引縁(試し読み)

朝矢たかみ

1

 名前を呼ぶ声がした。


 声に背を向け、切島絃吾きりしまけんごは人混みに姿を隠す。ようやく日本の土を踏めた喜びを味わう暇もなかった。


 復員兵と大陸からの引揚者ひきあげしゃで、浦賀港は芋洗い状態だった。夫を探す妻、再会した家族の歓喜、案内する者の怒鳴り声、はぐれた子どもの泣き声、数え切れないほどの感情の爆発が渾然一体となって、混乱と紙一重の異様な活気を生み出している。


 また名前を呼ばれた。隣の話し声だってろくに聞こえない喧騒の中、なぜかその声だけが雑音をすり抜けて耳に滑りこんでくる。


 聞こえないふりをして、必死に人混みをかき分けた。とにかく急いで、でも目立たないように、走る寸前のぎりぎりの速度でその場を離れる。


 追ってくる気配がした。絃吾の名を呼ぶ声に、いらだちと制止の色がにじみだす。


 名前を呼ばれるたびに心臓が縮み上がり、呼吸が乱れる。嫌な汗で軍服の脇はぐっしょりとぬれていた。


 頼むから、もう俺に関わらないでくれ。


 口の中で何度も叫んで、絃吾はひたすら足を動かし続ける。


 しばらく進むと人混みから抜け出すことができた。名前を呼ぶ声も聞こえなくなっていて、そこで気が抜けた絃吾は後ろを振り返ってしまった。


 黒山の人だかりの上にぽつんと浮く顔があった。下唇からあごにかけて刃物で裂かれたような傷が走るその口で、絃吾の名を呼ぶ。やせて落ちくぼんだ眼窩がんかの奥にはまった黒い瞳が、まっすぐに絃吾を見つめている。その巨体ゆえに人混みをなかなか進めずにいるが、執念に燃えるその目だけは決して絃吾を逃がさない。


 その大男——岩田いわたと絃吾をつなぐ、どす黒いえんが目に入った。髪の毛よりもさらに細く、血を練りこんだ泥のように濁った色をした一本の線が、絃吾と岩田の間に渡されている。ときおり通行人の頭が横切るが切れも揺れもしない。この場ではおそらく絃吾にしか見えていないその線は、ふたりの中間点で結び目を作っている。


 絃吾は今すぐそれを断ち切りたい衝動に駆られた。これまではなんとか我慢していたが、もう限界だ。こうしている間にもその濁りは絃吾の体に侵食し、絃吾から伸びる他の縁へと染み出していくような気がする。本能がこの男とのつながりを拒否していた。


 絃吾は岩田に背を向け、脇目も振らずに走った。


 宛などなかったが、とにかくあの目から逃げられるところまで走り続けた。

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