無名のバレエダンサー

陽麻

第1話

 バレエなんて女が習う、女々しいものだと思ってた。


 だから籐太から持ちかけられた話はバカバカしくて、最初は乗り気にはならなかった。なぜなら女目当てでバレエスクールに通わないか、というものだったからだ。バレエスクールにはそれなりに細いスタイルのいい女がレオタードで足を開く練習をしている、だから見るだけでも目の保養になる、というのだ。


 ただで見られるならいくらでも見るけれど、金を払ってまでそんなに見たいかね。まあ籐太は女日照りが続いているし、実は俺もそうだ。大学生の二十歳にもなって。バレエスクールには男が少ないから、そういう中に入っていけば、目の保養、プラス、スタイルのいい彼女もできるかも、という籐太の考えだ。

 俺は少し心を動かされた。スタイルのいい彼女は欲しい。


「聞いているか? まこと。明日そのバレエスクールに見学に行こうぜ。入らなくても見学だけならタダだからな」


「見学か……。バレエなあ。あんまり趣味じゃないんだが」


「バレエもいいけど女だよ、目的は」


「まあ、見学だけならな。つきあってもいい」


「じゃあ、明日駅前でまってるからな」


 そう籐太は言って電話を切った。


 夕方四時五十五分を指す腕時計を見て、籐太がくるのを待つ。待合時間五分前。あいつはいつもぎりぎりにくるからちょうどいい時間だろう。駅前の雑踏の中に立って周りを観察してみる。色々な体型の女、男。俺はバレエをやるには少し肉づきがいい。籐太は俺よりも肉がついている。それでよくバレエを踊る、なんてことを思いついたと思う。

 籐太は駅の奥の方から手を振ってゆうゆうと歩いてきた。


「じゃ、行こうぜ、まこと。駅からすぐだから」


 到着そうそう俺の前を歩きだす。五分くらい歩いた、ビルの五階がバレエスクールになっているらしい。「西野バレエスクール」そういう看板が見えた。ビルの隅に設置してあるエレベーターのボタンを押し、中に入った。

 少しの緊張と、不安が押し寄せてくる。


 やっぱり籐太の誘いなんて乗るんじゃなかった、とか、バレエなんて俺には向かない、とか。だけど。

 扉が開くと、そこは外界とはかけはなれた別世界だった。


 一瞬、息を飲んだ。


 薄いレオタードとタイツ一枚で、真剣な顔をしてレッスンバ―に手をかけて足をあげている。

 その脚線美――。綺麗についた筋肉と姿勢の良さ。

 何か俗物とは違う、神聖な美しさがそこにはあった。


「坂本籐太です。見学希望の件で先週お電話さしあげたものです」


 籐太はこの雰囲気に奥することもなく、先生らしき人物に声をかけていた。その人は三十歳くらいの髪をポニーテールにして少しまるい顔をした背の低い女性だった。


「ああ、聞いています。バレエを習いたいとか」


 声もきびきびしている。

 籐太の後ろについている俺は気まり悪げにその人を見た。


「今日は見学ということでしたね。弓子、この二人に椅子をもってきてあげて。私はこのスクールの教師西野玉枝です」


 弓子と呼ばれた生徒は「はい」、と返事をするとスタジオの隅から折り畳み椅子を二脚だし、一番レッスンが見えやすい所に置いてくれた。


「じゃあ、こっちに座って見ててください。レッスンは六時半までだけど、途中で帰ることもできますからね。気に入ったら声をかけてください」


 そう玉枝先生は言って、またみんなのレッスンを見始めた。俺たちは用意してくれた折り畳み椅子に腰をかけてレッスンを見る。

 初めはやはり女性のレオタード姿に戸惑った。見てみたいとは思っていたけど実際見ると照れが入る。でも、それも始めだけだった。彼女たちはあくまで素人のバレエダンサーだが、筋肉がしっかり出来ている人が多い。このスクール自体、「大人のバレエスクール」と言って、二十歳から入れる大人のためのストレッチという感覚のスクールなのだが。


 二十歳から三十五歳くらいまでの女性が、一斉にレッスン用のバーにつかまって動き出す。その動きがバレエを始めた人と前からやっていた人とで違いがあるのが俺でもはっきり分かる。足を横にまっすぐに上げていく。玉枝先生は「はい、止まって」と言うと、一人一人の生徒の体にさわって、悪いところを直していく。その間、生徒はポーズを決めて動かない。足が震えている人もいる。筋肉がしっかりできていて、ぴしっと足が伸びている人もいる。さっきこの椅子を用意してくれた弓子という生徒だ。もう何人か、綺麗に足が上がっている人がいた。女性の足に交じって、妙にごつごつした足だと思ったら、男だった。


「まこと。俺たちより先に男が入っているじゃないか」


 籐太はニヤっとした顔をして俺に言った。


「俺たちも入ろうぜ。結構いい思いができそうだし」


「いい思い? まあ、うーん、そうだな」


 その時は本当に適当だった。

 なんで入ってしまったのか、自分で自分が分からなかった。

 でもまあ、入ってもいいかな、とは思ったのだ。


 最初のレッスンは、やはりバーレッスンだった。

 バーにつかまる姿勢を直され、足を曲げる姿勢を直され、三十分のバーレッスンだけで、スパッツとシャツは汗でぐしょぐしょになった。


 女性の体を観察している時間や余裕はない。レッスン中は話している暇なんてない。みんな真剣だ。一時間半のレッスンのうち、一時間は短い曲で技のレッスンや小さい踊りを踊る。それもみんな舞台と仮定しているスタジオの中央では表情を崩さず、端に入ってから息をきらす。


「結構バレエってきついな」


 独り言のつもりで言ったが、上手い女性の一人がそれに答えた。


「そうよ? 知らないで入ったの?」


 心底不思議そうに聞いてきた。


「バレエってみんな簡単そうに踊ってたから、ヒップホップとかよりも楽だと思ってた」

「甘いわね」


 彼女はくすりと笑っている。


「私は登内まり江。ねえ、あなたも辞めちゃうの?」

「え?」

「そう思って入った男の人が何人かいたけど、みんな二三回来ただけでやめてっちゃうのよ」

「そう……」

「あそこに一人男性がいるでしょ? 田村としゆきっていうんだけど、あの人は五年くらい続いてるわね。その他はみんな辞めちゃった」

「じゃ、君は五年以上バレエやってるんだ」

「私は六年くらいかな」


 そう言ってまり江さんは黙ってしまった。

 レッスン初日、俺はくたくたになって家路についた。

 籐太は初日でバレエスクールを辞めた。

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