吉備野桃花のある昼休み

@turugiayako

第1話

「桃花はね、桃から生まれてきた女の子なのよ」

 亡くなった母は、よくそう言っていた。


 いつものように、たっぷりと寝過ごしてから、登校することにした。

 がらり、と、教室のドアを開けた時、クラスメートと、教師の目線が、自分に向いたけれど、どうせそんなものは路上に転がる虫の亡骸のようなものだということがわかっているので、何も感じずに挨拶もせず、自分の机に向かって歩を進める。

「遅刻だぞ。吉備野」

 事務的に咎める教師の声にごめんなさーいとこれまた生返事して、席に着く。

 もちろん、教科書なんて開きはしない。授業中はずっと、窓から外を眺めていた。教師も、他の人間も、私に何か言うのは無駄だってことがわかっているから、ありがたくも沈黙を保ってくれていた。

 昼休みを告げるチャイムが教室内に響くころ、私は立ち上がって、鞄を持って教室の戸を開き、廊下を歩いてゆく。昼休みの廊下には、生徒が大勢行き交いしていて賑やかに談笑していたけれど、私が傍らを通り過ぎると、みんな一様に口をつぐんだ。黙って私は、歩き続ける。階段を上がり、屋上に通じるドアを開けた時、やっと私は口を開いた。

「今日もだる……」

 ドアを閉めた後、うーんと伸びをして、空を見上げる。雲一つない、快晴の青空だった。

 屋上は好きだ。いつだってきれいな空だけが、わたしを出迎えてくれるから。

 いつものように、私一人しかいなかった。屋上が私のお気に入りの場所であること知って、誰も上がってこないのだろう。

 私はフェンスに寄りかかって、制服のポケットから取り出した煙草を吸った。白い煙が、青い空に、キレイに上っていった。

 今日も世界は単調だ。

 今このフェンスを乗り越えて、地面に向かってダイブすれば、この糞みたいな退屈な世界もジ・エンド。

 何度目かわからない自殺の検討をしていると、ドアの向こうから、階段を上がってくる音がした。私はタバコを床に落とし、革靴で踏んでもみ消した。

 ドアを開けて姿を見せたのは、教師ではなかった。

 眼鏡をかけた、男子生徒だ。その顔に、私は見覚えがあった。同じクラスの雉野だ。目立たない奴で、いつもクラスの輪の中心から外れているという印象しかない。前に運動部の元気な男にからかわれて、顔を真っ赤にして起こっているのを見た気がする。

 今目の前にいる雉野も、真っ赤な顔をしていた。私をにらみつけるようにまっすぐ見て、キレイに両足のかかとを合わせ、両手の先を腰に当てて、立っている。

「なんかよう?」

 かすかな苛立ちと共に、私は聞いた。私のささやかな開放時間を、邪魔しているんじゃねーよ、チー牛。

「き、吉備野桃花さん!」

 身の程をわきまえずに私の名前を口にすると、チー牛眼鏡野郎は頭を深々と下げた。

「好きです! ま、まずはお友達から、お付き合いを始めて、いただけないでしょうか!」

「……はあ?」

 私は、まじまじと、雉野を見た。今、なんて言った?こいつ。

 すぐに、ピンときた。

「あれか。罰ゲームってやつか? 男子同士でなんかして負けて、罰ゲームとして私に告白しているのか?お前」

「ち、違うよ!」

「じゃあ何だよ?何で告白したんだよ」

「本当に、吉備野さんが、好きだからだよ」

「頭おかしいの? お前?」

 私は、タバコを拾った。

「このタバコ、さっきまで私が吸っていたやつ」

「……」

「私は屋上で、毎日タバコを吸っている女。髪は御覧の通り、校則に反して金色に染めているし、スカートの丈だって校則よりもわざと短くしている。始業時間に登校するなんてことはしないで、毎日遅刻している。授業中も教科書なんて開きもしないけど、教師もあきらめて注意もしない。注意したって無駄だってわかっているし、政治家やっている私の父親に睨まれるが嫌だから、叱りもしない。みんな私を怖がって近寄ろうとしない。こんな女に告白する男なんて、いるわけねーだろーがチー牛。正直に言えよ、罰ゲームだろ」

「確かにき、吉備野さんは不良だし、正直いって関わるのは怖いし、目を見るだけで殺されそうだけど……」

「喧嘩売っている?」

「でも僕は、吉備野さんと付き合いたい」

「どうして」

「き、綺麗だから」

「ルッキズムかよ。最低だな」

 私はまた、制服から煙草を取り出した。馬鹿馬鹿しくて、吸わなきゃやってられねーよ。

「最低だよ。そういうのって。顔だけで人を好きになるなんてさ。お前、私がどんな糞女だろーが、顔さえ綺麗なら好きになるのかよ。だったら私がブスだったら、どんな品行方正で模範的な女子高生でも、好きにならねーってことだよな。最低だよお前。女の心を見ろよ」

「こ、心だって見ているよ。僕は」

「どんな心だよ?」

「吉備野さんは、悪ぶっているけど、本当は優しい女の子でしょ。先週の雨の日に、捨てられていた犬を拾ってあげたの、見ていたよ」

 ライターを持つ手が、止まった。

 まさか、あれを見られていたとは……。

「あの犬は、殺して食った」

 顔を背けて、フェンスの外を見ながら、私は言った。

「嘘でしょ」

「本当だ。韓国じゃ犬を食う文化があるって知っているだろ」

「ここは日本だし、韓国でも犬食は禁止されたよ」

 無駄に世情に詳しい奴だった。

「下校途中に、僕は見た。吉備野さんが、段ボールに入れられて泣いていた犬を、抱き上げて、雨にぬれながら、歩いていくのを」

「……お前さ、あの時のお前は、傘、さしていたのか?」

「うん」

「じゃ、私をその傘の下に入れろよ。好きな女が濡れながら歩いているのを黙ってみているんじゃねえよ」

 私は振り向いて、気のきかない眼鏡野郎のシャツの襟をつかんでいた。先週雨を浴びて帰ったせいで、風邪を引いたことにまだむかついていた。

「ごめん、だって……近寄るのも、話しかけるのも、怖かったから」

 へたれだ。

「……よくお前、私に告白してきたな」

「ゆ、勇敢でしょ……」

「先週の雨の日にその勇敢さを発揮してくれれば、私は風邪をひかずに済んだけどな」

 私は、またタバコをを取り出し、吸った。ライターの火がしゅぼっと黄色く燃えて、白い煙が、また青い空へと昇っていく。ぷはーと吐いた息は、二人だけの屋上に消えていく。何やっているのだろう、私。

「吉備野さんはさ、どうして、本当は優しいのに、不良みたいなことを、しているの?」

 雉野が聞いてきた。

「人間じゃないんだよ。私は」

「人間じゃ、ない……?」

「亡くなった母さんがさ、まだ生きているときに、話してくれた。私は、川を「どんぶらこっこ」と流れてきた大きな桃を包丁で切ったら、中から出てきた赤ん坊だってさ。そんな摩訶不思議な生物だったら、まともな人間じゃないのは、当たり前だろう」

 雉野は、ぽかんと口を開いていた。こんな話、信じられないろうな。

「じゃあ、吉備野さんは、きっと英雄になる女の子だよ」

「は?」

「英雄とか偉人と呼ばれる人ってのはさ、普通じゃない生まれ方をするって、世界中で決まっている。もしも吉備野さんが、本当に桃から生まれた女の子なら、絶対、良いことをするために、世の中に生まれてきたんだよ。不良ごっこなんかやっている場合じゃないよ」

 それは、亡くなった母さんが、いつも言っていたことと、同じだった。

「桃花はね。桃から生まれた女の子なのよ。そんな不思議な生まれ方をした女の子は、きっと、世の中にとってとても良いことをする、立派な人になるに決まっているわ」

 ……今の私は、立派とは程遠い生き方をしている。母さんは間違っていたと思っていたけれど、今、母さんと同じことを言うチー牛眼鏡ヘタレ野郎が、私の目の前に立っている。

 タバコを床に捨てて、革靴でもみ消した時、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。

「あ、行かなきゃ」

 雉野は、屋上の出入り口へ向かおうとして、名残惜しそうに私を見た。

「あのさあ」

 私は、呼びかけた。

「本当に、ただの友達になら、なってやってもいいよ」

 雉野は、一瞬、何を言われたか、わからないようだったけど、すぐに、大きな声で、答えた。

「ありがとう、吉備野さん!」

 そして、今にも飛んでいきそうに足をステップさせながら、屋上から去っていった。

 私は、空を見上げた。

 青い空が、いつもよりもちょっとだけ、滲んで見えた。

 


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