2-9
普段はほとんど表情を変えない妹が、驚きの顔でアランを見ている。
ルディアがこんな顔をしたのは、遠い国にはカンガルーという生き物が存在し、しかもその革を使った靴がオルハラ国に渡ってきていると知ったとき以来のことである。
アランはそれが
「最近、とある女性と出会って……彼女は大人しくあまり社交的な方じゃない。しかも最近母親と祖父を亡くして気落ちしている。どうにか彼女を勇気づけてやりたいんだが……」
アランは
「まぁ……それはお気の毒に」
ルディアは、はっと気づいたかのような顔をした。
「お兄さま。親族がふたりも亡くなるなんて、まさかその方は『魔術師の靴』の関係者ではなくて?」
相変わらずするどい。
アランはうなずいてみせた。
持ち主を不幸にする魔術師の靴は、持ち主本人でなく、身近な人物で
アランやルディアも、人死にが続く家の噂には耳を
「靴を履いていらしたの?」
「いや、うちに持ってきたんだ。彼女はまだ履いていない」
「よほど精神の強い方ですのね。靴の誘惑を寄せつけないなんて……そういえば、まさかお兄さま、その方をいつもの方たちのように
こういうところもするどい……。
彼が押し黙ると、ルディアはあきれたようなため息をついた。
アランはここ最近「不思議な靴がある」と押しかけてくるしつこい女性客(ルディアに言わせると、恋に恋する
あまりにも次々とやってくるので、女性が靴箱館にたずねてくるだけでげんなりするようになってしまった。
朱色の名刺は、かなりの
クリーム色の名刺は、本命筋ではないが、
水色の名刺は、一応アランのもとへ案内するが、相手にするだけ時間の無駄。
『噓つき女』を表す水色の名刺をエデルが手にしていたのを見たときから、「またか」という怒りがこみあげてきたのである。
思えばエデルとは、出会いもよくなかった。今ごろになって歯が浮くような
「お兄さま。水色の名刺を持っていた方でしたのね。でも靴は本物だった。今更どうしていいか分からないと、そういうことでよろしいのかしら」
「だいたいは」
「重ねて確認いたしますけれど、相手は本当に女性ですのね。ドレスを着た
「社交界で悪いことばかりをおぼえてくるようなら、今すぐ父さんに
「それでお困りになるのはお兄さまでしょう。舞踏会シーズンのご令嬢の足元は緑で間違いないとお教えしたのはわたくしです」
ルディアは自信ありげにうなずいてみせた。
「大丈夫。女性のことならわたくしにお任せを」
ハンドバッグから本を一冊取り出して、アランに手渡す。
厚手の革に、四方を金の
アランは革表紙をめくって、中身をたしかめてみる。
『これで間違いなし! 初恋
「……いらない」
「何をおっしゃいますの。いいですか、お兄さま。女性が元気になる道はひとつしかありません。恋愛です。恋がすべてなのです!」
「でも、別に俺は彼女のことをそういった目で見ているわけでは……」
言いつつぱらぱらとページをめくると、いくつか気になる章が──いや、これ以上ルディアに口を出されたくない。
だいたいルディアは、こんなものどうやって手に入れたんだ。まさかご令嬢の間で流行っている本でもあるまいに。
「お兄さま。その方を元気づけてさしあげたいのでしょう。女性は恋をすると、気持ちもお肌も前向きに輝くものなのです」
「本当か……?」
アランは後ろ向きすぎるエデルの顔を思い浮かべた。
いつも自信なげで落ち着かず、人と目を合わせようともしない彼女の姿がありありと思い浮かぶ。そんな彼女が前向きに……。
もしかしたらこれは、エデルが劇的に変わる好機になるのでは? 彼女が新たな一歩を踏み出せる、大きなきっかけに。
「待て、今恋と言ったか」
「申し上げました」
アランは冷や汗をかいた。妹の手前多少含みを持たせてエデルのことを話してしまったのだが、アランにそういった気持ちはない。
「今……彼女にとってそういう時期ではない」
「気持ちが弱っているときだからこそですわ」
できの悪い生徒に言い聞かせるように
自分の形勢が不利になってきたことを
「俺は弱みにつけこんで
ルディアは眉じりを下げて、
「でしたら、ただ慰めてさしあげるとよろしいですわ。別に大げさに、その方と恋愛をしようと肩の力を入れなくてもよろしいのよ。男性に優しい言葉をかけていただくだけで、女性というものは勇気づけられるものなのです。そこから恋愛に発展させたくないというのならば、この第一巻のテクニックだけかいつまんでおけばいいのですわ。実地的な恋愛術は第二巻から始まりますから、この巻ではせいぜい『感じのいい人』止まりで調整できます」
「そ、そうなのか……感じのいい人というのはかなり
ちらと見たページには、思わず二度見してしまうような
これでエデルが元気になるのなら、それにこしたことはないのだが。
「ええ。女性ははっきりとものを言っていただけるまで動けないものなのです。思い切った言葉を
「いや、でもこういうのは俺の性格に合わない……」
「大丈夫です、お兄さまにできないことなんてございませんわ。靴店も立派に経営なさっておりますし、ガラスドームの靴はとても評判がよくって……女性の心をがっちりとつかんでいる
「噂が本当でないのなら、女性おひとりを勇気づけてさしあげることくらい、簡単なことですわね?」
ここまで言われて
アランは
「ああ……もちろんだ」
彼は恋愛
満足そうな笑みで兄を見送ると、ルディアは控えていたメイドを呼んだ。
「よろしいのですか。アランさまのことをあのようにからかってしまわれて」
「からかってなどいないわ。不名誉な噂については本当のことですもの……でも……ふふ」
兄はあの指南書を今夜真剣に読みふけることだろう。根がまっすぐな彼はきっと
うぶな兄はこれくらいでもしないと恋などできないに違いないのだ。
(お兄さまの女性
「少し
「アランさまが
「それはなくてよ。お兄さまは気づいていらっしゃらないけれど、どんなに遠ざけようが女性たちはお兄さまに
「何せわたくしたちは、シンデレラの
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