初恋を乗せた自転車

ぬーん

初恋を乗せた自転車

あれは、五月の日差しが眩しい土曜日だった。

少しだけ漕ぐスピードを上げた自転車に、青色の信号が黄色に変わり、周囲にすぐ赤色を知らせた。

「間に合うかな…。」

熱のこもったアスファルトは茹だるような熱さで、信号で止まる度に頭から汗が吹き出してきた。

赤色が長く感じた信号が青色になり、止まっていた足を動かして、再び漕ぎ出した自転車。

渚のスポーツ焼けをした肌に、涼しい風が通り過ぎていく。

こうして自転車を漕いでいる理由は、地域のスポーツクラブに所属していた渚を、そこに通う他校の同級生達から、運動会の応援に来て欲しいと誘ってもらった為だった。

学校の入口近くに自転車を止めて、スポーツクラブの友人のお母さん達に挨拶をする。

「おはようございます!」

「おはよう、渚。ごめんね〜!せっかくの休みなのに、皆に来るように言われたんだって?」

「いえいえ、私も楽しみにしていたので大丈夫ですよ!ところで、もう競技は始まっちゃいましたか?」

「ううん。今はラジオ体操が始まったところだよ!あ、そうそう。あの子たちの席は、真ん中の辺りだから、行けば直ぐにわかるよ!」

「ありがとうございます。行ってきます!」

お母さん達に手を振って、校門の上に飾ってある「第○○回✕✕学校運動会」と書かれたアーチをくぐり抜けて、足元に見える白いサンダルと、普段は着ないノースリーブの薄紫のワンピースを翻して彼らの元へと向かった。

学生がラジオ体操をしているのを横目に、木陰が出来ている校庭の端の方を左へ進むと、名前を呼ばれる。

「渚、こっちこっち!」

「あ、崚弥のお父さん…!」

「ここ、崚弥達の席だから」

しゃがんでいた崚弥のお父さんは目の前を指さし、崚弥の座席を教えてくれた。自分の隣に来るように崚弥のお父さんに手招きをされて、渚は少し緊張しながら隣に立った。

「わざわざ来てくれてありがとうな。」

「いえいえ!」

「俺これから仕事があってさ、途中で帰っちゃうんだよね。」

「えっ!そうなんですか…」

「うん。だから、俺の分まで崚弥の応援宜しくね!」

爽やかにニコッと笑った顔が、崚弥と良く似ていた。さすが親子…。と、内心思う渚だった。

先程から名前が出ている崚弥という人物は、田中崚弥といって、渚が小学三年生の頃から好きな相手だった。

思えば、初めて出会ったのも自転車に乗っていた時だった。

「ねえ、お兄ちゃん。」

「ん?」

「あの子が新しくチームに入る子かな?」

「あ〜、そうかもな。」

「あら、崚弥良かったじゃない!同じチームの子よ!」

お母さんの陰に隠れていた崚弥は、私と兄に顔を見せるように少しだけ自転車を前に漕ぐと、静かに頭を下げた。

「…こんにちは。」

「こ、こんにちは…。」

お互いに少しぎこちない挨拶を交わしたのを、よく覚えている。

その姿を見て声を聞いて、すぐに崚弥に恋に落ちた渚だった。それは、間違いなく渚の初恋だった。

懐かしさに惚けていると、ラジオ体操を終えた崚弥達が戻ってきた。

「あ、渚じゃん!」

「え!渚来てるの?」

「おはよ〜、皆は種目何出るの?」

「徒競走とか色々〜!」

「そっか〜。楽しみにしてるね!」

手を振りながら寛太や颯太に話を聞いていると、いつからこちらを見ていたのか、崚弥と目が合う。

「お…おはよう、崚弥!」

「おはよ、渚。俺たち呼ばれたらあっちに行くから、走るとこ見ててよ。」

「うん…!もちろん!」

「よっしゃー!一位取るぞ〜!」

「うるさっ!」

「こういう時は気合いだろ!」

「でもさ、肩回す必要ある?」

「カーブのところで肩回すと早く走れるんだよ!って、父ちゃんが言ってた!」

「何だよそれ。絶対嘘じゃん。」

「あはは、皆頑張ってね〜!」

寛太は張り切って、椅子から飛び上がり肩を回し始めた。一方で徒競走へのモチベーションが対極の颯太は、冷静にツッコミを入れていた。

渚はというと、それを横目に大好きな崚弥に自分から挨拶出来た喜びで、内心とてもドキドキしていた。今にも口から心臓がとび出てきそうな程だったが、崚弥にそんな事を言われたら崚弥以外見ません!と決心していた。

放送で呼び出しがかかり、崚弥が渚に手を振って集合場所まで行ってしまった。

渚はもちろん崚弥に手を振り返した。嬉しさで頬が熱を持ち、顔が真っ赤になってしまった。体が熱くなってきたことに気づいた渚は、スポーツドリンクを二口飲み、頬と額にペットボトルを当てると冷たくて気持ちが良かった。

崚弥は足がとにかく速かったので、他の人たちと競ることも無く一位を取っていた。崚弥のお父さんは、崚弥が一位になったのを見届けてから走って仕事場へ向かって行った。

正直崚弥が一番かっこいいと、渚はほわほわと心があたたかくなった。

また手を振りながら、一人颯爽と戻って来た崚弥の後ろに、とぼとぼと下を向きながら帰ってくる寛太を慰める颯太が一緒に歩いて戻ってきた。

「見ててくれた?」

「うん!1番速かったね〜!崚弥すごいよ!」

「ふふっ、うん。頑張ったから。」

「俺、二位だった…」

「でも、二位だってすごい事だよ!」

「ありがとう、渚…」

「あれ?でも、悠斗とかあっち側にいるんだね。」

「ん?うん。違う組だから…。」

「じゃあ、あっちにも行ってこようかな。」

悠斗という人物は、渚と偶然同じ安藤という名字で、その事で何度か他の男子からかわれたりして、二人で顔を真っ赤にして「ただの友達」と否定した仲だった。

入口付近の席にいた悠斗に会いに行こうとする渚の手首を掴み、崚弥が引き止める。渚は掴まれた部分が徐々に熱を持ち始めるが、崚弥の手は冷たかった。

「どうしたの?崚弥。」

「…あっち行かないでよ、渚。ずっとここにいればいいじゃん。」

「…う…うん。」

頷くことしか出来なかった渚を見て、満足そうに渚の手首を掴んでいた右手を離し、席に座る崚弥は水筒の中のドリンクを飲んでいた。

崚弥の周りでも皆がそれぞれ水筒の中に入っているドリンクを持ち上げて飲む度に、ガラガラと氷同士がぶつかる音が渚にはやけに大きく聞こえた。

顔は何とか形を保っていたが、渚は内心パニックに陥っていた。渚がパニックになった理由は、毎年バレンタインに崚弥にチョコを渡しても「ああ…。」という返事しか貰ったことがなかったからだった。

え?あの崚弥が私の手首を触った…?現実?本当に?渚は、私は暑さにやられてしまったのだろうかと、とても信じられない気持ちだった。

少し気持ちを落ち着かせてから、自分の左手首を右手でそっと触る渚は、幸せを噛み締めていた。

正午が近づき、午前の部は終了の時間に迫ってきた。

「なあ、渚〜!午後の部どうするの?」

「うーん、どうしようかなぁ…」

渚が寛太に午後の予定はどうするのか聞かれ、悩みながら崚弥の方を一瞥すると、崚弥もまた渚を見ていた。

「なんで?観に来てよ、渚。午後の部も俺、会いたいし。」

「…は、はい…。」

「組体操とかリレーとか出るし、最後まで見てよ。」

「わ、わかった。」

ええ、ええ、勿論。喜んで来させていただきますとも!渚は今にもニヤけそうになる唇を噛んで、爆発しそうになる喜びを必死に抑えていた。

「じゃあ、また午後の部でね!」

「またね。」

「俺達のことも応援しろよな!」

「し、してたよ!」

その場の皆で笑いあって、手を振ってその場は解散した。家に帰る時の渚の自転車のスピードはゆっくりだった。崚弥の言葉を頭の中で何度もリフレインさせて、少し浮き足立っていた。

渚は自転車置き場に自転車を置くと、足早に歩き出した。

家に着くと母が料理を作って待っていた。

「おかえり〜手、洗いなさいよ〜!」

「ただいま〜!午後も崚弥達の運動会行ってくる!」

「えぇ?何で?渚出てないのに?」

「いーいーのー!」

不思議そうな母に、とにかく行くんだと反発した渚はお昼ご飯を急いで食べた。

「そんなに急いで食べると喉につっかかるよ。」

母は渚にティッシュを差し出しながら、呆れたような声を出していた。そんな事はお構い無しにご飯を食べ進める渚。

「ご馳走様でした!」

両手を合わせてからお皿を下げる渚は流しに食器を置いて、急いで白いサンダルを履いて家を出た。

新しいハンカチをワンピースのポッケに入れて、自転車のカゴの中に飲み物を入れたら、先程よりも全速力で、もっと早く自転車を漕ぎ出す渚。

早く、崚弥に会いたい。その一心で。

自転車のカゴの中に入った飲み物が、ガタガタと揺れて踊るように跳ねる。それすらも渚の気持ちを高ぶらせた。

短い下り坂を走り抜けたところで、落ち着けと言わんばかりに信号が赤色に変わり、また止まる。

この僅かな時間がとても長く感じる。

青色に変わった信号を見て、自分の心拍数がどんどん上がるのを感じながら、渚は自転車を漕ぎ出した。

あと少し、もう少しでまた会える。

渚の初恋を乗せて走る自転車は、外気の茹だる暑さを忘れさせるような、爽やかで甘い風が頬や体を通り抜けていった。




初恋を乗せた自転車




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