引縁(試し読み)
朝矢たかみ
1
名前を呼ぶ声がした。
声に背を向け、
復員兵と大陸からの
また名前を呼ばれた。隣の話し声だってろくに聞こえない喧騒の中、なぜかその声だけが雑音をすり抜けて耳に滑りこんでくる。
聞こえないふりをして、必死に人混みをかき分けた。とにかく急いで、でも目立たないように、走る寸前のぎりぎりの速度でその場を離れる。
追ってくる気配がした。絃吾の名を呼ぶ声に、いらだちと制止の色がにじみだす。
名前を呼ばれるたびに心臓が縮み上がり、呼吸が乱れる。嫌な汗で軍服の脇はぐっしょりとぬれていた。
頼むから、もう俺に関わらないでくれ。
口の中で何度も叫んで、絃吾はひたすら足を動かし続ける。
しばらく進むと人混みから抜け出すことができた。名前を呼ぶ声も聞こえなくなっていて、そこで気が抜けた絃吾は後ろを振り返ってしまった。
黒山の人だかりの上にぽつんと浮く顔があった。下唇からあごにかけて刃物で裂かれたような傷が走るその口で、絃吾の名を呼ぶ。やせて落ちくぼんだ
その大男——
絃吾は今すぐそれを断ち切りたい衝動に駆られた。これまではなんとか我慢していたが、もう限界だ。こうしている間にもその濁りは絃吾の体に侵食し、絃吾から伸びる他の縁へと染み出していくような気がする。本能がこの男とのつながりを拒否していた。
絃吾は岩田に背を向け、脇目も振らずに走った。
宛などなかったが、とにかくあの目から逃げられるところまで走り続けた。
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