はたらく魔王さま!

@SATOSHIWAGAHARA

はたらく魔王さま!

魔王、生活のために労働に励む(1/7)


 銀行の預金がきた。


 理由はごく単純、お金を使ったからである。


 何に使ったかと言えば、まずは念願の冷蔵庫。夏を前に食料の保存にいささか不安を覚えていたから、絶対に必要な買い物だった。


 次に自転車。変速ギアもついていない最安値のシティサイクルだったが、バイト先への行き帰りに使うなら十分だ。


 更には洗濯機。最初はコインランドリーで済ませればいいと思っていたのだが、これが意外に面倒だし時間がかかる。やはり夏前にはそろえておきたい家電だった。


 そしてそれらを一括現金購入したために預金が底をついたのだ。


「もう少し計画的にお金を使ってはいかがですか」


 とがめるような声が彼の耳を打つ。


「じゃあお前、俺が悪くなったもの食って腹壊してもいいって言うのか! 着たきりすずめでいいって言うのか!」


「そういうことではありません」


 冷静な低い声がたしなめる様に言う。


「当座の資金が足りなくても、勤め先があって勤務態度は良好。来月以降の収入もある程度保障されているのですから、分割払いという手もあったのではありませんか」


「俺ローンって嫌いだ」


「あのですね」


「大体分割払いは手数料がかかるだろ! 俺実体が無いものにお金払いたくないし」


「ですが」


「買い物するなら自分が持っている以上の額を使うべきじゃない。俺は借金が嫌いだ。お金は無いなら使うべきじゃない。だから一括現金払いでしか買い物はしたくない」


 どこにでもありそうな六畳間の和室。その中央で、傷だらけのカジュアルコタツを差しはさんで座る二人ふたりの男がいた。


 説教する青年と、説教されている青年である。


 説教をしていたうわぜいのある細身の青年は、やおら立ち上がるとくだんの冷蔵庫の扉に手をかけた。


「ではお聞きしますよ、魔王様」


 説教される中肉中背黒髪の青年を〝魔王〟と呼んだ、上背のある青年は、本来はそれなりにするどいであろう眼光にていかんをにじませつつ冷蔵庫の扉を開けて〝魔王〟をにらんだ。


「こんにゃくときゅうりと牛乳で、どうやって次の給料日まで食いつなぐおつもりか?」


「そ……それはっ」


 説教されている魔王と呼ばれた男は座ったまま言葉を詰まらせる。


「べ、別に一文なしになったわけじゃないし、財布にはまだ金残ってるし」


 うわぜいのある男の目は、それは答えになっていない、と言っている。


「ほ、ほら、バイト先のまかないとか……」


「これから次の給料日まで毎食スーパーサイズミーですか。さぞ健康によろしいでしょうね」


 冷蔵庫のすぐわきにむき出しのまま置いてある自治体指定のゴミ袋の中には、有名ファーストフードチェーンの紙袋が無数に押し込まれていた。


「この体、まだ若いから」


「お若いうちからハイカロリー高コレステロールで毎日過ごしていれば、十年後が楽しみですね。帰還する前に生活習慣病できゆうせいしていなければよいのですが」


 なおもチクチクと皮肉が続く。


「時間の感覚もかつてとは違うのです。人間として生きる十年は短いようでとてつもなく長く、健康を維持するのはとても難しいのですよ? そういった計画性をお持ちですか」


「うっせぇな! 持ってないよ、持ってませんよ! これでいいか! あーもう! 大体こうなったのだって俺だけの責任じゃないんだからな!」


「確かに我らのなさはおびのしようもございません。が、再起のためふくし時を待てと、げきを飛ばされたのも魔王様でございます。本来ならば勤勉れいこう、健康保持の第一人者であらねばならないのに」


 言われて、魔王は押しだまる。顔をうつむかせ反省しているのかと思いきや、


「バイトの時間だっ!」


 突然立ち上がると逃げ出すように部屋を飛び出してしまった。魔王のあまりに素早い動きに、台所に立っていた青年はいつしゆん遅れを取る。


「お、お待ちください魔王様! まだ話は……」


「うっせぇうっせえ、アルシエル、説教なら帰ってから聞く!」


 追いすがる寸前で乱暴に閉じられたドアに、あやうく鼻をぶつけそうになる。


「魔王様っ!」


〝アルシエル〟と呼ばれた男がドア越しに呼びかけると、素直にドアが開いた。そこには魔王がいて、ものすごぎようそうでアルシエルに向かって手を出している。


「雨! かさ!」


 見ると朝方は快晴だった空に、灰色の雲が低く垂れ込めている。丁度雨粒が落ちはじめた様子だった。有無を言わさぬ迫力に、思わず玄関脇に立てかけられている使い古されたビニール傘を手渡してしまう。


「サンキュ、じゃ!」


 また目の前でドアが閉められ、カンカンと階段をけ降りる音が聞こえてきた。


「行くぞ! 我があいデュラハン号!」


 魔王と呼ばれた、全身一目でユニシロと分かる衣類で身を包んだ青年は、またがった新品の自転車のベルをしく鳴らし、騎馬兵の構える突撃やりのようにボロボロのビニールがさを掲げて、アパートの前のこうを抜けて走り去った。


 説教していたアルシエル、やはりこちらもユニシロフルセットの男は、共用階段の手すりから身を乗り出してしばしぼうぜんとした後、深く深くたんそくする。


 そしてカマボコの板に〝おう─MAOU─〟と、マジックで書いた表札が掲げられた賃貸アパートの部屋へと戻っていった。後ろ手に扉を閉め、頭を振って重いためいきをつく。一体こんなことになってしまったのか。雨雲と雨音で視覚的にも精神的にも暗くなった室内は今の彼のしんちゆうそのものである。


 そんなくすんだ部屋に飛び込む呼びりんの陰気な音。呼び鈴。そうだ。このアパートにはインターフォンと横文字で呼べるものすら無い。あしは再びドアを開けると言った。


「……うちにはテレビはありません」


 MHKの集金人とははや、顔見知り状態だ。実際この部屋にはテレビは無い。最近流行のワンセグ携帯だけで事足りる、とは家主にして彼のあるじたる魔王の意見だが、今のところその最新流行機種に変更するほど彼らのふところは豊かではない。


「一応うかがいました。もし買ったらこの納付書持って銀行にどうぞ」


 集金人はその事務的口調を封じ込めたような味気ない封筒を手渡し、愛想笑いすら浮かべずに帰っていった。




    ※




 魔王サタンの名を知らぬ者など、エンテ・イスラの世界広しと言えどいるはずがない。それはやみの生き物がうごめく魔界をべる、恐怖とざんこくを代名詞とする存在である。


 彼は神々の見守る世界とされている、せいじゆうたいりくエンテ・イスラに侵攻し、人間世界を支配して全ての闇の生き物達の王道楽土を建設する野望をいだいていた。


 人間達にとって絶望的なことに、その強大無比の魔王には、主に勝るとも劣らぬ力を持つ腹心の四天王がいた。


 アルシエル、ルシフェル、アドラメレク、マラコーダの四人の悪魔だいげんすい


 大海イグノラに浮かぶひときわ広い中央の大陸を中心とし、東西南北の大陸をじゆうに見立てた神々の見守る大地エンテ・イスラ。その東にアルシエル、西にルシフェル、北にアドラメレク、南にマラコーダの軍を展開した魔王はその勢力を全土に拡大させ、人間を初めとする神の勢力をあと一歩でせんめつするところまで行ったのだ。


 しかし、異変は西大陸のルシフェルの軍に起こった。


 たった一人ひとりの人間の手によって、ルシフェル軍が壊滅したとのしらせがもたらされたのである。


 ルシフェル軍を壊滅させた人間は自らを〝勇者〟と名乗り、生き残っていたわずかな人間を束ねて反抗しはじめたのだ。


 ルシフェルは元々天界からちた天使であった。


 西大陸は、人間達の中では天界と最も近い存在であるだいほうしんきようかいの勢力が強い大陸だった。天界の事情に精通するルシフェルこそ天の力を借りて戦う大法神教会軍攻略に最適であるとんだのだが、そのもくは〝勇者〟などと名乗る人間たった一人ひとりのために水泡に帰した。


 しかし長く戦っていれば、目論見の一つや二つは外れるものだ。ルシフェルは運が悪かったが、残りの悪魔だいげんすい達の力を結集すれば、勇者ちく容易たやすいとサタンは高をくくっていた。


 それが間違いの元だった。


 サタンは、人間を地をう地虫のような存在だと思っていた。


 しかし、考えてもみよ、地虫を絶滅させる方法はあるだろうか。巨大なが取るに足らぬ毒虫のひとみで死ぬこととてあるではないか。


 ルシフェルに続きアドラメレク、マラコーダがたった一年の間に相次いで敗北する。四天王一番の知将であったアルシエルは、その段階で東の地を捨て魔王の本拠地のある中央大陸を守るための拠点防衛戦を進言した。長き年月をかけて進めてきたエンテ・イスラ征服作戦を、たった一年でひっくり返されたのだ。サタンも、はや楽観はできなかった。


 急速に勢力を盛り返した人間達は勇者と大法神教会の名のもと、一体今までどこに隠れていたのかと驚くほどの大軍勢で魔王の治めるエンテ・イスラの中央大陸まで押し寄せた。


 中央大陸はまたたく間に攻略される。たった一人の勇者などという人間を、虫ケラとあなどったがために、魔王軍の勢力は散々に打ちくだかれてしまったのだ。


 サタンとアルシエルは、勇者と三人の仲間達を中央大陸の魔王城で迎えつ。


 流石さすがの勇者達も魔王と悪魔大元帥を同時に相手にしたために、簡単に決着をつけることはできなかった。それでも確実に勇者の力がサタンとアルシエルをりようしていた。


 やがて勇者の持つ聖剣がサタンの片角を砕いたとき、アルシエルは撤退を決意し魔王に上申する。このままでは敗北をきつするだけでなく、存在の消滅さえありる。


 サタンもじゆうの決断でそれをしようだくする。すなわちエンテ・イスラよりの逃亡。異世界へと逃げ込み、再び力を蓄え戻るその日を待つことに決めたのだ。


 聖剣が己の心臓をつらぬかんとしたそのしゆんかん、紙一重の差で異世界への門〝ゲート〟に飛び込んだ時の勇者のくやしげな表情も、サタンのりゆういんを下げさせはしない。


 サタンは最後のほうこうを、天にも届けとばかりにエンテ・イスラ全土にとどろきわたらせた。


「人間どもよ! 今このときは貴様らにエンテ・イスラを預けよう! だが俺は必ず貴様らを、エンテ・イスラを、この手に収めるために戻ってくるぞ!」


 だが異世界へ渡るための〝ゲート〟を意のままにあやつるにはそれ相応の魔力が必要であり、勇者との戦いで傷ついたサタンとアルシエルには制御しきれなかった。


 ゲートのほんりゆうに流されるまま漂着した異世界は、大悪魔たる二人ふたりをして驚くほど高度な文明を有した国だった。


 サタンとアルシエルも見たことのない、悪魔の常識を超えた高層建築と、無数のきらめく光をよいやみに投げかけるなぞのエネルギーが満ちあふれていた。


 二人ふたりがいるのは大都市であるようだったが、薄暗い裏道でもあった。巨大建造物のはざにあって、彼方かなたからの聞いたこともないそうおんが耳をたたく。一体どんな知的生命体が支配し、どんなきようぼうな生き物がいるか分からない場所だ。誰にも見つからないように、まずは傷をいやす場所を探さねばならない、と二人確認しあったそのときであった。


 突然二人にするどい光が投げかけられた。


「あんた達そこで何やってんの!」


 男の声がした。サタンが概念を理解できる、整った言語だった。見ると、エンテ・イスラに蔓延はびこっていたのと同じ、人間型の生き物が立っていた。その手に持つ筒のようなものから光が向けられている。


してんの? ケンカ?」


 どうやらこの世界には、人間が文化的な支配者として君臨しているらしい。男の後ろにもう一人ひとり、似たような姿の人間が立っていて、それもこちらを見ているようだ。


 アルシエルは面倒事を避けるためにも、


「控えよ! このお方をどなたと心得る!」


 と怒鳴り声を上げおどそうとしたが、か男は動じず、困ったようにまゆを寄せる。


 その事にアルシエルどころかサタンも驚きを禁じえなかった。悪魔の声には発するだけで魔力が宿る。それをこうもあっさり受け流すことができる人間などいるはずがないのに。


「あちゃー、外人さんかぁ参ったな」


 最初の男は首をひねり、何か黒い箱のようなものを取り出して突然独り言をつぶやきはじめた。


「警ら係りササキです。軽度傷害事件発生の模様。マルヒはアジア系外国人、場所は……」


 見れば丈夫そうな皮とも布ともつかぬ素材の衣類に、腰には短刀のようなのある武具。かぶり物のひたいには、何かの植物をあしらったとおぼしき金色のもんしようが見て取れた。よもや、この世界にある国の騎士か何かなのだろうか。


 独り言はなんらかの手段による遠距離通話だろう。彼が騎士だとして援軍が大挙して押し寄せてくれば、傷ついた自分達の身があやういかもしれない。


 今なら相手は二人。油断もしているようだ。アルシエルは目撃者を消すため、残る魔力を弾丸に変えて男にぶつけようとした。しかし、


「なっ……」


 魔力が思うように集まらない。それどころか制御しようとすればするほど体内から魔力が流れ出してしまい、それを止めることができない。異常事態を上申しようとサタンを振り向くと、


「ま、魔王様……その、お姿は……っ!」


 ろうばいに声が震える。アルシエルは見た。光に照らし出された魔界の王の姿を。


「アルシエル、魔力を使うな、この世界を知るまでは」


 サタンは落ち着いて見えるものの、やはり何かにあらがうように歯を食いしばっている。


 戦いの傷らしきものを残した、ぜいじやくな生物、人間の姿をした魔王サタンがそこにいた。


「とにかくほら兄ちゃんたち、すぐ車来っから、何もなけりゃすぐ帰れるからさ、オーケー?」


 男達はサタン達の姿をまるで恐れていない。きようがくから立ち直る暇もなく、アルシエルは己の手を見た。見たこともない、人間の手だった。


 やがて白黒に色分けされ、得体の知れぬ赤い光をき散らす馬の無い馬車が現れた。さらには最初の男と同じ兵装の男が次々と現れ、サタンとアルシエルをその馬車に放り込んでしまう。


「日本語分かる? 夏場にそんな格好してて暑くねぇの?」


 最初の男が二人ふたりの姿を見て尋ねた。元々普通の人間をりようするたいほこっていた大悪魔の二人である。人間の姿になってしまった今では、赤子がシーツを羽織ったような不自然きわまりない姿であり、しかも王や将としての威厳を保つためのまがまがしい装飾がそこかしこについている。


 サタンはアルシエルと顔を見合わせるが、何も答えられないし、答えたところでどうやら自分達の言葉は男に通じていないようだ。


「……まぁ、あの辺には面白い格好の若い人いっぱいいるわな」


 男は自己完結したのか、以後は何もしやべらなかった。結局サタンとアルシエルは、ケイサツショというこの世界のけいの集まる建物に連れてこられてしまった。


 その中の一室で調書を取られる際の立ち居振る舞いは、流石さすがに魔王サタンとアルシエルでは格が違った。サタンは、取調べの係官にさいみん魔術をほどこし、この世界に関する情報を引き出して見せたのだ。戦場で戦う一兵卒より、城でふんぞり返っている貴族や士官ほど脆弱な精神力しか持ち合わせていないのはどこの世界の人間も同じらしい。


 催眠状態に落ちた係官いわく、二人が流れ着いたのは〝チキュウ〟という世界の中の〝ニホン〟という島国だという。そのニホンの中の〝トウキョウ〟という首都地区にせつされた〝テツドウ〟という交通網の〝ハラジュク〟という駅近くに自分達はいたらしい。


 この国では魔法や魔力、魔王や悪魔と言った存在は全て空想上の存在であり、実在しないと認識されていた。魔力はその世界に住む者の意識によって世界に空気のようにゆうしゆつするのだが、無いものは供給されるはずもない。


「では、私は魔力を失った……ということですか」


 アルシエルはその衝撃をこらえきれず、座り込んでしまう。


「あ、でも、魔王様は……」


「俺はまだじやつかんの余力を残している。とはいえ、流出を食い止めるのは中々骨だがな」


 魔王と他の悪魔とでは体内に備蓄できる魔力量がケタ違いであり、勇者との戦いでしようもうしてもそれはアルシエルのなお数倍に達する。サタンは余力でさいみん魔術を使うことができたのだ。


「放出量を調整すれば、すぐにかつすることはなさそうだ。だが……」


 問題は、使ってしまうと再び蓄える手段がないということだ。


 傷はいつか治るが、このままでは魔力は永遠に回復しない。それではゲートを開いても制御することもできず、エンテ・イスラに帰るどころか、より危険な世界に迷い込む恐れすらある。


 かつけに出るよりは、この世界でなんらかの方策を見つけた方が得策であると思えた。


 悪魔や魔力の概念が無い代わりに、神やじやの概念もまた希薄である世界だったことも幸いした。みごとを払う儀式のようなものはあるらしいが、完全にけいがい化し、その行為に神聖な力を宿すことができる者は存在しないと考えてよさそうだ。


 この〝ニホン〟にいる限り、すぐに魔の者としてとうばつされることはないだろう。取調べの係官には調書を完成させ、問題ないという結論を出させて、二人ふたりはケイサツショを出た。


 サタンとアルシエルは街灯のあかりが届かぬ裏道に入って今後の方策を話し合った。


 まずはこの世界で、魔力を蓄える方法を見つけなければならない。そのためにはある程度の長期滞在は覚悟する必要があるだろう。


 そして魔力が蓄えられない、ということは、悪魔である二人にとっては魔法を行使できない以上に生命の危機に関わる。


 高等悪魔が食事をしなくて済むのは、魔力を生命エネルギーに変換できるからであり、魔力が存在しない世界というのは、食べ物が無い世界に等しいのだ。


 では悪魔の中に食事をする者がいるのか。食事という手段でも、普通の生物と同じようにエネルギーが摂取できるからである。


 魔力供給の無いこの世界で生きていくためには否応なしに食事をしなければならない。ニホンではへい経済が成立しているらしいから、食料を手に入れるには金が必要だ。


 だが当然二人はこの世界の貨幣など持っていない。


「アルシエル、一応確認する。お前先ほどの警察官なる連中を、やろうと思えば振りきれたか?」


 その問いにアルシエルは沈痛なおもちで首を横に振った。サタンも納得したようにうなずく。


 かつて人間全体をしつに置こうとした二人の大悪魔は、たった数人の人間を振り払い、あの場から逃げることもできなかったのだ。


 それはこの世界の人間が強いのではなく、自分達が弱っていると見るべきだろう。それだけ勇者との戦いはれつきわめたのだ。


「では、この姿も……」


 アルシエルは、自分の手を、異物を見るようにながめて顔をしかめた。柔らかく薄い。のっぺりとした顔にばさばさの髪、丸く頼りないつめに、まるで力が入らない全身の筋肉。


「情けない話だが、魔力不足のせいで高等悪魔の姿を保つことができないのだろうな」


 悪魔の外見は、本人の力の質に比例する。敵を切り裂く爪や、城壁を飛び越える脚力、空を舞うつばさへびの髪などの形態は、全て魔力によって維持されるものだ。


「まさかそれがげ落ちた姿がこれとはな。案外人間というのは、全ての生き物の根幹を成しているのかもしれん」


「おたわむれを。我が身の根幹が人間であったなど、考えたくもありません。恐らくこの世界や、ゲートの作用によるものでしょう」


「……まぁ、いずれにせよ、今問題なのはそこじゃない」


 ゲートを行使する魔力も無い。この世界の人間を圧倒する力も無い。つまり、この先生き延びるには、この日本という国で、人間達のルールに従いながら生活するしかないということだ。


 人間のルールに従う。魔王と悪魔だいげんすいにとって、ほこりの根底をくだかれるに等しい事態だ。


 しかし目の前にあるのは、働かざる者食うべからず、というこくな現実だった。


 魔王と悪魔大元帥は、元々羽織っていた悪魔のローブをずるずる引きずり、未知の世界への不安な一歩をみ出した。

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