(4)エルフと布団
気づけば、時計の針は夜の十時を回ろうとしていた。思い返せば、今日もいろいろあったが、明日からの取り決めも無事にまとまり、何よりフィリアにしっかり休んでもらうためにも寝床の準備を進めなければ。俺は押し入れから布団を取り出し、畳の上に広げ始めた。
「そろそろ寝ようか」と声をかけると、フィリアは少し戸惑ったようにきょとんとした表情で周囲を見回し、何かを探すように尋ねてきた。
「…木は、どこですの?」
その一言に、エルフ族の暮らしが一気に頭に浮かぶ。なるほど、彼女の言う「世界樹の麓での生活」っていうのは、木の上で眠るような文化だったのかもしれない。異世界の常識って、俺たちにはやっぱり理解しがたいものがあるらしい。ふと、小学生の頃に家に来た金髪で青い瞳のホームステイ生を思い出す。まだ幼かった俺に、「Where is my bed?」と聞かれ、英語が全然分からなくて固まったあの記憶。異国でも異世界でも、常識が通じないってことは同じなんだなと妙に納得してしまう。
俺は思わず笑いながら、「いやいや、この世界では木に登って寝るんじゃなくて、こうやって布団で寝るんだよ」と、広げた布団を指さして見せた。
フィリアはその布団をじっと見つめ、次の瞬間、まるで宝物を見つけたかのように目を輝かせた。そして、恐る恐る布団の上に乗り込むと、ふわふわの感触に感動したのか、顔を埋めてころころ転がり始めた。
「これが…寝床ですのね!ふわふわ…ですわ~!」
フィリアのその純粋な喜びの声に、俺は思わず微笑む。無邪気にはしゃぐ彼女の姿が、今日一日の疲れと緊張をじんわり溶かしていく。こういうところ、本当に不思議な子だなと思う。
「じゃあ、俺は隣の部屋で寝るから、フィリアはここでゆっくり休んで」
そう伝えて、自分の部屋に戻る準備をしようとしたとき、フィリアの視線が鋭くこちらを向いた。その瞬間、胸の奥で何かが引っかかる感覚が走る。
エメラルド色の瞳が少し潤み、唇をわずかに尖らせながら、彼女は戸惑いと不満が入り混じった表情を浮かべている。そして、おそるおそる口を開いた。
「え…!い、一緒に…寝てくださらないのですか…!」
その言葉に、一瞬、頭が真っ白になった。彼女が何を言っているのか理解するまでに、妙に時間がかかる。
「いや…その…普通はね、別々に寝るのがこの世界の、えっと…常識っていうか…」
俺はなんとか返事を絞り出すが、心の中は完全にざわついていた。彼女の言葉が、無防備でまっすぐなだけに、どう対応すればいいのか分からない。
「で、でも…!」フィリアは声を震わせながら、なおも食い下がるように言葉を続けた。「さ、先程、なにも分からないこの世界で私の面倒を見てくださるとおっしゃいましたのに…どうしてお一人でお休みになるのですか?」
その訴えが切なくて、胸がぎゅっと締め付けられる。異世界から来たばかりで、不安や孤独がないわけがない。こんな夜にひとりきりで眠るのは、確かに心細いに決まっている。
「私の心には、ぽっかりと穴が開いたようで…そこに風が通り抜けていくような寂しさがありますの…」
彼女の声はさらに低く、けれどどこか諦めたくない意志が滲んでいるように感じられた。その言葉の一つひとつが心に刺さり、俺は困ったように視線を逸らすものの、エメラルド色の瞳から目を離せない自分がいた。
その目には、不安と孤独が色濃く滲んでいる。頼れる人もいない異世界で、彼女が抱える心細さは想像を絶するものだろう。俺は何とか口を開き、彼女を安心させるための言葉を探した。
「…分かったよ」
その一言を口にした瞬間、自分の中の迷いがすっと消えていくのを感じた。「じゃあ、隣で寝る。ただ、すぐ隣で一緒に寝るのは…その…恥ずかしいから、少し離れて布団を敷くからね」
フィリアはようやくほっとしたように表情を和らげ、安心したような笑みを浮かべた。その笑顔があまりに柔らかくて、俺の胸の奥まで温かくなった。「あ、ありがとうございます…!」と小さな声で礼を言う彼女。その声には、今までの不安が少しずつ溶けていくような響きがあった。
俺は隣に布団を敷き、彼女が目を閉じるのをそっと見守った。静かな寝息が聞こえてきて、フィリアがようやく安らかな眠りについたことを感じる。それでも俺はなかなか眠りにつけなかった。隣に彼女がいるという非日常的な感覚、そしてこれからの生活への期待や不安が頭の中をぐるぐると巡っていた。
こんな日々が続いていくのだろうか。それとも、これはただの束の間の幻なのか——そんな考えが胸をよぎる。
けれど、ふと彼女の寝顔が目に入った瞬間、不思議なほど心が静かに落ち着いていくのを感じた。無邪気で穏やかなその姿は、まるで絵本の挿絵から飛び出してきた天使のようで、その一瞬一瞬が俺の心を癒してくれる。そして、月明かりに照らされた銀髪が、夜空に散りばめられた星屑のように輝いていて、息を飲むほどの幻想的な美しさを放っている。
彼女がこの世界にいるという事実が、奇跡のように思えた。
その寝顔と輝く銀髪を見つめていると、彼女を守りたいという気持ちが心の奥底から湧き上がってくる。それは、理由も理屈もなく、ただ自然と湧いてくる感情だった。
やがて、夜の静寂に包まれるように、俺もようやく目を閉じた。その夜の空気はどこか穏やかで、彼女の存在が少しずつ俺の中に溶け込んでいくような、不思議な感覚を抱きながら——静かに眠りに落ちていった。
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