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 いつもの時間になった。

 エデルはほうきを動かす手を止めて、集めた革くずを処分する。

 閉店後はアランの執務室で『赤い靴』を見ることになっている。

 間違いなく金庫の中に入っているかどうかを確認するためだ。

 この取り決めを提案してくれたのはセスで、彼のおかげでエデルは毎日赤い靴との対面をゆるされていた。

 当然ながらエデルはりように赤い靴を持って帰れない。

 しかし、店にいる間中アランが赤い靴をどくせんしてしまうため、『ふたりで靴をる』という決まりに不公平が生じてしまう。

 それではエデルがガラスドームで働く意味がないのではないか──ということを、セスは気弱なエデルに代わり進言してくれたのだ。

 アランはあまり気が進まないようだったが、最後にはりようしようしてくれた。

 それにエデルは本日報告せねばならないことがある。

 執務室の前に立つと、深く深呼吸した。


(落ち着いて、大丈夫。まず、あったことをそのままアランさまに話すこと。それが正しい報告のやり方……)


 セスにもらったアドバイスを頭の中で復唱し、覚悟を決めるとエデルは扉をノックした。


「入れ」


 エデルは扉の隙間からそっと顔を出した。

 アランはいつもぶっきらぼうなので、怒っているのかそうでないのか、分からない。

 が、大事な要件だ。彼の機嫌は関係ない。


「し、失礼します」


 エデルはそろそろと部屋に入った。


「赤い靴ならいつも通り金庫の中だ。念のため部屋の扉には内鍵をかけろよ。靴に逃げられたら困る」


 アランは何かの資料に目線を落としていて、顔も上げずにそう言った。


「え、えっと、ご報告があります」

「報告?」


 彼はエデルの方を見る。

 青紫色の瞳にこんわくの色が浮かんでいる。


「昼間のカーレンさまの件で……お客さまを怒らせてしまって、申し訳ありませんでした」

(ここで、原因を報告する)


 エデルは落ち着きなく手を動かしながら、あったことを説明しようとした。


「まずは、カーレンさまとふたりきりになったとき、おじぎがちゃんとできなかったことを、ちゅ、注意されました。そして会話を記録しようとして、それから雨のジンクスが」

「汗がすごいぞ……。とりあえず座れ」


 アランはエデルを客人用のソファに座らせ、自らも向かいの席にこしを下ろした。

 彼の執務室は、ほこりひとつなくきれいに磨かれせいとんされている。しゆうのうだなには靴にまつわる資料本や、経営関係のむずかしいしよせきが並んでいるが、にぎやかな場所といえばそこくらいでけいなものはてつていてきはぶかれていた。

 道具や靴型に囲まれる工房とは違い、このせいひつさが緊張をかきたてる。


「セスからも、ディナセルクの令嬢からも話は聞いている。今日のさわぎに関してだが」

「は、はい……」

「接客に不慣れなお前を少しの間でも放っておいてしまった俺にも責任がある。まぁたしかに、記録のあたりはお前も少し気を遣ってほしいが。個人的な情報をむやみやたらと書き残すものではない」

「はい……気をつけます」

「令嬢には俺から話して、後日また来店していただくことになった。相手にもやりすぎたところがあるし、それは本人も反省していた」


 なんとかまるく収まってくれたらしい。

 エデルはほっと胸を撫でおろした。


「それから意外と俺はお前を見直している」


 エデルは目をまばたかせた。

 今は失敗の報告をしているのであって、められるようなことはひとつもしていない。


「こんなことがあって、実は……店のどこかでお前がめそめそ泣いているんじゃないかと思っていた」

「えっ」


 心配してくれていた……のだろうか。


「まぁ、泣いていたら泣きやむまでえんえんとデザインパターンを作らせるつもりでいたんだが」

「ひいい」

「でも、意外と図太かったから驚いている」

「ず、ずぶとい……」


 なんだかいろいろと落ち込む。

 エデルが複雑そうな顔をしていると、アランは後ろ頭をかいた。


「一応は褒めているつもりだ。セスから聞いたとは思うが、うちは基本的にひとつの仕事をそれぞれが分担する。効率化のためだけでなく、困ることがあればみなで取りかかることができるからだ。ただ、声をあげなければ誰も気がつかない」

「はい」

「人を頼ることをおぼえろ。失敗を隠すような人間にはなるな。俺は靴を作れないし、最前線にはいられない。だから俺に届くようにかならず言え。いいな」

「あ、あの……私のこと、クビにしないんですか」


 エデルはおどおどとたずねた。

 この先同じようなことがないとは限らない。エデルがこの店に長く居着く前に、かいすることもできる。

 いくら職人不足とはいえ、きやくの信用を失うことに比べたら、ひとりを切る方がよほどいい。

 もともとアランは、赤い靴のがあってエデルが採用試験を受けるのを許しただけなのだ。


「なんだ、クビにしてほしいのか」

「い、いえ」


 エデルは自分でも驚くほど早く、そう答えていた。

 もちろん赤い靴のこともある。

 けれど彼女は思い出しかけていた。

 ほうちようを握りしめ、手すきで革を整えるときの緊張感。

 中底の仮止め釘を抜くときの、わくわくとしたこうようかん

 仕上げのやすりをかけるときの達成感……。

 彼はきっぱりと言った。


「お前はなんであれ、うちの職人だ。一度そう決めたのだから、かんたんには手放さない」


 エデルは胸の奥がじんと温くなるのを感じた。

 久しぶりの感覚だった。いつだったか、ずっと昔にエデルは同じような安心感を味わったことがある。

 自分をきつくきしめてくれた、温かい腕の感触。けるように通る声、ブラックカラントの香水のにおい。

 エデルが思い出しかけたとき、金庫ががたがたと音を立てた。

 ふたりははっとして、金庫の中身──赤い靴の存在を意識する。

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