第16話

動揺の隠しきれない僕に、女は小声で「羨ましいなぁ」と呟いて椅子から立ち上がった。




「え?」



立ち上がった女を見上げた僕の顔は、きっと酷く怯えていたのだろう。



女は僕の顔を見ると、ふっとこちらを安心させようとする柔らかい笑みを浮かべていた。




「私は羨ましいです。私には、他が見えなくなるほど、誰かに心酔するような経験がないので。"忘れられない人が居る"って素敵ですね」




そう言ってあっさりと事務室を出ていった女の後ろ姿を見送りながら、僕は、僕の内で凍りついて動かない心臓がゆっくりと解けていくのを感じていた。

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