魔王、新宿で後輩とデートする(3/6)

 芦屋が恵美に見つかる三十分前のこと。偉大なる魔王サタンは後輩バイトの女子高生、しん宿じゆくアリタ前で落ち合っていた。


「あれ? ちーちゃん髪切った?」


「はい! 思い切って短くしてみました! どうですか?」


 つききりで仕事を教えていた真奥だからこそ分かる程度のみような変化を起こすのに、どれほど思い切った決意が必要だったかは分からない。だが普段は学校の制服か、マグロナルドの制服姿しか見たことがなかったので、下ろした髪とスッキリしたラインのワンピースはなかなか新鮮に映る。


「うん、似合ってるじゃん」


「やったっ!」


 素直にそう返すとガッツポーズを作る千穂。


「でも、学校の制服とかで来るかと思ってた。今日きよう部活なんじゃなかったっけ」


 特に深く考えずにそう言ったおうだが、ガッツポーズの千穂はほほふくらませる。


「そんなわけないじゃないですか! 理由はどうあれせつかく真奥さんとお茶できるのに、あんなダサい制服なんて絶対ナシです! それに、新宿で制服姿のまんま男の人と歩いてたら、したら補導されちゃいますよ?」


 突然怒ったような口調でさとしてくる千穂。真奥は出勤してきた千穂の高校の制服姿を見たことがあるが、そんなにひどいデザインだった記憶は無いので目を白黒させる。


「真奥さんも、ユニシロばっかり着てるのかと思ってましたけど、今日はいつもより格好いいじゃないですか」


 悪気は無いのだろうが、何か引っかかる物言いにおうは苦笑した。


「同居のやつが、デートにユニシロはナシだとか言い出して」


「ユニシロも悪いわけじゃないんですけど、上から下まで全部ってのはよほど上手に組み合わせないとダメです。と言うか、デートだと思ってくれてるんですね! やったっ!」


 何がやった、なのか、ユニシロの何がいけないのか、これは本当にデートなのか、何も分からないまま真奥はあいまいうなずいた。


「とは言っても、ばんめしまでには帰るんだろ?」


「まぁ、そうなんですけどぉ……」


 は不満そうに頷く。そこだけは千穂が高校生である以上仕方ないことだからと納得させた。真奥でもしぶはら宿じゆくで遅くまで遊びほうけている女子高生など、全体から見ればわずかな割合に過ぎないことを知っている。


「どうする? まさか外で立ち話ってわけにもいかないけど、普段外食とかしねぇからゆっくり落ち着けるところってマッグしか知らないんだ」


 千穂もそのことは予想していたのか、特に何も言わずに少し考えて言った。


「じゃあ、カフェ〝とう〟行きましょう。安いし、そこそこ落ち着けるんですよ」


 怒濤留ならば真奥も存在だけは知っている。


「大丈夫です! 今日きようは相談に乗ってもらうんですから、私が全部おごりますよ!」


 普段から貧乏オーラを目に見える勢いで放出する真奥を気遣っての言葉なのだろうが、流石さすがに真奥も大人としての、何より魔王としてのプライドがある。


「大人ナメんな。それくらい奢るのはなんでもねぇって」


 やはりあしの予想は当たってしまった。


「それじゃ行こうか」


 最寄の怒濤流は少しやすくに通りを歩き、地下連絡通路の飲食店街に入った場所にある。


「あ……ま、真奥さん」


「ん?」


 歩き出そうとした真奥を千穂が呼び止める。


「あの……えっと」


「何? どうしたの」


「……て」


「て?」


 千穂は少しだけうつむいて、か顔を少し赤らめて歯を食いしばっている。真奥はいつしゆん千穂が大声でも上げるのかと思ったが、出てきたのは意外な一言だった。


「手……つないで……いいですか」


 さっきまで元気一杯だったくせに、突然の鳴くような声。おうは首をかしげた。


「そんなことか、いいよ別に」


 なんでもないようにひょいとの右手を取ると、千穂がいつしゆん驚いて体をこわらせた。


「どうした?」


「え、あ、いえ、やった! あ、な、なんでもないです! ありがとうござ……」


「人ごみすごいもんなー。こうしてねぇとはぐれちまうよな」


「っ……」


 コロコロ変わる千穂の表情に真奥は千穂の真意がいまいち読み取れない。コマ落としのように、驚き、喜び、無表情、何がしかのあきらめ、と目まぐるしく変わっていった。


「……ですよねー。なんか、分かってました」


 真奥はそんな千穂の顔をのぞき込んだ。すると千穂は目を見開き真奥から距離を取ろうとする。しかし、手を繫いだままなのでままならず、うねうねと体をよじるだけになってしまった。


今日きようのちーちゃん、なんか変だぜ?」


「そ、それはきっと、悩みがあるからです!」


 不自然に目をらしながら、真奥を引っ張って歩きはじめる千穂。


「そっか、そりゃそうだよな」


 だが真奥はそれをそのままみにし、


「はぁ……」


 がつく複雑な色のためいきを聞きながら、おうは千穂を観察する。


 一見して千穂自身にはなんら魔力的事象は顕現していない。生命体としての変質も認められないし、こうしてじかに接触していても、千穂自身になんらかの変異があれば手から感じられるであろう真奥の魔王としての残存魔力になんの反応も無い。


 変化らしいものは、てのひらから伝わる体温が真奥より高いことと、みように脈拍が速いことくらいだ。


 そうなると、あとは何者かが外部から千穂に干渉している可能性を考える必要がある。真奥やを襲った敵、もしくはまったく無関係の魔力事象が千穂に働きかけているのかもしれない。


 全ては千穂の言うことが本当なら、という前提つきではあるが、


 どちらにせよ現時点では不審な様子もうかがえないので、まずは話を聞いてみるほかない。


 しん宿じゆく東口には、JR新宿駅を中心に地下商店街が広がっている。手近な階段から降りていくと、丁度昼時と夕方の間の時間であり、飲食店街の人通りは多くはない。


 幸いカフェとうも空いていた。あしが外から見やすいように、と窓際の席を選んだが、地下通路の中の店となると真正面で張り込むのは難しいかもしれない。


 すこし離れた場所にある柱の陰に芦屋が身を隠すのがちらりと見えた。


「で、早速だけど、くわしい話をもう一度ちーちゃんの口から聞きたいんだけど」


「あ、はい」


 千穂は季節のフローズン・ラテを、真奥はブレンドコーヒーを注文し、真奥は話を切り出す。


「マグロナルドのバイトを始めたくらいから耳鳴りがひどくなったって話はしましたよね。最初は慣れないことやってるからストレスかなって思ったんですけど、真奥さんもさきさんも他の人たちも優しいし、お客さんにも変な人いなかったし、学校にも悩みとかないし、ちょっと具合が悪いのかなくらいに思ってたんです」


 真奥はあいづちを打ちながらも周囲に気を配ること、千穂自身の観察はおこたらない。


「それでこの前話したうちだけ酷かった地震、あったじゃないですか。変だなぁと思ってたら昨夜、誰もいないのにいきなり耳元で声が聞こえたんです」


「その声だけどさ、どんな感じなの? 普通にこうやって会話するとき耳に聞こえるような感じじゃなくて?」


 千穂はあごに指をあてて少し考え込むような仕草をした。


「んーっと、真奥さん、普段映画やアニメとか見ます?」


「……時々なら」


 実際には家にテレビが無いのでほとんど見たことはないのだが、話を進めるために見栄を張った真奥。


「テレパシー、みたいな表現あるじゃないですか。エコーがかかって聞こえるみたいな。あーゆーんじゃないんです」


「へぇ?」


 は何を思い出したか、そこで小さく吹き出した。


「何かすごあわてた、威勢のいいおじさんみたいな声なんです。聞こえ方もラジオのチューニングがうまく合わないみたいな感じで普通に耳に聞こえるんです」


「マジか!」


「え、ええ……」


 おうが思わず乗り出して尋ねるので、千穂は驚いてうなずく。


「しかも、言うことが凄いシンプルだったんです。『あー、聞こえてるか』とか言うんですよ」


 普通なら知らない男の声が耳元で聞こえたらそれだけでパニックになりそうな気もするが、千穂はそれに静かに耳をかたむけてしまったらしい。


「思わず声に出して返事しちゃったんですけど、その後も『聞こえてるか』ばっかりで、どうも私の声は届いてなかったみたいなんですね。仕方ないからとにかく向こうが何か話し出すのを待ってたら、『まあいいや、受信できるやつは限られてるから言うだけ言う。そっちの世界で自然現象がひんぱつしているはずだ。近いうちにでかいのが起こるかもしれないから気をつけろ。俺達も頃合を見計らってそっちに行くからな』って」


 そこで千穂は言葉を切り、フローズン・ラテを一口すする。


「……それだけ?」


「それだけです。意味が分からないし、絶対電話みたいにかけ間違えてるなと思って。私宛じゃないことだけは分かるんで、違いますよー、違いますよー、って言ったり思ったりしたんですけど、そのうちまたチューニングがずれて声が遠くなって、耳鳴りもそれ以来やんだんです」


「それで、ここんとこ頻発してる自然現象て言ったら地震しかないと思ったわけだ」


「そう思うまで結構時間かかったんですけどね。そんな声が聞こえたことに驚いて、しばらく何も考えられませんでしたから」


 千穂は苦笑して、話に夢中になっている間に氷が溶けはじめたラテをまた一口すすった。


 一方の真奥はコーヒーがぬるくなるのも構わず思考を走らせていた。


 千穂が受信した音声は、〝概念送受イデアリンク〟と呼ばれる精神感応の一種だろう。異なる言語を持つ異世界の人間同士の特定の意識を同調させ、概念を共有しそれぞれが自分の言語でそれを理解する交信技術だ。


 真奥やあしも日本に来た当初は、本当の意味で日本語を理解していたわけではなく、魔力を使った概念送受で、相手の日本語を自分たちが分かる概念に変換していたにすぎない。


 ゲートを用い異世界に渡るすべを持っている世界には、〝ソナー〟と呼ばれる探査技術が必ず存在する。ソナーは発射すると不可視の魔力爆発を起こし、ね返ってきた魔力の波長を分析し、行く先の様子をさぐる技術だが、その魔力爆発は行った先で様々な形態を取る。


 それが地球、ひいてはこの日本にソナーが放たれ、それが地震という形に変わったことは十分に考えられる。


 発射元はエンテ・イスラが自分をとうばつするために編成した刺客の一派だろう。日本に到達したソナーが爆発したのが、偶然にの家だった、というのは恐ろしく低い確率だが無いことではない。そのせいで千穂の家だけが大地震に見舞われたかのような事態になったのだろう。


 ソナーを打つ先は、魔王とアルシエル、そして勇者の航跡を追えばある程度は限定できる。


 思えばいつしよに襲撃された夜も、直前に地面がれた。あれは襲撃者が近くにひそんでいて、おうの魔力反応を見るために近距離からソナーを打ったからではないだろうか。


 これは、思ったよりも早くことが起こりそうだ。


 真奥もあしも、外見や生命エネルギーは完全に日本人にまぎれてしまっているが、本質的には悪魔であることに変わりはない。まして昨夜は姿の見えぬ敵の接近を許してしまっているのだ。


 千穂が聞いた『近いうちにでかいのが起こる』というのは、それ相応のエネルギーを持った者が実力行使に出る、ということだろう。


 敵は、すぐそばにいて、何かの機会を待っている。


「でも……やっぱり真奥さんに相談して良かった」


「え?」


 思考に没入していた真奥は千穂の声で我に返る。


「ありがとうございます。信じてくれて」


「いや、そんな大したことじゃ」


「大したことですよ。普通の大人の人は、こんな話に聞いてくれません。正直、真奥さんにメール出した時も、あきれられたらどうしようって、ちょっと怖かったんです」


「そういうものかなぁ。ご両親とか友達には?」


「話すわけないじゃないですか。今時、高校生にもなってこんなこと言い出したら笑われるのを通り越して心配されちゃいますよ。この子は現実と空想の区別がついているのかって」


「ふーん、そんなもんかねぇ」


 少し落ち込んだ様子の千穂に優しい言葉の一つもかけようとした真奥だが、


「ま、俺は話を聞くだけならいつでもうぐげぼふっぶゅ!!」


「だ、大丈夫ですか? どうしたんですか!?」


 突然激しくむせ返った真奥に、千穂があわてておひやを差し出す。それを飲みながら目は必死で状況を整理しようとするが、視界の隅に捉えた映像のせいで思考がうまく巡らない。


 だ、何故恵美が芦屋と一緒にこの店に入ってくる!?


「真奥さん?」


「うえっほ、いや、大丈夫。なんかつっかえた。俺は何も悪いことはしていない」


「は?」


「いやなんでもない。後輩の相談に乗るなんてのはごく一般的な出来事でそれ自体にはなんの悪意も無いわけで、ヨコシマな考えでここにいるわけでは決してない」


「ま、おうさん大丈夫ですか?」


「ん? ああ、ちーちゃん、気にするな。ちょっとした発作だ」


「ほ、ほっさ?」


「フォッサマグナ」


「真奥さん!?」


「いや、いや、ごめんなんでもない、なんでもないから」


 混乱した思考が一秒の間に光の速さで地球を七周半して、それでは地球の裏側で止まってしまうことに気づき、もう半周して戻ってきた。


「ま、まぁとにかくだ、ちーちゃんの話を総合すると、まず耳鳴りや変な声自体は直接的な問題じゃない。肝心なのは本当に悪いことが起こるか、今回の件で言えば『でかいのが』が起こるかいなか、という点にきる」


 真奥の不審な挙動にあつに取られながらも、な言葉には真剣にうなず


「幸いその耳鳴りのぬしも悪意で接触してきてるわけではないみたいだし、いざというとき自分の周りの人に注意をうながせるだけで大分違うと思うよ」


「はい……そうですね」


「あんまり解決になってないかもしれないけど、今の俺に言えるのはこれくらいだなぁ」


 場を仕切りなおすように真奥はおひやを一口飲む。


 千穂は氷が溶け切ってしまったラテのグラスを両手で包んだまま少しだけ考え込むような仕草をしたが、やがて顔を上げた。


「真奥さん、本当にありがとうございます。少し、胸のつかえが取れました」


「ん、ならよかった」


 どうだ! 魔王の職分からすると大分外れたことのようだが、俺は何もおかしなことはしちゃいない! どこからどうみても立派な先輩アルバイターだ。


 真奥は心の中で堂々と胸を張るが、


「そう言えばさ、なんで俺に話そうと思ったの?」


 ふとした疑問を千穂にぶつけてみた。自分は確かにアルバイト先の先輩として千穂の指導はしたが、知り合ってからまだ二ヶ月たらず。フリーターという立場が日本の社会でどれだけ弱く信用の低い地位にあるか分かっているつもりである。


「え、その……」


 千穂は少しずかしそうに視線を彷徨さまよわせた。


「んーと、なんでだろ。真奥さんなら信じてくれるかもって思っちゃったんです。真奥さん優しいし、それにどこか普通の人と違うっていうか」


 優しい、は悪魔にとってめ言葉たりうるのか、おうはそんなことを考える。そして、魔王である真奥は確かに普通の人間ではない。


「ま、変人であることは認めるけどね」


「あ、あ、違うんです悪い意味で言ったんじゃなくて」


 あわてふためく。真奥はその単純さに苦笑する。


「分かってるよ。ほら、飲み物こぼすからそんな慌てんなって」


「もぅ! 真奥さん意外と意地悪だ!」


 千穂は困ったような怒ったような表情でせきばらいをする。


「でも、こうやって真奥さんと二人ふたりでお茶できたから、変なことあっても良かったかも」


「ん?」


 千穂の少しほほんだくちびるかられた小さな声は、独り言なのかこっちに話しかけているのか。なんにせよ、今の発言はただ事ではない。それくらい真奥にも分かる。


「……ま、真奥さん、その」


 千穂がしぼり出す声は少し震えていた。何故か困ったような表情で顔を真っ赤にしながら真奥を見ている。


「私、真奥さんが……っ!」


「やめなさい!」


 千穂が放ったこうは、突然横から割って入った力強い声にはばまれてしまう。


 その声に真奥は身をすくませ、千穂は何事が起こったか分からず突然自分たちのテーブルのわきに立ってごうぜんと二人を見下ろす女の形相をぜんとして見上げていた。


「この男に関わるとロクなことにならないわ」


「え、っ! お前」


「悪いことは言わない。この男はもうすぐ日本からいなくなる身よ。今のうちにとどまっておかなくちゃ、あなたがつらい思いをするだけだわ」


 真奥は恵美が突然介入してきたことに驚き、またも頭の回転が止まってしまった。恵美といつしよに座っていたはずのあしも、恵美を止めようとして間に合わなかったのか、中腰のまま固まってしまっている。


 一方、千穂の対応は素早かった。


「失礼ですけど、お姉さんは真奥さんの、どういったお知り合いですか」


 さっきまでの何かに迷ったような表情がいつしゆんにして力を帯び、恵美をにらみながら立ち上がる。その口調は真奥が驚くほどに恵美への敵意に満ちていた。


 恵美も千穂の敵意は理解しているのか、厳しい表情のまましかしさとすように言葉を返す。


「いい、これはあなたのために言っているの。この男は見た目通りの男じゃない。本性はもっとこうかつで残忍よ」


「いきなり出てきてひどいこと言わないでください。お姉さんはおうさんのなんなんですか」


 真奥はの言うことに真っ向から反発するに驚いた。明るい少女であることは分かっていたが、ここまで意思が強いとは思っていなかったからだ。


 ちなみにあしは恵美の後ろでただオロオロしているだけである。


「私はこの男の敵。それ以上でも以下でもないわ。いい、千穂さん。忠告はしたわよ、真奥と関わると、不幸になるわ」


「お、おいやめろ」


 ようやく恵美の後ろから芦屋が止めに入り、


「ちーちゃんも、ちょっと落ち着いて」


 真奥も千穂をなだめようとするが、


「私に指示しないで」


「真奥さん、だまっててください」


 二人ふたりの女はお互いの視線で火花を散らしたまま静かな戦いをやめようとしない。


「いや、でもこのままだと店に迷惑だから、な、とにかく出よう、な?」


 千穂と恵美の不穏な空気を察した他の客や店員の視線を気にしているのが、悪魔である真奥や芦屋だけというのが何かおかしい。真奥は必死に訴えるが、


「そうだ、思い出した、お姉さんこの前、うちのお店に来ましたよね」


「……それがどうしたのかしら」


 しかし二人は聞いていなかった!


「あのときも真奥さんと話してたみたいですけど、もしかして真奥さんの元カノか何かですか」


 その言葉が予想以上の威力を持っていたことは、恵美の口の端がいつしゆん引きつったのを見て取るまでもない。


「……っ! 何を言い出すの?」


 恵美にしてみれば交番に連行された時以来の言いがかりに、思わず覚えたいかりとくつじよくをこらえるための一瞬のうめきだったが、千穂の方はそれを図星と取ったようだ。


「やっぱりそうなんですね。なら私が真奥さんにどうアプローチしようと今さらお姉さんには関係ないんじゃないですか?」


「バカなこと言わないでもらえる? 私とこいつはそんな関係じゃ……」


「じゃあなんでいつも真奥さんの近くをウロウロしているんですか」


「こいつと私の関係は、簡単に語れるような間柄じゃないの」


「自分の方が真奥さんと親密だとでも言いたいんですか?」


「どうしたらそう取られちゃうのかしら」


「そうとしか取りようがありません」


 お互いの言葉を聞いているのかいないのか、売り言葉に買い言葉が重なって緊張はまさに頂点に達しようとしている。おうは他の客の冷ややかな視線を背中に受け止めつつひきつった顔に冷や汗を流しながら言う。


「だから二人ふたりともおちつ」


 け、と真奥は仲裁の言葉を最後まで発することができなかった。


 ごうおんと表現するしかない異常なめいどうが店内に響いた。


 真奥やあしだけでなく、四人のしゆはたからかたんでながめていた他の客すら何が起こったか把握できなかった。


 次のしゆんかん


「じ、地震だっ!」


 誰かのさけび声がした。


「大きいぞ!」


 次に叫んだのは誰だったろうか。


 その次に叫ぶ者の声ははや言葉にならず、とつじよ大きくれはじめた地下通路の中のすべての音が轟音にかき消される。


 地下にいるはずなのに立っていられないほどの縦揺れ。店内の食器や調度が床に落下し照明や通路に面したガラスがくだける。


「危ないっ!」


 その叫び声を聞いた者も、発した者も、天井にいつしゆんにして走ったれつを見た。


 轟音も揺れもやまず、亀裂は天井からそのまがまがしい触手を柱や床にまで伸ばしてゆく。


「く、崩れ……」


 真奥と千穂が座っていたテーブルをふんさいするかのように天井が落下したのが最初だった。


「真奥さんっ!」


 千穂は叫ぶが、その声は真奥には届かない。天井が崩れはじめる様を見ても、恐怖に硬直した足ではこの揺れの中逃げることすらできない。


 通路の本格的なほうらくが始まった。雨あられと降り注ぐれきの中、千穂の恐怖は臨界点を越え、意識がやみに溶けた。

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