じこちゅーという言葉は最近は聞かなくなったが、自己中心的な考えを持った上で人に気遣いするのが当たり前なのではと思っています。

──『こんな私でも生き続けていたいと願っているということを(Seeka.)』──

☆☆☆


 2024年11月13日(水)。11時14分。


 こんにちは。井上和音です。


 何かを書くには今日はこの時間しかないけれど、まだ起きて二時間程度で何が書けるかと言われたら何も書けない。


 西尾維新先生の怪盗フラヌールを読んだ。1章を読み終えた。西尾維新先生らしかった。


 何も書けないので、感情的になれるヒントを探しにFIREstickTVでSeeka.さんのPVを見てみることにした。


 あまりに凄いので、逆に何も書けなかったら書かないほうがいいんじゃないのと当たり前の結論に至るだけだった。書くために見たのに逆効果だった。


 夢中になれる明日クラシエ、とテレビ広告があるが、夢中は強い。夢中になれるものがあれば時間などあっという間に過ぎていくし、その時間の使い方に何も後悔することが無い。朝はまだ元気なので本も読める。Kindleで山のように小説やら漫画やらあるので、夢中になろうと思えばいくらでも夢中になれる。


 もっと言えば、Kindleがありすぎるせいで最早夢中になれる時間が人生で少なすぎる。ゆっくり西尾維新先生を読みたいのだけれど、今日は精神科もあるしソーシャルワーカーさんと面談もあるし、薬局もあるし、飲み会もある。最早無職が最適なのではと思うこともあるが、無職になったら今度はお金の自由度が減ってしまう。


 この非正規障害者雇用でたまに休みがあるのが自由度の限界なのだろうか。時間の自由度が高過ぎたら今度はまた統合失調症に襲われるというか、期待をしてしまう。テレビからの暗号に連れ去られてまた警察にお世話になってしまう。


 自由。


 難しいよね。自由って。全国民自由になったらどうなるのだろうか。別に主語が大きくなくていいから、私が自由になったらどうなるのだろうか。


 現在の階級は一般市民の障害者というランク付けなので、自由である。拘置所に入れられることもなく、自由である。警察から職務質問をされたこともない。自由を奪われたあの京都時代を思い出すたびに、犯罪など絶対に犯してはいけないなと心から思う。また、自由を守るためならば何だってしていいとか思うようになってします。


 最近は自己中心的という言葉はあまり聞かない。私が小学生の頃はじこちゅーという言葉が流行った。今さら思えば、自己中心的な行動をとって何が悪いのだと大人になって思う。損な役回りばかりしている人間は、自覚が無いのか、それとももう人生を諦めているのか。


 危ないね。よく分からないし、不快に思われる方も多いかもしれないが、ある程度自己中心的な生活をしていたほうがいいと思いますよ。自分は過去から自己中心的な性格をしていたのかもしれない。だから恋人とかいなかったのかもしれない。恋人が居なかったというよりかは、要らなかったというか、持つ余裕すらなかったし、持つことが良くないとされる人生だったような気がする。


 「私達って友達だよね」と統合失調症になる前、同窓会で幼稚園から高校までずっと一緒だった女性に言われた言葉があった。当時はどういう意味か分からなかったが、彼女も東京で孤独を感じながら、遠回しに私と付き合ってみればどうなのかなと、遠回しに私に言ってきていたのだと、6年経ってようやく気が付いた。


 自分で稼ぐようになって、と言っても障害年金のおかげで自分の自由はようやく手に入ったのだが、30歳になってようやく普通の人が持てるような人権を手に入れたような気がしている。この人権が10代からあれば。20代からあれば。統合失調症になる前からあれば。自分の人生は普通の人生、満足のいく人生、過去と繋がっている人生になったのではないかと思うと、胸が痛くなる。


 人権を大切に。自己中心的な性格を崩さずに。それでも社会に貢献できる人間で居たい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る