第17話
帰宅するや否や、陽菜は祖父の
「ああ、かわいそかぁ、そうにゃかわいそかな……んん? たいがな怖かったろうに。もう大丈夫だけんな、爺ちゃんがしっか守ってやっけんが、安心してよか。んん。無事で良かったばいほんなこつ……あん馬鹿はおっどんが始末ばつくっけんな、仇ば取ってやる。爺ちゃんに任せなっせ。だいたい金ばやっとっとにしゃんとせん警察がいかんとぞ……役場ん者も……」
陽菜には祖父が何を言っているのか良く理解が出来なかったが、あの馬鹿と呼ばれた人物に何か危害を加えようとしているのだけは分かった。
「お爺ちゃん、ね、何もしなくていいから。陽菜元気だから、ね」
陽菜の声は祖父に届いておらず、ぶつぶつと独り言を重ねていく。抱きしめられたままの陽菜はどうしようもなく部屋を見回した。いつもと違う雰囲気を感じるのは、この家が特殊な状況にあることからか、事故を間近で見たからか、殺されかけたからかの判断は陽菜には難しかった。
いつもと違う部屋では普段目に入らない物が目に入る。棚の上の鍵付きの箱、壁掛けの集合写真。
「お爺ちゃん、あの写真の右の人はお爺ちゃん?」
正はやっと呟くのを止めて陽菜から離れ、写真の方へ振り返った。目が悪くかなり近づかなければ見えないはずだが、そこに置かれている物がなんなのか把握しているらしく
「ああ……一番右んとが爺ちゃんでな、そっから左さんいくと大工が柴、勝原、吉瀬。で次が役場ん綱藤、加藤、校長ん江原、教頭ん渡辺。あとが酒屋と庄屋。陽菜は出来上がったつしか見とらんけんがあればってんな、たいぎゃ大変やったぁ。おらんくなる者もおったし、見つからんで作業しよったら埋まっとったりしてからな……しゃんむっでん探す言うもんはくらしてやったばってん、まあ、どれも可愛か陽菜の為だけんしゃあなかたいな。町ん為にもなっとだけん喜ばにゃ」
納得した風で何度も頷き、正は更に続ける。
「陽菜は六年生だろが? あと二年したら良かばってんが、まだ守ってもらわにゃいかん歳だけん、爺ちゃんが言葉ば教えてやっ。そっば言えば怖かつはどけさんか行くけんな。しっか覚えるとぞ。良かな?」
一体何の事を言っているのか分からなかったが、陽菜は同意し正の正面に座り込んだ。陽菜の前ではいつでも優し気な表情の正が、これまでにない程真剣な表情をしている。
「揺れな降るうな、漏れ出る崩しぬいづ来るべし、子は鎹な、其は鎹、己が利にして他に落つせ。其が鎹な他に落つせ、其が鎹な他に落つせ」
分からずとも音は覚える。そうして何度も何度も唱え続け、陽菜が空で唱えられるようになったのを見て
「なんかいかん者がおってな、気に食わんやったらこれば唱えなっせ。『其』のとこさん名前ば入れたらよか。すっとな、陽菜が苦しか気持ちがすって軽くなる。人に教えっといかんぞ。爺ちゃんがそん子に話ばせにゃいかんくなるけんな、爺ちゃんと約束ばい」
「……うん」
私は一体何を教えられたのだろうか。あのお経の様な言葉は、私が幽霊の声を聞いたあとお父さんとお母さんも唱えたものと一緒だ。そして久保君がいなくなって、藤君がどこかの山奥で幽霊から逃れる為に身を潜めている。分からない。お爺ちゃん達は一体何をして来たのだろう。私の為に? 三階の幽霊から守る為に二人に犠牲を強いたという事か。
友達がいなくなったのは自分のせい。もしかすると南郷の子供も自分が原因かもしれない。今後も自分一人の命の為に、何人も何人も犠牲にしていくのだろうか。
自室に戻った途端陽菜は震え、自分では処理しきれない感情の波に押し潰され泣き出した。
消えてしまいたい。私なんかがいなければ。
そんな気持ちが陽菜の中にどんどん溜まっていく。実際陽菜がいなかった所で子供達は消えていくが、その一端を担ってしまったが故に自責の念がどうしようもなく生まれていた。
一頻り泣き疲れて眠ろうとしたほんの数舜前、陽菜の心にある思いが浮上し意識と共に沈んでいった。
それから起きたのは数時間後だったが、両親は既に夕食を食べ終えていた。キッチンで皿を洗う母に声をかけると、祖父と同様に強く抱きしめられ、父には頭を撫でられた。そのまま立っているだけで陽菜は苦しい感情しか湧いてこない。それを察したのか母から風呂に行くよう促された。確かに汗をかいたままの服も着替えずに寝てしまい、疲れもあってかなり気持ちが悪い。湯舟に浸かればこの暗い気持ちも少しは晴れるだろう。
そう思い母の提案に素直に従い、風呂場に向かった。
風呂場には明かりが点いており、誰かが消し忘れたのだろうと思った。張り付いている服を剥ぎ、ドアを開け浴室に入る。
普段ならお湯が冷めない様、浴槽の蓋を閉めてから次の人に渡すのが常だった。その蓋が開いていたので、陽菜は何気なく浴槽の中を見た。
「あっ……え、おじ……」
浴槽の底に正が沈んでいた。目を開けたまま浴槽に奇妙に体を曲げてねじ込み溺死している。
陽菜はその場に崩れ落ち、母がやってくるまで呆然と座り込んだままだった。
異常な状態での発見搬送となった正の遺体は、長住家の一声により司法解剖などの工程が省かれ、ただ溺死とだけ診断書には書かれた。通常死んだその日の夜に通夜、翌日に葬式となる。だが異例の速度で帰って来た遺体、通夜を行わずにそのまま葬式を慣行。翌日には火葬場へと運ばれたが、骨と化した正を壺に詰める事すら叶わなかった。
祖父のあの形相も恰好も見たくはなかったし家族の誰とも話したくなかった陽菜は、家に残された方がまだましだと思った。
「やあねえ……あんな死に方……惨たらしいったらありゃしない。あたしゃ金より命の方が大事だけどねえ。孫なんて涙の一つも流してないし、怒らせるとこうなるってことかしら。怖や怖や」
と他県から駆け付けた親戚らしき人物がぼやいているのをトイレで聞いた。
殆どの親戚が火葬場に行っている間、陽菜は川を眺めながら学校の怪談を止める方法について考えていた。
自分が出来る事はないのか、自分だから出来る事があるんじゃないかと。
その夜の事だった。
コンコン
と部屋の窓を叩く音が聞こえて来た。両親も遠方から来た親戚も今は完全に寝静まっているし、窓は外側にしか付いていない。聞き間違いだろうか。
だがまた
コンコン
と窓が鳴った。陽菜はベッドの脇に置いてあった鍵盤ハーモニカを手に取り身構えた。
子供達に幻聴を聞かせ、久保君に何かを雨の様に浴びせ、祖父を死に追いやったであろう学校の霊が、私の所にもやって来たのだと思った。しかし
「……ん……ずみちゃん、長住ちゃん」
「え…………桑名、さんですか?」
予想とは裏腹に、現れたのは光輝だった。十二時をとっくに過ぎての突然の訪問に驚きを隠せなかったが、声を出しては家族に気付かれる。小声で光輝に尋ねた。
「ここで何してるんですか。見つかったら大変な事になりますよ」
「要件だけ伝えたらすぐに出てくから大丈夫。それにまあ、見つかっても死にはしないって分かったから」
光輝の言う意味を理解するには、暗闇に目が慣れる必要があった。
「要件って何ですか?」
こんな夜更けにわざわざ訪れるには相応の要件があるに違いない。決心したばかりの陽菜にはグッドタイミングな知らせだ。
「玄関でも裏口でもいいけど、とにかく校舎に入るための鍵を手に入れて欲しい。早ければ早い程助かる」
「……もしかして三階に行くつもりですか」
「そうだね。このままじゃ埒が明かないから確認しに行こうかと思って」
「私が見に行ったら駄目ですか?」
「だっ……駄目に決まってるでしょ。危ないんだから」
「桑名さんも危ないと思うんですけど、なんでそんなに急ぐんですか」
「日曜日が創立記念日だから」
「創立記念日? 何のですか?」
「何って……学校のだよ」
「あっ」
創立記念日。学校が建てられた日。つまり、彼女にとって忌まわしい憎むべき日。
この日までに是が非でもあちら側に引きずり込みたい。そう考えていてもおかしくない。まさに今この瞬間にも、声が聞こえ姿を見た人を襲うかもしれない。
基本的に校舎の鍵は先生が持っているか職員室にあるはずである。見つからないようこっそり盗みだすなんて出来るのだろうか。六時には校舎の出入り口も窓も見回りされて全部閉められてしまう。どうやって鍵を手に入れればいいのか、陽菜にはすぐに思いつかなかった。
暗闇に少しずつ目が慣れた陽菜は、月明かりに照らされた光輝の顔を見た。光輝の顔にはいくつもの痣がくっきりと残っており、生々しい切り傷が首元にも残っている。
「どうしたんですか……その傷」
「まあ……怖そうなお兄さん達にやられてね……幸い家柄のおかげで焼却されずに済んだよ。苗字一つでもたまには役に立つもんだね」
彼の苗字が一体何に関係しているのか陽菜には分からなかった。痛そうに頬を撫でる光輝。だが光輝に今ここで詳しく説明している時間は無い。
「遠い遠い昔に実は親戚だったらしいって事だよ。とにかくどうにかして鍵を手に入れて欲しい、もし手に出来たらこの番号に連絡して。出来なくてもまた考えるから…とにかく連絡してね。よろしく頼んだよ」
光輝はそう言って辺りを注意しながら敷地内から出て行った。
鍵を入手するなど到底不可能である。ベッドに戻った陽菜は頭を抱え込み、一晩中考え込んだ末、思い切った作戦に出た。
水曜日、学校付近の路肩に車を停めていると、すぐ後ろに停まっている車から真帆が降りて来た。真っ白な衣装に身を包んでいるせいか、夕陽のオレンジに染まっている。私は車を降り真帆の方に歩み寄ると、彼女は手を合わせながら
「ごめんね! 急遽予定変更しちゃって。お爺ちゃんが桑名君には触らせたくないって言い張っちゃって……ってどうしたのその顔」
元々真帆の祖父が神主を務める神社まで荷物を取りに行く予定だったのだが、全て彼女の祖父と二人で積み込んでしまったと連絡があったのだ。
「まあちょっと昨日色々あって。図書館にいたのとかその他……いや俺の話は全然いいんだけど、中身何? お爺ちゃんは流石に来なかった?」
「お爺ちゃんは神社にいる。中身はまあ、お酒とか米とか御札とか、念の為チェーンカッターと軍手」
「なるほど。まあ穢れてるから触ってくれるなってことか……よくオッケー出してくれたね。絶対止めると思ってた」
そう言うと真帆は少し困った顔をして
「実は甲斐君の所に行くって嘘ついたんだ。あの子も関わってるから必要になるかもとか何とか言って。まあそれは置いといてさ……一つ聞きたいんだけどどうやって中に入るつもりなの? ガラスでも割るつもり?」
「俺も最悪そうしようかと思ってたんだけど、まさについさっき状況が変わって……正直急展開過ぎてビビってるというか、嗾けた俺も悪いんだけど」
「何? どういうこと? いや、その痣もさ」
「まあ……道中説明するよ。早く行かないと、人を待たせてる」
水曜日の放課後。六時を過ぎ、誰もいなくなった廊下に小さく金属の音が響いた。本来開いてはいけないはずの窓が開き、予定していた通りに私と真帆が枠を乗り越えて入っていく。何かがあった時の為に鍵だけは開けたままにしてそっと窓を閉めた。
「桑名君……これは絶対よくない」
「ごめんなさい私が勝手にやったんです」
「いや、俺が長住ちゃんに頼んだのが悪いし、考えてやってくれた結果だよな。俺の方こそ無茶させてごめん」
大胆過ぎる行動だったとは思うが、長住さんにはそれしか思いつかなかった。放課後になるのを見計らって母に少し散歩してくると嘘をつき、下校する生徒達に紛れて学校に侵入した。あまりに早い家族葬なのもあり、殆どの生徒は長住家がそんな状態にある事を知らない。そして何の疑問も持たれず音楽室に入った。
音楽室には子供が入れる程の収納スペースが沢山あり、御粕會小には吹奏楽部が無いので用事が無い限り誰も来ない。見回りの先生が音楽室に入って来た時には肝を冷やしたが、流石にそんな場所に入っているとは思いもよらなかったようだ。そうやって完全に校舎内から人がいなくなるのを待ち、六時半を目安に一階に降りて職員室前に設置された公衆電話から光輝に電話を掛けたという訳だ。給食室と植木で道路からは目隠しになっているのでそこを指定し、そして裏門から少し入った所の窓を開け、今に至る。
「こんなの想定外だって。今日は帰った方が良い」
「折角ここまで来たんだから行かないと。もうこんなチャンスそうそう無いよ」
「でも一人だけならまだしも二人は面倒見切れない。何かあった時にどっちかしか守れないかもしれない。絶対帰るべきだよ。私と約束したでしょ? 私の言う事守るって」
「それはそうだけど……じゃあ長住ちゃんはここに居て貰って二人で行くのは」
「私は行きます」
私達を見上げ長住さんは豪語した。子供達を守る為に敢えて爆心地へと飛び込むのに、それに子供が連れ立って行くのは本末転倒もいい所だ。例え彼女が長住家の人間で一度は霊から逃れられたとしても、今回も逃げられるとは限らない。むしろ一度失敗している分、躍起になって襲ってくるかもしれない。そう説得するのだが
「いえ、私が行かないと駄目なんです。私なら大丈夫です」
覚悟に満ちた彼女を止めるのは難しい。そう判断せざるを得ず、三階への一歩を踏み出した。
階段を登る足音は夕闇に吸い込まれて、呼吸や心臓の音すら出してはいけないのかと思う程に静かだった。夜の闇も暗いと思うがこの校舎の光景を一度でも見れば、赤い夕陽が作り出す影の方がより暗く不気味さだと思うだろう。すぐそこに光があるはずなのに、影の部分に光が吸収されていく様に真っ黒だった。懐中電灯を持ってきてはいるが差す程の時刻ではないし、差せば外に光が漏れてばれてしまう。だが、そうなってしまってでも灯りが欲しいと望んでしまう異様さを纏っていた。
私には霊感が無くオーラだの人影だのの一切が分からない。勿論危険を察知する能力なんて物もない。それでも階段を登り三階に近づくにつれ、微かに、より確かになっていく水の滴る音が、物語の進展を知らせている気がしていた。
真帆を先頭に進んでいき、何事もなく三階に到着した。夕方の雰囲気に飲まれているだけで、ここまで来てもまだ至って普通の学校にしか見えない。実は角を曲がってもバリケードなど存在しておらず、本当にどこにでもよくある怪談の一つでした、となる事を期待する自分がいた。遠目からバリケードがあるのを視認していたにも関わらずだ。
そんな妄想を打ち砕く様に角を曲がった先には天井付近まで積み上げられ、ご丁寧に南京錠の掛けられたチェーンでぐるぐる巻きにされた、机造りのバリケードが築き上げられていた。
明らかに異様なのは外からでも分かったが、間近で見るとより日常に食い込む不自然さに慄いた。横を見れば私よりももっとあからさまに顔を歪め、真帆が強い忌避感を示している。何かしら感じるものがあるに違いない。
「あっ」
長住さんが何かを見て驚きの声を上げた。目線は私達と同じ方を向いている。
私は間違い探しの如くその何かを探した。目の前の情景がまず間違いでしかないが、彼女らにとっては日常である。ならば本来無い物がここにあるという事だ。
私に見えればだが。
「……君、桑名君……あれ、見えてる?」
今度は真帆がその何かに向かって指さした。指先の延長線上を目で追っていく。
「…………ある、ね」
二つのバリケードに挟まれた廊下の丁度真ん中。誰が置いたのか分からない赤い上履きが、ぽつん、と落ちていた。
引き返すなら今しか無い。もしこのバリケードを越えれば、一歩でも教室に踏みいれば帰ってこられない。
先に動きだしたのは長住さんで、真帆、私と続いた。
バリケードはチェーンでガチガチに固められており、小柄の小学生であれば通れる隙間はあるが、私達大人は通れそうにない。先生、生徒に気付かれずに事を済ませたかったが、チェーンを切る必要がありそうだ。
「ね、持ってきて良かったでしょ?」
さぞ自慢げにカッターを取り出す真帆だが、彼女にはこれまで使用する場面があったのだろうか。使い方もこなれている。
南京錠を断ち切ってチェーンを外し、教室側の机から少しずつ脇に避けていく。組み合わさった机を崩していくのは三人いても骨が折れる作業で、人一人が通れる幅を作り終わる頃にはほぼ陽は落ちていた。辛うじて赤い陽光が天井付近に細い線を描いているだけで、視界のほとんどは闇に包まれている。今はまだ目が慣れているが、もう三十分もしない内に完全に見えなくなってしまう。
「私が先に入るから陽菜ちゃんが後について、桑名君は最後に」
頷き、縦に並んで開かずの廊下へと進み入る。片方だけの赤い上靴がこちらを向いているが、霊が関係している現象を見たのはこれが初めてだった。上靴の布地部分が泥に塗れているのを除けば、本当に誰かがぽんとそこに置いた物にしか見えない。どこにでもある普通の上靴だ。鋭く睨み付ける真帆の目から察するに、彼女にはオーラだとかの類いを感じているのかもしれないが、私にはやはり分からない。
この時の三人の視線はその赤い上靴に集中していた。校舎内にいる人間が私達三人だけだと思い込んでいたからだ。故に光輝の背後に迫る人物のことなど微塵も頭に無く
ガツン
固い物同士がぶつかる音が廊下に響いた。私のすぐ背後で鳴ったその音の正体を確かめようと、首を曲げた瞬間私は気を失った。
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