第30話 売買契約成立

 東京大賞典が終わった後、俺と深雪は名古屋の実家へと向かった。


 久々に年越しを実家で過ごし、家に戻る前に名古屋競馬場へと足を運んだ。

 来訪については事前に報告はしてあり、藤野事業部長と林戸企画課長にも出勤してきてもらった。商談場所は名古屋競馬場の来賓室。結城調教師も同伴である。

 結城先生には事前にとある事をお願いしておいた。俺の説明を聞くと結城先生はクスクス笑い、それくらいはしたって罰は当たりませんと言って微笑んだ。


「まだ正月休みの只中だったでしょうに申し訳ありません。私も明後日から仕事でして。今日中には東京に帰らないといけないものですから」


 今や名古屋競馬場の至宝となった馬のお話なのだから問題無いと、俺の社交辞令に藤野はにこやかな顔で答えた。


「先日のお話なのですがね、実はあの後、東京大賞典の馬主席で大変話題になりまして。私たち夫婦はやむを得ないという話でまとまっていたのですが、他の馬主さんたちが、『ふざけている』とそれはそれはご立腹でして」


 東京大賞典の二着馬に対する要求とはとても思えない。名古屋競馬場はこの馬の価値がまるでわかっていない。そう馬主たちは憤っていたと二人に話した。


「特に激怒していたのが金額でして。東京大賞典の二着賞金が三千五百万円なのに、それを四千万円で買うなど馬鹿にしすぎだと騒ぎ立てられてしまいました。もう名古屋競馬場には馬は預けないと言い出す方まで出る状態でして」


 そこまで聞くと藤野部長は林戸課長を厳しい目で見た。林戸課長はその視線を受け、かなりバツの悪そうな顔をしている。この二人の態度からして、この金額を提示してきたのは林戸課長、もしくは企画課という事なのだろう。


「ただ、鈴鹿オーナーが、馬の価値を貶めた名古屋競馬場が潰れるのは自業自得だが、そこで働いている厩務員さんたちが可哀そうだと言い出しましてね。そんな事になったら、足利競馬場や高崎競馬場のように大量の失業者を産む事態になってしまうと」


 『馬の価値を貶めた』という指摘がかなり響いたらしく、藤野も唇を嚙みしめて険しい表情で話を聞いている。


「そういう話ならばと、代わりに吾妻オーナーが買うと言ってくださってるんですよ。倍の八千万でどうかって。先にお話しを持って来てくれた名古屋競馬場さんの手前、回答は保留としているのですが、いかがいたしましょうか?」


 つまりは暗にそれ以上を出せと言っているのである。本来であれば考慮の余地すら無く却下であろう。だが先の話が本当であれば、名古屋競馬場の今後の経営に大きく関わる問題となってしまっている。もはや断るという選択肢が無くなってしまっている。藤野は腕を組み、俯いて考え込んだ。その姿をハラハラした顔で林戸が見ている。


「わかりました。では八千五百万でどうですか?」


 藤野の発言に、結城が「ええ?」と驚きの声をあげた。明らかにその表情もその声も、藤野のセコさを責めるものであった。


「刻むからには、何かしらオプションでも用意していただけるのでしょうか? 吾妻オーナーは、あの馬であれば一本(一億円)くらいなら出すオーナーはいくらでもいるとおっしゃってくれていましたが?」


 確かにもしGIを一回でも勝てればそれくらいの投資金はすぐに回収できるだろう。しかも馬主たちの言う『一本』は間違いなく即金。

 それに対し、こちらは経営会議で予算を通して、その後の支払いとなり買掛金となってしまう。どう考えてもこちらが条件的に不利だと藤野も感じてはいる。ただ、今の感じであればオプション次第では検討すると言ってくれているようにも感じる。


 オプションというのは、どういう事を想定しているのか、それともし売却いただけるとしたら、その時期はいつになるかと藤野はたずねた。


「契約さえまとまるようなら、売却時期は次走の後でもかまいませんよ。オプションは……」


 そこまで言って結城の方を見て、どうしましょうねと話を振った。


「そうですねえ。次走でお売りになるというのでしたら、最上オーナーも手放す馬に対してそれ以上のお金はかけたくないのではと思うんです。ですので、次走の遠征費用と出走登録費を出していただくというのではいかがですか?」


 結城の提案に、藤野はその程度で良ければ構いませんと言った。

 商談は成立である。


 そこから一時間後、結城厩舎にお邪魔していた俺と深雪の元に林戸が新たな契約書を持ってやってきた。ビヴロストの譲渡契約書と、追加として次走の遠征費用と出走登録費を支払うという契約書が提示された。


「ところで次走はどこを考えておられるんですか? フェブラリーステークスですか? それとも川崎記念ですか?」


 林戸に問われて、結城は悩まし気な表情を浮かべた。


「今はまだ決まっていません。ですがうちの厩舎でのラストランですからね。どこに出すにしても良い結果を出して、少しでも価値を上げて次の厩舎に引き渡してあげたいですね」




 それから二週間後の事だった。

 中央競馬の広報から今年のドバイワールドカップへの出走予定馬が発表された。

クプア、オリュンポス、アウヤンテプイ、スターライラ。そしてその後ろにビヴロストの名前が記載されていたのだった。


 地方競馬の所属馬がドバイに参戦という話題は、スポーツ新聞にて大きく報じられる事となった。しかも東京大賞典で砂の王者クプアにあわやの二着だった馬。地方競馬所属の馬がドバイワールドカップという春のダートの最高峰のレースで好走したとなれば、全ての地方競馬場が活気づく事になると大騒ぎとなった。



 そんなにわかに地方競馬が脚光が浴びる中、月が替わりフェブラリーステークスが行われた。クプア、オリュンポス、アウヤンテプイというダートの大将格三頭がドバイに行く事になり、フェブラリーステークスはまたも主役不在の雰囲気を醸していた。

 そんな中、二頭の地方競馬所属馬が出走を表明。カリナンとスプリングオペラである。


 フェブラリーステークスにはトライアルレースが二つある。一つは東海ステークス、もう一つは根岸ステークス。スプリングオペラは根岸ステークスを、カリナンは東海ステークスに出走し、それぞれ勝利しての出走であった。


 それでも一番人気はレッドミラージュであった。二番人気はパラレルワールド。たまたま近走の状態が悪かっただけ、たまたま気性の悪さが出てしまっただけ、そういう評価であった。

 三番人気がカリナン、四番人気がスプリングオペラという感じだった。



 ゲートが開くと、いつものようにカリナンが先頭に出ようと押して行った。ところが、いつもと異なり芝スタートのせいで周囲の馬の出足が早く思ったような逃げが打てない。向こう正面の中頃まで先頭集団に入り、先頭に位置取るまでに少し苦戦を強いられた。

 一方のスプリングオペラはすぐに好位置キープ。

 カリナンが無理に逃げの体勢に入ったせいで、全体的にかなり早いペースのまま四コーナーへ。


 だが、カリナンには母父メジロマックイーンから受け継いだ無尽蔵のスタミナがある。他馬の追走を寄せ付けず、正面直線の坂を力強く上って行った。


 ところが、坂道を過ぎた所で外から一頭、スパッと切れて伸びてくる馬がいた。

 黄金に輝く栗色の馬体、スプリングオペラである。


 地方馬二頭を、パラレルワールドが内から、レッドミラージュが外から追いすがる。だが前二頭の足は止まらない。


 スプリングオペラがカリナンを差し切った所がゴール板であった。鞍上の雫石はゴール後感極まって、ずっと上空を仰ぎ見ていた。

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