第13話 新たな一歩
「緋色、ちょっと待って!」
「(ダメ、待てない)」
「でも、待って!緋色!!」
今まで一方的に引っ張られていた腕を、強引に振りほどく。
すると緋色はハッとしたように我に返り「(ごめん)」とジェスチャーを添えて謝ってきた。素直に謝るなんて珍しい――と思いながら、どうしてこうなっているのかを再確認する私。
「(なんで私たち、押し問答してるんだっけ……。あぁ、そうそう)」
私たちは想いを再確認した後。目立ちすぎる学校を足早に後にして、学校から離れた公園にやって来た。
夕方に近い事もあって、学校終わりの小学生が、元気にサッカーをしているのが目立つ。割と大きな公園で、公園に沿って大きな樹が植えられていた。緑の葉で生い茂っている木の傍に、私を引っ張って連れて来た緋色。そして、なんと。
人目をはばからずに顔を近づけて来たので「ストップ!」と声を上げた次第なのだ。
けど、さっきの私は拒絶しすぎた。緋色を見ると、少し落ち込んでいるのか「(なぁ)」と私に話しかける目が、どこか寂し気だ。
「(キス……ダメなのかよ?)」
「そりゃ私だって。だけど……いくら木の陰に隠れてるからって、ダメ。目立つから、ダメ……っ」
「(でもさー)」
明らかに不満げな顔をした緋色は、私と一歩距離をとってから、自身のスマホを触る。そして早く指を動かして、文字を打った。そのスマホの画面が私に向いた時、思わず「うっ」と声が出てしまった。
なぜなら、そこに打たれてあった文章は、私にとって都合が悪かったからだ。
「(外でキスしたいときは一瞬ならいいって、前に朱音は言ってくれたけど?)」
「う……、その通りなんだけど……!」
――そ、外で、どうしてもしたくなったら……一瞬で、ちゅって、終わらせて
言った覚えはある、すごくある。だけど、それとこれとは話は違う。さっき学校でキスして目立ちまくったばかりなのに、今度は外でキスとか。見境なしのバカップルって絶対言われるじゃん。それは、さすがに恥ずかしいから……っ。
「あ、あのさ。なら、もっと人気のない公園とか?寂れた公園にいこうよ。ね?」
「(……却下)」
「ひ、緋色?」
いつになく怖い顔で、緋色は私を見た。そして「よく聞け」と私に念押しをした後に、ポケットの中からある物を取り出した。
それは、さっき沼田くんから貰った防犯ブザー。静之くんは、それをまるでお守りみたいに大事に握り締めていた。更にスマホを打つ手が、小刻みに震えているように見えた。
「(俺は声が出ない。もしもお前に何かあった時、人を呼べない。相手に力で負けた時、お前を助けられない。それが嫌だ。ってか、怖い。お前を守れない自分が怖い。お前に何かあったら、俺は自分を一生恨む)」
「ひ、緋色……」
そんな大げさな、と言おうとした。けど、言えなかった。緋色の目が、あまりにも真剣だったから。そして僅かにだけど、恐怖で揺れていたから。
「(緋色……そっか、そうなんだね)」
緋色は、今、私に本音でぶつかってくれているんだ。緋色、ありがとう。私に弱さを見せてくれて。あなたが本気でぶつかってきてくれるから、私は、今の緋色の思いを知ることが出来る。
「ありがとう、緋色。心配してくれて。私、もうバカな事は言わない」
「(いや、バカなって事は……。悪ぃ、俺もビビらせちまった)」
「ううん。私も、自分でもっと気を付ける。防犯ブザー五個くらい買う!」
「(……)」
「買うから!」
「(……ぷっ、ほんとに変なヤツだな。お前)」
「!」
あ、笑ってくれた。
緊張で強張った緋色の顔が、少しずつほどけていくのが分かった。その顔を見て、緋色の笑顔を見て……。私の顔にも、笑顔が戻って来た。
「(あぁ、やっぱり。緋色が笑うと、私も笑える。緋色は、私の全てだ)」
そう思った。それは、すごく幸せな事だった。私の全てである緋色が、今、私の隣で笑っている。枝垂坂さんの隣ではなく、私。その現実は、これ以上にない幸せなことだ。
だけど――一つの事が、私はずっと気になっていた。
「ねえ、緋色。私、聞いてもいいのかな?緋色がどうして私から離れていったのか」
「(もう聞いてんじゃねーか)」
「そうなんだけど」
困ったように笑う私に、緋色が「(俺も聞いて良い?)」とスマホの画面を見せた。頷くと、緋色が続きを打って、また、私に見せる。
「(なんで彼氏彼女を終わらせようと思ったのか。夢の中で会うのも最後にしたいと言ったのか)」
「それは……」
「(答えたくねーんだったら、別に無理にとは)」
と打っている緋色の指を、ガシッと握る。「!?」緋色の体が、ビクッと反応した。どうやら少し痛かったらしい。
「ご、ごめん緋色。でも、その……これから話す事は、もっと怒らせることかもしれないから……。先に謝っておく。ごめん」
「(うん……なんだよ)」
「緋色がさ、私を助けてくれないし、枝垂坂さんの肩ばかり持つから。緋色はてっきり、枝垂坂さんの事を好きだと思ったの。それで、私の事が邪魔になったかなって……勘違い、してた」
「(はあ?)」
スマホの文を見なくても分かる。緋色は今、私に心底、呆れている……。
「だ、だけど!緋色も緋色だよ!私がそんな誤解をしたのは、もとはと言えば緋色のせいだもん。どうして枝垂坂さんの傍にいたの?緋色は枝垂坂さんを好きなんだって、ずっとそう思ってたよ……」
「(……悪い)」
緋色は、私の手をギュッと握った。恋人繋ぎだ。離さないように、離れないように。強く固く、握られている。緋色は、繋がった私たちの手と、そして私の顔を見た。次に観念したように息を一つ吐いてから、スマホに文字を打ち始める。
「(枝垂坂から脅されていた。朱音を苦しめたいと、俺を横取りされた仕返しがしたいと。その仕返しに付き合ってくれるなら、学校で朱音をイジメることはしないと。俺は、それに従っていただけだ。だから枝垂坂の事が好き、なんて事は絶対ない。ありえない。向こうも、俺のことは道具にしか考えていない。人の前だけでぶりっこして、俺と相思相愛の演技をしているだけだ)」
「え……。なにそれ、最低じゃん!」
「(朱音を守れるならと思ったけど、反対に傷つけちまった。朱音、悪かった。反省している。堂々と勝負をしなかった俺、カッコ悪いよな……)」
「緋色……」
肩を落としてシュンとする緋色。大型犬が耳を垂らしているみたいで。こんな状況だけど「可愛い」なんて思ってしまった。
「おいで、緋色」
「(……)」
呼ばれ方に不満がありそうな目つきをした緋色。だけど、大人しく私の胸の中にポスンと入ってくる。近くにベンチがあったから、緋色はそこに座っていて。座った緋色の頭がちょうど私の胸の高さだから、今の体勢がすごく自然に出来る。
大人しく抱きしめられている緋色を見ると……それがまた可愛くて。母性本能をくすぐられた。まだ未知な「母性」だけど。でも、きっと母性って、こういう事を言うんだと思う。
何かを守りたくなる気持ち。
誰かを愛しく思う気持ち。
込めれるだけの思いを込めて、私は口を開いた。
「緋色、ありがとう」
髪を撫でながら、私は緋色に子守唄を歌うように囁く。上から見た緋色は、最初は薄目を開けていたけど、少しずつ瞼が下がり。途中から、目を伏せて私の話を聞いていた。
「緋色は、いつも私の事を考えてくれる、見てくれる。気にしてくれる。その事が私をいつも救ってくれてるんだよ。ありがとう緋色。緋色(ひいろ)は、私のヒーローだね」
「(……)」
「な、なんちゃって……」
やばい、完璧に間違えた。自分でも「しまった」と恥ずかしくなるくらいには、だいぶやらかしている。
「あの、緋色!これはね、」必死で言い訳を考えようとしていると、手をパンパンと叩いて、お腹を抱えて笑う彼が、私の視界に入ってきた。緋色はどうやら爆笑しているようで。穴があったら入りたいくらいに恥ずかしいけど、でも、いいや。緋色が笑ってくれるなら、もう、なんでもいいや。
「どーせ寒いギャグですよーだ」
「(ほんとな。どーやったら思いつくんだよ、腹いてー)」
ろくに画面も見ずに、よく正確に文字が打てるもんだ――そう呆れながら。でも、大口を開けて、歯を見せて笑ってくれる彼を「大好き」と思いながら。何秒でも何分でも、彼を見つめ続けた。
すると、バチッと、漆黒の瞳と目がかち合う。さっきまで大笑いしていた緋色は、もうどこかへ行ってしまったらしい。「朱音」と口パクで名前を呼ばれて、さっきとは違う真剣な顔で私を見た。
「(話がある)」
「うん、なに?」
首をかしげると、緋色はスマホに文字を打つ。真剣な顔で。時折、立ち止まって、何かを考えながら。五分程の時間を要して、緋色は「(よし)」と一度頷いた。
そして熱心に打ち込んでいた時とは打って変わって「(ほい)」とあっけらかんとした雰囲気で、スマホごと、私に渡してきた。画面を少し見ただけで、長い文章が並んでいるのが分かった。
「読んでも、いいの?」
ただ一度。コクンと頷いた緋色。私は黙って、画面に目を移すのだった。
その翌日。担任の先生が、一限目が始まる前に、教室にやってきた。「はぁはぁ」と、かなり急いでいる。
「みんな、落ち着いて聞いてくれよ」
クラスメイトは、皆が落ち着いていた。枝垂坂さんも、沼田くんも、そして私も。枝垂坂さんは、緋色が自分の傍から離れていったけど、その事については、さして気にしていない様子だった。女子の噂を聞くに、新しい彼氏が出来たらしい。元カレの事も、ケンカの強い今の彼氏が、丸く収めてくれたようだった。
沼田くんとは、昨日は見苦しい物を見せてしまったから、私は気まずかった。けど、沼田くんは何事もなかったように「おはよ、澤田」と挨拶をしてくれた。大人な対応をしてくれる沼田くんに脱帽する。私たちは昨日と同じように、他愛もない事を話していた。
だから皆、落ち着いていた。先生一人を除いては。「はぁはぁ」と上がった息は、なかなか収まらないらしい。少しだけ呼吸を整えた後、先生は「落ち着いて聞けよ、みんな」と言い放った。
「静之緋色は、昨日限りで退学したそうだ。今日から来ないからな。皆、分かったな?」
ザワッ
いくら落ち着いていた皆も、この時ばかりは取り乱したようだった。特に沼田くん。沼田くんは私の隣で「え、え?どういうこと?」と疑問符を浮かべて、私に聞いてきた。
「二人、付き合ったんだよね?」
「う、うん」
その説は本当にお世話になりました――と沼田くんに重ねてお礼を言った私に「俺は別の奴からお礼が聞きたいよ」と沼田くんは、ジト目で緋色の机を見た。
机上には投げ出された筆箱。置きっぱなしのノート。机の横にかかったカバン――どれもこれも静之くんの物で、私物がこんなにあるのに当の本人が退学というのは、すごい違和感があった。
沼田くんは「え、わけがわからない」と頭を抱えた。だけど、冷静な私を見て、何かを察したようだった。
「澤田は、知っていたの?静之が退学する事」
それに私は「うん」と頷いて返す。
「昨日の放課後、言われたの。緋色、本人から――」
そう。昨日の放課後。広い公園の、大きな木のそばで。緋色が約五分かけて打ち込んだ内容。それは、自身の退学の事だった。
『(俺、今の学校を退学しようと思う。枝垂坂の事があってとかじゃない。入学して日は浅いけど、それでも息苦しかったんだ。
いつも仮面をつけていないといけない事。ニコニコしないといけないって、自分に無理させている事も。頑張って皆に嫌われないようにしなきゃって、そればかり考えてた。
だけど、朱音が言ってくれた。逃げてもいいんだって。それで俺、考えた。今の高校に、自分を押し殺してまでいる必要はないなって思った。朱音と一緒の高校に通えるのは嬉しいし、楽しい。付き合い始めたから、学校生活はこれからだって言うのも、分かってる。でも……)』
文章は、そこで途切れて終わっていた。一旦ここまで読んでもらいたいという思いなのか、ここから先を打つ自信が無かったのか――その両方に思えて、私は緋色のスマホを借りて、そのまま続きを打った。
『(でも……緋色。私は前、言ったよね?緋色が笑顔だと私も笑顔になれるって。それと同じで、辛い顔をした緋色を見ると、私も辛くなる。だから、緋色が緋色でいられる場所にいてほしい。緋色には幸せになってほしい。そうしたら、私も絶対に幸せになれるから)』
スマホの画面を緋色に見せると、緋色は目を見開いた。そして少しだけ、目を潤ませた。その時の緋色には、夕日があたっていて……。夕日の当たった緋色の瞳が、キラキラ光っていた。それはまるで、希望に満ち溢れて、輝いている緋色そのものに見えて。緋色の道は、ここにあるのだと、私は思った。
そして同時に、確信した。
「緋色の居場所は、この学校じゃないなって。ここに緋色を縛っておくのは違うなって、分かったの」
「澤田……」
昨日、緋色と学校を後にする時に「鞄はいらない」と彼は言った。きっと、その時に緋色は覚悟を決めていたんだと思う。この学校を辞める覚悟を。その事を、私に打ち明ける覚悟を。全てを話した緋色の顔は、今でも忘れない。
常に張り付いていたニコニコした仮面は、もう、緋色の顔に存在しなかった――
全てを話し終えると、隣の沼田くんは「あーあ」と、気怠そうに伸びをした。
「嫌になっちゃうよねぇ。澤田の事が好きな俺が、澤田のすぐ隣にいるのに。俺が澤田の事を横取りするって思わないのかっての。だって、そうでしょ。こんなの……まるでアイツが、俺の事を信用してるみたいじゃん」
「沼田くん……」
「ふん」
感謝と尊敬と謝罪と――色んな感情が、沼田くんに向かって飛んで行く。ナイフじゃない。正真正銘の、私の気持ちだ。
だけど、沼田くんは決して受け取らない。まるでゴミかのように、飛んでくる私の気持ちを手で払い落す。パッパッと。まるで埃をとるみたいに。沼田くんらしい、照れ隠しだ。
そして、私に言葉を返す。でも、前のようなナイフじゃない。きちんと温度がある。私の事を思ってくれる言葉だ。それらは私に優しく飛んできて、いつも心にぬくもりを与えてくれる。
沼田くんの存在に感謝をしながら、彼を見つめる。すると沼田くんは、私の視線をもパッパッと手で振りほどきながら「それで」と続きを促した。
「学校を辞めて、その後はどうするの」
「通信制の高校に通うんだって。資格もとれる所にするって言ってた」
「資格?なんのさ」
「えっと、カラーコンシェルジュ。パーソナルカラースタイリストっていう言い方もするらしいよ」
スマホのメモに保存した文字を見ながら、沼田くんに説明する。知識の底が浅い私に対して、沼田くんは妙にあっさりと「あぁ」と頷いた。
「パーソナルカラー診断とか、ああいうのか」
「そうそう!よく知ってるね、すごいや沼田くん」
「でも、色の資格をとって、それからどうすんだよ。狭き道だろ」
「あ~うん。それは本人も言ってた」
緋色と沼田くんが話をすれば、さぞ弾んだのじゃないかと思うほど。沼田くんは達観した物の見方をしていた。私よりも豊富な知識だ。
だけど、それは緋色も同じで。
昨日の夕方。
たくさんの事を、私に話してくれたのだ――
『(朱色や緋色を調べてたらさ、色の違いが面白く思えたんだ。どうせ知識をつけるならって、資格を目指す事にしたんだ。それで、将来は、その資格を活かしてwebデザイナーになる。在宅勤務可能な会社があるだろうし、やり取りもメールで出来るしな。喋れない俺にピッタリだろ)』
目をキラキラさせながら話す緋色が、カッコいいのに、なぜだかすごく遠い存在に思えた。やっと隣同士で歩けるのに……と、自分の中の小さな僻みと、嫉妬と、焦りが、私の純粋な恋心の邪魔をする。
緋色を好きでいたいだけなのに――
また、私たちの間に障害物が出来るのかと、すごく不安になった。
その時だった。
『(この夢は、朱音がいなくちゃ見つけられなかった。そもそも朱色とか緋色とか。色なんて調べようと思わなかった。お前と会ったから、色の違いを知ることが出来たんだ。それに、俺ならコイツの魅力を表現できるのにって、デザイナーを目指す事もなかった)』
『コイツの魅力?』
『(お前だよ。お前は芯が強い。忍耐力にも逆境にも耐える精神力がある。俺は夢の中でお前の強さを知った。のに、お前がそれを封じ込めて寡黙を貫いていたあの頃……もどかしかった。お前にはお前の良さがあるのに。代わりに俺が自慢したいって、何度も思った)』
『そ、そうなんだ……っ』
照れてる私に、コツンと頭を寄せる緋色。頑なに顔を見せようとしない。耳を見ると、赤く染まっている。「ははん」すぐに私は勘付いてしまった。
「自分で言ってて照れた?」と聞くと、僅かに頭が上下に動いた。どうやら珍しく語ってしまったらしく、我に返った途端に恥ずかしくなったみたいだ。そんな緋色を見て、私はクツクツと笑いが漏れる。
『ありがとう、緋色。私、すごく嬉しい……。緋色の道しるべになれて、誇りに思うよ』
『(……語るな、はずい奴)』
『ひ、緋色が先に言ったんじゃん……!』
というわけで――緋色は、自分の夢に向かって。既に歩き始めた。だけど、私はまだまだで。緋色みたいに立派な志があるわけじゃない。「ならば」と。昨日、考えついたことがある。
「静之も、俺が澤田を惚れさせちゃっても文句は言わないでよね。本当、人騒がせなカップルなんだから!澤田も、俺に惚れても、俺を恨まないでよね!」
ビシッと指をさされた私は、教科書ではない本を広げて、必死に手を動かしていた。
「……何してんの?」
「え、あの……。今、私に出来る事と言えば、これかなって。手話」
元々器用なほうではないから、左右の手の動きが違うと、とても難しい。ひらがな一文字ずつくらいは出来そうなものだけど……。単語や会話となると、頭を使いそうだ。
でも、緋色がスマホで打たなくて済むように、私は頑張りたいっ。
「え、と……あ、あれ?」
「は~、本当に見てらんない!貸して!俺がお手本見せるから」
「お、お願いします……っ」
緋色。私はあなたを道しるべに、自分の道を歩んでいくよ。あなたが隣にいてくれたら、私の人生は絶対に明るいから。暗くて道が分からなくなって、人生に迷う事はない。二人がずっと、一緒ならば。
だから、同じ道を歩もう。同じ人生を歩こう。私も緋色も、お互いがあっての自分だから。足りないところは補って、言いたい事は言い合って。そうすれば、きっときっと。二人でずっと、笑っていられるから。
だからね、緋色。
ブー
「澤田、スマホ。鳴ってるけど?」
「わ、本当だ!ありがとう、沼田くん。きっと緋色が学校に着いたんだと思う」
「え、でも今日から来ないって、」
「書類とか、色々書かないといけない事があるんだって。そのついでに、教室の荷物も持って帰るか―って言ってた」
「テキトーな奴だね、本当」
呆れた顔をした沼田くんに笑みを向け、席を立つ。緋色が座っていた窓際に行って、外を眺めた。すると――
「(あ、緋色ー!)」
ちょうど、校門を入って来た緋色と目が合った。緋色は私の姿に気づいて、スマホを持った片手をパッと上げてくれる。私は会えた事が嬉しくて、夢中で手をブンブンと振った。
だけど――ここで、ある考えがよぎる。
「(見えるかな?遠すぎて見えないかも。でも、やってみよう……っ)」
手を必死に動かして、何度も何度も、ある言葉を伝えた。緋色は、家で家族と会話をする時は手話らしい。よって手話をコンプリートしている。だから、私の手話が合っていれば、きっとすぐに理解してくれるはずだ。
「(伝われ~……っ)」
何度か繰り返した、その時。緋色が驚いた顔をしたかと思えば、顔を赤くして、その場にしゃがみ込んだ。
「(え、緋色!?)」
どこか悪いの?と心配したけど、すぐにメールが入ってくる。緋色だ。
「(手話、ずりーぞ。いつ覚えたんだよ)」
その文字を見て、嬉しくなる私。良かった、通じたんだ!未だ照れて項垂れる緋色に向かって、ピースサインを送った。
そんな浮かれた私を見る、一人の人物。私の机上にあった「手話の参考書」の本をパラパラめくり、ため息をついた。
「さっきの手話、何かと思ったら……”好き”ねぇ。やだやだ、バカップルじゃん」
パサッと、参考書を私の机に戻す沼田くん。その時に、机にかけてある私のカバンを見る。そして、ある物に注目した。
「キーホルダーかと思ったら……。これ全部、防犯ブザー?」
私の鞄にジャラジャラとついているそれらを見て、失笑する沼田くん。
「俺、完璧に入る余地ないじゃん」
そして「あー疲れた」と言って、グルリと首を回す。そこへちょうど私が帰って来た。沼田くんは「防犯ブザー買ったんだね、大量に」と私を笑った後、こう尋ねて来た。
「枝垂坂の事、静之から聞いた?」
「うん、聞いたよ。脅されてたなんて……ビックリした。沼田くんも知ってたんだね。枝垂坂さん”私をいじめない代わりに私への仕返しを手伝って”って緋色を脅すなんて。信じられない」
「え」
「え?」
沼田くんが驚いた顔をしたから、つい私も驚く。
「静之から、そういう聞き方してるの?」
「そういう……って?」
不思議に思った私。だけど沼田くんは少し間をおいて「まーそういう守り方もあるか」と何かに納得しているようだった。私が小首を傾げていると「ごめん、聞き流して」と、沼田くん。
「なんでもないから。忘れて」
「そ、そう?あ、そう言えば。沼田くんの防犯ブザー、緋色に渡しちゃったでしょ?だから返すね。どれでもいいから、取ってほしいな」
重くなった私の鞄。そりゃそうだ。ジャラジャラと、キーホルダーみたいに防犯ブザーがついてるんだから。沼田くんも少し引いたらしく、「自分でお気に入りのを買うから遠慮させて」と控えめに断られた。
「そうなの?分かった。でも、もし必要だったら、いつでも言ってね」
「う、うん……」
トントン
その時、背後から肩を叩かれる。振り返ると、そこにいたのは緋色だった。昨日まで、ここにいた緋色とは違う。顔色もよくて、何かから解放されたような清々しい表情。もちろん、仮面は存在しない。ありのままの緋色だ。
「緋色!おかえり」
「(ただいま、朱音。昨日はどうも、沼田)」
「昨日はありがとう沼田くん、だって」
「え、口パクで分かんの?ウザ」
「(俺もウザいって返して、朱音)」
「いや、それはちょっと……」
妙な一体感が生まれた私たち。緋色のいる教室はこれで最後だというのに、緋色が生き生きしている事が、私にはとても嬉しかった。まるで水を得た魚のように、緋色の心が飛び跳ねている。そんな感じに思えてならない。
「おい、ちょっと何勝手に連絡先を交換しようとしてんの!ってか、いつ俺のスマホ取ったの!?」
「(勝手にじゃない。机の上に転がってたぞ)」
「沼田くんも交換したそうに見えた、だって」
「それ本当に静之が言ってる!?異訳してない!?」
沼田くんの反応が良くて、私と緋色は何度も笑ってしまう。そして、最初で最後の大笑いを教室に刻み付けた静之緋色は、自分らしく、自分の道を歩むために。
今日、私たちの教室からいなくなったのだった。
◇
「緋色も用事が済んで後は帰るだけ、かぁ。沼田くん、私、緋色を下駄箱まで見送ってくるね」
「はいはい、分かったよ。保健室に行ったって言っとけばいいんでしょ?」
「(ありがとな、沼田)」
「……今のは、さすがの俺でも何となく分かったよ。いいから、先生来る前にさっさと行きなよ」
沼田くんがヒラヒラとさせた手に、緋色が自身の手をパンッと打ち付ける。沼田くんは最初こそ驚いた顔をしたけど、だけど少しだけ口角を上げた。そして「負けないから」と言って、緋色を一瞥する。緋色は一度だけコクンと頷いて、そして教室から出た。自分の荷物の全てをカバンに入れて。
パタパタ――
二人並んで、廊下を歩く。もう授業開始がすぐだからか、廊下に出ている生徒は、ほぼ誰もいない。私たちの上履きの音が、長い廊下に響いた。
「ご両親、何か言われてた?」
「(うん。やっぱり怒られた。”だから無理はするなって言ったのに”って。でも”挑戦してみて初めて得られることもあるから、貴重な経験が出来て良かったな”とも言われたよ)」
「そっか。素敵なご両親だね」
「(今度、朱音にも紹介する。俺の彼女って、両親にも朱音を知っていてほしいし)」
「え!」
思ってもみなかった言葉に、嬉しさで心臓が飛び上がる。緋色、私とのこと、本当に本気で思ってくれてるんだ。大切にしてくれてるんだって……。それが幸せで、幸せ過ぎて……。思わず、泣きそうになった。
すると、ちょうど下駄箱にたどり着く。涙ぐんでいる私を見て、緋色は複雑な顔をした。
「(退学の事、勝手に決めてごめん。朱音から離れてごめん。寂しいよな……)」
「え、や、違くて……。これは、その……うれし涙!」
言葉が悪かったのか、緋色は「(俺と離れるのが嬉しいって事かよ)」とショックを受けているようだった。「違うちがう!」と慌てて否定する。
「緋色の隣を歩けるのが嬉しい。今も、これからも――緋色、ありがとう。大好きだよ」
「(……)」
「あ、あれ……?」
喜んでくれるかなーと思ったけど、思ったよりも緋色の反応は薄くて。顔を見ると、なにやら曇っていて。何を考えているか分からなくて、すぐに尋ねる。
「今、何を考えてるの?」
「(朱音が”好き”って言葉にしてくれるのに、俺はそれを返せないなってな。俺も、好きって言えたらよかった。夢の中に戻りてぇな。もう一度。朱音と思い切り話がしてぇって……そう思うんだ)」
「緋色……」
自分の手で終わらせた「夢の世界」。緋色にとっては、「自分が唯一話せる世界」だったわけだから、名残惜しいのも分かる。もう一度、夢の世界へ行きたいのも分かる。
でもね、緋色。
私、今はこう思ってるんだよ。
「好きって言うよりもね、目の前の私を見てほしい」
「(……朱音?)」
少しだけ後悔に揺れている緋色の瞳を、手繰り寄せる。緋色、見て。過去の「夢の世界」に思いを馳せるんじゃなくて、今の私を、もっと見て?
「私は緋色に好きって言ってもらってるよ。緋色が見てくれる度に、触れてくれる度に、私をどう思ってくれてるかが、手に取るように分かる。だからね緋色。私を見て、触れて――それが緋色の、私への好きの伝え方だから。スキンシップが多いほど、私は幸せになれるから」
「(朱音……)」
「ふふ」
恥ずかしい事を言っていると分かっている。だけどね緋色、本当にそう思うんだ。緋色は、私に色んな接し方をしてきた。優しかったり、冷たかったり、本当に色々――でも、どんな接し方にも、そこには緋色の気持ちが織り込まれていた。
緋色、私には伝わってるよ。あなたの気持ちは、私にたくさん届いてるから。だから、
「これからも、たくさん触れてね?」
「(……ばーか。お安い御用だっての)」
二人の存在を、温度を。きちんと確かめ合うように。触れ合うだけのキスを、私たちは最後の学校生活として締めくくった。
トントン
キスの後、緋色が靴を履く。履いていた上履きは、持って来たビニール袋に入れていた。
「忘れ物はない?」
「(ぷ、なんだよ。新婚みてーだな)」
「ふふ」
吹き出した緋色を見て、私も笑う。曇った顔ではない緋色。心から笑う緋色。うん、もう大丈夫だね。緋色。
私から目を逸らさない緋色の両腕をもって、グルンと向きを変える。私の視界いっぱいに、緋色の広い背中が映った。
がんばれ、緋色。がんばろうね、私たち。
背中にエールを送る。
きっと困難があっても、乗り越えていける、私たちなら。
トンッ
緋色の背中を、思い切り押した。
そして、
「緋色、いってらっしゃい!」
「(いってきます、朱音)」
新たなスタートを、共に。
大きく、そして、力強く。
私たちは、これからも踏み出し続ける。
二人一緒に、どこまでも――
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