魔王、生活のために労働に励む(2/7)

 警察から得た情報で、ニホンで最低限の生活をするのに必要なのが〝コセキ〟と〝ジュウショ〟であるらしいことが分かった。この二つが無ければ金を稼ぐための仕事を得ることすらできないようだ。


〝コセキ〟と〝ジュウショ〟は〝クヤクショ〟という場所で手に入るらしい。そのため最初の目的地は〝区役所〟に決まった。傷ついた体にむち打ってはら宿じゆく警察署に最も近い〝シブヤ区役所〟に足を運べばなんと翌朝にならなくては開庁しないという。


 サタンとアルシエルは大変にみじめな思いで、区役所の玄関前でひざを抱えながら夜を過ごした。


 一時もあかりが落ちない街は、朝になると一段と活気づきはじめる。色とりどりの服をまとう人間達の中に、黒や紺を基調とした画一的な姿をした男達が多く現れるようになった頃、ようやくしぶ区役所は業務を開始する。それと同時に窓口に飛び込み、サタンとアルシエルの奇怪な姿に驚いた顔の職員をさいみん魔術の力であやつり、二人ふたりは無事〝コセキトウホン〟の原本を作ることに成功した。


 次に行くべき場所はいくつもの住居をあつせんする商売をしている〝フドウサンヤ〟だ。


 エンテ・イスラでは人間の言語をわずか三日で習得したサタンとアルシエルである。ここらあたりでなんとか頑張って、実践的な〝ニホンゴ〟を習得しなければと意気込む二人。


 その結果、不動産屋の社員は、二人のカタコトの日本語と奇抜な衣装を外国の文化と誤解してくれて、非常に多くの情報をこんせつ丁寧に教えてくれた。


 サタンはそんな仕事熱心な不動産屋の男に、あまり賃料が高い場所には住めないと伝える。


 催眠魔術は一度限りならそれほど大きな魔力を使わないが、金を払えないと追い出されてしまうわけだから、高い賃料のところに住むと収入が多く得られなかった場合、大家に延々催眠魔術をかけ続けなければならない。だから無理のない賃料、最低限の生活ができる場所、という条件を話すと、男はにがりきった顔で一つの物件を提示してきた。


「こちらの大家さんが、非常に奇特な方でして」


 それはこのしぶという地域の〝ササヅカ〟という街にある集合住宅の一室だった。


 家賃四万五千円、敷金礼金無し、保証人不要、築六十年の六畳一間、風呂無し、トイレは部屋ごとのアパート、〝ヴィラ・ローザささづか〟二〇一号室。


「お客様方のように、はっきり申し上げてもと不確かな方や、怪しい人を率先して引き受けるとおつしやっているんです」


 散々な言われようだが、他に紹介してもらえないならここに決めるしかない。不動産屋の自動車(と言う乗り物らしい)に乗ってたどり着いたのは、閑静な住宅街にある二階建てのアパートだった。しつくいがれかけた壁に、所々かわらが欠けた屋根。その屋根にへばりついているだけの雨どいはび放題で、二階の共用廊下に上がる階段が水平を保っていない。人の気配がしないから、恐らく全ての部屋が空室なのだろう。


「こ、これは……」


 アルシエルがうめく。


「あ、ああ、流石さすがに私も、分かるぞ」


 悪魔の言葉でやりとりする二人ふたり。この世界の事情に暗い二人ですら分かるほど、明確にろうきゆう化した建造物だった。


 仮にも、魔界という一つの世界で頂点と栄華をきわめた王と将である。落ち延びた身とは言え、こんなボロ家を仮の住まいにできようはずがない。というか全て空室ということは、この世界の人間すら住もうと思わないほどの建物ということではないか。


 到底こんな所には住めない。そう言おうとして振り向くと、そこにいたのは若い不動産屋の男ではなかった。


「……人……か?」


 悪魔である二人の感性をして異様、としか言いようのない外見のなぞの生き物であった。人間型でもかなりの長身であるアルシエルにせまうわぜい。豊満と言ってもまだ控えめな表現の肉付きは、その生き物が人間の女性であることをかろうじて二人に認識させた。


 天高く盛り上がった紫と銀のマーブルに染め上げられた髪に、色鮮やかな紫陽花あじさいのヘッドドレスを載せ、薄紫のストールをショッキングパープルのサマードレスの肩に羽織り、全ての手の指には大粒のアメジストの指輪、くもりない紫のエナメルのピンヒール。紫のルージュに紫のアイシャドー、たたけばひび割れるのではないかというほどの分厚い真っ白なファンデーションに、わずかに入ったチークがまぶしい。その様は、所々皮をかれた巨大な紫芋をほう彿ふつとさせた。


「ごきげんよう、あなた方が、今回入居をご希望されたお二人ですのね」


「し、しやべった!」


 アルシエルが反射的にそんなことを口走るほどに、既にその存在感は二人ふたりを威圧していた。


わたくしが、〝ヴィラ・ローザささづか〟のオーナー、ですの」


 硬直しているサタンとアルシエルは、その紫色のナニモノカの向こうで、不動産屋の車が背を向け去っていくのを見た。


「〝美輝〟は、〝美しさ〟が〝輝く〟と書きますの。あ、でも、気軽に〝ミキティ〟と呼んでくださって結構ですのよ」


 徐々に日本語が分かるようになってきているはずの二人だったが、この志波と名乗るなぞの大家の言葉だけは、本能が理解を拒否した。


 絶対に、深く関わってはいけない。そう思ったのに、気づけば二人はボロアパートの一室に引きり込まれ、あれこれ書類にサインさせられ、室内の設備の説明を受けた挙句、


「それでは、今日きようからここはお二人の安息の場となります。私は隣の土地の家に住んでおりますので、分からないことがありましたらいつでもお声をおかけくださいな。それでは、御免あそばせ」


 紫色の嵐が過ぎ去った後、部屋に残っていたのはぜんとしたまま声も出ないサタンとアルシエル、そして紫色のキスマークがされた賃貸契約書だけだった。


 なし崩しに賃貸契約を結んでしまったサタンとアルシエル。しばらくの放心状態から立ち直り、冷静になってから考える。


 外観はボロいし、大家は人間とは思えないほど恐ろしい。しかし、住所不定無職の青年二人という、この世界の常識的にはこれ以上ないほどに怪しげな入居者を受け入れてくれるような物件が他にあるだろうか。それを思えば、むしろ今は最低限、雨風をしのげる場所が手に入っただけでもよしとするしかない。


 できるだけ大人しく生活し、賃料をしっかり納めて必要以上に大家と関わらずにいよう、と二人は心に誓った。


「この世界には〝しんしようたん〟という言葉があるらしい。こんなすみもまた一興だろう」


 勇者との戦いで肉体は傷つき、ゲートのほんりゆうもてあそばれて体力をしようもうし、見知らぬ世界で精神をすり減らした。そして魔王サタンともあろう者がたった二回のさいみん魔術で息切れするほど、失われる一方の魔力。サタンは、かつて体験したことのない疲労の極致にあった。


 傷つき疲れ果てた体と心をいやすため、魔王サタンはそれから三日三晩眠り続けた。


 そして傷ついた体に飲まず食わずで三日三晩眠り続けたために、サタンは栄養失調で病院に運ばれてしまった。脱水症状とビタミン欠乏で足腰立たなくなってしまったのだ。


 うつろな目を宙に彷徨さまよわせ、青白い顔で肌も乾燥してしまったひんあるじを助けるため、アルシエルは入居三日目で早くも大家の志波に助けをわざるを得なくなった。この世界の医療がどういうものか、まるで見当がつかなかったのだ。


 志波が〝電話〟なる遠距離通話機で召喚したのは、赤い光を放つ白い車〝救急車〟であった。


 かつぎ込まれた病院のベッドに点滴を受けながら横たわるあるじの姿を見てアルシエルは、魔王も自分も外見だけでなく、本質的な構造がこの世界の人間に準拠してしまったことに気づき、くつじよくに耐え切れず涙を流した。


 そんなアルシエルの悲嘆とは無関係に現実は非情であった。


 この世界、医療費が大変に高額なのである。個人の医療費負担を軽減する公的なシステムがあるらしいのだが、当然サタンもアルシエルもそんなシステムには加入していない。


 提示された医療費は、まだこの国のへい価値にうといアルシエルにも分かるほど暴利としか思えない額だった。退院許可が下りたサタンは医療費をすためにまたもさいみん魔術を使うハメにおちいったのだ。


 とにかく今必要なのはお金だった。だが警察に捕まったり魔力を浪費するような方法で入手してはならない。


 絶対に国民健康保険にも入っておかねばならない。


 最後の催眠魔術、と決めて二人ふたりは〝ギンコウ〟に行き、銀行口座と資金を調達した。行員を催眠状態に落とし、その行員から一万円を失敬して、普通預金口座を開設したのである。


 立派な犯罪だが、悪魔たる者、せつとう躊躇ためらうようでは話にならない。心の中に起こった、何かが色々と間違っているんじゃないかというかつとうを押さえ込み、生活の元手を手に入れた。


 その一万円で、当座生き延びられる食料と、〝リレキショ〟を購入する。金を稼ぐ仕事を得るには〝リレキショ〟が絶対必要らしいのだ。


 必要事項を記入してしかるべき場所に届けると〝メンセツ〟の約束を得られ、その問答に合格すると働くことができるらしい。


 しかしサタンもアルシエルもこの国で通用するような特別な技術は一切持っていない。まさか『職歴・魔界の王、特技/趣味・世界征服』などと書けようはずもなく、〝初心者歓迎〟の職種にターゲットをしぼらざるを得なくなった。


 二人はリレキショを何通も書いた。


 くやしさと屈辱に耐え、いつの日か勇者を倒しエンテ・イスラのけんしようあくすることを夢見て、名前を力強く書いた。


「名前……おうさだ……っと」


「名前……あしろう、この名前、変じゃないですよね?」


「今さら言うな。もう戸籍作っちゃったんだから」


 こうしてヴィラ・ローザささづか二〇一号室の六畳一間を仮の魔王城とし、魔王サタンこと真奥貞夫、悪魔大元帥アルシエルこと芦屋四郎のエンテ・イスラ再征服の野望が花開いたのだった。






 二人は最低限の職への足がかりと細い命綱を手に入れたが、休んではいられない。電気、水道、ガスといったライフラインを維持するにも金は必要なのだ。


 サタンは雷雲と大波とごうを自在にあやつっていた過去を振り返り涙した。


 今のサタンとアルシエルは、おうあしと名乗るどう見てもそこそこの、えない無職の青年でしかなかった。


 魔王と悪魔だいげんすいはいくつもの求人雑誌を読み漁った結果、日雇いという形式の職があることを発見する。


 所定の会社に登録して短期の仕事をあつせんしてもらうのだ。日給は五千円から一万円の即日払い。仕事ぶり如何いかんでは昇給もあるらしい。


 早速なけなしの十円玉を公衆電話に放り込み、面接の約束を取りつけた。


 新宿にあるという支社に行ってみると、面接というよりはもう採用決定後の就労説明会のようなもので、登録はすぐに済み、その日のうちから仕事を回してもらえることになった。


 二人ふたりは初心者ということで、比較的簡単な〝イベント会場の設営補助〟という仕事を与えられ、所定の日給分の仕事をこなした。


 会社から手渡された一人七千円の手当をながめながら、サタンは確信した。


 これを続けていけば当座の生活費が稼げる。ある程度の金額がまったら今度は長期的に働けるアルバイトを探せばいいと。


 ところがそのもくはわずか二週間で崩れることになる。


 毎日仕事をこなし、受付の正社員達から顔を覚えられる程度になった矢先のことだった。


 会社が国から事業停止命令をらい、職場あつせん事業を休止したのである。青天のへきれきだった。


 稼ぎ口が突然閉ざされ、消沈して帰る二人ふたりの耳に、街頭テレビのニュースが飛び込んでくる。


 違法な現場の斡旋だとかピンハネだとか、色々な報道が会社をきゆうだんする形でされていた。


 人間ごときが定めた法律のために、大悪魔である自分達が職を失わなければならないのか、うらみがましく街頭テレビを見上げたサタンは、ふと我に帰る。


「ちょっと待てあし


「アルシエルとお呼びください」


「そもそも俺達の目的は人間世界の征服であって、日銭を稼ぎこうしのぐことではないぞ」


「はぁ、確かにおつしやる通りですが」


「お前、なんとか魔力を回復する手段を見つけ出せ、労働は俺がする。俺の方が生命力も魔力も上だからな。だがお前は俺が見込んだ知将。日本で魔力を手に入れる策を見つけ出して欲しい」


おう様……」


「魔王だ。とにかく、二人で稼げば生活は楽かもしれんが、手段と目的を間違えちゃいかん。この世界にも魔王や魔力といった概念だけは存在するんだ。概念には元がある。その元をさぐり出せばもしかしたら」


「魔力を回復する手段がある、と」


 サタンは大儀そうにうなずいた。


「二人でバイトしているよりはいいだろう。魔力を取り戻すだけに限らず、この世界の新たな力すら身につけて、再びエンテ・イスラへと攻め込もうじゃないか」


 芦屋、いや、アルシエルは、幾日ぶりかの魔王のある言葉にかんきわまってひざをついた。


「かしこまりました魔王様。私の一命をして、エンテ・イスラへの道、魔王様の魔力、取り戻す策を探して参ります!」


「……おい立てアルシエル、ここは横断歩道だ、ずかしい」


 往来を行く人々が、突然ひざまずいて何事かさけびはじめたアルシエルをなんの感情もこもらない目で見つめそして通り過ぎていった。






 魔王サタンは、おうさだとして日本人に身をやつし、力の限り必死で働いた。様々な仕事をこなした。道路工事現場の交通整理。製品のピッキング業務。引越し屋の補助。朝の鉄道ラッシュの行列整理などその職種はに渡った。


 アルシエルは芦屋ろうとして、真奥が日々を健康に過ごし、全力で仕事に打ち込めるよう、家事に精を出し、空いた時間に魔力調査に出かけ、家計簿をつけて厳密にすいとうを管理することで毎日を過ごしたのだ。


 そして二人ふたりが日本に来て丁度半年経った頃、おうは大手ファーストフード、マグロナルドの長期アルバイトに採用される。


 仕事初日、真奥は店のまかないをたくさん抱えてホクホク顔で帰ってきた。いわく、「これでもう、食糧がかつする心配は無い」だそうだ。


 あしも最初は食べ物の心配をしなくて済むことを喜んだ。しかし、毎日毎日ハンバーガーだフライドポテトだフライドチキンだとカロリーがやみに高く味の濃いものを食べ続ければすぐに飽きてしまう。そして一週間も経てば、胸焼けがしてもう二度と見たくなくなる。


 しかし真奥は店の味がお気に召したらしくそんなものばかり食べていた。


 ひつきよう芦屋が毎日の食事に、より一層気を配らざるを得なくなる。おかげで魔力回復の方策を探すことに関して全く進展が無い。毎食ジャンクフードというさんを避けるためにも、芦屋は毎日閉店ギリギリのスーパーに飛び込んで徳用品に目を光らせなければならなくなるのだ。


 真奥はその仕事ぶりが評価されたのか、わずか二ヶ月で時給が上がった。


 その日を芦屋は忘れられない。時給が一気に百円もね上がった、と本気で喜ぶ魔王サタンの姿をどうして涙なしに見られようか。


 その後も順調に昇級を重ねた真奥は今やマグロナルドはた駅前店のA級クルーだ。


 時給は入社した半年前の二百円増し。これは破格の待遇であるらしい。さいみん魔術を使えば魔力が減って芦屋にもすぐ分かるので、真奥は本当に猛烈に働いて実績を挙げたのだろう。


 お客様からの声の投書メールがマグロナルド本社に届き、それが真奥の接客をめたものであるらしく、月間クルーMVP賞を受賞したこともあるそうだ。


 自分を評価するあそこの店長には見る目があるだの、最近入った後輩アルバイターが優秀だの、およそ世界征服を目指す者がする話とも思えず、しまいには店長を超える事が世界征服の第一歩だなどと言い出し、真奥の魔王としてのスケールは、日を追うごとに小さくなっていった。


 真奥、いや、魔王サタンのぎようを支えることを生きがいとしてきたはずの芦屋をして、最近はそんなあるじの様子に気苦労ばかりが先に立ち、を見失いがちになってしまう。






 芦屋は手の中のMHKの料金納付所の封を、開封もせず状差しに放り込んだ。忠義の臣として様々な不満や不安を胸の内に納め、今日も都内の美術館、博物館を巡るのだ。


 芦屋は調査の末、やはり地球のどこかには魔力の存在する、または存在した場所があると確信していた。


 イギリスのストーンヘンジや、エジプトのピラミッド、ペルーのナスカの地上絵など、世界各地に魔力で構成したとおぼしき建造物や文化が確かにあった。


 図書館で世界の遺跡や文物をしらみつぶしに調べた結果である。真奥と芦屋の魔王城にインターネットなどという気の利いた設備は無い。


 しかし、どこが本物か、という特定ができない。


 海外に行くだけのお金は無いし、魔王の催眠魔術で首尾よく渡ったとしてそれが本当に魔力文明であるかどうかは、実際に行ってみなければ分からないのだ。


 それでハズレだったら目も当てられないし、魔王の魔力を回復するほどの力が残っているかどうかも分からない。


 だからあしはまず手近な文物を当たることにしたのだ。


 都内の博物館や美術館は、定期的に海外の博物館に収蔵されている文物を借り受けて展示しているらしい。その中に自分達の魔力と波長の合致するものがないかを探すのだ。


 この日は上野の国立西洋美術館の特別展に目標を定め、まずはしん宿じゆくに出ることにした。


 外は雨なので、おうみちばたで拾ってきたビニールがさを手に持ち、盗まれるものなど何もない部屋の、少々頼りないシリンダーじようのドアをしっかりとじようして家を出た。


 芦屋はふと、この生活が永遠に続いてしまうのではないか、という空恐ろしい思いにとらわれて、春だというのに身震いした。


「ん?」


 実際に自分がれているということにいつしゆん遅れて気づいた。地震だ。


 日本が地震大国であることはこの一年の生活でよく理解しているからあわてることもない。しかし築年数が殿堂入りの名前負けアパートに住んでいると、体感震度が三割増であるのにはへきえきする。


 案の定、十秒程度で揺れは収まった。エンテ・イスラでは一度地震が起これば、規模に関わらず、神のいかりだ魔王軍の侵攻だと人間達がパニックにおちいるが、日本ではこの程度の揺れでは気づく人間も少なく、電車だって止まらない。


 そもそも芦屋は新宿に出るのに電車など使わない。ささづかから新宿まではけいおう線で一駅。男の足で歩けばたったの二十分だ。もう一度ドアノブをひねって施錠を確かめるとかぎをポケットにしまって、共用階段をゆっくり降りる。


 芦屋自身、たった一駅分の交通費を、理由をつけて浮かせることに喜びを覚えるようになってしまった自覚はまったく無いのだった。




    ※




 あいデュラハン号をった真奥さだは一路アルバイト先を目指す。


 笹塚の魔王城から、はたのマグロナルドまでは順調に走れば十分とかからない距離だ。しかし芦屋の説教に付き合っていたせいで雨が本降りになってしまっていた。


 骨がゆがみ、び、ビニールがくすんで透明でなくなってしまっているボロ傘ではカバーしきれないほど強い降りだ。


 しかしおうは力強くペダルをみしめる。


 今日きようは月末。しかも休みを前にして開放感で財布のひもゆるむ金曜日だ。キャンペーン商品の地区売り上げ一位がかかった大事な日でもある。真奥は燃えていた。今日こそはブラックチリペッパーポテトの売り上げベストを更新してみせる!


あしなんかに言われなくても、俺だって俺なりに考えてるんだからな!」


 エンテ・イスラを征服するという野望は今もある。だが、帰る手段が無いのだから何もしようがない。帰れたとしても魔力が戻らなくてはあっという間にとうばつされてしまうのがオチだ。


 その点、日本ならに生活していれば討伐される心配も無いし、今日の活動が将来征服者として君臨するための小さな積み重ねだと考えれば、魔王としてのきようも満たされる。


 今はこれでいい、真奥はそう信じて疑わなかった。


 赤信号の横断歩道で止まる。ブレーキがみみざわりな音を立て、前輪がみずたまりに突っ込んた。


 デュラハン号はお得な買い物だったがこのマンドラゴラの悲鳴のようなブレーキ音が欠点だ。


 こうしゆう街道から一本裏に入る住宅街を突っ切る道路の交差点には、小さな公園と壁一面がガラス張りのおしやなレストランがある。


 真奥の来た方向とは横断歩道をはさんで反対側にある、そのレストランの雨よけのひさしの下に、真奥は女性の人影を認めた。


 ランチタイムが近くそこそこ人通りも多い中、その人物が目を引いた理由は一つ。この雨の中、かさを持っていないようなのだ。遠目にも、その女性が顔をしかめて手にした小さなハンカチで、髪や肩をぬぐっているのが分かった。


 赤信号の間、その女性はうらめしげに空をにらんでいた。予想外の雨だったのだろう。案の定信号が青になっても、途方に暮れたようにその場を動かない。


 真奥は交通ルールを順守し、自転車を降りて横断歩道を渡る。渡りきったところで、その女性はこちらに気づいたらしく目を向けてきた。軽く目礼した真奥はレストランの庇の下に入り女性に並ぶ。真奥は警戒されないよう、自然に女性と自分の間に自転車を挟み、


「よかったら、これ」


 ビニール傘を畳んで女性の方にを差し出した。


「え?」


 澄んだ声で戸惑いを浮かべ、女性は意味なく左右を見る。


「いきなり降ったから困ってるんじゃないかと思って」


 通りの向かいから見た姿や振る舞いは大人びていたが、こうして相対すると高校生くらいの少女にも見える。少なくとも真奥の外見年齢よりは年下だろう。


 花柄のチュニックにタイトなシルエットのデニムが似合う美人だった。毛先がゆるくカールするロングヘアは雨粒で逆につやめくほどに美しい。しかし肩から提げた小さなポーチに折り畳み傘の用意をおこたっていたようだ。


 意志の強そうなひとみおうの顔を不安げにのぞき込んできた。


「で、でも、いいんですか? だって、私が借りちゃったら……」


 もちろん真奥も予備のかさなど持ち歩いていないし買ったこともない。大体この傘も拾い物である。


「バイト先がすぐそこだから、チャリで飛ばせば二、三分で着くし。置き傘もあるから」


 差し出された傘のをおずおずと受け取る女性。それを見た真奥は、これ以上の押し問答になる前に、素早く自転車にまたがりこの場を去ろうとした。


「あの、ありがとうございます。その、何かお礼させてください」


 だが女性は思いのほか強い語気で真奥を押しとどめる。真奥は手を横に振り、


「別にいいよ。ボロ傘だし、用が済んだら捨てちゃってもらって構わないから」


「そういうわけには……」


 気が済まなそうな様子の女性を見て、真奥は言う。


「じゃあこうしよう。俺、すぐそこのマグロナルドに勤めてるから、暇なときに食いに来て」


「すぐそこ……ああ、はた駅前の」


 真奥が指差した方向に目をやり、女性は得心したようにうなずいた。


「そ、もし俺がいたらフェア中のポテトこっそり増量サービスするから」


 真奥の必殺技、草の根営業トークである。お客様となる可能性のある全ての人物に対し、マグロナルドのクルーとして接する。その心構えは昇給という形で結果に現れているのだ。


「分かりました。必ずうかがいます。あの……」


 女性は姿勢を正すと真奥の目を真っぐに見る。


「傘、ありがとうございます」


 そしてしっかりした口調で、真奥に頭を下げた。


 ゆううつな心の雨雲を吹き飛ばす、太陽のような美しいがおだった。


「じゃ、気をつけて」


 少しずかしくなった真奥は、それをすようにそっぽを向くと、軽く手を上げて雨の中におどり出た。もう振り返りはしない。


「うおおおおお、つめてっ!」


 ちょっと格好つけすぎただろうか。しかしこれものため、営業のため、そして世界征服のためである。


 それに正当な理由で傘がなくなれば、財布のひもをセメントで固着しているあしも、新しい傘を買うことを許してくれるかもしれないじゃないか。ダメなら、店の置き傘からマシなものをもらってこよう。


 再び信号が赤になった交差点で、女性は真奥の姿が見えなくなるまで、その場から動かなかった。

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