第2話 祈れないアイと、死ねないアイ

基地の裏手にあるオウシュ山に向けて、最後の制圧部隊が出発する。思い出したように交戦地帯から届く戦闘音の余韻をBGMがわりに、練兵場に整列した一個中隊は指揮官の訓示を聞いていた。アイはフェンスの向こう側を歩きながら、見るともなしにその光景を見た。


「これが最後の仕上げだ。新峡人の一人たりとも、武器を持ったままこの山から下ろすことのないように」


訓示を聞く兵士たちは真剣そのものだが、裏山から聞こえる間延びした銃声の反響は、彼らの緊張感を緩ませずにはおかない。真剣な無表情の下で欠伸あくびを噛み殺す若い兵士を二、三人見つけた彼女は、腕に抱えた聖典がずり落ちそうになったのを直すふりをして、それを見逃してやった。


指揮官の鋭い号令の直後、森林迷彩の男女が一斉に走り出し、機敏な動作で割り当てられた車両に飛び乗った。エンジン音が夏空に響き、白い轍がいくつも残る廃校の校庭から、カーキ色の車数台とヘリが、山を目指して出発する。掃討作戦にしては規模が小さく、害獣駆除にしては大袈裟なその部隊は、この三年間を締めくくるようにどこか粛然しゅくぜんと、開け放された門を出て行った。夏休み中らしい中学生が二人、向かいの道路を自転車で横切りながらこちらを覗き、すぐに正面に視線を戻す。戦車でも見たかったのだろう。期待はずれでごめんね、と、アイは心の中で呟いた。


参拝所の裏手では、早々に基地の撤収準備が始まっている。プレハブの薄い壁越しに電動工具の駆動音が鳴り響き、勤行ごんぎょうの声はしばしば掻き消された。アイは構わずに昼の勤めを終え、肩に掛けていた輪袈裟を外すと、自分の目線よりも高い位置で揺れる蝋燭の炎に向けて右手を差し伸べた。彼女が背伸びして、ようやく届くかという位置にある灯火は、掌があおいで起こした風に倒されてはまた跳ね起き、起き上がり小法師こぼしのように灯心の上で転がり続ける。アイはこの後の面談の予定を思い返しながら、いっそ吹き消した方が早いかと行儀の悪いことを考え始めていた。トシが参拝所の扉を引き開け、駆け込んできたのはその時だった。


「……エス四八よんはちが、捕獲されたって」


大きく開かれた扉の向こうは白熱し、振り返ったアイの視界を一瞬だけ緑に塗りつぶした。炎天下を走ってきたはずのトシはなぜか顔色を白くし、震えているようにさえ見えた。アイは踵を地面に下ろして、外した輪袈裟を手近な机に投げ出した。


「死体で?」

「生きてる。車から、今降ろされて」


それ以上言葉を継げなくなったトシは、唇を震わせながらアイを手招きし、自分が先に立って走り出した。その背をゆったりと追い始めたはずのアイは、だがほどなくして、やはり走っている自分に気づいた。消しきれなかった灯火がまっすぐに火先を立てて燃え、その影が錆びたりんの黄銅色の肌の上で揺らめいていた。


◆◆◆


朝のうちに部隊を送り出したはずの練兵場には、いつの間にか黒山の人だかりができていた。中央に停まった輸送車の荷台に踏板が渡され、それを足場にした兵士が二人がかりで何かを引きずり出している。練兵場に下りたアイは人ごみから少し離れたところで、それを見た。大きく開かれたリヤドアの奥から現れたのは、後ろ手に縛られ、猿轡さるぐつわを噛まされた小柄な青年だった。青年は兵士を振り切ろうと身をよじって暴れ、一人が踏み板から突き落とされて仰向けに地面に倒れた。近くにいた兵士が銃床で青年の頭を殴ったが、彼は大したダメージを受けた様子もなくその兵士に肩からぶつかり、押し倒した。人ごみの中から数人が加勢に飛び出し、青年を押さえつけて両腕と両足を抱え、連行していく。靴底の剝がれかけた青年のスニーカーが、男たちの腕の間から中空に飛び出してまだ暴れているのを、アイは無表情に見送った。彼らの歩き去った後には、青年のものと思われる血が点々と落ちていた。


「……今夜には死体になってる。捕まってみると、あっけないもんだな」


人垣の前の方で成り行きを見ていたトシが戻ってきて、アイに耳打ちした。自分に言い聞かせるようなその言葉に頷いた彼女は、外し忘れた数珠を手首から抜き取ってズボンのポケットに差し入れた。


「若かったね。逃げるタイミング計りそこなったのかな」

「中腹辺りで山道さんどうの警戒してたら、斜面から転がり落ちてきたらしい。跳ねた石か何かが頭に当たったんだろ」

「うわ、それであの元気? けっこう暴れてたよね」


アイはかなり遠くなった青年と兵士たちの影の方へと目を凝らし、汗の滲んだ掌をズボンの生地に擦り付けた。ポケットに入れた薬包やくほうの隆起が布地越しに皮膚をくすぐる。トシはもう青年を死人として勘定しているらしく、アイとは反対の方を向いて、ポケットから出したスマートフォンを操作していた。


「元気だろうが病気だろうが、銃弾二、三発も撃ち込めば死ぬ。……やっと、カイにも良い報告ができるな」


トシの指が操作するメッセージアプリの画面を、アイは横目に見てすぐに目をそらした。彼が誰に連絡をしているのか、それは彼女にとって聞くまでも無いことだった。はるか頭上を流れる入道雲の唸りとともに、裏山から流れてくる蝉の声がまるで諷経ふぎんのようだとアイは思った。猿轡の食い込んだ青年の頬の滑らかさが、瞼の裏に何度かちらついた。


「……そうだね」


かわいそうに。

狙撃手は、捕虜にだけはなっちゃいけないって、誰にも教えて貰えなかったんだ。


◆◆◆


今日の分の面談が終わり、アイは食堂を出て司令官室へと向かっていた。体育館を改装した食堂から、校舎へと続く短い渡り廊下に出ると、防球ネットの支柱に取り付けられた照明が夕陽をかき消し、校庭の一角に並んだ数十名分の死体袋の影を墓標のように長く伸ばしていた。輸送担当の兵士たちが二人がかりでそれをフォークリフトのアームに積み、金属製のアームが数袋ずつまとめて輸送車の荷台に押し込む。作業を終えてリヤドアを閉め、動き出した輸送車を見送った兵士たちは、後味が悪そうに首を振り、両の掌をしきりにズボンの腰に擦り付けた。


「……ったく、移送するだけだって言ったのに」

「なんで同類同士で殺し合いになるんだ? 大人しく座ってりゃ生き残れたのに、いきなり味方を殴り殺すなんて」


彼らの会話を聞き流しながら、アイは側溝そっこうに捨てられた吸殻を跨いで校舎に入り、補修の痕跡の残る木の廊下を進んで司令官室に入った。元は校長室だった部屋にはデスクと折り畳み椅子が置かれ、風化して用をなさない机やソファは隅に積み上げられている。扉の前で敬礼したアイは、出迎えた司令官の後ろに立っているトシを見つけて目を瞬いた。俯いたトシは、昼間よりももっと血の気を失った顔で、上官のデスクを睨みつけていた。


「急に呼び出してすまない、中尉。カウンセリングの方はどうだった?」

「今日は十五人と面談しました。やはり新兵を中心に、作戦中の新峡人への扱いにショックを受けていた者は多いようです。姿かたちは人間なのに交戦法規の適用もなく、内乱罪で警察に引き渡すこともなく捕獲か射殺。まるで鹿や猪の扱いですから」


アイは敬礼の手を下ろし、司令官に勧められた椅子に腰かけて次の言葉を待った。トシはアイが入室してからずっとこちらに目を向けることも無く、同じ場所に突っ立ったままだ。何かに抗議するようなトシの肩に手を置いて、司令官は穏やかに話しかけた。


「軍曹、座りなさい」

「……自分は、承服できません」

「貴官の気持ちは痛いほど分かる。私も貴官と同じ立場なら、同じことを言っただろう。だが残念ながら、私の立場で戦友の敵討ちのことだけを考えることは許されない」


二人の会話を聞いて、アイは呼び出しの内容に大方の見当をつけた。天井の照明カバーから漏れる明かりに甲虫が取りつき、やかましくはねを鳴らすさまを眺めながら、アイは努めて穏やかに切り出した。


「エス四八の処刑はなし、ということでしょうか。しかも、彼には一定の自由を与えると」

「まあ、概ねそういうことだ。中尉はどう思う?」


司令官は殺気立っていると言っても過言ではないトシから目をそらし、何かを頼むような口調でアイを見た。アイは小さく肩をすくめて、困ったように首を傾げた。


「どう思う、と言われましても……。彼と私が誰の友人だったか、司令はご存じのはずです。その上でこの話を我々になさったのでしょうから、私が申し上げることは特にありません」


アイは時おりトシの方に視線を向けながら、そう答えた。彼女としては全く常識的な発言をしたつもりだったが、アイの顔を見た司令官は、彼女が言い終わるのを待たずに笑みの滲んだ口元を拳で隠した。


「うん、貴官の気持ちはよく分かった」

「あら、テレパシーでもお使いになりました?」

「その顔を見れば充分だ。誤解のないように言っておくが、エス四八の助命を主張したのは総司令部だし、そちらにしても大学の依頼を受けただけだ。頼むから私の首を狙わないでくれ」


司令官はおどけて自分の首を庇うようなそぶりを見せ、アイは声を立てて笑った。歴代校長の写真が掛けられていた痕と思しき壁の四角い日焼けに、その愛想笑いは跳ね返って消えた。笑いを収めたアイは自分の隣の椅子を軽く叩き、旧友に声をかけた。


「まあトシ、ちょっと座ろうよ。付き合いの長い上官なんだから、最後の弁明くらい聞いてあげても良いじゃん」

弁明、ね」

「……」

「トシ?」


アイに窘められたトシは、ようやく彼女の隣に腰を下ろした。膝に肘をついて前のめりになり、組み合わせた両手の指を握りしめてさらに正面の卓を睨む彼は、だが頑なに上官と目を合わせようとはしない。アイは上官と目を見交わし、ひとまず話の続きを促した。上官は時おりトシを気遣うように視線を向けながらも、再び話し始めた。


「……エス四八の『技能』は、新峡人の中では驚異的なものだ。彼をこのまま処刑するより、しばらく観察してその思考や学習の過程に関するデータを収集した方が、軍にとっても民間にとっても有益だという結論になった」

「類人猿の生態研究みたいですね」

「似たようなものだ。本来なら大学や研究所の領分だが、エス四八の『技能』の性質上、大学の先生たちより我々軍人の方が効率的にデータを取れるだろう。そこで、そのデータ収集の仕事を貴官に頼みたい。期限は、内地の捕虜収容所に彼を移送するまでの一週間」


司令官がここに彼女を呼んだ理由について、その話の途中から察しをつけていたアイは特に驚かなかった。照明カバーに体当たりを繰り返す甲虫の間抜けな姿を視界の端に入れたまま、彼女は答えた。


「現役の狙撃兵か、せめてマークスマンをてるべきではありませんか? 私は」

「彼らは撤収済みだ。専門技術職は特に、どこでも人手不足でね。早いところ本物の人間を相手にしてもらう必要がある。どうせこの基地も、二週間以内には解体される予定だしな」

「なるほど……」


アイは落ち着いた風を装ってそう呟き、深く息を吐き出した。廃材で目張りされた窓の向こうから、蝉の声はもう聞こえない。生物の蠢く気配の残るおざなりな静寂の中で、虫の頭が薄いプラスチックを叩く音だけがしつこく響いていた。アイは膝の上に投げ出していた両手をそっと握り込み、再び上官に目線を合わせた。


「……お引き受けすることに異存はありませんが、いくつか使用許可を頂きたいものがあります」

「例えば?」

「トシを一週間、テストシューターとして」

「はあ? ちょ、冗談だろ?!」


ここまで彫像のように身じろぎ一つしなかったトシが顔を上げ、アイの肩を掴んで揺さぶった。アイはその声の大きさに片耳を塞ぐそぶりを見せたが、発言を撤回することは無かった。上官は何度か目を瞬き、面白がるような口調で尋ねた。


「それは構わないが……技術指導の担当を彼が?」

「今回の仕事は新人育成ではなく、データ収集ですから。エス四八の主な記録をざっと見ただけでも、正式の訓練を受けた人間の狙撃手と比べて、技術面でかなりのムラがあることが分かります。それを観察しながら、彼の能力の最大値を引き出すとなると、信頼できる助手が一人欲しいと思いまして。トシの射撃の腕は、司令もご存じかと思いますが」

「いや、それとは勝手が違うから。ていうか俺やらねえよ。あいつと顔突き合わせて、殺し合いにならない自信がない」


語気を強めて口を開いた割には、トシの言葉はしだいに尻すぼみになり、両目は俯いて光を失った。ひと通り彼に思いを吐き出させた上官は、トシの言葉が途切れるのを待って口を開いた。


「……貴官ら二人に、非情なことを命じているのは百も承知だ。だが軍曹、現実問題としてどうかな? エス四八がこちらに友好的である可能性は極めて低い。三年間で少なくとも十五人を殺した凶暴な新峡人が中尉に危害を加えようとした場合、護衛チームはどうするだろう。大抵は、彼女がエス四八にがいされる間に距離を取り、射殺するという選択をするのではないか?」


照明にしつこく取りついていた甲虫が天井に止まり、じりじりと這って照明へ近づく。アイはちらとそれを見上げ、困ったように首を傾げた。


「司令。新峡人が暴れたら、どのみち接近戦じゃ勝てませんよ。その時はさっさと安全な距離から一斉射撃でもしてもらった方が、私も後腐れが」

「やります」


こつん、と音を立てて、照明カバーと天井の隙間をくぐった虫が中に落ち込んだ。先ほどよりもさらにけたたましく暴れる黒い影が照明カバーの表面に現れては消える。アイは笑いとも呆れともつかない息を吐き出して、自ら厄介事に飛び込んできた旧友を振り返った。


「あの……言っとくけど、私が欲しいのは護衛じゃなくて射撃の見本だから。ちゃんと護衛チームは別につくし、トシは射撃の方に集中してね」

「分かってるよ。素人と一緒にすんな」


返ってきたトシの言葉が反射的なものだと、アイにはよく分かっていた。彼女は上官に追加でいくつかの要望を出し、それはすべて聞き入れられた。任務を受諾した彼女に、上官はエス四八についての資料を渡し、任務開始は明日の朝からだと告げた。


「エス四八には、すでに軍医と別のチャプレンがカウンセリングを行ったが、かなり気が立っているようで三十秒も保たなかった。今夜のうちに、充分な準備をしておいてくれ」

「了解しました」


席を立って敬礼したアイは、まだ話が残っている様子のトシを残して先に司令官室の出口に向かった。挨拶とともに敬礼の手を下ろしたアイへ、上官は最後に告げた。


「すまない、中尉。私の手元にいる人材で、君以上の適任者は思いつかなかった」

「……いえ」

「エス四八の、一挙手一投足を見逃すな。それが彼への、一番の供養になる。……それで、今日のところは、私の首は無事だということで良いかな?」


上官の軽口に、アイは自分の靴先を見下ろしたまま小さく笑った。照明の中で暴れまわる虫の羽音は、少しずつ小さくなっている。彼女は意味ありげに資料の束で口元を隠し、上目遣いに上官へと目配せした。


「司令、僭越せんえつながら一つだけご忠告いたします。隠れて煙草を吸うなら、屋内になさった方が良いかと。煙草の煙は、を引き寄せますから」

「……肝に銘じておこう」

「失礼いたします」


アイは今度こそ司令官室を出、窓の形に切られて床に張り付いた月明かりを避けながら、来た道を戻った。渡り廊下の古い蛍光灯がうたた寝の瞬きのようにゆったりと点滅するその真下にたどり着くと、アイは脇に抱えていたファイルを開き、今後一週間の観察対象となる相手の資料を流し見た。氏名と年齢は不明、これまでの目撃情報から推定される居住地域と、発見時の所持品一覧が載っていた。暴れるところを取り押さえて撮影したと思われる写真の中から、男は手負いの獣じみた眼光をこちらに向けてくる。アイはその顔つきに既視感を覚えて、スマートフォンから軍の共有フォルダにアクセスした。彼の使用していたライフルの型、そして所持品。アイがそれらを反芻する間に、端末の画面には目当ての情報が映し出された。一瞬止まった呼吸に呼応するようにいちど指先が震え、そして何事も無かったかのように画面をピンチアウトした。ふいに電灯が消え、周囲が暗転する。虫の音と湿気た夜風の唸りが蠢くその片隅で、アイは端末の青ざめた光を顔に受け、佇んでいた。光の中に映し出されたものを見て、彼女は声もなく肩を震わせ、一度だけ笑った。


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