そしてアイはひとつになった

文屋廿三

第1話 アイの話と、アイの話

死者の顔は、薄暗く静かな灰色だった。


目を閉じた旧友の表情はどこか間の抜けた感じさえあり、アイは覗き窓ごしにそれを見ながら、わずかに緩みそうになる口元を引き締めて経を唱え続けた。しつこく冷やした目元がその拍子にまた熱を持ち、がんがんと痛みだした。


 経があらかた終わると、少し離れたところでそれを聞いていた同僚たちが棺に駆け寄って覗き窓を閉じ、機敏な動作で焼却炉の方へと棺を押し始めた。軍用ブーツが砂を轢き潰す音を聞きながら、アイは合わせた両手を額につけ、最後の文句を喉の奥から絞り出した。焼却炉の厚い扉が閉ざされ、炉に点火される音が思いのほか大きく響く。顔を上げたアイは振り返り、敬礼したまま動かないトシの正面に立った。風に煽られた横幕よこまくの隙間から無遠慮に差し込む陽光が、アイの目に突き刺さる。思わず手を翳そうとしたアイはそれを堪え、手汗の移った数珠に両手の指を通したまま、トシに向けて頭を下げた。歯を食いしばった口から息を吸う引きつった音が聞こえ、アイは姿勢を正した瞬間に一度だけトシを見た。彼の両目の縁が異様に赤いことも、噛みしめた唇が震えていることも、アイは逆光のせいで見えていなかったふりをした。


「……お骨上げは二時間後となります」

「了解。ヒトロクマルマルに、再び集合します」


 互いの形式ばった挨拶を聞いて、アイはとうとう口元を緩めた。トシもついに堪えきれなくなったようで、引き締められなくなった口の端が、厳めしく強張った目元の代わりに歪んでいた。太陽の熱を吸った風が二人に吹きつけ、ただでさえ熱を持っていた目元が茹だるように熱くなる。他の兵士たちが解散していく中、火葬場のテントを出たアイはトシを裏手の休憩所に誘い、奥に設えられた自販機に数枚の小銭を入れた。


「何にする?」

「コーヒー。無糖のやつ」


 ボタンを押すと、思いのほか大きな音を立てて缶が落ちてくる。結露を纏った缶をトシに渡して、アイは自分のために麦茶を買った。ペットボトルが取出口に落ちる音は、焼却炉に点火するあの重い音にどこか似ていた。


「……綺麗な顔だったよ。よくあれだけ直してくれた」


 アイはキャップを開け、どこか砂埃くさいボトルから麦茶を飲んだ。指を濡らした結露をつい輪袈裟わげさに擦り付けそうになって、アイは思わず手を引っ込め、迷彩服の裾で指先を拭った。手早く外した輪袈裟を左腕にかける彼女の隣で、トシは受け取った缶を開けないまま、それを額に押し当てて地面にしゃがみ込んでいた。


「……右膝が砕けて、そこに泥がついてた。アイも見ただろ? 撃たれた脚を引きずって歩かされたんだ。最後は喉を撃ち抜かれた。……せめてあと一分、いや、三十秒でも早かったら」

「トシは一生懸命やったよ。あれ以上の速さは無かった」


 トシの堂々巡りを断ち切るために、アイはわざと決めつけるような言い方をした。死体袋を開いて現れた旧友の死体の傷を、アイは頭の中で繰り返し思い出していた。右膝と、喉元に残った二つの銃創。アイの右手の指先は手首の数珠を引き寄せ、水晶の主玉おもだまを一つずつ確かめるように撫でまわした。肚の底に沈んだ寒気を隠して、アイは旧友を慰めるための言葉を絞り出すことに集中した。


「ほら、トシがそんな顔してたらさ、カイだって成仏できないよ」


 アイの聖職者ぶった言葉に、トシはコーヒー缶の下からちらと目を覗かせた。日焼けの下に濃く血の気の浮き出た目元で、彼は少しだけ笑った。


「やべえな、それ。いま焼いてんのに」

「そうだよ、やばいよ。仮設の焼却炉だから今はまだ炙りくらいだけど、全身が焦げた頃に生き返っちゃったら色々困るよ? 『トシが心配で帰ってきた』なんて黒焦げの奴に言われて、普通にハグとかできる?」

「無理無理無理、アイ代わって」

「無理無理、カイはトシ一筋なんだから」


 アイは軽口とともに手を伸ばしてトシの肩を叩き、そのまま俯いて地面を見た。砂地の上に落ちた自分の影がゆらゆらと揺れ、額から滑った汗が点々とその上に落ちて行った。そのうち汗が目尻に垂れ、アイは袖で目元を拭った。迷彩服の硬い服地は水を吸わず、表面に浮き出た水の玉が腕を転がって地面に落ちると、いびつな半球状に砂の層が凹んだ。それはまるで、金属板に撃ち込まれた弾痕のようだった。再びトシの方を見ると、彼は組んだ両腕に自分の頭を抱え込み、静かに震えていた。結露を纏った黒い缶を、彼の右手が半旗のようにゆるく掲げている。苦しげに息を吸うくぐもった音の後で、トシは絞り出すように呟いた。


「……新峡しんかい人の奴ら、みんな殺してやる」


 アイは俯いたまま、トシの言葉を肯定も否定もしなかった。いくつかの戦場を経験した今も、迷いなくそう言えるトシを、彼女はいっそ羨ましいと思った。車両のタイヤの音と、張り詰めた人の話し声の隙間を縫うように、蝉の声と、入道雲を押し出す風の音が聞こえた。アイが数珠と輪袈裟を丸めて胸ポケットに収めた拍子に、底に引っ掛かっていたからのドラッグシートが指先を突く。アイはポケットから出した右手の指先を握り込み、拳に蘇った銃把の感触ごとその小さな痛みをかき消した。殺してやる、と頭の中で自分の声が言い、殺して何になる、と、同じ声がその呻きを打ち消した。正面から吹き付ける熱い風の中に頭を突っ込んだまま、彼女は息も継げずに立ち尽くしていた。左手に提げた飲みかけのペットボトルから結露が垂れ、ぱたぱたとアイの足元に落ちて行った。


◆◆◆


 蝉の鳴き声に紛れた銃声が尾を引いて聞こえた時、アイの頭をよぎったのは、自分は撃たれなかったという安堵だった。だが伏せていたくさむらから顔を上げ、踏み分けられた青草の残像が視界の端に消えた時、温度を取り戻しつつあったその血は、再び冬の川のように凍り付いた。アイの伏せていた地面から十数メートル先に、ゆったりと赤い血が広がっていく。その中央にうずくまっていたのは、彼の兄だった。アイは思わず腰を浮かせ、そちらに駆け寄ろうと叢の外に半歩踏み出した。


「カイ!」

「来るな‼」


 鋭い叫びに鼻先を殴られ、アイは立ちすくんだ。カイは血塗れの掌をこちらに突き出し、絞り出すように息をしながら、弟が近づいてこないよう睨みつけていた。彼の顔は白くなり、真夏だというのに全身が小刻みに震えていた。カイが撃たれたのは脚だった。右膝の肉と骨が半ばほどえぐり取られて血の海に散らばり、すねから下が、残った腱と皮膚にぶら下がって地面に投げ出されていた。兄は反対の手を地面につき、苦しそうに何度か息を継いで再びアイの方を見た。


「っ、助けに来た奴を、また撃つ気だ。絶対にこっちに来るな」

「でもカイ、脚が」

「口答えするな!」


 生まれて初めて兄に怒鳴りつけられたアイはびくりと体を強ばらせ、抱えた銃にすがりつくようにして動きを止めた。カイは叫んだ拍子にまた激痛の波が来たらしく、腿をきつく掴んで自分の血だまりにうずくまる。前方の木立の奥では相変わらず激しい銃撃戦が続いていたが、それでもアイには兄のこぼした苦しげな呻き声がはっきりと聞こえた。


「大丈夫、……っ。こんなもん、掠り傷だ。お前は、そこで、待ってろ」


 カイは手をついて再び起きあがると、下手くそな笑みを弟に向けながら手元の銃のボルトを回し、空薬莢からやっきょうを捨てて新しい弾を装填そうてんした。震える手がひとつ手順を終えるたびに、銃把じゅうはにも台尻にも掠れた血の手形が増えていった。アイはかちかちと鳴る奥歯を必死に噛みしめて、兄のすることを見守った。いつでも兄を助けに駆け付けるつもりで、今にも力が抜けてへたり込みそうな膝を、何度か拳で殴った。


「っ、くそ野郎が、これでも、喰らえ!」


 カイは似合わない悪態とともに、右手の木立の切れ目から見える山の斜面に向けて撃った。踏ん張れるのは左脚だけのはずだったが、彼の背中は銃の反動を受けても小動こゆるぎもしなかった。カイは肩で息をしながらも構えを崩さず、自分の撃った方向を静かに睨んでいる。銃声の反響が消える、とアイが思った時、急にカイが脱力して仰向けに倒れた。わずかな血飛沫が飛蝗ばったのように低く跳ね、点々と地面を汚した。


アイはついに草むらから飛び出し、兄の傍に駆け寄ると、彼の防弾ベストを掴んで近くの木陰に引きずっていった。ズボンのふくらはぎの辺りを銃弾がかすめ、背筋に寒気が走ったが、自分がまだ立って動いていることに気づいたアイは、歯を食いしばってさらに走った。枝を大きく広げた太いならの木の陰に駆け込んだアイは、息を弾ませながら兄の顔を覗き込んだ。カイはもはや弟を怒鳴りつける力もなく、閉じかかった目を虚空に向けたまま浅い呼吸を繰り返している。新しい銃創は左右の鎖骨の間にあった。血とともに空気の漏れだす音が聞こえ、生物としての勘が致命傷だと告げてくる。アイは恐怖に震えながら傷をきつく押さえた。指の隙間から溢れた熱い血が瞬く間に冷え、アイの体温までも奪いながら黒い地面に染み込んでいった。


「カイ、おいカイ、聞こえるか? 叔父さんの所まで背負って行くから、少しだけ我慢してくれ。な? こんな、こんなの掠り傷だよ。そうだろ?」


殆ど涙声で呼びかける弟の言葉にも、カイは殆ど無反応だった。呼吸は一秒ごとに浅くなり、中途半端に下りてきた瞼の下で、眼球がわずかに震えているのが見えた。酸素を取り込もうと首がのけぞった拍子に血が逆流し、カイはえずきながらそれを吐き出した。アイは脱力した兄の重い体を抱き上げ、詰まったものを全て吐かせようと、背中に腕を回して何度も叩いた。血痰の絡まった喘鳴をしばらく耳元で聞いていたアイは、兄が最後の力を振り絞って何かを伝えようとしていることに気がついた。遠くの前線から聞こえる銃撃の反響と、けたたましい蝉の鳴き声。それらに紛れそうな吐息に意識を集中させて、アイはその言葉を聞き取った。


「え? 何だって?」

「……っ、……」

「……!」


 オ、ア、ウ、タ、エ、タ。……女に、撃たれた。アイは兄の言葉の意味を理解した瞬間、顔を上げて木の陰から右手の山を覗き見た。一キロ近く先の、木々の枝葉が競うように被さった斜面に潜む人の姿など、当然見えるはずもない。アイは言葉の意味を問いただそうとして、再び兄を振り返った。カイは緩く瞼を閉じ、血に濡れた唇を薄く開いたまま死んでいた。掌にまといつく血が熱と勢いを失い、皮膚の皺や古傷の凹みに入り込んだ血は固まりかけていた。


「……カイ? なあ、起きろよ。本当は何て言いたかったんだよ。全然、っ……全然、聞こえねえんだよ。なあ、返事しろよ馬鹿兄貴‼」


アイは兄の肩を揺すり、拳で背中を叩き、顎を掴んで怒鳴りつけた。温度を失ったカイは、弟からのどの仕打ちにも瞬きひとつ返すことは無かった。アイは亡骸を抱きしめたまま地面にうずくまり、掠れた声で繰り返し兄の名を呼び続けた。あれほど鳴り響いていた銃撃の音はいつしか消え失せ、頭の奥に突き刺さるような蝉時雨だけが冷酷に、彼がたった今、最後の家族を失ったことを告げていた。


死者の顔は、薄暗く静かな灰色だった。

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