冬の雨

見返お吉

     しずく  

 中三の二月は、入試・卒業・進学と忙しい日々が続く。


 その日は朝から冷たい雨が降り続いていた。その冬の雨の中を、ひとり正は走った。

 彼の頬を冷たいしずくが流れては落ちる。正の涙といっしょに。正の父の声が、黒く深いよどんだ雲の中から、微かにすり切れて聞こえてくる。



正の父は一昨年の十一月にガンと診断された。それから母の献身的な看護のもとで入退院を繰り返した。昨年十一月には、最後の望みをかけて放射線治療にふみきった。その望みも、数ヶ月でうすっぺらな氷のように打ち砕かれ、病魔はなにもなかったかのようにどす黒い姿を再び表した。

母は、残された日々をせめて息子の高校受験、そしてその発表の日まで持ちこたえさせようと、あらゆる治療に針の穴ほどの希望を託し、すがりついた。死を目前にした正の父もやはり病床の中から望んでいたことだ。医者から父の死期は一月末と診断されていたが、受験四日前の今日、三月九日まで疲弊し腐りきった体の中で精神力だけが父の体を息づかせている。


冷たい雨は、悪魔の風とともに正に次々に叫ぶ。

 「これでもか。・・・これでもおまえはあきらめないのか。・・・もう死ぬんだ。正・・・あきらめてゆっくり歩け・・・歩けば楽になる。」

正は、そんあ悪魔がささやく風の中で、父の微かなすりきれた声をたどって、死ぬまで走れそうな足を限りなく前にのばした。





五年生の夏、真夏の陽ざしの中で、父の声が後ろから聞こえる。

 「ゆっくり登れ一歩一歩、へこたれるんじゃない。みんな苦しいんだ。」

 頂上まで100Mという表示を目にしたころから急に足が楽になる。振り向くと父が優しい目で笑っている。雲海の中で頭を出せる山だけが僕たちを見ている。出がけに母がこさえてくれたおにぎりは、母の臭いと共に山の頂にたちこめる。



冷たい雨は、頬に弾け冷えた体から、さらにわずかな希望を奪うかのように首筋から背中に流れ込む。父の病室が見える、細くなった手足を投げ出して枯葉のように喉を鳴らす父。今僕が行きます。



僕には、片方の耳がない小さい頃に病気でなくした。今在るのは僕の体の切れ端でつくった飾りだ。耳がほしい、よく聞こえる耳が。そう思ったことは数え切れないほどあった。自分を恨み、母を、父を、どんなに恨み、ののしったことだろうか。

 しかし、僕はそのことを口に出して叫ぶことをいつしかやめた。父と母の限りない慈しみと、愛に満ちたさりげない一言一言が、僕の心の中を朝日のように照らしだし、体中に広がっていくからだ。


消毒の臭いの立ちこめる、幾つもの病室の前を横切り父と母の待つ室に飛び込んだ、息がまだ肩を震わせている。母の疲れはてているが異様に光る目が僕を見つめて多くのことを話しかけている。

 母の影で、父が幾本もの管を体から投げ出して黒ずんだ顔で何もない天井を動かない目で正視している。白衣の人々が何か懸命に動き回っている中で、父と母だけが静止画のように動かない。僕の足も動かない。動かしたくない。しかし僕はゆっくりと近づいている。父の視線を捜しながらたぐりよせるように、父の顔をのぞき込んだ。薄く淀んだ目の中でどこまでも透き通るようなひとみが動いた。僕は吸い込まれるように父の言葉を待った。

 「ううう・・・」

 枯れた喉が吐き出すようにうめく

 「・が・・ん・ば・れ・・」

 体じゅうがどうにかなりそうな旋律が僕を支配している。

母が後ろから

 「正・・正の試験日十三日までは・・・父さんは生きているよ。」詰まるような声で母は続けた

 「もうこれで意識はもどらないのよ・・・声もだせなくなるの・・・父さんはもうねむるのよ・・・」

 母は父の手を握りしめながら、涙でいっぱいになった目で僕を見た。


父は本当は今日逝ったのだ。僕の試験日まで生きようとする父。たとえ意識はなくても、たとえ語りかけなくても、あなたが僕に最後まで示してくれる愛が、もうすでに死んでいるはずの肉体から、悪魔の手の届かない力で流れでてくる。


「頑張ります・・・・・」握った拳の上に、静かに頬から涙が落ちてはじけた。

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冬の雨 見返お吉 @h-hiroaki

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