2杯目 ふつうって何ですか
「不思議でしょー?このリヤカーがあると周りの人たちが私達のこと気にしなくなるの」
とても楽しそうに話す女性がケラケラと笑いながら、春の朝の日差しを受けて、ラジオ体操をしている。
年齢は四十代前後で、派手なエスニック柄の赤のワンピースに裾から見えるレギンスはレースのついた黄色。ヘアバンドもエスニック模様だ。
柄が大好きだってことを体現している。
「あ、待ってね」
その女性はリヤカーから紙を取り出し、こう言った。
「こちらは、なんでもない何でも屋です。ここで聞いたことは他言はしません。決して笑いません。なんでも話して行ってください。最後に一つだけ、情けは人の為ならずということを覚えていてください」
紙を折り、リヤカーの荷台の中にあるプラスチックの三段ボックスの一番上に入れる。
「これは約束事なの。あ、なんか飲む?寝不足な感じ?一応、コーヒーは四種類、紅茶はティーバッグでアールグレイとダージリン。お茶は焙じ茶と緑茶。お菓子もあるよ!」
僕は変な人に捕まったと思った。
薬を飲んでも眠れなくて、気分転換でもって公園を夜明け前から散歩してただけなのに。
眠れない日が続くと、電池が切れたように体が脱力してしまう。
そうゆう時は嫌な夢を見る。
真っ暗な社内。
一人でカタカタとキーボードを鳴らし、疲れた目を擦る。
首を傾ける。バキッと骨が悲鳴をあげた。
「いやー、井上くん。休んでいる場合じゃないだろう」
さっきまでいなかった上司が自分の後ろにいる。口角は上がっているのに、目は笑っていないのはいつもの事だ。
「す、すみません。少し目が疲れてしまって。……すみません」
すぐに謝罪の言葉が口から出てしまう。
働き始めて、仕事内容とともに覚えたことだ。
「そんなのいいからさぁ、さっさとしてよね。ほんと使えねぇな!」
バンと僕のデスクの引き出しを蹴って、暗闇に消えていく。
当の僕は、冷や汗をかき、心臓が鷲掴みにされたみたいに痛くて痛くて仕方なかった。
ここは所謂ブラック企業だ。パワハラ、モラハラなんてなんのその。
なかなか就職活動の結果が得られず、急募と書かれていた求人に飛びついたら、このザマだ。
面接の時から、嫌な感じがあったが気のせいだと無視した。
予感は的中し、上司の機嫌の良し悪しで怒鳴られ、サビ残など当たり前。
嫌事を大声で言われ、無視されるのも多かった。
そんな所には同じようなレベルの人が集まってくるのか。上司達の中にも派閥があり、その時に成果を出せていない人を責める。
冷たい、冷たい水を浴びつづけるような職場だった。
なんだかんだで八年目に突入し、自分の精神的におかしいなって感じることが多くなった。
夜は寝れないし、遅刻してはいけないと飛び起きるようになった。
電車に乗ると息苦しくて呼吸が荒くなる、心臓が暴れまくるように体内で動き回る。
何も悲しくないのに、知らないうちに泣いていたり。
人の目が、顔が、人混みが怖くなった。
一番困ったことは自分のしたいことがわからなくなった。
テレビもSNSも何もかも面白くなかった。
帰り道、頭が真っ白になって、家に帰れなかったこともある。
自分の居場所が分からなくなった。
幸いスマートフォンのナビを使い、家路についた。
辞めていった同期の友達の提案で心療内科を受診した。
何回かが通うと適応障害の診断書が、書かれ会社に提出し、休職の流れとなった。
ああ、これがドクターストップなのか。
とりあえず一ヶ月の休職。
休みの間、何もしたくなかった。
何も考えられなくて、何で自分がダメになったのかを思い返していた。
しんどくて、一日中布団の中にいたのに眠れなくて。
お腹は空くのに、食欲がわかず、ゼリー飲料で済ませた。
ベットのすぐのカーテンですら開けるのが億劫で、隙間から入ってくる光が鬱陶しくて。
動きたいのに動けない自分が情けなかった。
その頃には鬱病と言われ、病院で抗うつ薬と抗不安薬、睡眠導入剤をもらった。
鬱病は心の風邪だと言われているが、自分的には脳のバグみたいだ。
零れ落ちるようにポロポロと感情が無くなっていく。
体は鉛のように重たく、手を動かすだけでもダンベルでもついているように感じた。
音が過敏になり、スマートフォンの着信もサイレントに、電源を落としたりした。
テレビの音が嫌になり、消音にした。
テレビは字幕になった。
画面ごしの人なのに怖くて、見たくなくなり、遂にはつけなくなった。
人の顔も声も嫌で怖かった。
何もかもどうでも良くなった。
自分という存在は無価値だと思えた。
薬が効き始めるのはよく十日くらいだと言う。
就職して、初めて頭がスッキリして起きれた気がした。
薬のおかげか気持ちがフラットになる。
それでも、電車にも人混みも避けるようになり、最終結果は退職。
金銭面はある程度貯めていたので、一年間くらいは贅沢しなければなんとかなる。
すぐに治ると思っていたんだ。
貯金を切り崩しながら、短期のバイトをみつけたり、短時間バイトをしたりと足掻いた。
増えたのは薬の量だけだった。
今年で三十一。
どうしたら、また、前のように体が動くんだろう。
懐かしい小学校とかで使っていた椅子と小洒落た焦げ茶の丸い小さいテーブル。
不釣り合いなのに、何故だがお似合い見える。
「はい!焙じ茶、どうぞ!」
さっきの女性が湯気が立つ、少し分厚い紙コップを差し出した。
持ってみたら、そんなに熱く感じなかった。
耐熱のやつだな。
「大丈夫、変なの入れてないから。あ、お菓子はどう?」
三段ボックスの一番の下の引き出しを勢い良く開けると、お菓子売り場で見たことのある袋菓子が沢山入っていた。
「お茶だからねー、芋けんぴはどう?かりんとうもオススメ。私のオススメはピーナッツかりんとうかな!」
かりんとうはコーヒーとかカフェオレでも合うよねと言いながら、黄色いパッケージにデカデカと商品名が書かれたお菓子を取り出した。
「あ、君、選ぶ?好みとかアレルギーとかある?」
思い出したようにその女性は言う。
「……大丈夫です。そのオススメので」
久々に人と、他人と話した。
声は震えていなかっただろうか。
掠れていなかっただろうか。
適した声量だったろうか。
「了解であります!ピーナッツかりんとう、どうぞ」
お礼すら言えない僕にその女性は嫌な顔せずににこやかに接してくれる。
二人で一袋なのかと思いきや、一人一袋みたいだ。
「あ、あの、こんなに食べれないですよ」
「いいのいいの!かりんとうはね、すぐに無くなっちゃう物だから」
べりっとパッケージを開け、口に放り込んだ。
「あー、たまらん。かりんとうは止まらなくなる食べ物よ。ぺろっと一袋なんて無くなるわ」
豪快にぼりぼりと音を響かせ、目を細めてたべている。
こんな所で食べてていいんだろうか。
ここは住宅街の中にある公園で、その中に僕が借りているアパートもある。
近くには学校もあり、もう少ししたら登校する学生たちや通勤の人らもこの公園の前を通るだろう。
「大丈夫、さっきも言ったでしょ?このリヤカーがあるとなんでか分かんないけど、人の目はここを気にすることはないの」
心を読まれたかと思った。
ゆっくり言い聞かすように、その女性は僕の目を見て言った。
「ほらほら、食べちゃいな!」
持っていた袋を取られ、ベリッと封を開けたかりんとうを手渡された。
「……いただきます」
袋の中のかりんとうはまわりを沢山のピーナッツがついてゴツゴツしている。
かりんとう自体、久々だし、固形物も一昨日ぶりか。
カリカリ ボリボリ
カリカリ ボリボリ
僕と女性の間でかりんとうを食べる音だけが軽快に会話しているみたいだ。
確かに。これは止まらなくなる。
甘いのにくどくなくて、ピーナッツの風味が混じり合い、噛めば噛むほどピーナッツがいい仕事をしてくれる。
次へ次へと手が伸びる。
「ほらね、止まらなくなるでしょ」
女性も手が止まらないみたいだ。
思い出したように、お茶お茶と言いながら、紙コップに手を伸ばしていた。
「上手いお茶に美味しいお菓子は最高だね」
「ほんとうですね」
傍から見たら、かりんとうを貪り食う変な男女だろう。
しかも、平日の朝っぱらから。
「あの、何でこんな事してるんですか」
「んー?リヤカーさんがね、来たから」
リヤカーさん?
このリヤカーのことか?
「自分の番だって思ったの」
リヤカーを見つめる女性の目は優しかった。
なんか訳のわからない事を言っている。
「あぁ!無くなっちゃった、かりんとう!」
顔をお世辞も言えない表情を作って、悲しさをアピールしていた。
表情豊かで羨ましいなと正直に思った。
今の僕は変な顔しかできない。
ほとんど無表情に近い。
薬のせいもあるらしいけど、薬がなかったら外に出られない自分だ。
ふいに不安の波が押し寄せ、胸をざわつく。
「……一緒に食べますか?まだ半分くらいありますけど」
「ううん、それは君の分だから。食べちゃいな!」
女性は両手に紙コップを持って、お茶で暖を取っている。視線は公園の前の道だ。
こっそりとポケットから抗不安薬を一錠取り出した。
パキっと薬のシートから押し出された音が僕達の間に意外と響いた。
「薬?薬ならお水で飲まないとね。ペットボトルのお水あるよ」
荷台からトートバッグに入った五百ミリリットルのお水を取り出し、
「はい、どうぞ」
笑って渡してくれた。
なんでこの女性は優しいのだろうか。
「⋯⋯ありがとうございます。何の薬かとか聞かないんですか」
「んー?聞かないよー。聞いても良いなら聞きたいなってくらいかな」
よし、今度はお礼が言えた。
ぐびっと薬を水で体内に押し込む。
不安の波でざわついたくらいで飲む薬ではないが、どうしても楽になりたくて飲んでしまう。
「⋯⋯毎日薬飲んでます。抗不安薬とか抗うつ薬とか。鬱病と不安障害ってやつで」
「うん」
「今日、いや、違うな。毎日寝れなくて、睡眠導入剤飲んでも眠れなくて。気分転換に散歩してて」
ああ、考えが纏まらない。
出した言葉は分散して宙に浮いて逃げて行ってしまいそうだ。
「その散歩で私に会ったのね」
いつの間にか、地面を向いて話していた僕は次の言葉にびっくりした。
「眠れなくて悩むよねー。他人はさ、眠れなかったら次の日寝れるよとか簡単に言ってくるけど。寝たいのは今なのに。んで、眠れなかったらずーっと眠れない、三日四日、一週間の時だってあるのにね」
「⋯⋯そう、そうなんです。今寝たいのにずっと眠れない。起きてる間は余計な事考えるから意識無くしたいのに。寝てる時が安心する」
夜、眠れない時に思うことがある。
起こることの無い不安が押し寄せて、どうしようも無く、のたうち回りたくなる。
声を張り上げて見えない感情を遠吠えのように叫んでしまいたくなる。
枕に顔を押し付けて、息が苦しくなるまで狂いそうになる押さえつける自分が滑稽だった。
死にたいじゃなくて、消えたい。
自分の居場所なんてないんだと思い知らされる。
寝てる間に溶けてなくなってしたらどれだけいいかと考える時もある。
「普通に戻りたくて、病院通って、薬飲んでもなかなか治らない。焦れば焦るほど薬は増えてく。自分のことが嫌になる」
「ねぇ、普通ってなに?」
「⋯⋯え?」
被せるように女性の声が僕の声を遮る。
「フツウってなに?例えば、ちゃんと働いて稼ぐことが普通?ちゃんと学校行って勉強して良い大学行って良い就職先ができたら普通?」
その目が真っ直ぐに僕を射抜く。
「普通って、特別じゃないとか一般的って言葉でも言われることもあるよね。皆仲良しこよし横並び、世間様はそうゆうのを嬉々として押し付けてくる。でも、普通になったら次はプラスアルファを要求してくるよね」
こちらの口が挟めないほどに真剣な眼差しで僕を見る。
「バカと天才は紙一重、普通も特別も紙一重だよ。何よりも君の主観が大事。鬱病だからって劣ってるわけじゃない、不安障害だから何だ。今、感受性の高い君にしかできない体験をしてるんだよ」
女性は少し温くなっている残っていた焙じ茶を一気に煽る。
「今、君がこの世間様を客観的に見てる証拠だよ。今がどん底なら、あとは這い上がるだけだよ。都合の良い普通になんてならなくていいんだよ」
はっとした。
会社に勤めた時、
『普通、このくらいできないと笑われるぞ』
『普通の人ならもう覚えてるよ』
『普通ならさー、気をまわしてくれるものよ』
上司やお局が良く言っていた言葉だ。
どの言葉もその人らにとっての都合の良い普通を押し通すものだった。
偶然、給油室でその人たちが話していた内容が頭に流れた。
『井上くん、素直だけが取り柄。他はからっきし。早く辞めてくんないかな』
笑いながら話す声に心が折れた。
心が折れた時って、本当に音がするんだなって薄暗い室内で思った。
そこからの働いた記憶、心療内科でドクターストップがかかるまでの記憶がごっそりとないことに気がついた。
人は忘れることで自分を守るんだって聞いたことがある。
目が熱くなり、じわりと溢れて、
「⋯⋯ああああ」
涙が止まらない。
みっともない三十路の男が泣くなんて。
止めないと思い、服の袖で掻きむしるように涙を拭く。
「おー、泣け泣け!溜め込むな」
女性が背中を優しく撫でた。
時にバンバンと少し強めに背中を叩くような時もあった。
時間が分からないから、どのくらい泣いていたんだろう。
分かるのは腫れぼったくなった自分の瞼と鼻水がすんごく出ていることだ。
「君は君が思うままのフツウを見つけたらいいんだよ。人生長いんだから、まあまあで渡って行こう。あ、でも、犯罪には手を出したらだめだぞ」
ウィンクのつもりなんだろうな。
両目とも半開きだ。
「⋯⋯ぐず、下手なウィンクですね」
「お、言うようになったねぇ!洟垂れ小僧!」
たった、それだけの言葉。
何が面白かったとか関係なく、二人で腹を抱えて笑った。
久しぶりに笑えた。
笑えることが楽しいことだと思い出した。
まだ、心療内科への通院は続けないといけない。
完治ではなく、緩和を目指す。
悪くなれば薬の量が増えるだろう。
けれど、今の僕はまあまあ調子が良い。
ハローワークで見つけた給食センターの面接を受けた。
チーフに相談したら、週五の三時間で慣れてきたら時間を増やせるそうだ。
「私の娘も貴方みたい症状があるの。ここは人の入れ替わりが激しいの。まぁ、人手不足ってやつね。若い男性が入ってきてくれて嬉しいわ。とりあえず三時間一緒に頑張りましょう」
一般採用枠だが、不安障害であることを伝えた。
皆何かしらあるから大丈夫だとチーフが言った。
腰痛に痛風の人もいるらしいから大したことではないらしい。
不採用になるかもしれないと思った。
今回の職場の人選は間違いではなかったと思いたい。
「そうそう、お昼にきたら給食が食べれるわよ。飲食代は給料から天引きで」
「まじですか」
「ただね、めっちゃ肥えますよ。僕なんて半年で十キロ増えて、今も増加してるんで」
書類と貸出の制服を持ってきてくれた本橋さんがそう言う。
「望むところです。食べるのと動くの好きなんで。動けるデブになります」
自分が思うままにフツウに過ごして、生きる。
いつか自分のフツウを見つけられたらいいなと思いながら、貸出の制服に名前を書いた。
僕は、とりあえず、ここにいることに決めた。
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