第九章

1 花は心、種は態

 郵便受けに鍵が入っていた。つばめのシールが貼られていて、入れたのはセジだとすぐにわかる。電話をかけると電源が入っていないというメッセージが聞こえ、刹那、粟立つ気持ちを堪えて白鳥団地へ向かった。一〇一号室を開ける。中は閑散としていたが荷物は残っていた。束になった透明傘、文机、床下収納の植木と木彫り人形もそのまま。土はまだ湿っていた。小窓が開いていて通気はあった。文机を開けるとノートの一番上に手紙が置かれていて、『顕花サンへ』と宛書があった。何度か握りしめ、中を開く。 

『急にいなくなってゴメンネ。じっちゃんが死んだらしい。とりあえず足寄に行ってくるよ。一人じゃないから心配しないデネ。オーちゃんて南国の植物だったんだろ? あっち寒いからあずかってよ。おれの代わりに育ててやって。庭手伝えなくてごめん。』

 名刺で見た保護司の連絡先は覚えていないけど野木店長のお兄さんだったはずだ。友梨奈の連絡先もわかる。焦りばかりが渦巻く。

 手紙から紙がはらりと落ちた。『心地含諸種』という書画の写真で、裏に寺の名前と旗屋町の番地があった。寺院が多く、畳工場や、米販売店といった創業の古い商店が生き残っているエリアだ。

 想念寺の場所を調べて路を急ぎながら、何度かセジの携帯へ発信したがやはり通じない。行先の住所を残さず、なぜこれを残したのか。『おれの代わりに育ててやって』という言葉が渦巻いて、私の足を絡めとる。歩を進めるたびに動悸が強くなり胸を抉った。

「青磁理央君ですか。ええよく知っていますよ。お入りください」

 突然訪れた私を住職は快く迎え入れた。写真を見せると「彼がこれを置いて行ったのですか」と驚き、実際の書画を見せてくれる。

 お堂に通される。「理央君はこれが好きでしてね。よくここに敷物を置いて寝ていました。何度も意味を求めるのでそのたびに説法いたしましたが、いつもわからないといって笑っていました」

 住職は私と彼の関係性については訊ねなかった。手紙を受け取り目を落とし、「確かに拝見いたしました」とそっと差し戻した。

「足寄で暮らしていた期間は長くないと聞いていますが、理央君にとっては大切な故郷だと思います。愛情をかけて育ててくれたお爺様が亡くなられたというのであれば、少々時間が必要でしょう」

「彼を捨てたという両親と一緒に行ったのではと……」

「そのあたりの経緯は聞き及んでおりますが」言葉を濁すと立ち上がり「板間では冷えます。座敷へ参りましょう」と奥へ誘った。

「世阿弥は仏法僧だと勘違いされることがあるのですが能楽者でして。ただ、人の心をよく禅や仏性、悟りに結びつけましたから俗世に近い禅の体現者と申しますか、我々には親しみやすい存在です」

 座卓につき、写真に手を添える。「こちらは世阿弥が書いた『風姿花傳』という能を論じた書に出てくる一説で、続きがあります」

《心地含諸種 普雨悉皆萌 頓悟花情已 菩提果自成》

 心地に諸々の種を含み あまき雨に悉(ことごと)く皆きざす

 頓(たちまち)に花の情を悟とり已(おえ)れば 菩提の果(みのり)、自(おのず)と成る

「〝心地含諸種〟とは、心には種があるという意味になります。噛み砕けば『人の心には仏性という種が含まれる。それがあまねく降る雨にも比すべき仏法の恵みを受けて芽を出し、やがて花開く。そうした道理を理解しさえすれば、悟りという果実が自然に生じるだろう』ということです。彼はこれを、牛が草を喰(は)むように唱えていました。そして呑み込んだ後に言いました。『誰かが種を持っていてそれが咲かずに悩んでいるのなら、自分が水になって降りたい。そうすれば、そのひとは咲けるだろうから』と。私は驚きました。正に仏の視点です。彼は仏になって種を救いたいと申したのです」

「セジは……彼は未成年だから、保護者が……彼を守る存在が必要なんじゃないかと……。その、周囲の人間が感じているのだと」

「差し出がましいようですが彼は誰の助けも求めてはいないでしょう。寧ろ助けは貴方にこそ必要だと感じたのではないでしょうか」

 理央は助けが必要な人にしか近づかない。と住職は言った。私の様子を認めた住職はちり紙を卓に載せ、「あなたも大変だ」と笑みを湛えた。「花の種は心、種を芽吹かせる水と土が見つかれば、咲かないわけにはいかないですね。会いに行ってみては如何ですか」

「居場所が、分かりません……」

「ならば待ちましょう。何事も花開く前触れにはひっそりとした準備が要るのです」

 私は嗚咽を漏らしながら、「はい」と答えた。


 セジの表向きの憎しみ――『早く死んでくんないかな』と不満を口にしながら、呼び出されれば会いに行く。それは満たされない愛と期待からくる〝すっぱい葡萄〟なのだとずっと考えてきた。私の平穏は期待を棄てることでゆっくり取り戻すことができたと思っていたから、私には彼の矛盾が見えているはずだと己惚れていた。

 彼はいつまでも親の帰りを待つ〝捨てられた子供〟。公園で、迎えに来ない誰かをひたすら待ち続けた子供。聡い彼が、唯一愚かであること。それは叶わない。この先きっと一度たりとも満たされない。それを自覚させて見限らせたい――引き籠った私の心身は、そんな〝良心〟と戦っていた。だけど、それが本当に彼にとっての〝救い〟なのか。手を差し伸ばすことすら煩い、すべてにおいて二の足を踏んでいた私に、一体なにが判るというのだろう。

 友梨奈から、セジが両親の苗字を憎んでいると聞いたときは違和感があった。確かに彼は「理央」と最初に名乗ったけれど、セジと呼んでも不快な様子はなかった。呼び方を変えようかとも考えたけれど、無暗に事を掘り返すようで言えなかった。違和感の正体が掴めず、なにが正解なのか見極めがつかないまま今日まで来た。

 私は何も分かっていない。もう何もかもがわからなくなって、帰路途中、堀川沿いに座り込んだ。鈍く香る苔の臭いで鼻を染めた。


 …………。

 

 おれ、北海道に行くよ。

 どうして! セジを捨てた親なんでしょ?

 まあそうなんだけどさ。

 やめなよ……そんなの急に変だよ、都合よすぎるよ! 一緒にどこか、相談に行こうよ、諦めないでよ……。

 違うよ、さみしいんだろ? ごめんね。おれ行くよ。

 どうして? どうしてそんな簡単に返事ができるの!?

 だって困った顔してたから。かわいそうだろ? おれみたいで。

 だめだよ、行かないで……そんなのおかしいって。

 なに今更後悔してんの? おせえよ――。

 月明りの中、彼が肌を晒す。皮膚の上で、刻まれた黒い文様が次第に蠢いて這いずり廻り、空の円らな瞳をぞわぞわと浸蝕し始める。触手を伸ばし、畳の肌理を黒く染めていき、ぐわりと時空が歪む。あんたがほっとくから。くだらねえ、毒親かよ。彼女のストールが桜と共に散った刹那、声と共に蟻地獄に呑み込まれる。視界の縁がざらざらと欠けていき、新たな産声で埋まる。


 かわいそうだろ、おれみたいで――。


「違うっ!」

 目を覚ますと、ひどい汗をかいていた。敷いていた毛布に水滴が残るほどぐしょりとお尻が沁みていた。下着を脱ぐと殆どが汗で濡れている。現に戻って安堵しつつも、これは何も非現実なことでなく、ほぼ現実だという事実に私は打ちのめされる。これはただの記憶。少しオーバーに膨らんだだけの、私の回想。

 夢で喚いていた私は、心酔して我を忘れたときの友梨奈そのものだった。彼女のまっすぐな瞳を懐かしく思った気持ちは、望郷の眼差しに近い。気力も消え果てて現心なく敷布の上で蹲る。

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