2-7


「なんだ、こんなに騒ぎたてるとは」


 アランが金庫に近づいて、たしなめるように扉を叩く。

 エデルはそのとき、みずびせかけられた気分になった。


(そうだ──。一番作りたかった靴はもう……)

「どうした?」


 アランがエデルのへんに気がついて、眉をひそめる。エデルは目を閉じて、不安を追いやった。


「……靴、見せてもらってもいいですか」


 すっかり金庫の中身が大人しくなったので、エデルはアランにたのみ赤い靴を出してもらった。

 あれだけ激しい音を立てていたというのに、ヒールはけておらず、甲の部分に傷ひとつついていない。


「お母さん……」


 エデルはそうつぶやいて、靴の表面を撫でる。

 さざなみのように孤独がやってくる。

 母との思い出ひとつひとつに悲しみがかぶさって、どうしても前に進めない。


「──その靴を履きたいとは、今も思わないのか?」

「……? はい。これは母のものですから」


 アランは納得しきれないような顔をして、腕を組んでいる。


「ヴァイオレット・ファーだな。お前の母親は」

「調べたんですか……?」


 オルハラ国一のげきだんで、十年間看板女優の座を誰にも譲らなかった不動の女王がいる。

 どういろかみに透けるような色白の肌をして、けがれを知らない少女からようえんぼうじんにいたるまですべての役柄を演じきった。

 歌い、おどり、叫ぶ彼女の姿を見るため、多くの人々が劇場へとつめかけた。

 舞台の女王の名はヴァイオレット・ファー。本名、ヴァイオレット・アンダーソン。

 エデルの母親である。


「赤い靴のことについて、調べる必要があった。元の持ち主からほかの靴も見つかるかもしれないと」


 エデルは改めて彼の書き物机を見る。新聞紙や劇場のちらし、古いチケットの切れ端、そしてヴァイオレットをいたみ、最後の舞台を特集した記事。

 ヴァイオレットが赤い靴を所有していたのだから、彼女がほかにも魔術師の靴を持っていた可能性がある。そうでなくとも、赤い靴が彼女のもとにやってきたルートがあるはずだ。

 ヴァイオレットに赤い靴を渡した人物がいるなら、その人間がほかの女性たちにも靴を手渡しているかもしれない。

 人命がかかっているのだから、アランとしてはぜひとも洗い出したいところだろう。

 アランは言いづらそうに口にした。


かつに調べるようなまねをしたが……」

「……かまいません。フロンデでは、みなが知っていることですから」


 きっと彼はすべてを知っているのだろう。

 ヴァイオレットがおつとのいない身で子を産んだことも。

 その子を自分の父親に預けて、王都へ戻ってしまったことも──。

 エデルは実の父親が誰かを知らないし、母親が過去に流した浮き名のこともくわしくは分からない。

 祖父は父親に関することはおろか、母に関することもエデルがきようを持つのを嫌がった。

 フロンデは小さな町だった。みなエデルを、世界で一番不幸な子どものように見る。

 たしかに両親はいないも同然であり、デルタとは祖父と孫というよりは師弟の関係であった。

 それでも、エデルは母親を愛していたし、靴作りを教えてくれた祖父を尊敬していた。


(お母さんは世間で言われているような人ではない……それは私がよく知っている)


 母は何か事情があって、子どもをフロンデに置いていったに違いない。

 そうでなければ、娘を置き去りにするのにあんなにためらう必要はなかったのだ。

 その事実を知っているのは、今ではもうエデルだけなのだが──。

 アランはしばらく赤い靴をながめてから、そっとつぶやいた。


「その靴をそんなに大切にしているのなら、いい母親だったんだろうな」

「え……?」


 エデルは目を見開く。

 想像していたものと違う言葉が彼の口からこぼれていた。


「いくら親とはいえ、長らく離れて暮らしていたんだろう。それだけ必死に靴を手放そうとしないのだから、一緒に暮らしていたときにさぞかしなついていたんだな」

「そ、そうです。お母さんの舞台が終わるのが、ずっと待ち遠しかったくらいで」


 アランはふっと、ごく小さく口角を上げ、すぐさま元に戻した。


「……ただあまり、魔術のかかった靴にけいとうしすぎるのは感心しない。思い出を取り上げはしないが、自分にも危険が降りかかるかもしれないことを忘れるな。俺がいるときにしか金庫は開けるなよ、いいな」

「えっと、その……」


 エデルは赤い靴を抱えて、もじもじと体をすった。

 はじめての反応に、なんと返していいのか分からない。

 ヴァイオレット・アンダーソンはたしかに世間の母親と比べれば、りないところがたくさんあった。娘を遊びに連れて行ってやったことも、衣服を繕ってやったこともない。

 ただエデルが熱を出した夜、ぎこちない手つきでスープを作ってくれたことは覚えている。母は火傷をこしらえ、野菜のかすやこうしんりようの粉がらばり台所はひどい有様となった。

 一口エデルがスープをすすると、ヴァイオレットはまるで自信のない試験の結果を待つ子どものように「どうだった?」とたずねるのだ。


「なんだ」


 なかなか言葉を出せないエデルに対し、アランはいらついた声をあげる。


「お母さんは本当に、ずっと会えなかったけど……わ、私にとっては、優しい母親だったんです。そう言ってもらえて、うれしくて」


 エデルはたどたどしく続けた。


「それに靴も、アランさまと一緒なら見てもいいんですよね。あ、ありがとうございます」

「お前も赤い靴を見張るやくそくだろう」


 そっけなく言われたが、エデルは思う。

 本当に嫌ならアランは赤い靴を強引に取り上げてしまうこともできる。そうすれば、わざわざエデルがたずねてくるたびに金庫を開けるようなことをしなくて済む。

 けれど彼は、赤い靴をエデルと共有することを選んだ。

 そしてヴァイオレットをいい母親だと言ってくれた。かいうわさを聞いたはずもないのに。

 世間の評価よりもただ、エデルの靴に対する想いをくんでくれた。

 エデルの口元はゆるみ、心にほんのりと温かい気持ちが宿る。


「その……アランさま……優しいですね」

「……な」


 何を言っているんだ、とアランは口にしたのだが、普段のエデルと同じくらい声が小さかったので、彼女の耳には届かなかった。

 赤い靴を触って感じていたどくが、今は少しやわらいでいる。


「わ、私まだ目標……見つかってないんです。でも、ちゃんとがんばります。みなさんにごめいわくをおかけしないように、みなさんが、アランさまがいてくれるから、その……」


 エデルは赤くなって、しだいに言葉も出なくなって、どうしようもなくなってしまった。


「きょ、今日は失礼します!」


 彼女はぺこりと頭を下げて、素早く赤い靴を金庫にしまうと、鍵をしっかりとかけてそそくさと出て行った。

 アランはしばらくあっけにとられていたが、数回まばたきをしてなんとか自分を正気に戻す。

 きちんと金庫がじようできているかどうかをたしかめ、ほっと息をつく。


「……俺としたことが……あれだ、女は時折わけの分からないことを言うから……そうだ、特にあいつはそうだ……」


 アランは言いながら、何度もがちゃがちゃと金庫の扉を動かし、開かないかを確認していた。

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