粗相から濡れた下着の張り付く感覚が未だ肌に触れて、不快感からか涙が溢れる。


 その宝石の如き碧眼が輝きに揺れたかと思えば、大粒の涙が眦へと溜められた。


 如何にかして堪えようと必死であったが、アリスの肉体は聖の意思に反して頬へと雫を伝わせた。


 元の肉体に戻れない不安が身体中に駆け巡り、その小さな身に余るストレスからかポロポロと涙が落ちた。


 自ずと食事をしていた手が留まり、顔を覆う為スプーンを卓上へと置いた。


 その音から漸くアリスの異変に気が付いたルイスとクリスの父母二人は少なからず慌てた様子で瞠目した。


「アリスちゃん?どうしたの?また何処か痛いの?」


 クリスは酷く取り乱すと、その柔らかな美貌を緊張させて椅子から立ち上がる。


「大丈夫かいアリス?お医者様を呼ぼうか?」


 そんなアリスの両親の内、比較的に落ち着き払っているルイスは携帯端末を懐から取り出した。


「ううん‥ちがうの‥だいじょうぶ」


 けれど自身の醜態を悟る聖は、まるで早鐘でも打つかの如き脈動を示す心臓の鼓動を如何にか抑えるべくして苦心していた。


 頭ではすぐさま泣き止むべきだと理解しているにも関わらず、依然として身体がそれを拒むかの様に従わない。


 聖の内心に反してアリスの肉体は、感情の起伏を大袈裟に表現するのをやめなかった。


 無論其処には聖の自我のみがあり、他の何者をも干渉を許さない。


 ただ、肉体に精神年齢が引っ張られているという事実だけは、歴とした枷となり聖を心の牢獄へと囚えていた。


「そう‥。それならどうして泣いているのかしら?もしかして私達が何かしてしまったの?」


「こら、クリス。そんな風に質問攻めをしてはいけないよ。アリスも困ってしまうだろう」


 だがそのアリスの心中を両親が知る筈も無い。


 だから前者を一方的後者が心配する時間が暫くの間続いた。


 そして数分の後に漸くある程度落ち着きを取り戻したアリスは浅い呼吸を深くすると共に、両手で覆っていた顔を挙げる。


 早朝の陽光に照らされて、涙に濡れた彼女の瞳と金色の髪は酷く艶やかな光が輝いて見えた。


「うぅ‥」


 とはいえ未だに元の身体へと戻りたい聖は、未練をその心中へと刻まれていた。


 それは禍根となり、より一層アリスの情緒を不安定にしている。


「もう‥どうしたのかしら‥。もしかして学校でいじめられているの?もしそうなら私達に隠さず言っていいのよ」


「ちがうの‥」


「なら一体どうしたっていうんだい?教えてくれないか?」


 無論その様なアリスの胸中などやはり知る由も無いクリスとルイスは相変わらず気遣わしげな面持ちを露わとしていた。


「そうね‥。それなら悩み事かしら?もしもそうなら気づいてあげられなくてごめんなさい」


「‥」


 だが幾度問い掛けられようともアリスの中の聖には真実を話す事は出来ない。


 またそれを悟られる様な事はあってはならないのだ。


 故に迂闊な返答を憚られる為、アリスはこの場を自然に治めるべくして動いた。


 思いがけぬ失態を犯した自らに羞恥を感じてしまう。


 そんな黙りこくったアリスを前にして、母親であるクリスは言う。


「分かったわ。それなら学校をお休みしましょう。あなた、今日は私達もアリスちゃんと一緒に居てあげましょう?」


 その声色からは、言葉を聞いた者の心を充分に解きほぐし、安心させるだけの暖かみが感じられた。


 これを受けて、アリスの凍り付いていた心は途端に氷解していくかの如く、心地の良い感覚を得た。


「ああ、勿論さ。丁度気分転換に、休暇でも取りたいと思っていた所だったんだ」


 そう続いてクリスへと鷹揚に頷きを返して肯定の意を示すルイスの声色は深刻にならない様、明るい調子が含まれている。


 己の妻であるクリスとアリスに対する暖かな気遣いが傍目にも大いに感じられた。


 それと同時、彼は爽やかな笑みを浮かべてアリスの頭を撫でた。


 これに対して思わぬ方向へと話が進んでしまった現状を目の当たりに、アリスはしかし再び自らの身体が反応したのが感じられた。


 心臓の鼓動が早まり、まるで両親の言葉に喜びを覚えている様だ。


 特に父親であるルイスに頭を撫でられた際に感じた、彼の逞しくて大きな無骨な掌に触れてそれがより顕著になった。


 それは現在アリスの中身である聖の本意では無かったが、自ずと気付けば次の瞬間には涙は完全に止まっていた。


 先程まで苛まれていた不安は既に無く、子供の身体とは至極現金な性質があるのを改めて理解した。


「うん。パパ、ママ。ありがとう」


 だからこの流れに身を任せるのを選択した聖はアリスの口を動かして礼を言った。


 その際に両親を上目遣いで見上げるのは元からのアリスの身体の癖なのだろう。


 自ずとそう立ち振る舞っていた。


 応じてこれを前にしたクリスとルイスは感極まった様に表情を変えると、二人でアリスを抱きしめた。


「そうよね‥。最近は忙しくてあの子に任せっきりだったものね。ごめんなさいアリス。これじゃ母親失格よね‥」


「そんなことはないさ。大丈夫。今日は僕達とずっと一緒に居よう」


 次いでされるがままのアリスを気遣う言葉が与えられる。


 本来であれば自身の正体に気付かれていないとの確信をこれで得て、聖は安堵するべきである。


 ただ、アリスの演技をしていてやはり思う所があった。


 これ程までに善良な人達を騙すのに罪悪感を覚えていた。


 心の内に僅かながらの痛みを感じた。


 けれどもそれは一瞬の事で、すぐさま心臓の鼓動が早まると、今し方に心中へと生まれた不快感は露と消えたのであった。





 *





 それから暫くして、アリスは身支度をメイドの装いをした女性に任せていた。


 というのも先程にアリスの両親二人は、今日は休暇を取り、裏山に所有している土地のコテージで過ごすのを決めたのだ。


 なんでもこれにアリスを連れて行き、自然を体験させてあげたいとは、夫であるルイスの言である。


 故にされるがままに服を脱がされて、今朝方に粗相で濡れたドロワーズや下着を今、渋々ながらアリスは晒していた。


 だがそれを見ても、家政婦の女性は寧ろ柔らかな微笑みをその表情へと浮かべるのみであった。


 アリスの眼前に居る女性の容姿はこれもまた堀が深い誂えをしていて、けれどアリス達家族とは異なり此方は黒髪であった。


 セミロングの肩口までやや伸ばした艶やかな漆黒が、彼女の純白の装いに映えていた。


「アリスお嬢様?如何致しましたか?」


 アリスの母と父曰く、この女性の名前はエマというらしい。


「ううん‥なんでもないの」


 アリスは眼前に屈むエマを凝視していた瞳を逸らして、その長い睫毛を伏せた。


 恐らくはこのエマという女性とも相応に長い付き合いなのだろう事が、アリスの中に居る聖にも予想出来た。


 そうでなければ幾らアリスが可愛らしい容姿の少女だとしても、そんな彼女が粗相をした衣服に素手で触れる事などしたくは無いだろう。


 否、仮に親密であれど、他者の粗相を片付ける事など忌避感があって当然である。


 それをエマは何ら躊躇する事無く実行して見せた。


 尚且つ寧ろ微笑ましいとでも言わんばかりの素振りを露わとしていた。


 これにアリスの中の聖は途端に羞恥心を覚えてしまった。


 故に現在は顔を背けて、なるべく今されている事と同様に現実から逃避していた。


 粗相をウェットティッシュなどで拭き取られたアリスはエマに対して、遂に耐えきれずに言葉を投げ掛けた。


「へんよね‥。もうおねえさんなのに」


 なるべく子供っぽい口調で、消沈した様に語り掛けた。


「いいえ。アリスお嬢様は変ではありませんよ。確かに他の者とは異なり少々お転婆な所が多々ありますが、アリスお嬢様は立派なレディで御座います」


 するとエキゾチックな容姿に満面の笑みを浮かべて、エマはそう返してきた。


 これを受けて聖は、アリスという少女の気性はもしかしたら自分が考えているよりも荒いのかもしれないと悟る。


 次第に思い浮かぶアリスの人物像が脳裏で二転三転しながらも明確に組み上げられていく実感を、聖は覚えた。


「ほんとう?それなら、とてもうれしいわ」


 だがやはり依然として、したったらずでいて、まるで人形の様に美しい容姿の少女にはお転婆などという言葉が到底似合うとは思えない。


 寧ろその様な言葉は不似合いとすら言えるだろう。


 ただ粗相をしたのは事実であるが故に、このアリスという少女の身体は少しばかり人よりも成長が遅れているのだろうと思い至る。


 その為これに応じてその精神性の発達の面もまた、感情の起伏が激しいのではなかろうか。


 故にお転婆だとの勘違いをされていたに違い無い。


 その証左として、アリスの心臓は酷く不確定に脈打つ事が多く、これに影響されて少なからず中に居る聖も思考を乱される事が多々あるのだから。




 別荘と称して何ら差し支えないまでの大きなコテージにアリスは今、両親と加えて家政婦と共にその身を置いていた。


 時刻は丁度昼下がり。


 朝食からそれなりに時間が経ち、アリスが空腹を訴え始めた頃合いだろうか。


 昼食はルイスが所有する裏山の広大な森の私有地で、ハントに興じて仕留めた熊の肉をステーキに調理した物と相なった。


 まさかルイス自らまるで狩人であるかの様に立ち振る舞い、熊を容易く仕留めてしまうなど、アリスも想定外であった。


 散弾銃の扱いに長けているルイスは、最初襲ってきた熊などものともせずに一撃で致命傷を与えた。


 次いで逃走を試みる熊を、その一流の射撃の元に仕留めて見せたのである。


 ただ、それもものの数秒と掛からずに、殺し切るなど至難の業に違い無い。


 それを容易く成してしまうルイスは一体何者なのだろうかと傍目にもアリスの中の聖は内心で戦々恐々としていた。


 けれども熊を容易く屠った当の本人であるルイスはといえば、まるで自慢でもするかの様に誇らしげにアリスへと見せ付けてきた。


 これにはアリスも内心で苦笑する他になかった。


 とはいえ常人には出来ない事を眼前に目の当たりとしてルイスはそれを成し遂げたのもまた事実であるのには相違無い。


 故にアリスは素直な称賛の元、ルイスが望むであろう言葉を与えた。


「パパすごぉい。アリスもやってみたいわ」


 やはり舌ったらずなお陰もあるのか、特段それ程まで子供の振りをしなくとも、自ずと年齢相応の声になる。


 意識して声色を変化させるまでも無く、口調さえ幼い振りをしていればアリスの中身が聖だとは気付かれもしないに違い無い。


 そも、常人であれば自分たちの娘がまさか他人と入れ替わっているなどという荒唐無稽に過ぎる、あまりに現実離れした事実、想定さえ出来ない。


 例え違和感を覚えたとしても、それが何かに思い至る事もあるまい。


 そうアリスはその可愛らしい容貌とは裏腹に、内心の聖はこれ程までに思考を巡らせている。


「ははっ。アリスにはまだ早いかな。けどもう少し大きくなったらやってみるかい?」


 すると案の定思惑の通り、ルイスはステーキとして家政婦に先程調理させた熊肉をナイフで切り分けて、酷く嬉しそうにしていた。


 娘からの言葉に対して、どうやら照れている様子だ。


 とはいえそれも致し方無いだろう。


 何故ならばそれ程までにアリスという少女の見目は美しいのだから。


 少なくともこうしてアリスに称賛の言葉を送られてしまえば、男なら誰でも庇護欲を唆られるのであった。


 無論そうなる様、偏に聖が計算している為ではある。


 だが、類稀なるアリスの美貌はそれだけ他者に与える影響は大きい。


 例えそれが両親であれど例外では無い。


「‥もうあなたったら。冗談も程々にしてください。わたし、怒りますよ?もしもアリスちゃんのお顔に傷が付きでもしたらどうするんですか?」


 とはいえルイスの妻であるクリスはアリスの言葉に浮かれ気味な自らの夫の迂闊な言動を窘めた。


 その表情は鮮明に、まさか自身の可愛い娘に野蛮な狩人の真似事などさせられないと、雄弁に物語っていた。


 ほのかな微笑を浮かべてはいるものの、大変迫力のある面持ちを露わとしている。


「まさか。勿論冗談だよ。でも本当にクリスは心配性だね」


 だが無論ルイスとて本気言っている訳では無くそれはアリスも同様だ。


 元よりルイスは未だ幼い己の娘の言など真に受けてはいない様子で、あくまで冗談としての戯言を述べてみただけらしい。


 偶然にもアリスとルイスの考えが一致した瞬間である。


 当然ながら前者の考えている事などルイスが知る余地も無いのだが、アリスの中身が少年の聖という事も相まってか、互いに通ずる所があるのやもしれなかった。


 本来狩猟採集など嗜んでいるのは大半が男で、アリスには到底似合わない趣味嗜好に相違無いのだから。


 それに恐らくアリスは可愛らしい物を好む傾向にあるのだろうと、聖も踏んでいる。


 何故ならば自らがアリスになったばかりの時に着ていた服装が、その様な少女趣味であった為だ。


 ドロワーズなどその一番の典型だろうか。


「いいえ。子供は親の影響を強く受けるんですから、私たちも気をつけないといけないんですっ」


 するとルイスの明らかに揶揄う様な言葉に、クリスはまるで子供の如き拗ねた表情をその美貌へと浮かべて見せた。


「でもアリスは、沢山習い事もきっちりとこなしているからね。交友関係くらいはそんなに縛らなくてもいいんじゃないかな?」


 これに応じて相変わらずルイスは飄々とした調子で話題を振った。


 その食事中に反して、少しばかり重たい内容も、彼が冗談めかした振る舞いで話すと、それ程暗くならなかった。


 雰囲気も今朝よりは遥かに良く、クリスとルイスの互いの間には、柔らかな空気が流れていた。


「わたしもアリスちゃんが習い事毎日すごく頑張っている事は知ってるわ。でもね、辞めたいって言うなら止めないし、寧ろ人間関係が子供にどれだけ影響を与えるのかは、ルイス、貴方の方が私よりも多く知っているでしょう?」


 だからクリスも感情的にならずに、しかしながら切実に訴える様に理路整然とした口振りで、自らの論を展開して見せた。


 そして習い事などの初出の情報に対して異常なまでに耳をそばだてる者がこの場には居合わせている。


「あのね‥ママ。わたし‥」


 アリスだ。


 彼女の中身の聖はまさか自分の依代のアリスがそれ程までに習い事を多くしていたとは夢にも思わなかった。


 故にその可憐な面持ちへと冷や汗を掻きながら、今声を挙げたのである。


 そんなアリスの様子を見て、クリスはルイスから視線を移した。


 そして自らの娘を真正面から見据えてから小首を傾げた。


「何かしらアリスちゃん」


「その‥わたしママの言う通りにするよ」


 するとクリスを上目遣いで見上げながら、アリスは従順にも健気な姿を見せた。


「本当に?嬉しい」


 可愛らしい立ち振る舞いの、しかしそれに反して気丈な自らの娘を前としてクリスは歓喜した。


 だがまだ全て言い終えていない様で、アリスはその薄桃色の唇を動かした。


「でも、すこしおやすみがほしいの」


 そう、聖の狙いはこれであった。


 今の聖はアリスである為、未だ依代であるこの身体の全てを把握出来た訳ではない。


 故に習い事とやらの数を出来るだけ減らし、一時的ながらも、自らへの負担を無くした。


 これは自らの余裕を得る為に一番初めにやって然るべき事柄だろう。


 最優先事項をクリアするべくしてアリスたる聖は、その煌めくまるで宝石の如き美しい碧眼を自らの母であるクリスへと向けた。


「‥そうね。確かにアリスちゃんは頑張り過ぎていたかもしれないわ。わかったわ。習い事は、もういいからね」


 そんなアリスを前にしたクリスは、自らの過剰な期待をまるで恥じるかの様に、複雑な表情を面持ちに露わとした。


 その美に憂いを帯びた姿は、傍目にも見て何処か痛々しい。

 

 アリスと同様の、長い金色の睫毛を伏せて、サラサラとした艶かしい長髪が頬に撫でた。


「ごめんなさいね、アリスちゃん‥」


「だいじょうぶ?ママ‥」


 これに応じて同様に可憐な面持ちを曇らせたアリスは、クリスの顔を下から覗き込む様に見上げた。


 ルイスやクリスから見てもそのアリスの姿は、気遣いの出来る少女の姿にしか映らない。


 容姿も美しく、更には性格さえも善良ときている。


 それが自分達の娘とあっては否が応にも感嘆せずにはいられない。


 自ずとアリスの両親二人は、食事の為に手にしていたナイフとフォークを卓上に置いて、感動した素振りを見せている。


「うん。ありがとうアリスちゃん。貴方はとても良い子だわ。ねぇ、あなた?」


「ああ。アリスは良い子だ」


 と、彼等はアリスの実の親であるにも関わらず、見事にその中身である聖の演技に騙されてしまった。


 しかしながらそれも無理は無いだろう。


 何故ならば単純、まさか自分達の娘が他人と入れ替わっているなど想像もしないからだというのがまず初めにあり、その要因が相応に大きいのだろう。


 当然違和感を得てもそれは自身の気のせいだと判断してしまう。


 とはいえそれもまだ原因の一つに過ぎず、より顕著な影響を与えている一番の元はアリスの容姿にある。


 アリスのまるで金糸の如き煌びやかな長髪に、宝石の如き大きな瞳は、華美ではあるが、其処に気品さえ感じられる。


 これに合わせて顔立ちも端正である。


 凡そ欠点と称するべき所が一切見出せないまでに美しい。


 彼女の容姿は実の両親すらの目も眩ませてしまう。


 それ程までに極めて可憐である。


 凡そ万人が見惚れてしまうまでの圧倒的な、類い稀なる美が其処にはあった。


 未だ幼いながらも完成されたその容姿は、同年代は無論の事、アイドルやモデルなどの美を職業にして、糧を得ている者達でも及ばない。


 だからこそ例え聖の演技が拙くとも、それを帳消しにするだけの前提、つまりはそれ程の才能がアリスには備えられていたのであった。







 それからの休暇は、暖かな家族との団欒を過ごし、大いに意義のある時間に興じて翌日。


 既に時刻は相応に日の出を迎えた後であり、学校への登校がすぐ其処まで迫っていた。


「アリスお嬢様起きてください」


 透き通る様な清涼感のある声が、未だ寝台に寝ているアリスの耳たぶを打つ。


 すると次第に彼女の意識は浮上してゆき、徐々に金色の艶かしい睫毛に彩られた瞼が開かれる。


「ん‥」


 鈴の音の様な声を一言漏らしたアリスは、寝ぼけ眼のまま、上体の身を起こす。

 

 その場で身体を猫の様に伸ばすと、 サラサラとした金色に煌めく光沢のある長髪が、艶やかにも肩口を撫で、ベッドの上に広がった。


 次いで、ふわふわとしたワンピースの装いで、億劫そうにしながらもベッドの端から、きめ細かい肌の真っ白なつま先を出した。


 そのままピンク色のサンダルを履くと、その場から立ち上がり、少し離れている所で凛と控えていたエマに言った。


「エマ‥」


 挨拶を交わすだけ脳が覚醒しておらず、アリスは一歩足を運ばせると、ふらふらとした足取りのままにエマの懐へと倒れ込んだ。


「あら‥アリスお嬢様。本日は社交ダンスのレッスンはお休みとなりますが、もうじき登校のお時間となりますので、お目覚めにならなくてはなりませんよ」


 すると前者の華奢な身体を後者であるエマは母性の垣間見える、楚々とした仕草で受け止めた。


 女性的な起伏のある肉体が未だ幼い少女の肢体を柔らかに抱き止める。


 そう、エマの言の通り、習い事などを休めるのはアリスにとっては極めて僥倖である。


 しかしながら、恐らく両親等は自分達の娘が不登校になるのは流石に認め難いだろう。


 だからこそ連日立て続けに休むというのは憚られる為、本日は学校への登校日と相なった。


 無論アリスの中身である聖にとっては見ず知らずの学園への初めての登校日となる。


「ん」


 これに対して依然として睡魔から逃れられないアリスは、眠気に苛まれ続けている。


 彼女は曖昧な返事をしながら、エマに伴われて食堂へと向かう。


 まるでお伽話にでも出て来るかの様な大理石で誂えられた石造りの廊下を覚束ない足取りでアリスは歩む。


 彼女は傍らに側好きのエマに連れられて暫く、目的地に少なくない時間を経て漸く到着した。


 そんな彼女等二人を目に、既に食堂の卓上を前として席に着いていたアリスの母足るクリスが声を挙げた。


「あら、アリスちゃんたら。前は一人で起きられたのに、またエマに起こしてもらってるのね」


 まるでその表情には悪戯っ子の如き、揶揄う意図が含まれている笑みが浮かべられていた。


 だがそれで尚も、あたかも西洋の絵画の様に早朝の陽光をバックに映えてしまうのだから、クリスの美貌はハリウッドの女優にも勝るとも劣らない。


 そんな彼女は自らの金糸の如きアリスと同様の長髪をクリクリと指先で弄びながら、遊び心を露わとしていた。


「おや。アリスおはよう。昨夜はしっかりと眠れたかな?」


 そしてクリスとは対称的に、相変わらず爽やかな純粋な笑みを浮かべているのが、長テーブルを妻との間に挟み、先程まで食事を摂っていたルイスだろうか。


 今し方にアリスがここに来るほんの少し前まで本日は急ぎであるらしく、平素とは異なりアリスよりも先に朝食を頂いていた様だ。


 その光景に見て取れるルイスの姿は妙に様になる、まるで中世の貴公子然とした気品ある振る舞いだ。


 傍目にも見て極めて美しい所作で、片手にナイフ、もう一方にはフォークが握られていた。


 けれど其処に僅かな乱れが垣間見える。


 どうやら心中では己の娘であるアリスと共に机を囲みたいらしく、その表情からは鮮明に喜びが露わとなっている。


 ルイスは堀の深い顔立ちであるがやはり何処か愛嬌がある。


 その証左として、彼の仕草からは隠しようもない自らの娘への確固たる愛情が露わとされていた。


 それ程溺愛しているであろう事が、アリスへの接し方から、例えどれだけ鈍感であろうとも理解出来る。


 次いで互いに顔を合わせた後、同所における家政婦の立場であるエマはアリスに対しての言及をした。


「奥様、旦那様。おはようございます。けれどアリスお嬢様は本日、粗相を致しませんでしたの。これは大変喜ばしい事で御座います」


「まぁ」


 するとこれにはクリスは上品な振る舞いで口元を手のひらで隠すと、花が咲く様な輝かしい笑みを浮かべた。


「偉いわねアリスちゃん。子供って気が付けば私の知らない所で成長しているものなのね。なんだか少し寂しいわ。ねぇ?あなた」


 そして感じ入った様に僅かながらに瞳を潤ませて、彼女は自らの夫であるルイスへと共感を求めた。


「そうだね。けどアリスには負けてはいられないな。僕達も」


 それに応じて柔和に表情を綻ばせたルイスは、自らの妻をまるで微笑ましい物でも見たとでも言わんばかりに言葉を返す。


「ええ、そうね」


 そんな二人はやはり側から見ても至極円満な夫婦として映る。


 貧困とは程遠く、財力なども申し分無い家庭であり、凡そ万人が理想とする環境と称して何ら過言では無い。


 だからこそ、この光景を目の当たりとしてアリス、否、その中身たる聖は疎外感を覚えずにはいられない。


 そも聖本来の家族は、彼に対して極めて冷酷である。


 その為、学内では無論の事、聖は家中でも迫害されて来た。


 当然クラスでは陰湿に揶揄いを受けて虐められて、家族の冷遇により居場所など何処にも無い。


 故に、これ程暖かな環境にその身を置いた事が無い聖からすれば目の前で繰り広げられる光景は羨望の対象に相違なかった。


 と、内心を少なからず抉られたアリスは、些か傷心気味のままにぐずり始めた。


「エマ‥。ママとパパにはないしょだってゆったじゃない‥」


 ジトっとした瞳を傍らに佇むエマへと向ける。


 相変わらず舌っ足らずで、傍目に見てもその姿はまるで精緻に誂えられた可愛らしい人形の様である。


「ふふ。申し訳御座いませんアリスお嬢様。しかしこのわたくしもお嬢様の成長の感動から不覚にも口を滑らせてしまいました」


 だが主から咎め立てを受けたというのにも関わらず、エマには一切気にした素振りが見られない。


 まるで何処吹く風といった塩梅で歯牙にもかけず、意にも介していなかった。


「やくそくしたのに‥」


 これにはアリスも純白のきめ細かい肌をした頬を膨らませて、憮然とした表情を露わとする他に無い。


「はい。それではお嬢様、此方で朝食をお召し上がりくださいませ」


 依然として駄々をこねるアリスを食卓の席へと促すと、エマは隙の無い笑みを浮かべて凛とした振る舞いを見せ付けた。


「う〜、わかったわ」


 だからだろう。


 最早これ以上の問答は不毛と判断したアリスは従順にも用意された椅子へとストンとお尻を落とした。


 そんな可愛らしくちょこんと席に着くアリスへと再びクリスから声が与えられた。


「そういえばアリスちゃん」


 先程とは少しばかり異なり、一転して真剣な面持ちでの問い掛けだ。


「どうしたの?ママ」


 応じて名を呼ばれた側も小首を傾げた。


「学校での演劇の発表が近づいていたと思うのだけれど、アリスちゃんには自信があるかしら?」


 すると次いで口とされたクリスの言葉は、不意打ちでアリスへと衝撃をもたらした。


 まさかその様な催し物があるとはつゆ知らず、アリス足る中身の聖は思いがけない事実に冷や汗を掻いた。


 内心の動揺はその可憐な面持ちへと鮮明に露わとされ、思わず表情を曇らせる。


 唐突にも予期しない話題を振られて、自ずと口篭ってしまうアリスだろうか。


 そしてこれに続く様にして、ルイスも関心を持ったのか問い掛けてくる。


「もうじきだね。確か主役を務めるそうじゃ無いか。僕もアリスの演劇を楽しみにしているよ」


 彼はその言葉通り、非常に期待に満ちた面持ちをその表情へと浮かべていた。


 真っ直ぐにルイスはアリスを見据えて、自らの娘の成長を見る事が出来るのを心底から楽しみにしているのが鮮明に伝わってくる。


「う、うん。アリス、ママとパパのためにがんばるわ」


 そんな両親二人の言葉に、焦燥に苛まれながらも聖はアリスを演じる為、気丈にもその面持ちへと笑みを貼り付けたのであった。





 アリスは朝食を終えた後、事はその中身の聖にとっての学園初登校という運びとなる。


 その際に学園への登校は、恐らくはベンツとでも言うのだろう車での送迎と相なった。


 ちなみにアリスの両親であるクリスとルイス二人は共働きである為、彼女の送り迎えは使用人にさせている様だ。


 相変わらず着替えや支度などをエマに全て身を任せて、アリスは現在車内のシートで寛いでいた。


 とはいえ、依然として先程に話題を振られた演劇の件に対しての懸念は消えず、内心での危惧は次第に膨れ上がる。


 すると、脳裏へとそれを思い浮かべた途端、徐々に考えが行き詰まる感覚に苛まれた。


 ─どうしよう


 そんな弱音が思わず、口の中でも誰に言うでも無く呟かれてしまう程には、今アリスは窮地に立たされていた。


「お嬢様、此方を」


 すると、否が応にも憂鬱からか深い思考に囚われていた様で、不意にエマが差し出して来たグラスを前に意識を浮上させた。


 その内に納められているオレンジ色の液体を見て、アリスは礼を述べた。


「ん‥ありがとう、エマ」


 真正面のシートに腰を落ち着けている眼前のエマへと頭を下げて、グラスを手に受け取った。


 香料の匂いでは無く、如何にも高級そうな酸味含まれる果汁の芳香が鼻腔へと至る。


 注がれた一升瓶の包装から鑑みるに、相応の値段が張るに相違無い。


 車外において子供たちが歩く姿を横目に、アリスは一口だけジュースを口腔へと含む。


 けれどもその思考は完全に演劇に関して巡らせており、今し方に口とした飲み物の味など最早味わっている余裕も無い。


「アリスお嬢様。如何されましたか?」


 そんなアリスの動揺を思わず露わとしてしまった姿を前として、エマは怪訝な面持ちを呈した。


 その疑問を受けて、アリスはすぐさま取り繕うべくしてにこやかにも穏やかな面持ちを浮かべて見せる。


「ううん。だいじょうぶ」


 パッとまるで花が咲く様な、向日葵の如きその笑みは、万人を魅了するだけの美が其処にはある。


 本日は純白のワンピースを着用の上、カチューシャを身に付けている手前も相まって、甘ロリ風の装いであった。


 それは俗にいう所謂ロリータファッションというらしいが、これが似合うだけの容姿をアリスはその身に備えていた。


 けれどその服装は無論の事アリス自身が選択した代物では無く、当然ながら彼女の側好き足るエマのチョイスとなる。


 だからこそ、これを選んだ当の本人足るエマは至極満足そうにアリスを見つめていた。


「どうしたの?エマ」


「いいえ。アリスお嬢様は本日も大変可愛らしくあられます、と恐れながら愚考致しました」


 ふと互いに真正面から視線を交錯させて、言葉を交わし合う。


 そう、エマの心情など知る由も無いアリスにとっては居心地が悪い事この上無い。


 まさか自らの正体をアリスでは無く別人がなりすましている事実が露見したのではあるまいな、とは内心の聖の杞憂である。


 故に思わず反射的に顔を背けたアリスは窓の外へと視線を移した。


 ただ現実としては依然として正体は露呈する様な事は無く、それは偏に聖の巧みな演技力の賜物と称して差し支えないだろう。


 その証左として、これまでの中一度としてアリスは家族やエマからも怪しまれていないし、詮索なども皆無である。


 すると車に揺られる事暫く、既に学園の敷地内に車は入り込んだ様で、必要以上に綺麗に舗装された道が見えた。


 其処には子供達が元気良く登校する姿が見て取れる。


 とはいえ同学園へ通う者達の大半は皆一様に裕福な家庭の出自らしく、楚々とした立ち振る舞いが其処に垣間見えた。


 富豪や資産家などの子息令嬢が、歩いている姿を眺めてアリスの中の聖は場違いな自らをより鮮明に意識した。


 それもその筈、今登校する彼等でさえ徒歩で通学しているというのにも関わらず、彼女はメイドのエマという側好きで、更には送迎されているのだ。


 外を見ても、使用人を伴う者の姿など一人も居ない。


 なぜこれ程までにアリスが特別扱いを受けるのか、或いはそうしなくてはいけない何かがあるのか。


 果たして深く言及する訳にもいかず、結局の所真相は判然としない。


 そしてこれだけの事が出来る環境を自分達の娘であるアリスへと用意した、クリスとルイスは一体何者なのだろうか。


 それが気になり、頭から離れなかった。


 と、その疑問へと思考を巡らせているのも束の間の事。


 不意に一流の彫刻師が腕を賭したであろう見事な装飾の施された巨大な門を越えると、その先にこれまた見上げる程に大きな建物が見えた。


 広大な敷地の向こう側に、恐らくは学園であろう建造物が、まるで天を貫くかの様に聳え立っていたのである。


 晴天の輝く青空へと仰々しく地上を睥睨するその

 存在は、遥かな高みからアリス達を気圧していた。


 それからものの数秒と掛からずに校舎の前へと到着すると、その場でリムジンを停車させた。


 これに合わせてシートから立ち上がり、流れる様な自然な動作で車外へと降りるのはエマだ。


 彼女は至極毅然とした立ち振る舞いで、その場に佇むと済ました素ぶりでアリスを出迎えた。


「アリスお嬢様、どうぞ此方へ」


 けれど中々車内から降りるのに手間取っているアリスの姿を見て、エマは手を貸した。


「うん。ありがとう」


 自らに差し出されたその手を素直に取り、アリスは車外へと降りたのであった。


 すると外へと出た瞬間に、暖かな一筋の風が彼女のワンピースを翻した。


 捲れ上がる裾を如何にかして手で押さえたアリスはふと自らに視線を注がれているのを自覚した。


 先程まで学園へと登校していた生徒が同所へと立ち止まり、アリスの周囲へと集いを見せていた。


 これに対して間違い無く自身が注目を攫っているのをアリスは理解して、羞恥を覚えた。


 しかしながらそれも無理は無い話で、側から見てもアリスの容姿は美しく、その上金色の輝かしい長髪は人々を魅入らせてしまうのだ。


 加えて可愛らしい顔立ちは、まるで人形の如く。


 であればこれを目の当たりとしては見惚れてしまうのは自明の理と称して差し支え無いだろう。


 更には注目だけでは無く、何やらひそひそと口さがない会話が、特別耳をそばだてるまでも無くアリスの耳へと聞こえてきた。


「見て、アリスさんよ。また送り迎えしてもらってるんだ」


「ホントだ〜。やっぱり僕達みたいに成り上がりの家とは訳が違うや」


「うん。そうで無くても、アリスさんの家は特別だもんね」


 その声色は、流石に少なからず抑えられてはいるものの、公共の場でその振る舞いが憚られるのは相違無い事実である。


 多少は人目を気にしていようとも、あまり褒められた行いでは無いのは明らかだ。


「御手をどうぞ」


 けれどどうやらアリスの側好き足るエマは、微笑みを一つ浮かべて見せると共に、エスコートしてくれる様だった。


「ん‥」


 アリスもこれに応じて手を取ると、ベンツはそのまま運転手に任せて、促されるに従いその場から離れた。


 周りの生徒達からは好奇の眼差しを受けている為、アリスはエマの背にまるで隠れるかの様に、歩みを進ませた。


 足を運ばせる度にアリスの金色の長髪は虚空をサラサラと撫で、陽光に照らされて煌めきを帯びた。


「きれい‥」


「わぁ‥」


「すごぉい‥」



 艶やかな光沢はやはり人目を惹き、周囲の人々は彼女から目を離せなかった。


 事実としてアリスを目で追う彼等男女例外なく皆一様に、その瞳には自ずと純粋な羨望の情が含まれている。


 否が応にも眼差しを向けられて自然、嫉妬や称賛など観衆もとい生徒達の様々な声が、同所へと響いては聞こえた。


 これには敢えて耳を澄ませるまでも無く、主に感嘆の声色が嫌でもアリスの耳に付き纏う。


 まさかこの様な日々をアリスは送っていたのかと、内心で驚愕を覚えている聖である。


 カツカツと踵の無い子供用のパンプスで音を鳴らし、アリスは先導するエマの手に引かれながら、その背へと追従する。


 その際に、思わず頭上を見上げる程に巨大な校舎を前にして、やはり緊張に息を呑んだ。


 そして彼女はこれから自らが、如何にして振る舞えば最善であるのかへと周囲の喧騒も無視して、思考を巡らせたのであった。






 学園でのアリスのクラスはどうやらこの名門、天使学園において演劇学科を専攻している様だった。


 明らかな英才教育を施されているのを理解して、やはりクリスとルイスはそれ程の期待を自らの娘へと抱いているのだと悟る。


 恐らく沢山の習い事などもその為にアリスへと課していたのだろう事は想像に難く無い。


 そしてエマに伴われて、教室へと踏み入れたアリスを迎えたのは、明らかな悪意の入り混じる視線であった。


 無論少なからず、好意的な者達も同クラスには居合わせていたが、主に女子からは陰湿な感情を向けられている様だ。


 その理由は偏にアリスの容姿への妬みからもあるだろうが、それだけでは無いだろう。


 何故ならばあまりに非難の眼差しが多く、何かしらの反感を買っていなければこうはならない筈だ。


 それだけは、自分も学校で虐められていたからこそ、今はアリスという少女になってしまった聖でも理解出来る。


 依然として女子の集団が教室の入り口へと険しい表情を向けて、その後に陰湿な笑みを浮かべている。


 だが傍らにエマを侍らせているお陰で、直接的に文句を言う輩も居ない。


 どうやら令嬢達のやり方は、未だ幼いながらにして相当狡猾な様である。


 誰に話し掛けるでも無くアリスはエマに案内されると席を引かれ、促されるがままに着席した。


「如何されましたか?」


 すると僅かばかりにその可憐な面持ちを曇らせたアリスを見て、エマは気遣いを示した。


「ううん‥なんでもないの」


 これに感情の機微を出来るだけ面に露わとしない様に、アリスは完璧な笑みをその可愛らしい顔立ちに貼り付けた。


 それを側から見て、相変わらず悪どい表情を浮かべる、未だ幼いながら曲がりなりにも令嬢の彼女達は、より一層鬱憤を溜めたらしい。


 その証左として何事かを互いに彼女達は囁き合うと、再び会話に興じている。


 そして其方へと意識を割いていたのも束の間、アリスに次いで教室へと入ってきた少女が居た。


 足取りも確かに鮮明な自信を醸し出すその少女はアリスとは異なり、力強い瞳をしていた。


「あっ、ミラちゃんおはよう」


「今日もその服かわいい〜」


「ねぇ、昨日の映画ってミラちゃん見た?」


 更にはこれに合わせて先程までアリスへと剣呑な視線を向けていた少女達の一団も一転、まるでひとが変わった様に雰囲気を変えた。


 今し方登校したばかりのミラに彼女達は、あからさまに媚びた素振りで接している。


「おはよう皆。今日もよろしくお願いね」


 そして受け答えたミラという少女は、その外見年齢に反して、はきはきとした口振りで言葉を返した。


 彼女の容姿は茶髪の長髪を両側の側頭部で結い、所謂俗にいうツーサイドアップの髪型にしている少女だ。


 眦も勝気な印象を受ける為、可憐な容姿のアリスとは少しばかり顔立ちの趣が違う。


 どちらかといえば美人顔と称して差し支えない方向性だろうか。


 とはいえ無論同クラスにおいて在籍している者達は皆一様にそれなりのルックスをアリス並みでないとしても備えている。


 演劇学科とあって一定水準の容姿は、残酷だが否が応にもある程度は求められる。


 生まれ持っての兼ね備えた美が必要になるのである。


 だからこそ相応に選別された才能ある子息令嬢達がこの場には集う。


 そしてアリスもまた、面接で才能を見込まれた一人であるのだが、どうやらその一方でクラスでの除け者に合っている様だ。


 そんな風に集団で談笑を交わす者達を一人眺めているアリスであったが、不意に入室してきた女性により、同所の喧騒は途切れた。


「それでは皆さん席についてください。朝礼を始めます」


 教室へと足を踏み入れるや否やそう言った声の主は妙齢の女性である。


 恐らく同クラスを担当する教師なのだろう彼女は、己が受け持つ生徒達へと言葉を与えた。


 するとそれを聞いた生徒達は皆例外なく、アリスへと陰口を叩いていた集団さえ大人しくその言葉に従った。


 全員が席へと腰を落ち着けたのを見計らって教壇に立つ女性は今し方の言葉通りホームルームを始めた。


 本日の日程などを大まかに述べてから、特段連絡事項も無い様で早々に話は終えられてしまう。


 ただ一時限目に入る前、僅かながらに休憩時間を設けるらしく、アリスは机の引き出しへと入れられていた物を急いで取り出した。


 其処には演劇学科を専攻する者に配布される様々な物が納められている。


 先にもあの女教師から伝え聞いた通り、自らに割り当てられた配役を紙面上に確認できる。


「アリス‥」


 そう、不思議の国のアリス。


 アリスの中身である聖も読書を嗜んでいたが故に幾度か目を通して読んだ事がある。


 成程どうやらアリスはその名に違わぬ主役たる役柄を、見事与えられていたらしい。


 其処で漸くアリスの中の聖は自らが虐められているその理由に腑が落ちた。


 恐らくは主役を任された自身に対して少なからず何かしらの感情を抱いている様だというのが改めて本人達に確認するまでもなく理解出来た。


「そうなんだ‥」


 思わずアリスの役柄がこなすべき内容に視線を落として、その台詞や課されている演技の量に納得した。


 無論其処には他の役柄を務める脇役などの台詞も記載されているが、それと比べて主役たるアリスの出番があまりにも多過ぎる。


 それも主人公なのだから仕方が無いのだろうが、未だ幼い演劇科に所属する生徒たちからすればそれは当然ながら嫉妬の対象になり得るだろう。


 こうして思考を巡らせている間にも、周囲の生徒達は皆複数人で互いの役を演じ合っている。


「‥」


 ただその機会は恐らくクラスで孤立しているであろうアリスに与えられる事はない。


 それはアリスの中身の聖にも理解出来た。


 故に台本を読むのに集中しようとしていた所で、用紙の端にある文字を目で捉えた。


 丁寧では無く、バランスも取れていない汚い文字で一言其処には、死にたいとの文言が書かれていた。


 これは印刷の文字では無く、アリス自身が書いたというのが、その拙さから窺える。


 彼女は自らが他の生徒達から向けられる嫉妬に耐えきれなかったのだろうか。


 其処には文字に加えて涙が落ちた痕跡も僅かながらに薄くなった紙の色合いから見て取れた。


「アリスお嬢様?」


 そんなアリスの振る舞いに怪訝な面持ちを露わとしたすぐ後ろで控えていたエマは、一言声を掛けてきた。


「ううん‥なんでもないの。ほんとうに‥」


 言葉を与えられたアリスは首をゆるゆると左右に大きく振り、力無い声で如何にか返事をした。



 それから暫くの間台本の内容を読み込んでから、指定の時間となったのか、女教師が再び教壇に立ち言ったのだ。


「それではリハーサルに入ります。いつも通り台本を持っていても構いませんが、本番では無いと思ってください」


 そう彼女が口とすると皆が教師の前に集い始めている。


 これら一連の出来事を見て、一時限目からのあまりに唐突なレッスンにアリスは自ずと身を硬直させた。


 内心の聖もあまりに突然の事態に対応出来ず、否が応にも緊張に苛まれた身体は動かない。


 そんな椅子に腰を落ち着けたままのアリスへと教師から不意に声が与えられる。


「アリスさん?どうされましたか?主役は貴女なのですから早く此方へ」


「はい」


 これに指導されたアリスは特別反抗する訳でも無く、従順に頷いて見せた。


 如何にかしてその身に余る緊張から目を逸らし、その場から立ち上がると、漸く教室の中心へと立った。


 これだけで同クラスへと所属する生徒達全てから注目を集めた。


 様々な感情入り乱れる眼差しが自らに突き刺さり、アリスはやはり気圧される他にない。


 だからこそ気を紛らわせる為に、彼女は自らが手にする台本に視線を落としている。


「準備は済みましたか?」


 そして女教師は生徒達を一通り見渡すと、用意が済まされたのを確認してから始まりを促す為の言葉を口とした。


「あの子主役の癖にまだ台本無いとダメなのね」


「そうだよねー。ホントにやる気あるのかなぁ?」


「うん。無いならそういえばいいのにね」


「やっぱりわたしはミラちゃんが主役すればいいと思うなぁ」


「だからはじめにそう言ったんだよねー」


 だが、未だヒソヒソとした声が一部の生徒の間で交わされているのがアリスには聞こえてきた。


 現在は授業中とあり、表立って陰口を叩くのは憚られるのか、流石に顰められてはいれど、過敏になっているアリスの耳にはそれが付き纏っていた。


「其処、授業中ですよ。不必要な私語は慎みなさい」


 だがそれは彼女だけは無い様で、女教師も生徒達の声に気が付いたのか、怒りこそ露わとしないものの、酷く怜悧な声で窘めた。


 これを受けては、今し方にアリスへと呪詛の言葉を吐いていた女子生徒達も閉口する他になかった。


「ではアリスさん、始めてください」


 だが依然として台本へと眼差しを向けて、自信が伴わない様子のアリスへとすぐさま残酷にも教師から声が与えられた。


 最早避けようの無い事態にアリスは、すぐ其処に迫り来るプレッシャーを前に、果たして耐え得るのだろうか。


 と、そんな風にアリスの中身の聖は、自身の事ながら、そう何処か他人事の様に考えていたのであった。







 天使学園演劇科所属小学六年において教師を担当する女、キャロル・ロッセリーニは、己の教え子足るアリスへと注視する。


 無論キャロルが担当する生徒はこの場を共にする者達全員だ。


 故に当然アリス以外に才能溢るる生徒達へと気を払う必要がある。


 けれども、キャロルという女はアリスという少女に対して特別関心を抱いていた。


 とはいえ教師という立場上一人の生徒に肩入れするのは、その職務上忌避すべき行いである。


 それは自明であるのだが、キャロルもまた教師である前に一人の人間である。


 だからこそ彼女は見目が大変美しいアリスというその少女に、才能を見出していた。


 生まれ持った容姿とて素質であるのもまた事実である。


 ならばそれを活かせる様な舞台を用意しなくては、宝の持ち腐れに相違無い。


 だがアリスの面接の際、その極めて可憐な容姿のみ見て判断したという役者としてあるまじき罪をキャロルは犯していた。


 演技力はその年齢相応でしか無く、何か突出した特技があるわけでもない。


 ただ、事実としてアリスが他者には無い類希なる美の持ち主であるのは確かだ。


 その為キャロルはアリスの育成に全力を賭して指導してきたのであった。


 だがキャロルの思い通りにはいかず、アリスの側にどうやらやる気が伴っていない手前も相まってか、無常にも今までのその努力は終ぞ実を結ぶ事は無かった。


 最早すぐ其処まで演劇会が迫っている事が現在のキャロルにとっては大いに問題である。


 例え一学芸会といえど保護者は皆一様に資産家が多く、富豪を相手にする上である程度は成果を示さなくてはならない。


 この学園の出資者に支援を打ち切られてしまえば、当然ながらキャロルの身とて危ぶまれるのだから。


 この年齢になって職にあぶれるなど、流石にキャロルとしても避けたい所である。


「─」


 と、不意に思考を巡らせていたキャロルへと、アリスではない少女の声が与えられた。


 そう彼女、ミラという少女こそ、その高い演技力から、この学園へと見事入学を果たした。


 尚且つ名家出身とあってか生徒達からも慕われている様なのだ。


 演劇において容姿で圧倒するアリスとは対称的に、その実力から観衆に魅せるミラ。


 何方の教育を優先させるべきであるのかは、特段考えるまでも無く明白であるのだが、如何してもアリスという少女の美はその判断を鈍らせる。


 何故ならばそれ程までに彼女は美しい容姿を誇るのだから。


 だからこそキャロルはアリスを磨けば光る原石であると、自らが宝石にしてやるという硬い意志を揺らがせない。


 否、その感情を捨てきれないというのが現状である。


 ミラという少女の熱量に比べればアリスが演劇に向けるその関心は足元にも及ばない。


 それは教師であるキャロルには改めて本人に確認するまでもなく、傍目に見ても理解出来る。


 そして演技における実力に関しても圧倒的にミラの方が上回り、それはキャロルの色眼鏡で見てもそうなのだ。


 それら要素を鑑みるに、未だアリスへの未練を引き摺っている己は可笑しい。


 その自覚は無論キャロルにも存在していた。


 だが、何かを変えればアリスとて化けるやもしれない。


 その様な叶うかも分からない願望同然の期待がキャロルの眼を曇らせていた。


 本来であれば主役をミラにこそ与えるべきだったのやもしれない。


 それは幾度となく脳裏へと過った考えだ。


 けれど演劇会の本番まで少ない日数ながらも、猶予はほんの僅かだがまだ残っている。


 この最後の希望には否が応にも縋らずにはいられなかったのだ。


 故に本日とてアリスを主役として扱い、けれどそんな彼女を端役足るミラが圧倒している。


 そんなあまりに教師としてのキャロル自身の醜態を晒す事態を引き起こしていた。


 とはいえ、例えミラを今更主役とした所でまた別の新たな問題が生まれるだけというのが、より一層八方塞がりな状態を生み出していた。


 何せミラという少女は気弱なアリスに比べてその性質を言い表せば苛烈。


 この一言に尽きる。


 その為安易に役を変更させては、これに乗じてミラは間違い無く幅を効かせるだろう事は想像に難くない。


 そも以前のリハーサルにおいて、ミラは自分こそが主役に相応しいとキャロルに直接述べてきたが、容姿の上では誰の目から見てもアリスが適任だろう。


 演劇というのは一人が突出していては成り立たない。


 スポーツよりも遥かに繊細な側面があり、例え実力があれど、あくまで総合芸術であるのだから、向き不向きというのがある。


 如何に幼いながらにして相応に演技が出来ようとも、それを踏まえた上でその役柄により一層合致した者が居れば、其方に主役の座は与えられる。


 故にミラという少女の演技が真に迫り突出していようがいまいが、今回の主役はアリスにこそ相応しい。


 それは大多数の生徒達の意向でもあり、多数決でも明らかになった事だ。


 当然ながら一部の生徒はミラに投票したが、教師のキャロルから見てもそれは、あらかじめ子供同士で相談していたであろう組織票に過ぎないというのが看破出来た。


 子供の浅知恵など容易く見抜いたキャロルは、やはりミラという少女は集団を偏らせる存在であるのを改めて理解した。


 その点アリスという少女は対称的に、どうやら同性からの当たりが強く孤立している様だった。


 執拗に陰口を叩かれてもいるらしく、キャロルとて対応はしてきたのだがこれは中々難しい問題である。


 そう、この学園への出資者である資産家の令嬢へと強く言い聞かせてしまえば最悪退職勧告を受けるやもしれない。


 本来であればその様な事は法治国家においてあってはならない事である。


 だが実際にその現場を目撃した事のあるキャロルにとっては、全く他人事ではいられない。


 自身の身でさえ危ういというのに、これ以上義憤からアリスを敵視する生徒に逆らえば、強権を行使される可能性すらあった。


 この学園が出資者のお陰で運営が成り立っている側面が大きい以上、必ず付き纏う問題である。


 だからといって良い諾々とミラを主役に変更すれば、成功以前に演劇全体のバランスが崩れてしまう。


 たかが一人の我儘の為に、所詮は子供の演技力を優先するわけにはいかなかった。


 確かにミラは天才と称して良いのかもしれない。


 だがそれもあくまで齢幼い少女にしてはというだけであり、アリスの天性の美貌もまた才能であった。


 だからこそキャロルは現在既に定められた配役を変更する訳にはいかなかった。


 彼女とて教師である以上、期待とノルマを課せられている。


 そして現実は結果が全てである以上は、何としてでも成果を出さなくてはならない。


 故に彼女もまた、己が職務に対して忠実であれと、己に言い聞かせて日々努力を怠った事は一度として無かった。


 否、そのつもりは当然無かったが、もしかすれば今の現状は、怠慢であるのやもしれない。


 と、キャロルは自らの物事を上手く運べない愚鈍さと、不器用故に必然招いてしまった不手際に内心で自嘲した。


 今更己が行いに対して後悔の念抱くなど片腹痛い。


 そうキャロルは自身のあまりに他責に過ぎる思考を心中で唾棄した。


 だからこそ最早アリスを主役として、必ず演劇の舞台を成功させる必要がある。


 だがそんなキャロルの内心とは対称的に、恐らく同性からの風当たりが強い為だろう、アリスのやる気は傍目にも失われているのが理解出来た。


 キャロルは今も拙い演技を見せているアリスへと焦燥に苛まれながらも、その指導を試みる。


「アリスさん。もう少し身体の動きを付けてもらえないかしら?」


 出来るだけ暖かな声色で、高圧的にならない様に、キャロルは繊細なアリスへと努めて気遣いを示した。


「‥はい」


 そして言葉を与えられたこの演劇における当の主役足るアリスはといえば、素直に頷いてはいるものの、中々改善は見られない。


 言葉通りに身振り手振りに変化はあれど、熱量が伴っていない演技に、抑圧されたナニカをキャロルは感じた。


 其処にはただの虚があり、相変わらず実力に以前との違いは無い。


 そんなアリスとは対称的にミラという少女は、未だに日々成長している様で、先程にも改善が見られた。


「先生、もう良いじゃないですか。次は私の指導をしてください。ねぇ?授業中にお漏らししちゃったアリスさんもそう思うでしょう?」


 するとそんなアリスの演技の拙さを見越して、本人足るミラが心底から馬鹿にした様に嘲笑をその表情に浮かべて見せた。


 まるで見せ付けるかの如く、美貌には傲慢さ故の過剰な自信を帯びているのが傍目にも見て取れる。


 とはいえ才能に甘んじる事なく、演劇に打ち込むその姿勢から感じられる熱量は、性格に難はあれど誰にも負けていない。


 と、それはミラも自覚している節があり、至極得意げに笑みを浮かべている。


 そして彼女は笑顔ではあるものの、やはり何処か陰険な雰囲気を伴いアリスへと嫌味入り混じる言葉を与えた。


「ミラさん。その様な言葉、役者としてあるまじき言葉です。相応しくありません」


 だがこれに意を唱える者も存在した。


 それはこの場において唯一ミラに意見出来る存在。


 キャロルである。


 彼女は怜悧な眼差しでミラを射抜くと、そのあまりに稚拙な言動を窘めた。


 だがこれで素直に押し黙る程、このミラという少女とて小心者では無い。


 彼女は愛想の良い笑みを浮かべたまま、敢えて自らの不手際を認めつつ、その上で反論して見せた。


「そうですね。でも私の言った事は事実です。だから本当に役者として相応しく無いのは私じゃなくて、アリスさんじゃないんですか」


「それは‥」


 この理路整然とした論を受けて、思わずキャロルとて押し黙る。


 そう、ミラという少女の立ち振る舞いにはやはり目が余る所があるものの、その言動には一定の説得力があるのもまた事実なのである。


 だからこそ指導者であるキャロルも迂闊な言葉を返す訳にはいかなかった。


 そして教師である彼女が二の句を躊躇うのを見て取って、ミラは更に言葉を紡ぐ。


「それに練習だからってどうしてアリスさんは未だに台本を見なくちゃ出来ないの?他のみんなはもう無くても平気だよ?もしもやる気が無いなら私が代わりに先生に指導してもらっても良いよね?アリスさん」


 その言葉は留まる所を知らず、そして的確に痛い所を容赦なく突いてくる、大人顔負けの弁舌だ。


「待ってくださいミラさん」


 これには流石のキャロルとて問答無用でその口上を遮るべく声を挙げた。


 何故ならば今し方に語られたミラの言葉には、明確にアリスの心をへし折る為の意図が含まれていたが故である。


 だからこそキャロルは静止の言葉を投げ掛けたがそれに次いで、続く声がある。


「わかった‥」


 僅か一言。


 それだけでその心中を察してしまえそうな程に、暗い声色が同所へと妙に響いては聞こえた。


 思わず目を逸らしたくなる様な、痛々しい笑顔をその可憐な面持ちへと貼り付けて、アリスは其処に佇んでいた。


 これに対して途端に上機嫌にもニィと口端を吊り上げたミラは、アリスへと指差し言った。


「それじゃあさっさと退いてもらえない?通しは一応終わったんだから、主役だからっていつまでも其処にいられると邪魔なんだけど。お漏らしアリスさん?私よりも劣ってるんだから、一人で台本でも読んでれば良いじゃない。ねぇ、みんなだってそう思うでしょう?」


 鮮明な敵意とも取れる態度を露わにして、ミラは当てつけの為に再びアリスの失敗を論い、そう言い放った。


 その際に、他者の同調を求めるのも忘れずに、英才教育を施された天才が故の聡明な知性が其処には発揮されていた。


 そのあまりに鋭く、相手の心を傷付けるのに値する充分な威力が、ミラの言には含まれていた。


 だからだろう。


 これには流石に見過ごせないのか、最早なりふり構わず大きく与えられる声がある。


「ミラさんっ」


 遂に一線を超えた彼女を止めようと、平素から淡々とした立ち振る舞いのキャロルの一声が同所へと殊更に大きく響いては聞こえた。


「すみません先生。でも私、顔だけで何の努力もしていないやつって許せないんです。実力も無いのに調子に乗って‥。ねぇ、アリスさん。私の言ってる事何か間違ってるかな?」


 だが、これに対して何ら動じた素振りが見られないミラは、笑みを浮かべたままの姿でその場に佇んでいた。


 そして同時に未だ減らない口で饒舌にも彼女は自らが思う所を語って見せた。


 側から見れば紛れもない事実を踏襲しつつ、如何にして相手を貶められるかを考えた口上を躊躇いなく言い放つ。


「‥」


 これに追い詰められたアリスは特段何を語るでも反論するでもなく、只々閉口したまま何も言い返す事は無かった。


 この場を共にしているのみで、焦点の定まらない瞳で、彼女はひたすら虚空を見つめていた。


 その姿から鑑みるにアリスには、ミラの言は最早届いておらず、表情が抜け落ちたその面持ちは心を閉ざしているのが傍目にも鮮明に理解出来た。


 加えてアリスのそんな呆然とした姿を前に、これを好機と見計らったのか、ミラは次の瞬間にはその場を離れていた。


 そして一歩アリスへと近付くと、その耳元に顔を寄せて、暗く冷徹な声色で囁いて見せた。


「反論も出来ないみたいだし、私の言った事が正しいってわかったなら早く退いてよね。というかもう学校に来ないでくれない?どうせ何も出来ない無能なんだし」


 キャロルには聞こえない様に絶妙な声量で、それは地の底から聞こえてくるかの様な、悪意に塗れた言葉であった。


「‥うん」


 そう、最悪と称して差し支えない雰囲気の最中、特段抵抗するでもなく、アリスはその虚な碧眼のまま首を縦に振り応じる他に、選択を許されていなかった。


 だが垂れた金色の前髪がアリスの顔色を隠し、周囲からはただミラとの位置が入れ替わった様にしか見えない。


「足手纏いがいるとこういう風に空気悪くなるから。だからもうアリスさん自身の為にも学校、辞めた方が良いんじゃない?」


 そして最後に、その場を離れるアリスの背後へと追い打ちでも掛ける様、立て続けにミラはそう言い放ったのであった。








 時はあの後、アリスが学園から早退して暫くの事。


「あの子‥帰ってきてからずっと部屋に居るのよ。返事はしているけれど心配だわ‥」


 彼女が自らの部屋から出てこない事に憂いたクリスは、娘の送迎に平素から付き添っているエマに言った。


「左様で御座いますか‥。大変申し上げにくいのですがアリスお嬢様は、その‥。学内で虐めを受けております」


「ええ‥。一度私も問い合わせたのよ。けど、改善しない所か余計に酷くなったみたいなの」


 互いに沈痛な面持ちで二人は言葉を交わしている。


 彼女達は同所にアリスの姿が無いのを確認して、認め難い現実に対しての理解を得た。


「恐れながらクリス様、お嬢様はもう‥」


「そうね。だから今日あの子に転校を提案してみたの。でも、どうしてか分からないけれど拒絶するの。私一体どうすればいいのか分からなくて‥」


「ああ、おいたわしや‥」


 そして、そんな二人の会話を、その小柄な身を死角に隠し、耳を澄ませている者が居る。


 アリスである。


「‥」


 彼女は無言で息を潜め、壁に背を預けている。


 やはりアリスの中身足る聖の予想通り、虐めを受けていたのだ。


 アリスも聖同様に、学内での排斥に合っている。


 だからこそ、アリスが今まで耐えたきた分自らも逃げるわけにはいかない。


 そう聖も考えていた。


 例えここで転校などしても、その先ではまた同じ目に遭うだけだろう。


 それでは本来のこの身体の持ち主であるアリスに顔見せできなくなるだろう。


 アリスという少女はその年齢に反して、強い人間だった。


 故にこそ聖は、クリスから先程受けた転校の話を一蹴した。


 無論これ以上酷くなれば強制的な転校も止むなし、と聖とて弁えている。


 けれどもう少しだけこの環境で努力してみると、アリスはクリスに言い、譲歩を引き出した。


 とはいえそれもあくまで一時的な誤魔化しに過ぎない。


 何故ならば聖とて虐めへの対処など知りはしないのだから。


 ただ頭を低くして耐え切る術のみで聖は今までの人生を乗り切ってきた。


 未だ聖は自らがどう立ち振る舞えば良いのか判然とはしなかった。


 だが自らを排斥する者達に抗う意味はあるのだと、そう聖は証明したかった。


 その為に聖はここで挫けるわけにはいかない。


 だから彼はアリスの演技を続ける。


 それは確かに自己の保身という面も大きいのやもしれない。


 だが例えそうであれど、アリスの意思を無駄にしないとの決意が少しでも其処にあれば、それは立派な人間としての一歩に繋がるのでは無いかと聖は考える。


 いつかアリスという少女にこの身体を返すその時に胸を張って顔を合わせられる様に、聖はここで折れる訳にはいかなかったのだ。






 *






 初登校を終えた日から迎えた翌日の事。


 時刻は平日の早朝。


 朝食を摂り、丁度学園への支度を済ませた所であった。


 硬く決意を固めた聖もといアリスは、両親の前での演技を続けていた。


 依然として成り済ます事へと忌避感は覚えてはいるものの、再び身体を返すその時までは正体を露見してはならない。


「いってきます」


「気を付けるのよ。アリスちゃん、その‥。辛くなったらちゃんとママに言うんだからね?」


「だいじょうぶだよ」


 その様なやり取りをクリスとして、今度はルイスからも言葉を与えられた。


「アリス、本当に平気なのかい?何なら僕から直接─」


「パパ、ほんとにだいじょうぶなの」


 と、その様にやり取りを交わし、尚も気丈な振る舞いを見せ付けるアリスだ。


 これには両親等も感極まった様で、何も言えずに閉口だろうか。


「アリスお嬢様、御時間に御座います」


「うん」


 だがそうして談笑を交わすのも束の間の事である。


 側好き足るエマから登校の時間が迫っている旨を告げられた。


 そしてこれから向かうは、アリスが排斥を受ける学園である。


 彼女の両親は未だ気遣わしげな面持ちを露わとし、その眼差しを自らの娘へと注いでいる。


 だが、アリスの意思に背く事は、彼等とて出来るだけしたくない。


 それは子を思う両親であれば当然の事だろう。


 だからこそアリスの中の聖はそれを理解した上で利用した。


 譲歩を引き出し、一人で戦う事を宣言して見せた。


 故に迂闊な手出しも憚られるクリスは、夫であるルイスと共に、娘の身を案じる事しか出来ない。


 無論最悪の場合アリスの意思を無碍にするのも厭わない覚悟も彼等両親にはある。


 例え実の娘から嫌われようとも、自らの立場など二の次に子供を守る大人でありたいとの意識を抱いていた。


 本来であれば、子供間の問題に大人が口出しをするべきでは無い。


 それは痛いほど理解していた。


 けれどその上で尚、アリスへと注ぐ愛情の深さ故に、クリスとルイスの二人は自分達のその大人としての立場を行使する事態を想定に入れていた。


 ルイスとて子供の人間関係に干渉したくはないと前々から言っていたそれは本心だ。


 けれどそれはあくまで必要以上というだけで、娘への嫌がらせがあればその力を振るう事を過保護である妻のクリスよりも躊躇わないであろう。


 そうして自らの娘がエマに伴われ前に進むのを、背後からクリスとルイスは静かに見守っていた。




 *


 学園に送迎をしてもらい、到着して暫く。


 先日と同様教室へと赴き、エマに自席を引かれて、アリスは促されるがままに着席した。


 本日はクラスにおいて、やはりエマに付き添われているお陰か、直接的な暴力などは無い。


 けれどあからさまな陰口は、口さがない同性の生徒たちからは聞こえてきた。



「ほら、またあの子来てるよ」


「ほんとだ〜、まだ自分の立場わかって無いのかなぁ」


「良い加減やめればいいのにね〜」


「ミラちゃん、どうする?」


「そうね‥」



 粘着質な仄暗い地の底から溢れ出る様な声が、アリスの純白の耳へと付き纏う。


 最早人目を憚らないつもりであるのだろう。


 まるで周囲へと同調を計るかの様に、彼女達は声を潜めるでもなく会話を交わしている。


 故に自ずとアリスの演劇の練習に付き合ってくれる者など居るはずもなく、それは皆自分の身が可愛いのだから当然だろう。


 それはアリスとて理解出来るし納得もしていた。


 けれど改めてこの現状にいざ遭遇すると、聖はその心を抉られた。


 一人で練習をするのにも限界はやがて訪れる。


 それは演劇が、集団でこそ本領が発揮される総合芸術である性質上、致し方のない事だ。


 とはいえ諦めるという考えは当然聖には無く、正確に台本を読み込んでゆく。


 優先順位としてはまず初めに自らが務める主役の台詞から。


 そしてその描写から一体どの様な演技を求められるのか、想像しなくてはならなかった。


 そして周囲の喧騒を他所に、聖は台本に没頭する。


 彼は元来読書を人一倍好み、本に捧げる熱量は尋常では無い。


 それが台本に目を通す事にも、知らず知らずの内に生かされた形だろうか。


 特段意図してでは無いが、自ずと話に没頭出来るのは聖の唯一の特技でもあった。


 彼は日々受ける迫害から目を逸らしていたが、その振る舞いとは対称的に感受性は豊かである様だった。


 だからこそ聖は、自らが演じる主役への理解を深めようと、必死に内容を咀嚼していく。


 如何にしてこのアリスという少女が主役たり得るのかを、その話に共感する事により理解するのだ。


 お陰で否が応にも脳内に台本の内容が刻まれてゆき、その集中は常人をも遥かに上回る。


 ただ、側から見てもそのアリスの様子は異様であったらしい。


「見て、あのアリスさんの姿。何だか怖いわ」


「うわ〜、いくらなんでも必死すぎでしょ」


「仲間はずれになってるからって、ああいうの良く無いよね〜」


「わかってるなら来なきゃ良いのにねぇ」


「だよね〜。私もアリスさんみたいな人きらい」


「どうせ出来ないくせに、ああいうのはうまいよね〜」


「先生からよく見られたいからって、キモすぎ」


 そんな、身も蓋もない言葉の数々が同教室へと響いては聞こえた。


 けれどこれに対してアリスは気にした素振りも無い。


 否、今し方受けた陰口は全てアリスに届いていなかった。


 何故ならばそれ程までに今、聖は台本へと集中していた。


 物語へと入り込む、その類い稀なる熱量は、アリスを蔑む言葉をものともしなかった。


 彼女の姿は一人、教室での迫害を受けながらも誰一人として近寄らせない、強固な壁が其処にはあった。











 ─まさかあれだけ言われてその次の日に登校してくるとは。


 そうミラ・レドエステルアは少なく無い驚きを覚えていた。


「上手く無いわね‥」


 だから自ずと口から誰に言うでも無く独り言が呟かられても仕方が無い。


 否が応にも眦が釣り上がり、側から見ても勝気なその美貌を険しくした。


「どうしたの?ミラちゃん」


「いいえ‥なんでも無いわ」


 するとミラの機微の変化へと反応した一人の友人が、怪訝そうに問い掛けて来る。


 だがこれに対してミラは自らの苛立ちを平然と押し隠した。


 当然である。


 アリス如きにこの自分がその心中を乱されるなどあってはならない。


 そう言い聞かせて冷めた思考を取り戻す。


「ねぇ、ミラちゃん。アリスさんの事どうするの?」


「私達も迷惑してるんだけど‥」


「そうそう、早く消えて欲しいよね」


 だが一度落ち着いたのも束の間の事。


 再び友人達から次々に不平不満がミラへともたらされた。


 どうやら彼女等は相当アリスに対して鬱憤を溜めている様だ。


「こちらから手を出すのはダメよ」


 無論だからといって、その感情のままに行動に移せば待つのは破滅のみであろう。


 故にミラは、きっぱりとした態度で不必要に騒ぐ友人達の言葉をただの一声で黙らせた。


「‥うん。ミラちゃんがそう言うなら」


「わかった‥」


「う、わかってるよぉ」


 その様な塩梅に、彼女達はミラの毅然とした振る舞いに気圧されて、従順になる他にない。


 ─全く、誰も彼も低脳ね


 と、そんな呆れた考えをおくびにも出さずに内心で考えるミラは、予想とは異なり再び学園に登校してきたアリスへと思考を巡らせる。


 とはいえ直接的に手を下すのはとてもではないが上策とは思えないとは、以前にも出た結論である。


 だからこそ間接的にアリスを、この演劇の主役から引き摺り下ろす必要があるのだ。


 だが、思いの外彼女の心は強く、ミラとしては現状に手詰まりを覚えていた。


 前日それなりに危ない橋を渡り、あれ程アリスへと釘を刺したのにも関わらず、その効果が見られない。


 何食わぬ顔でアリスはまたこの教室へと足を踏み入れたのだ。


「それでは皆さん、リハーサルを始めますので準備を」


 そしてミラの思考を遮る様、教師のキャロルの声が同所へと響いては聞こえた。


 これにミラは心中で密かに舌打ちした。


 このキャロルとかいう無能も、アリスをその容姿だけで主役に選んだ。


 確かにアリスの容姿は傍目にも見て美しいのは明らかだ。


 異性からの気を惹くのも上手く、投票では当然の事ながら彼女は男子生徒から支持を得た。


 だが彼女はその美貌に反して全く言って良い程演技の実力が伴っていない。


 その様な者を演劇に出すのみならず、あまつさえ主役として選択するなど、最早冒涜ですらあるとミラは思う。


 巫山戯るのも大概にすべきなのだ。


 現にアリスは今回も台本を口に出す事もせずにただそれに目を通しているだけだ。


 その程度の練習で上手くなるのであれば誰も苦労はしない。


 あれでは台詞を覚えるのもままならないだろう。

 

 だからいつまでも成長が無く、台本を手放せない。


 ─無様ね


 そのまま自身よりも劣る存在でいるといい。


 そうミラは内心でアリスを嘲笑すると共に、これからのリハーサルに向けて意識を切り替えた。


 ミラは一人、自ずから吊り上がる口の端を意識して元に戻すと、キャロルの言葉通り教室の隅へと歩む。


 当然アリスも主役であるが為に、皆の注目を集める同所の中央へと足を運ばせた。


 その姿を見てミラは僅かな違和感を得た。


 ─雰囲気が


 変わった。


 否、特別顕著な変化を見せた訳ではない。


 前から気に食わない演劇に対しての熱量が欠けているのは、先程の練習の姿勢からも明らかな筈。


 けれど、やはりミラは今し方に自らが目撃したアリスの初めて見せるその身に纏う空気感に圧倒された。


 教室の中央へと立つアリスは先日とは異なり、自信とは違う何かを持っている様に感じられたのだ。


 一体それがどの様な物であるのか、ミラには分からない。


 ただ、嫌な胸騒ぎがするのを彼女はその身に感じていたのであった。





 *





 キャロルは只々驚愕していた。


 何故なら今、演劇で見せるアリスの振る舞いには、先日とは異なり少なく無い違いを其処に見出す事が出来たからだ。


 キャロルはアリスという少女に期待はしているものの、最早昨日の件もあってか半ば諦めに近い感情を抱いていたのもまた事実である。


 だがアリスはその予想を覆し、今度は真に迫った演技をキャロルを初めとした同所を共にする生徒達へと見せ付けていた。


 ─素晴らしい


 キャロルは、たったの一日で異常な成長を見せたアリスを目の当たりとしてそう心中で独りごちる。


 ただ、稀に見ない飛躍を遂げたアリスではあるが、やはり熱量としてはミラに一歩劣るだろう。


 確かにアリスの演技は正確に台本を読み取り、その情景を演技しているやもしれない。


 だが、ミラはより一層見る者に訴える、心に響く様な才能を見せ付ける事が出来る。


 だからこそキャロルは口惜しいと思うのだ。


 そう、アリスは恐らく演劇自体にはそれ程価値を見出していない。


 それはアリスを観察してきたキャロルであるからこそ理解出来た。


 ならば一体何故アリスがここまで先日との演技から成長出来たのかと言えば、それはもう一つしか無い。


 恐らくはミラに対する対抗心からだろう。


 キャロルはそう思考を巡らせた。


 昨日アリスはミラからの辛辣に過ぎる言葉から早退している。


 それはその場に立ち会っていたキャロルであるから無論理解している。


 とはいえ─


「それだけでここまで変わるものかしらね‥」


 と、思わず口に出てしまう程、アリスの変わり様は凄まじい。


 未だミラには及ばないとしても、以前の出来と比べたら雲泥の差である。


 これならば例え本番で披露したとしても何ら申し分ない出来に仕上がるであろう。


 キャロルはそうアリスの尋常ではない成長具合にホッと一息胸を撫で下ろした。


 しかし自らの指導が功を奏したとは到底思えない。


 キャロルとてそれ程愚鈍ではない。


 まさか自身のお陰でアリスがここまで変わったなどという自惚れを、当然キャロルは抱いていなかった。


 やはりミラの挑発が起爆剤となったに違い無い。


 改めてキャロルはそう思う事として、アリスの傍らにミラが並ぶのを見る。


 だが其処で違和感を得た。


 そう、対抗心を抱いている筈の相手に対してアリスからミラへの関心を感じられない。


 それが傍目にも理解出来る程、アリスはミラを眼中に入れていなかった。


 元来キャロルはその職業上、良く人を観察する。


 だからこそ、アリスのその無関心に気が付けた。


 そして彼女とミラは横に並ぶと、互いに演技を始めた。


 其処にはミラの狂言回しに主役足るアリスの振り回される様子がある。


 やはり、主役である筈のアリスは幾ら演技に著しい成長を見せたといえど、ミラという天才には叶わない。


 そう感じられる光景が其処にはあった。


 端役であるにも関わらず、ミラの圧倒的な実力の前には誰であろうと、その存在感を食われてしまう。


 ミラはやはり人を惹きつける熱量を、その実力以上に有していた。


 だがそれとは対称的に、アリスの演技は正確無比ではあるものの、やはり観客へと伝える熱量に欠ける。


 その姿はまるで、誰かに操られているマリオネットにも似ていた。


 冷徹なまでにアリスの演技には心が伴わず、何処か画面を通して、一枚の壁を隔てた映像を見ている様だった。


 根本的にミラとアリスではその存在の在り方が異なる。


 そうとすらキャロルは思う。


 その演技という行いに対して賭す情熱から観客を惹きつけるミラに対して、隙のない完璧な立ち振る舞いから魅せるアリス。


 何方も演劇に対する姿勢は一生懸命であれど、やはり観客への向き合い方故に、其処に違いは自ずと生まれてくる。


 ミラは見る者を意識した、情に訴える仕草を得意とする。


 それとは対称的にアリスは、恐らく観客など気に掛ける事はない。


 演劇を見ている者の事など、どうでも良いとすら思っているに違い無い。


 ただアリスは、自らがそう感じた主役の感情を面に出して、その通りに演技をしているのみである。


 其処に違いがある。


 とはいえあれ程拙かった彼女の振る舞いがこれ程飛躍するのは重畳である。


 キャロルはその尭孝に対して素直に内心で喜ぶと、そのままアリスとミラの演劇の姿を見据えていたのであった。








 



「遠路はるばる日本へとお越し下さり、誠に─」


「それ程畏まる必要はないさ」


 デスモン・ハイネは、キャロルという妙齢の女性から歓待を受けて、その極めて堅苦しい口上を押し留めた。


「もう少し砕けた口調の方がお互い話しやすいのではないかな?」


「はい。そう仰られるのでしたら」


 前置きも程々にデスモンは早速用件についての口火を切る。


「いやはや、日本は本当に多様性に富んでいる。昨今ではこれ程国際色豊かな学園もそうはないだろう。それで、今年は豊作なのだろうか?一人くらいは逸材を見つけられれば良いのだが‥」


「勿論です。私どもの学園では才能溢れる子供達ばかりです」


 するとキャロルからの色が良い返事を与えられて、デスモンは片眉を上げた。


「つまり君の受け持つクラスに、此方の期待に応えられる様な人材が居ると?その発言からはそう捉えられるが?」


 自信が滲み出るキャロルの言に、デスモンは訝しげな視線で返した。


 すると、低い声色で問いかけられた側のキャロルは尚も、悠然と受け応えて見せた。


「そうですね。恐らく彼女達であれば、そう認識して頂いても結構です」


「ほう‥成程。どうやら今回は期待しても良いみたいだ」


 キャロルの性格上、迂闊に自信過剰になる事は無いだろう。


 それを、彼女とはそれなりに長い付き合いがあるデスモンは理解していた。


 故に、キャロルがここまで明確に断言するまでの逸材とは一体どの様な人物であるのかと、デスモンは関心を覚えた。


「では、詳しく聞いてもよろしいかな?」


 腰を落ち着けたソファーから僅かに身を乗り出して、問い掛ける。


「いずれも女子で、彼女達は非常に演技が上手く、尚且つ容姿にも優れています」


 するとキャロルは至極真剣な面持ちでそう受け応えた。


 そして詳細を毅然とした態度で語る彼女の姿は、傍目にも見て至極理知的な人物像が透けて見える様だった。


「君が其処まで言う程かね?」


「はい」


 二人は視線を交錯させ、束の間の沈黙が同所へと舞い降りる。


 だがそれも束の間の事。


 すぐさま再びソファーへと座り直すと、デスモンは口角を吊り上げた。


「はは」


 彼はキャロルという女が人を見る評価基準、そのハードルが誰よりも高い事実を既に知り及んでいた。


 そんな彼女にここまで言わせる人物。


 それも未だ幼い齢にして、それ程出来るのであれば、将来性の有無は考えるまでもなく明らかだ。


「そうか‥。ますます興味が湧いたよ」


「それは何よりです」


 だからこそ、デスモンはこの教育機関に好んで出入りを繰り返していた。


 昨今では、様々な国が多様性を推進しているにも関わらず、人権の有無について口煩い所が増えた。


 自国でも厳しい規制を固められていて、子供の育成など自由には中々出来ない。


 そんな中、金さえあれば大概の事が叶う日本という国を見つけたのだ。


 この国は先進国であるにも関わらず、どうやら自浄作用が全く無いらしい。


 否、そうであるからデスモンはこの日本が好きだ。


 最早愛していると称してさえそれは過言ではない。


 英才教育を施すなど、様々な保護者の方々からの要望を受け入れるのであれば、制限が無い土壌が必要なのだ。


 その点においてこの学園は全てを受け入れて、其処から発掘される人材はデスモンが喉から手が出る程欲する原石である。


 更には国民へと英才教育を国が推進しているのだから、他諸外国とは異なり、大変素晴らしい政策をお持ちだ。


 そうデスモンは内心で思考を巡らせると、応接室に置かれた卓上のソーサーを手にした。


 そしてティーカップを取ると、其処に納められた紅茶を一息に飲み干した。


 恐らくそれなりの茶葉を使っているのだろう。


 鼻から抜ける風味からは、市販品では無い品が其処には感じられた。


 と、その様にしてこれからの人材の発掘に対する喜悦を見出しているデスモンであったがそれも束の間の事。


 同所へとノックの音が響く。


 次いで扉を開けた男が足を踏み入れてきた。



「失礼致します。遅れてしまい誠に申し訳無い」


 そんな塩梅に低姿勢で姿を現したのは、白髪の壮年の男性であった。


「ヘルゲイ理事長」


 これを前にキャロルは立ち上がり、挨拶を返そうとしたがそれをヘルゲイと呼ばれた男は手で制す。


「そのまま楽にしていてくれたまえ。いやいや、本当に時間が間に合わずに君に応対させてしまって申し訳なかったね」


「いえ」


 その振る舞いは理事長という位に反して妙に畏まった所があった。


 デスモンとは対称的に、常に相手を上に立てる様な口上が特徴的だ。


 容姿の上でも、デスモンは夜闇の如く漆黒の髪で、顔立ちも迫力のある鷲鼻と相まって自ずと相手を威圧する。


 それとは真逆、ヘルゲイという男は緩やかなウェーブの掛かる白髪を後ろに流し、顔立ちは何方かといえば東洋人の血が強いだろう。


 側から見ても、大変穏やかな印象を他者へと与える容姿をしていた。


 その外見に違わず柔和に細められた瞳と共に浮かべられる笑みは、相手の心へと取り入るに値するだけの効果がある。


「理事長、前置きは良い。早速本題に入ろう」


 だが、デスモンはそれに対して態度は傲岸不遜に変わらない。


 そのまま不躾にもヘルゲイより先に口火を切った。


「ええ。勿論お時間は取らせません」


 だがこれにも動じる事なく、相変わらず落ち着いた素振りで自らもデスモンとは対面のソファーにヘルゲイは腰を落ちつけた。


 二人は向かい合い、互いに相手を見据えた。


「先程彼女、キャロルと話をしたのだが‥。此方の要求は─」


「はい。重々承知していますよ」


 そしてデスモンが口上を終える前に、ヘルゲイはその穏やかな面持ちを崩さずに言った。


「ならば保護者との交渉を含めて其方の言い値で構わない。よろしくお願いする」


「これはこれは。相変わらず大変器が広くあられますね」


 最早内容を語るまでもなく、人材の発掘は幾度も行ってきたが故に、どうやら手慣れた事の様だ。


 敢えて話を詰める必要も無く、これは形だけの交渉に違い無かった。


 それ程にデスモンは、業界内の立場において重鎮に位置していた。


 だからこそ、同学園にも多額の出資を行い、人材の引き取りにも金を惜しまない。


 何故ならば新たな逸材はそれだけ金のなる木に他ならないのだから。


 彼の業界においては、今し方交わした交渉で支払う代償は、所詮端金である。


 その手の界隈で一度に動く巨額な利益に比べれば、到底及ばないだろう。


 だからこそ金の払いを厭わずに、何事も円滑に物事を運ばせるのが、デスモンの主義であった。


 その様な塩梅に彼は形だけの下準備を手早く終わらせると言った。


「それでは実際に改めて見せてもらうとしようか。この学園の育成がどれだけの逸材を生み出したのかを」


 その眼光も鋭く口端を歪ませる姿は、側から見てもやはり彼がやり手の人種であるのが窺える。


「ええ。此方こそよろしくお願いします。ほらキャロル君、案内を」


 そしてこの流れで水を向けられたキャロルは、予め言い含められていた。


「はい。畏まりました」


 その為、慌てた素振りも無くその場から立ち上がり頷いて、肯定の意を示したのであった。



 *




 所変わって此方は演劇科のアリスが所属するクラスである。


 先程までキャロルが席を外していた為、皆は現在各々自己で練習に励んでいた。


 ただ、その中でどうやらアリスだけ共に演じ合う仲間がおらず一人孤立してひたすらに大本へと視線を落としていた。


 その光景を前にして、今し方にキャロルに案内されて同所へと訪れたばかりのデスモンは、怪訝な面持ちを露わとした。


「何故彼女だけ皆の輪に加わらないんだ?」


「‥それは、あの子は少し特別で‥」


 ─良く言う


 キャロルの取り繕う姿から生じた、濁らせた返答は、デスモンへと確信をもたらせる。


 何せ側から見てもあの少女が集団の輪から外れているのは明らかだ。


 故にそれを、この教師という立場の女が認めた難いのも頷ける。


 これをデスモンは、少し粉でも掛けて見るかとでも言わんばかりの態度で、教室の隅から足を運ばせた。


 だがその途中、アリスの手前に控えていた使用人と思しき女に声を掛けられた。


「何用ですか?」


「ああ、私はこの学園に微力ながら出資させて頂いている者でね。少し彼女と話をさせてくれないか?」


 少女との間に割り込まれて、けれどもデスモンは怯まずに己の身分を証明して見せた。


「エマさん。彼は、理事長からも許可を貰っています」


「畏まりました。不躾にも呼び止めてしまい、申し訳御座いませんでした」


 これにキャロルが後から補足をして、これにはエマも得心したとでも言わんばかりに、この場を引き下がる。


 そしてアリスとの会話の許可を得た所で、デスモンは口を開いた。


「君が確かアリス君だったね。先生からお話は聞いているよ」


 そうデスモンは予めキャロルからその才能を聞き及んでいた。


 このクラスへと所属する二人の少女の実力の解説を受けて、デスモンは己が目でそれを確かめるつもりだ。


「‥」


 だが彼の言葉に対しての反応は芳しく無い。


 否、それどころかアリスから返答は得られなかった。


 彼女はそのまま台本に視線を落としたまま、深く物語へと没入している様だ。


 傍目にも見てその常人を遥かに凌駕する集中力は、同年代の者達と比べて並外れているのが容易に理解出来る。


「すみません。本当にアリスさんは特別で、とても優秀なんですけれど、練習してる時はいつもこうなんです」


「いや、構わないさ。それだけ熱心だという事なのだから」


 その言の通り、デスモンは己の言葉を意に介さないアリスという名の少女に、特段気を悪くしなかった。


 とはいえ実際に話をしてみたいというのはデスモンの本音であるのもまた事実。


 だからこそ根気よくアリスが台本の文章に視線を落としている間は、この場に身を置く必要があった。


 そしてこれを良く思わない輩も同所には居合わせていた。


「ねぇ、あれって」


「うん‥。なんでアリスさんなんかに‥」


「やっぱりお家が特別だからでしょ」


「だよね。じゃなきゃおかしいよ」


 その様な口さがない少女達が、アリスを一方的に非難する言葉が、同所へと妙に響いては聞こえた。


 そう最早声を潜めるまでも無く、どうやらアリスの孤立は周知の事実としてクラスには認識されている様だ。


 だからその嫉妬故に、人前では憚られる様な心無い会話も交わされている。


 そして悪意ある言葉の出所、その発された全てがアリスと同性の少女達からであり、異性からの批判は無い。


 やはり彼女の容姿が傍目にも美しい事が相まって、少なく無い反感を抱かれているらしい。


 少なからずその要素もまた含まれているに違い無かった。


 と、自ずと思考出来てしまう程には、露骨な虐めに対してデスモンは考察していたのも束の間の事。


 不意に台本へと視線を落としていたアリスが漸く顔を挙げた。


 次いで彼女は、自らの傍らに居るデスモンを視界へと定めた。


 これにデスモンはここぞとばかりに口を開く。


「やぁ、アリス君。随分とその台本に夢中みたいだったが‥。いやはや‥凄い集中力だね」


 それと同時に称賛の言葉を贈る彼を見上げて、アリスは小首を傾げた。


 その際に、金色の艶やかな長髪が頬を撫で、肩口へとサラサラと落ちる。


「‥だれ?」


 自らの知らない人物から褒められた事が、大層不思議であったのだろう。


 まるで宝石の如く美しい大きな碧眼を、可愛らしくパチクリとして、長く艶かしい金色の睫毛を二、三度揺らした。


 次いで彼女は可愛らしいその面持ちに、怪訝な表情を浮かべるとエマへと視線を遣った。


「この方は演劇の舞台監督さんで、デスモン・ハイネさんです。アリスさんもご挨拶をしてくださいね」


 だがこれに受け答えたのはエマでは無く、何処か焦燥を露わとしたキャロルである。


 傍目にも見て、緊張しているのが窺える。


 どうやら自身の立ち振る舞いに無頓着なアリスであるから、何事か粗相をしないかと、気が気では無い様だ。


「‥ん‥、わかった」


 未だ了見を得ないとでも言わんばかりに、何処か眠たげな眼差しながらも、彼女は素直に一つ頷いて見せた。


 傍目にも分かるが、台本を読むのに疲労してしまい、どうやら眠気を覚えているらしい。


 そして未だに定まらない焦点のまま、口を開く。


 「アリス」


 とはいえキャロルの内心などいざ知らず、無礼にもたったの一言そう返すアリスだった。


 「アリス?」


これにはさしものデスモンとて予期せずして不意を打たれて、否が応にも呆気に取られた面持ちを晒す羽目となる。


無論予めアリスの名を知り及んでいたのにも関わらず彼女の突飛の無い、極めて無愛想な挨拶に驚いていた。


否、彼女のその様な不躾な立ち振る舞いとて、キャロルから事前に説明を受けていた。


だが、寧ろ愛想が悪いとすら思える程とはまさかデスモンも予想だにしていなかった。


同学園で英才教育を施されている者であるから、そのアリスという少女の身が令嬢という立場も相まって、初めは礼儀を払うと思考を偏らせていた。


故に、平素から無駄を省く主義の彼には珍しい事だが、思わずといった具合に、アリスの名を鸚鵡返しに口としてしまった。


「そう」


しかながらデスモンの態度とは裏腹に、アリスの返答は相手に対しての興味を抱いていないのが鮮明に理解出来る程に、至極淡々としていた。


 ただ、極めて素っ気ないその挨拶は、まるで温かいミルクへと砂糖を注いだかの様な、甘ったるい声をしていた。


 自ずとデスモンはアリスの声に聞き入り、それから感嘆にも似た念をその心中に得た。


 可憐な美貌に違わず、その印象と変わらない可愛らしい一声に、デスモンは確信を抱く。


 演劇に限らず、人で魅せる商売である界隈では容姿のみならず、その声質もまた求められる要素であった。


 故に、愛想の無い立ち振る舞いを除けば、このアリスという少女は、およそ欠点が皆無の完璧な存在と称して差し支えないだろう。


デスモンは、その舞台監督という立場から一切の打算や計算も無く、普段から自身の利益に関して執着を見せる彼にしては異常な事であるのだが、只々純粋にそう思った。


「では改めて此方から自己紹介を。私の名はデスモン・ハイネだ。デスモンと呼び捨ててもらって構わない。アリス君。どうかよろしく頼むよ」


「‥ん、よろしく」


 そんな人形の如き精緻な美貌を誇るアリスへと、一瞬遅ればせながらも、すぐさま手を差し出して握手を求めるデスモン。


 これに特段何の感慨も抱いた素振りも無く、傍目にも見て適当に応じるアリスの姿は、それでも尚可憐である。


 寧ろ心底から関心がない様で、大きな瞳を半眼にして気怠げに接する彼女からは、その年齢に反して何処か色香すら感じられた。


 やはり美しい容姿は人を魅了するのだと、デスモンは改めて天使の様な少女、アリスに出会い思い知らされた。


 齢幼いにも関わらず、アリスという少女はそれ程までに可能性の塊だった。


 未だ舞台の上の彼女を一目すら見ていないのにも関わらずデスモンはまるで、この少女の才能の輝きの片鱗を理解させられた様な心地となるのであった。








 演劇の練習を始めてから暫く、アリスは目覚ましい成長を遂げていた。


 それも急激な飛躍からか、学園でのクラスにおいて周囲を圧倒してしまう程に。


 彼女は自らが身を置く環境に抗う為、その立場を強固としていた。


 無論虐めは依然として続けられており、口さがない者達からの誹謗中傷は絶えない。


 けれどそれに挫けてしまうアリスでは無く、傍目にも彼女は気丈な振る舞いを周囲にも見せ付けていた。


 だからだろう。


 本日も演劇の練習の最中、アリスは絶える事の無い陰口に晒された。


 その内容は主に妬みが大半であったが、加害者は自らの醜さを自覚していないのが傍目にも理解出来る。


 彼等彼女等は一方的にアリスを非難して、彼女に及ばない自身を慰めているに過ぎない。


 所詮は有象無象の言葉など間に受けるに値しないのだから、アリスは気にする必要はないと断じたのだ。


 そして同時に、彼女は周囲の人々とのコミュニケーションを完全に拒絶していた。


 故に今現在のアリスは、孤立の一途を辿っていた。


 迫害に真正面から抗えばこうなるのは、アリスもといその中身の聖は痛い程にその経験から理解出来ている。


 とはいえ自らが選択を間違えたとは思わない。


 何故ならばいじめの加害者とその被害者は相入れる事は無いのだから。


 良くも悪くもアリスは愚直であり、依然として同性の少女達からの悪意に翻弄されていた。


 最早これ以上悲惨な環境は無いだろうと思えてしまう程に、アリスは劣悪な学園生活を送っているのだ。


 無論直接手を出してくる様な暴力などは無いが、陰湿な陰口はもしかすれば肉体的な痛みよりも心をよりいっそう疲弊させるのやもしれない。


 その証左としてアリスは精神を磨耗させていた。


 けれどそれとは対称的に、常人を遥かに上回る演劇への没頭を見せて、実力には更なる磨きがかかっていた。


 だからアリスは今日も今日とて、このクラスにおいての一人、孤独の主役を務める。


「アリスさん。素晴らしいですよ。ええ、本当に」


 そんなアリスの緻密な演技を目の当たりとしたのだろう。


 不意に彼女へと与えられる称賛の言葉が教師であるキャロルからもたらされた。


「はい」



 絶賛と称しても差し支え無いキャロルの態度。


 それを特別喜ぶ素振りも見せずに淡々とアリスは受け流した。


 恐らく本心から興味が無いに違い無い。


 彼女は基本的に他者には無関心であり、消極的な性格だ。


 否、これまでの人生において散々迫害を受けてきたが故に、自らの殻に閉じ籠る以外の術を知らないのだ。


 だからこそアリスは周囲など気に掛ける事なく、出来るだけ最善の結果を残そうとする。


 それは彼女なりのやり方となり、当然ながら他の者達からの反感は免れない。


 特にミラという少女を中心として築かれる少女達の集団からはだかつの如く煙たがられていた。


 それ程までにアリスは嫌われていたし、それは彼女自身もやはり鬱陶しく思っている事には相違無い。


「その調子です。流石ですねアリスさん」


 けれどそれに反して、キャロルは少女達と比してアリスに魅入られていた。


 以前からその傾向が殊更に強い彼女であったが、今現在に至ってはより一層その心中が露わとされている。


 さしものこれには彼女が担当する生徒等も辟易といった塩梅に、露骨な贔屓に対する反発は日々溜まる一方だった。


 それも致し方ない事であり、何故ならば曲がりなりにも教育者という立場である以上キャロルは、生徒に接する際には例外なく平等に振る舞わなければならないのだ。


 にも関わらず彼女は傍目に見ても明らかにアリスへとその労力を一等割き、大きく肩入れしている。


 そしてこれは最早周知の事実として認知される様になり、生徒たちの不満も限界に達している。


「ミラさん、もう少し抑えてください。ここはアリスさんの重要な場面ですので」


 だが、アリスのそんな技量も、演劇の天才たるミラには到底及ばない。


 後者に演技は遥かにアリスのそれを凌駕する。


 そも熱量からして比べ物にならないのだから、傍目から見ても何方が演劇において優れているかなど明白である。


 故に今し方ミラがキャロルよりもたらされた言葉とて、原因はアリスにあり、また足を引っ張ってしまった形だろうか。


 何故ならば、幾らミラの演技が突出して上手くとも、演劇はあくまで総合芸術である。


 主役であるアリスの役をも端役足るミラが喰らってしまっては不味いのだ。


 だからこそ、後者には前者に合わせてある程度手を抜いてもらう必要があった。


「どうしてですか先生。主役を任されているなら本来アリスさんが私に合わせるべきです。その実力もないならこの場に相応しくありません」


 そして苛烈と称して差し支え無い罵倒にも似た、アリスを非難するミラの言葉が教室へと妙に大きく響いては聞こえた。


 これは正論ではあるが、あまりに理路整然とした物言いで、ミラは言い方を選ばない。


 その為自らの言に明確な悪意が含まれていて尚、彼女はアリスへと躊躇いも無く言い放つ。


 この強烈に過ぎる指摘を受けて、しかしもたらされた本人では無くキャロルが反論に口を開いた。


「ミラさん。私はもう既に幾度となく言った筈です。主役はアリスさんです。これを無視して自身の感情に身を委ねるのを良しとするのは三流以下の振る舞いですよ」


「くっ‥」


 するとどうだろうか。


 痛いところを突かれたのか、珍しくミラは閉口するばかりである。


「それはミラさん。貴女自身理解しているのでは無いですか?」


「それは‥。分かってます。先生もう良いです‥」


 奇しくも今回完封された形となる彼女は、キャロルから視線を逸らし早々に降参の意を示した。


 どうやら部が悪いと悟り、これ以上周囲への醜態を晒す事の方がデメリットだと理解したのだろう。


 当然アリスはこれをまるで他人事の様に側から眺めているだけで、特段勝ち誇った様子も無い。


 だからこそ余計にそのすました態度がミラの癪に触る様で、少なからず苛立ちを露わに、その勝気な眦を吊り上げた。


 けれどそれも束の間、すぐさま表情を戻すと冷淡な面持ちのままに、再び演劇へと戻る。


 これに合わせてアリスも平素通り、日々の日課である演技をこなしてゆく。


 そしてやはりというべきか、キャロルから見てもアリスの実力は並外れているものの、一歩ミラには届かない。


 アリスにはミラと比べて熱量が無いのだ。


 台本を完全に記憶していて演技もマスターしているが、案の定其処に感情が乗っていない。


 それとは対称的に多少のアレンジが目立ちながらも、ミラが演じる狂言回しは確固たる演劇に賭した想いが傍目にも理解出来る。


 精度で魅せるアリスと、実力で示すミラはやり方こそ異なれど、何方も優秀である。


 だが、前者は秀才であり後者は紛れもない天才であろう。


 にも関わらず一体何故先日アリスの方がデスモン・ハイネから先んじて声が掛けられたのだろうか。


 それがアリスにとって不思議であったし、教師であるキャロルにしても不可解極まりなかった。


 無論キャロルから見てもアリスとミラ、その両者の実力の差は歴然だ。


 アリスには超えられない壁がある。


 ミラという少女は持ち前の才能からそれを踏み越えていた。


 ならば何故そんなミラが主役に選ばれなかったかといえばその理由は明白、単純にアリスの容姿が主人公たる配役と合致していたからに過ぎない。


 優れた容姿とてまた才能であるとはキャロルの考えであるが、それがミラには理解出来ないらしい。


 故に、その理不尽を前にミラは一方的にアリスを非難しているという話であった。


 これに賛同した者達がミラを中心にして、アリスへの虐めを続けているといった現状だろうか。


 ただアリスは依然として続く自らに対しての嫌がらせを意に介さず、淡々と日々を過ごしていたのであった。

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貧困家庭であり、学校でも虐められている少年が、将来有望なアリスお嬢様と脳移植で入れ替わるお話 @yukinokoori

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