魔王と勇者、笹塚に立つ(1/7)
「朝っぱらからなんだよ。
梨香は心配してもう一日ゆっくりしていけと引き止めたが、あまり迷惑はかけたくなかったし、何より昨夜の推測が、
自分のものは血で
ただ訪ねたところで
「安心して、毒物やカッターの刃は入ってないわ」
「お前から
「あら、じゃあこの前の千円はいただいていいの?」
真奥はその
「これで、貸し借りなしね」
「おい! しばらく俺達の
「この前身元保証人になってあげたのでチャラよ」
「てめっ……」
文句を言いそうな真奥を、恵美はドアチェーン越しに声を上げて制する。
「
「あ?」
「
恵美の問いに、真奥はハッキリと不審を顔に浮かべ尋ね返した。
「お前、その頭相当深刻に打ったのか?」
「どうでもいいでしょ、あいつはどうだったの。その、
自分でも
「別に怪我は無かったな。精神的にはダメージを受けてたみたいだが」
真奥は不審がりながらもそう言い、
「ついでに言えば、あいつは特に悪魔の姿に戻ったってことはなさそうだったぜ?」
「っ……!」
「なんだよ、それが聞きたかったんじゃなかったのか」
真奥は鼻を鳴らして言う。恵美は
「その言葉が本当だという証拠は」
「じゃ、元に戻ったって言ったら、お前はどうすんだよ。乗り込んで俺もろとも殺すか?」
「それは……」
「あいつも俺がちょっとだけ戻ったってことは分かってた。魔王様のピンチに自分は何もできなかったって大泣きした
恵美は
恵美のその推測が当たっていれば真奥は、それこそ残る魔力で『地震で地下道が
エンテ・イスラを手中に収めんとした魔王サタンは、人間の命など虫ケラ以下ほどにも思っていない
なのに泡を食って来てみれば、いつも通りの間の抜けた顔がドア越しに現れ、その日のバイトのシフトに出なければならないようなことを言う。一体この魔王が何を考えて日々を過ごしているのか、恵美は全く分からない。
そしてその次に発せられた言葉は、更に恵美の理解を超えるものだった。
「そう言えば、お前こそ大丈夫だったのかよ。
「……は?」
恵美は硬直する。
「何……言ってるの?」
「何って、お前は力戻ったわけでもないだろうに、あんなことして大丈夫なのか?」
日本語が分からなくなったわけではない。
「本気で……言ってるの?」
「なんだよ、俺が人の心配しちゃいけねぇってのかよ」
真奥はさも心外だ、という口調で口を
恵美は体の血が下がるのを感じた。吐き気がする。一体この男は何を言っているのだ。
日本で真奥と芦屋を初めて発見した時とは比べ物にならない
「敵に……心配されるほどなまっちゃいないわ」
ようやくそれだけ言った。
「そっか、まぁそうだよな」
それをあっさりと返す真奥。
「まぁいい、用が済んだらとっとと帰ってくれ」
「言われなくても」
真奥は恵美のそんな心中を分かっているのかいないのか、様子のおかしい恵美を首を
「あ、おい恵美!」
しかし恵美は一刻も早くこの場を離れるべく足を止める気配すら見せず、
「ここの階段パンプスだと」
真奥は伝えるべき情報を最後まで伝え切れなかった。
共用階段の素材である亜鉛メッキ鋼板、つまりトタンが激しく打ち鳴らされる音がする。
「あっ!」
真奥が聞いた恵美の声はそれだけだった。
すっかりペンキがはげ
声無き
「……
置き抜けのジャージ姿の
部屋の隅には感情の
最初の一段目から足を
そして恵美自身はと言えば、思わず出した腕が手すりに当たりつき指。
アパートの階段から転落した被害の方が、地下道
「まったく……仮の姿とはいえ、魔王様をあと一歩まで追い詰めた勇者エミリアがアパートの階段から落ちて傷だらけなどと……逆に魔王様の名に傷がつく」
その上、昨夜治療を受けた
「救急
「そんな大
「かしこまりました。デュラハン号をお借りしてよろしいですか。他にも買い物があるので」
「許可する。てかお前そんな金持ってるなら、もっといい
「魔王様が無計画にお金を使いますから、私は私でへそくりを
寝起きのジャージ姿のまま芦屋が自転車で走り去る音がして、
「じゃ、ブツが届く前に消毒だけしとけ。水で洗って消毒液……」
真奥が
「わ、私に、
「へいへい、失礼しました。んじゃ適当にやれ。ティッシュそこな」
そこにはこの前、恵美が真奥に投げつけたのと同じ箱のティッシュがあった。
「しみるのか」
「違うわよっ!」
真奥の何気ない一言に恵美は本気で
「あぶねっ! 何すんだてめぇ!」
「うるさい! あんたこそ何するのよ! 魔王でしょ! 魔王なら魔王らしくこの世界で悪逆の限りを
「はぁ? いきなり何言い出すんだよ?」
恵美が何を言いたいのか分からず真奥は本気で驚いている。恵美の
「何よ! 貧乏して、自炊して、職場で重宝されて、女子高生に好かれてる魔王なんて聞いたことないわよ!」
「うぐっ」
真奥は図星を突かれうろたえるが、すぐに立ち直って反撃する。
「俺だって階段
「私だって見たことないわよ! 勇者のために部下を薬局に行かせる魔王なんか! それで素直に買いに行く悪魔
「うぐっ……」
恵美は荒れ狂う感情をどう処理してよいか分からず、幼子のように
「なんで私に優しくするのよ!」
恵美の
「なんで私に、人に、世界に優しくするのよ! なんで、なんで優しくできるのよ!」
突然の問いかけに
「優しくできるなら……なんで、なんでっ……!」
恵美は涙に構わず
「なんで私のお父さんを殺したの!」
恵美は息を切らして、しゃくりあげている。真奥は言葉も無く立ち
「私が……追っている魔王は、
「俺は……」
「炎で田畑を焼き、雷で城を
「恵美、俺は……」
「それなのに……なんで……なんで魔王が……魔王が勇者に優しくするのよ……」
この世界とエンテ・イスラでの真奥の精神構造は明らかに異なってきてしまっている。
あの頃の残虐な自分。世界を我が物にし、人間を
「……俺自身あんまり深く考えたことはないが」
真奥は、明確な答を自分の中で導き出せぬまま、言葉を
「とりあえず、なんか、スマン」
「……」
恵美は答えない。答えないだけで、泣きはらした顔のままぽかんと口を開けて、目の前の男の顔を凝視する。
言葉は軽いが、真奥は本心から謝っている。
「いやその、当時は勇者なんかいるとは思ってなかったし、中央大陸の
しかも本気で
「それにあの頃は俺、人間ってもんをよく理解してなかったから……」
恵美は恵美で、何かを引き出すつもりはなかったにしろ、こんな反応が出るとは予想もしていなかった。途端に真奥の前で取り乱してしまった事実が顔を紅潮させ、
「お
玄関のドアが聞き覚えのある声とともに開けられたのはそんな
芦屋もまさか二人がこんな状態にあるとは思わずドアを開いたままの姿で
紺のセーラー服姿の千穂は手に紙袋を持っており、そこには
「あ、あの、そこで、魔王様とお会いしたいという
芦屋が薬局の袋を抱えたままそんなことを言い、千穂はしばし呆然とした後、手に持った紙袋を取り落とした。硬い音から中身は缶入りのせんべいではないだろうかとどうでもいい推測を働かせる。
真奥には千穂の心中がなんとなく分かってしまった。
きっと千穂は
そのお礼とお
そして同居人である芦屋とアパートの近くで出会ったのだ。昨日千穂は芦屋と会話らしい会話はしなかったが、あの場にいたことは覚えているだろうし、芦屋は千穂のことを分かっている。そして芦屋は紳士的に千穂をエスコートしたに違いない。
芦屋は気配りのできる
とすれば、
そしてその想像が間違っていないことは、千穂がよろめくように一歩後じさったことで確信に変わる。
「あ、あはは、ちょ、ちょっと、本当に、お邪魔だったかなって」
「ち、千穂ちゃん……」
恵美は恵美でやはり真奥と同じ結論に至ったのか、千穂の誤解があらぬ方向に飛びそうなことを察して
「やっぱり、その、真奥さんと、
千穂の
これはかなり重度の誤解が生じているようだ。
「そうって、違うのよ
「ちーちゃん頼むからちょっとおちつ……」
「ご、ごめんなさいっ……」
「これ……マズいわよね」
恵美は魂が抜けてしまったような声で
「お、追いかけて誤解を解いたほうがよいでしょうか……」
真奥はおろおろとまごつく芦屋の手から薬局の袋をひったくると恵美に投げつける。
恵美はそれを思わず受け取ったが、
「お前もう帰れよ。本当お前と
そんな暴挙にも暴言にも全く反論できない。
千穂という全く予想外の要因が緊張した場の空気をしらけさせてしまう。
「あらあら真奥さん、大人げない」
だから玄関で立ち
「女性に暴言を吐いても男が許されるのは思春期までですのよ?」
「うおわあっ!!」
背後に黄金の柱が立っていることにその
「お、大家さんっ!」
午前の陽光に
芦屋の
「真奥さんのガールフレンドでいらっしゃいますのね」
しゃがれた声は相応の年を経てきた者の声だと思われるが、この胴回りが
「初めまして、このヴィラ・ローザ
太陽の光に当てられたように
「気軽に〝ミキティ〟と呼んでいただいて結構ですのよ」
「は、はぁ……」
他に返事のしようもなかった。
「
余計な一言とともに一枚の紙が、優雅な香水の香りとともに芦屋に手渡された。
「ここのところ地震が多くなってございますでしょ? ですから耐震補強工事などしなければならないと思いまして、入居者の方にご確認いただいてますのよ」
初めて顔を合わせた時もそうだったが、真奥は
渡された紙には耐震補強工事の入る期日と、その日一日だけ入居者には部屋を空けてもらうこと、それに伴う家賃の変更などは無いことが明記され、最後に大家の
「ねぇ、最近とみに地震が多いですわよねぇ」
そんな真奥をよそに大家はなんでもないように言う。
「はぁ」
「多分、
「さぁ、それは……」
「そういえば、先ほど
大家は流し目を同時に三人に送る、という器用な
「
その
「
「
「え……」
「巻き込んだなら、最後まで責任をお取り遊ばせ」
「な、なんの……」
大家が何を言っているか分からず、真奥はうろたえるが、そうしている間にも揺れはますます激しくなってくる。
「ま、魔王様! この震動は!」
「
「あの
大家の一言はその場の三人を石に変えた。
「思念や意思が大いなる力を持つのはあなた方が一番よくご存知なのではなくて? 急がないと、手遅れになるかもしれませんことよ」
厚化粧の下に隠れて見えない素顔は、一体何者なのだ。
「ほうら、聞こえる」
それは、
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