善悪の木の実の味

ゆっくり

短編

 俺は夜が好きだ。この夜風が気持ちいい。顔を上に向ければ田舎独特の木々や山々の黒いシルエットが夜の色の上に貼られている。そしてその周りをうっすら照らす様に星がちらちらと光っている。俺はこの田舎町出身で、久しぶりに実家に帰ってきたから、夜の散歩を楽しんでいるのだ。一人のんびりと歩く道には、木々のざわめきに、少なくなってきた虫の声が聞こえてくる。この音が心地の良い静寂をくれるんだ。昼は目立つ紅葉やアネモネも、夜にはひっそりと姿を隠そうとする。夜は世界をがらりと変える、別世界への入り口のようなものだ。

 山の暗がりの中を、今にもスキップを始めてしまいそうな足取りを奏でていると、それを中和するような忙しない足音がどこからか聞こえてくる。その不協和音は徐々に俺に近づいてくるようで、俺は身構えざるをえなかった。この眼前の闇から出てきたのは全身黒づくめで、フードを被った顔が見えない小柄な人だった。

「あのぉ、すみません。道に迷ってしまって、道案内をしていただけませんか?」

息を切らしながらも柔らかい話し方をする男で、不審者みたいななりをしてるが道に迷っちまったなら手を貸そうと思えた。

「いいですよ。どこに行きたいんですか?」

それを聞くとその男はフードから血走った目を覗かせた。ほんの一瞬だったが、俺が手を貸そうとしたことを後悔するには十分だった。

「智恵のミ神社に行きたいのです」

智恵のミ神社、昔からこの田舎にある神社だが人気がほぼ無い神社で、神社というにはヘンテコな名前、場所が山の中というのもあって行きたがる奴どころか、知ってる奴も今じゃ少なくなってきたところなのに、こんな夜更けに何をしに行くのか聞きそうになった。

「智恵のミ神社か、ちょっと遠いが大丈夫ですか?」

「えぇ、大丈夫です。それと無理に敬語で話さなくて結構ですよ」

「え、あぁ、すみません。あんまり慣れてないもんで」

普段からあまり敬語を使う立場でも性格でもなかったせいで変な空気にしてしまった後悔と、この変な奴の道案内をする羽目になった後悔とが重なる。

「それじゃあ、いきましょうか」

そんな事を考えていたから反応が遅れちまった。

「そ、そうだな」

そうして俺と不審者は歩き出す。俺の隣を歩いて着いて来るこの男が一体何歳で、普段何をしてる奴なのかも想像がつかないが、俺の良かった気分は一気に下がったしこうなると興醒め、帰りたくなるもんだ。でも、ただ二人赤の他人同士で歩くよりかは何か聞こうとは思った。

 夜の山道二人きり、静かに吹く山風と足音、そこにじっとり寄りかかる気まずさは地獄さながらだ。せめて赤の他人じゃなけりゃなぁ。

「なぁ、そういやこんな時間に何してたんだ?」

「貴方の方こそ、何をしてらしたのです?」

「俺ぁただの散歩だ。そっちは?」

「なすべき事、です。ですが自信が無くなってきます」

「自信が?なんでよ」

夜風が強く吹いた。

「しなきゃならないことが、必ずしも正しいこととは限らないんだなぁ。そう思ったからです」

返事ができなかった。何を言ってるかはわかるが、何故か理解できなかった。

「そんなに気にしなくて大丈夫です。すぐにわかります」

「なんだそりゃ」

「ところで、ひとつ聞いてもいいですか?」

「何かによる」

「貴方の最愛の人が、自分の知らぬ間に犯され、挙句殺された。そんなことをしたのは何処ぞの政治家で、きっと今までも同じことをしてきたように揉み消してのうのうと生きている。普通なら誰も手を貸さないような屑でも、金という力と、言葉という魔法でいとも容易く人を操る。そんな化物に、貴方なら復讐しますか?」

山の奥底から吹いてきたであろう冷たい風が俺とその男の間を吹き抜ける。その感覚は形容し難い、一種の嫌悪感よりも酷いものを起こさせる。

「俺なら殺すはずだ。それも惨たらしくな。正直、俺は人があまり好きじゃねぇ。曲がったことが嫌いだからだ。そんな悪意に俺の大事なモンを奪われたとなりゃ、我慢できねぇはずだ」

「そうですか」

数秒の長い静寂、どんよりとした重たい空気が流れる。

「そろそろ着きますね。なので貴方には話したい。実は私、そんな人の元で働いていました。何度も悪事に手を貸した。汚い金と、地位のため。別に私は何か苦労をしてきた人間ではありませんでしたけど、だからなのか、手を貸すことに罪悪感がさほど無かった。だのに、自分がそんな、貴方の言葉を借りるなら、そんな悪意に晒された時、どうにもならないものがありました。それと同時に、情けなさと怒りが自分を襲いました。今までの被害者の気持ちを想像できなかった情けなさ、今までそんな悪事に手を貸し続けた怒り、あまつさえ利己的な動機で」

 智恵のミ神社をの鳥居を潜る。その男の、ある種の独白は後悔と揺らいだ覚悟を伝えてくる。それが何を意味するのか、なんとなくわかってしまう。そうであって欲しく無い、そういくら願っても神は応えてくれなかった。境内の中を迷わず進む男についていく。本殿の扉を開けて中を見せる男の小さな背には、確かに背負ってるものがあるのだとわかる。

 中には、ランプの灯りに照らされた一人の男が縛られ、散々殴られたのだろう青痣と出血が目立つ。こちらを恐怖が張り付いた顔と、救われるのか殺されるのか、どちらかもわからないという表情が痛々しく思えた。口のガムテープが邪魔して上手く喋れないようで、もごもごと何かを訴える。何を言っているか聞き取れないが、何を言っているかは何となくわかる。

「私はこの男を殺します。ですがそれが善行か悪行か判別がつきません。お釈迦様なら教えてくださるでしょうが、生憎不在なので、貴方がお釈迦様になってください。夜明けまでここで待ちます」

そう言って服の内ポケットからナイフを取り出し俺の顔を見る。

「もし善行なら私は夜明けと共に自害します。悪行なら人を呼んできてください」

俺は動けなかった。どうにも足が動かない。何故動かしたいのかもわからない。逃げ出したいのか警察を呼びに行きたいのか。心臓の鼓動がよく聞こえる。目眩と全身から吹き出る汗が止まらない。この静寂の中でも木々のさざめきが聞こえる。そんな静寂を破ったのは怒鳴り声だった。

「早く行け」

その怒鳴り声が合図だったと言わんばかりに俺は走り出した。駆けて駆けて駆け続けた。後ろから吹く風は俺を責め立てるように追って来る。田んぼまで汗だくで走って立ち止まる。俺は、俺はどうしたらいい。その場でへたり込んでしまった。

 視界がぐるぐる回り続ける。頭は回らない。ただ自分の無力さが重い。ただただ重くて立ち上がれない。どうしていいかもわからない。強く強く吹きつける風が否が応でも寝かせてくれない。夢だったと言って欲しい。そうじゃないことはわかってしまうけど。ふと、思い出した。

『善行か悪行か』

善なら何もしなけりゃいい。悪なら人を呼べばいい。

 人を呼ぼう。あいつのやってることは単純に考えれば悪行だし、やってきたことも悪行だ。それで間違ってないはずだ。そうなんだ。そうなんだろ。判っているのに、判っているのに、どうしても、どうしても呼ぶ気になれない。嗚咽と頬を伝う涙が吹く風を寒くさせる。呼ぼう呼ぼうと思っても、呼べない。どうしても呼べない。呼べないんだ。

 その、僅かな視界の変化に顔をあげる。空の夜が太陽から逃げるように捌けていく。俺は、徐々に明るくなる空を眺めることしかできなかった。

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