波の下の夢
@snowhill4
波の下の夢
われわれの畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったろうか。何がいかなる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと結合することになったでしょうか。
ー柳田國男 妖怪談議
2024年2月23日ー岐阜・福井県境にまたがる油坂峠は、今日も薄暗く空を覆い尽くす雲の下であった。もっとも、この厳寒期に晴天なぞ求める方が無理というものである。この季節のこの地方には、曇りか、雪か、あるいは大雪か、それ以外はない。
国道158号線(旧道)は、ここ油坂峠を越えて岐阜側と福井側を繋いでいるが、冬季通行止めの最中であり、人も車両も雪に阻まれ通れない。ただし、岐阜県側の美濃白鳥から福井県側の東市布までは油坂峠道路(新道)が開通しており、そこは冬季でも除雪が行き届いていて通行可能であった。ただし、自動車専用道路のため歩行者は通れない。
さて、その日の昼頃、峠の岐阜県側、すなわち岐阜県の北の果て、美濃白鳥駅に降り立った一人の男の姿があった。岐阜県の北の果てということは、東西南北全ての方角を山に封じられている閉塞した土地である。山と山の間の谷筋を切り開くように流れる長良川、それに沿ったわずかな平地に少しばかりの民家があるだけであった。当然、この真っ昼間にもここに人の姿はなく、営業している店もない。
美濃白鳥駅にやってくる列車も数時間に1本という程度。さらに、ここから列車にしても車にしても、長良川沿いに南下して名古屋の都市圏に至るまでは果てしなく長い道のりになる。やはり過疎化が進むわけだ。しかし、11時54分美濃白鳥着の汽車に乗って、彼はたしかにこの町にやってきたのである。
この冬の薄暗い空のもと、活気のかけらも感じられないこの陰鬱なこの土地に、若い彼の姿は少々場違いに見えた。まだ高校生くらいだろうか。おそらく都会から来たのであろう、華やかさなどは一切ないが、この土地とは異なる雰囲気を持っている。
彼は、ここ長良川鉄道の美濃白鳥駅から出発し、油坂峠を福井県側に越えて、山の向こう側の線路、越美北線の九頭竜湖駅まで向かおうとしていた。目の前には山しかなく、峠の向こうの福井県側は見えない。しかし、地図によれば、向こう側には九頭竜湖があり、そこから日本海に流れ出す九頭竜川があり、福井まで繋がる鉄道路線の起点の駅があるらしい。地図上ではおおよそ30km程度の道のりのように見えるが、道路状況はどうなのか、歩ける道なのか、情報は全くない。それでも、確かに道が繋がっている以上、彼は地図を信じて進むしかなかった。
彼がはるばる遠くからここに来るまでの行程や、そもそもなぜここに来るに至ったのかという経緯は全て省略するーそれに、彼の名前も出身もどうでもいい。それらは、この物語を進める上で必要のない要素だ。
彼は、美濃白鳥駅を出て駅前の寂れた市街地を通り抜け、長良川を渡って山の方へ向かった。途中、もう2度とバスが来ることはないであろう朽ちたバス停や、閉店してどれだけ経ったのかわからない駄菓子屋、もしかしたら今も営業しているのかもしれない薬局などがあったが、どれも彼の目を引くものではなかった。
30分ほど歩いて山と平地の境目あたりに来ると、この土地の風景とは全く調和し得ない、あまりにも場違いなコンクリートの巨大な構造物が宙に浮かんでいた。冒頭で述べた、油坂峠道路の入口に位置するインターチェンジである。この道路はここから峠を越えて日本海側、すなわち福井県側に抜けていくのだが、自動車専用の高規格道路であり歩行者は通れない。彼は、もし自分が車の如き速力を持っていたら、車に混じってこの道路を通り抜けられるかな、などと考えながら高速道路の入り口を素通りした。
そして少し下った先、宙に浮かぶコンクリートの構造物と山の斜面の間のわずかな隙間に、別の道路の入り口があったーこれが国道158号(旧道)である。この道路も同じく福井県側に通じているが、こちらは積雪のため11月20日から翌年4月26日まで通行止めであった。新道のほうさえ通れれば、同じ区間を並行して走る旧道は通れなくてもいいし、わざわざ旧道を通る車はいない。よって新道は除雪されるが、旧道は除雪されない。そのため、旧道は冬季は通行止めだ、ということである。
しかし、これは彼にとって困ったことである。彼は車ではないので、新道は通れない。しかし、冬季通行止めなので旧道は通れない。当然だが、他に道などない。すなわち、ここで行き詰まりだ。もうどうしようもない。
冷たい雨がパラパラと降り始めた。彼はフードをかぶって凌ごうとしたが、そうすると視界が制限されてしまうことに気がついた。しかしフードを脱いだら、髪を濡らす雨が不快だ。ただでさえ不安要素の多い旅先の山奥、雨など降ってほしくなかった。そのうえ、このどんよりとした暗い空ではどうしても気分が下がる。
さて、彼は油坂峠に向かう旧道の入り口までやってきた。そして積雪通行止めの看板をきっと一瞥し、ひょいとコーンを乗り越え、そのままずかずかと通り過ぎた。そのまま、峠へ向けて登っていく斜面をスタスタと軽快に歩んでいった。さらに標高を上げてゆけば雪が出るかもしれないが、今の所ここに雪はないのだ。ならば進めるところまで進んでしまおう、そういうことであった。
というのも、今年の冬は異常に雪が少ない。この時点ですでに異変の兆候はあった。まず、雨が降るというのがおかしい。この季節、降るとすれば雪のはずだ。さらに、この峠の入り口の時点で雪がないというのもおかしい。旧道が除雪されていないのであれば、旧道の入り口からすでに高く高く雪が積もっていて、足を踏み入れることなど思いもよらぬはずだ。
もちろん、いくら雪が少ないとはいえ、雪が全くないということなどあり得ないし、この先進むにつれて歩けないほど雪が積もっているかもしれない。しかし、それに出くわしたのならその時点で引き返してしまえばいいだけだ。
彼は今日中に帰らなければならなかったので、15時になってもその先の見通しがつかなければそこで折り返し、美濃白鳥駅まで戻って汽車に乗ろうと考えた。走って戻って16時49分の汽車に間に合えば、なんとか終電までには帰宅できる。ただし、引き返す際にこの雨に濡れた下り坂を焦って走って滑ってそのまま斜面の下まで落ちて、取り返しのつかないことになることだけが怖かった。
しばらくは斜面に沿って標高を上げていった。その横の高架の上を新道が突き抜けていた。そして、13時16分、ついに恐れていた雪に突き当たった。鬱蒼と生い茂る杉林の影で、ちょうど日陰になっているところであった。彼は、この積雪は日陰によって生じた一時的なものであると判断し、前進を続行した。この先県境までどのくらいあるのかは知らない。だが、幸いまだ時間はあるのだ。もういよいよ駄目だというところになってから引き返しても遅くはない。
しかし、恐怖はあった。目の前の雪溜まりは多少の深さがあり、足を突っ込めば多少は濡れそうだ。それに、引き返すならばまたここを通ることになる。どうせ引き返すならば今した方が、雪に入らないで済む分いくらかましではないか。
それでも、恐怖を克服するのはいつも未知への探究心である。この先に県境はあるのか、本当に福井県側に通じているのか、福井県側にある九頭竜湖というのはどんな様子なのか、日本海側の福井から南に伸びた線路の終点・九頭竜湖駅までは辿り着けるのか。地図上では繋がっていても、実際に歩いてみなければわかることなどない。自分の足で、眼で、体で確かめるまでは、彼は歩みを止める気にはならなかった。
この登りは一体いつまで続くのだろう。もしかしてまだ半分も来ていないのではないか。いや、そんなことを考えるな、ただ前に進め、そうしたらいつかは着くはずだ。15時までは引き返さずに進めるのだ、それまで不安なことは何もない、だから安心して進め。心の中で自分に言い聞かせる。
いや、もしかしたら心の中に留まらず、実際に声に出していたのかもしれない。しかし、どちらにしろ変わりはない。ここは通行止め区間の旧道、人も車も当然来るわけがなく、彼の声を聞く人はいない。誰も人のいない森の中で倒れた木は音を立てるか?―いつか聞いたことのあるパラドックスが、頭の中を横断する。
またいくつか雪溜まりがあったが、ここまできて引き返すわけにもいくまいと、全て強引に突破してきた。もういい加減に不安になってきた13時28分、何か建造物と思しきものを視界にとらえた。この状況に変化を与えてくれる何かだろうか。変化?いい方に?あるいは悪い方に?とにかく一刻も早く知りたかったので、走る。
トンネルだった。トンネルの入り口には地蔵が立っている。トンネル自体はそう長くなく、反対側の出口の光がすぐに見える。走って通り抜けると、青い道路標識があった。「福井県大野市 東市布」―県境だ!大袈裟でなく、喜びと安堵で涙が出そうであった。とりあえずほっとして、全身の力が抜けた。
しかし、この峠の核心部はここからであった。先ほどの県境のトンネルがこの峠の最高標高地点であり、ここまでは登り坂だが、ここからは降り坂になる。しかし、その降り坂を見て愕然としたのだーそこそこの深さで雪が積もっているではないか。
ここの坂を一旦下ってしまうと、もう引き返せないと彼は直感した。坂を下ることならできる。下りを利用して勢いをつけて走って、雪の中を突っ切れば良いだけだ。しかし、登り返してくるとなると話が違う。膝下の雪をずぶずぶとかき分けながら、坂を延々と登らなくてはならないのだ。おそらく下りよりも相当時間を取られるであろう。つまり、仮に引き返した場合に、美濃白鳥駅の事実上の終電・16時36分に間に合わない可能性が跳ね上がる。
すなわち、ここがpoint of no return、帰還不能点なのだ。この坂を下ってしまうと、日暮れまでに福井県側の九頭竜湖駅まで辿り着くしかない。九頭竜湖駅までの距離も、道路状況も、ついでにこの先の天候も、何一つわからないままにそこを目指すのはあまりにも危険すぎた。
この時点で判明しているざっくりとした情報。この先の天気は微妙、この冷たい雨は降ったり止んだりする。長良川鉄道の美濃白鳥駅から越美北線の九頭竜湖駅までは大体30km程度で、今そのうち7か8 km程度まで来ただろうか?いや、ここまで登りだったから長めに感じているだけで、実際はそんなに来ていないかもしれない。
目の前の下り坂は雪だが、そこを過ぎたらどんどん標高が下がるので、次第に雪は減っていくのではないか?いや、山の北斜面だからかえって増えるかもしれない。とにかく、この先に関しては何もわからないということだけがわかっていた。
もしこの先に進んでしばらく行ったところで行き止まりになってしまったら、もう取り返しがつかない。戻っても間に合わず進むこともできず、山の中で日が暮れる。しかし、だからといって引き返すのは、
―面白みに欠ける。
と彼は思った。行けない可能性はあるが、もちろん行ける可能性もある。ならば、心が求める方へ進んだほうが、後悔しないであろう。ここで進むのは一種の賭けであるが、賭ける前から降りる気にはなれない。彼は勢いよく走り出し、雪の積もった峠の坂道を転げるように福井県側へ駆け降りていった。
彼は賭けに勝った。雪に埋もれた坂道は、走って駆け降りてみればあっけなく通り抜け、福井県東市布の道路合流点にたどり着いた。あまりにもあっけなかったので、これで良いのだろうかと戸惑ったくらいだ。ここはもうすでに峠の福井県側、日本海側であった。岐阜県側で分かれていた旧道と新道はここで合流し、ここからは九頭竜川沿いを一つの道路が進んでいる。
この先はただの国道のため、自動車専用道ではなく、また除雪もされていた。よって、もう雪に阻まれて行き止まる心配はない。とりあえず、九頭竜湖駅まであと20kmくらいであろうか、万が一のことがない限り、道は繋がっていると考えて良いであろう。彼は再び安堵し、またもや全身の力が抜けた思いであった。
しかし、本当の戦いはここからであった。というより、ここから先の道のりこそが本番だといってもいいかもしれない。ここで道路は新道に合流する。つまり、新道を走っていた大量の車が、そのままここに流れ込んでくるのだ。もちろん車は歩行者がいるなど夢にも思わないので、自動車専用道を走っていたときのような速度で飛ばしていた。
さらに、通る車はただの車だけではなく、工事用のトラックが多かった。それはもうたくさんいた。大体1分に1台通るくらいだ。トラックの運転席は高い位置にあるので、歩行者の存在は視認しにくいであろう。さらに、ここを歩く歩行者など年中通して一人もいないので、運転手には歩行者がいるという意識がない。そうなると、ますます運転者は歩行者を認識しにくいはずだ。
ここからの道のりにおいては、彼はこの歩道のない狭い2車線道路において、自分の存在を認識してくれない大量のトラックをひたすらに避けながら、はるか20kmを走り抜けなければならないのだ。向こうが自分を避けてくれない以上は、自分の方から避けなければ、本当の本当に轢かれてしまうであろう。
彼は常に最大の集中力で車を警戒しながら、道路の端の端の端を歩いていった。植物や壁が服に擦れて汚れるが、そんなことを気にしている場合ではなかった。しばらく進むと道路は九頭竜川の上流に沿い、やがて九頭竜湖の東岸についた。左に平家岳が見えた。
九頭竜湖は、電源開発と治水用のダムによって堰き止められてできた人造湖であった。冬の湖面は黒くどんよりと波打っていて、あらゆるものを静かに吸い込んでしまいそうであった。道路は九頭竜湖の北岸に沿って、東から西に向かっている。ドロドロと重たそうな水面を見て沈んだ気分になりながら、ただひたすら足を進めた。道路の脇に、何か碑があった。「ふるさとの碑」と書いてあったが、詳しく見に行く余裕はなかった。
ふるさとの碑、か。かつてこの辺に集落があったのか?いったい、この風景のどこにふるさとがあったのだろう。細長い湖と切り立った山に挟まれた部分を切り開いて強引に道路が付き通るこの土地に、何らかのふるさとの面影を感じることはできなかった。あの山の斜面か?あるいは今ここに伸びている道路の真上のあたりか?昔どこかに何かの集落があったとしても、どこにあったのか想像もつかないし、想像する余裕もない。
湖岸沿いにひたすら進むと、箱ヶ瀬、という地名に入った。橋があった。橋桁は、湖の水面から5階建て程度の高さがある。足を踏み入れて、橋には車が2台同時に通れる幅しかないことに気がついた。橋の上では狭くて車を避けにくい、これはいうまでもなく危険
である。しかし、先に進むには橋を渡るしか方法はない。どうか車が来ませんようにと祈りながら、彼は橋を渡り始めた。
橋の中ほどに差し掛かってきたそのとき、目の前からトラックがやってきた。橋の欄干に体をピッタリ貼り付けるようにして避けようとしたが、欄干とトラックの間の空間はあまりにも狭かった。おそらくトラックと欄干に挟まれて潰されてしまうだろう。しかし、他に逃げ場などない。反対車線にも別の乗用車が迫っているので、そちらに飛び出したとしても轢かれる車の種類が変わるだけだ。トラックの運転手はこちらの姿に気づいてなどいないようだった。当たり前だ、いるはずのない歩行者に注意を払うわけがない。向こうから避けてもらうのは不可能だ。
このまま轢かれたらどんなによくても大骨折、かなりの確率で死ぬ。それは間違いない。黙って轢かれるわけにはいかない、彼はもう一度賭けに出てみることにした。勢いよく跳び上がり、橋の欄干の上に登ったのだ。欄干の上は狭く、バランスを崩せば道路側・水面側いずれかに落ちてしまいそうだが、確定でトラックに轢かれるよりはマシだ。
そして、彼はまたしても賭けに勝った。トラックは轟音と共に通り過ぎ、彼は水面には落ちなかった。彼は安堵した。これまでにいったい何回の緊張と安堵が繰り返されたであろうか。そしてこの瞬間の安堵は、これまでの全てに勝るであろう。しかし、次の瞬間に全ては一変した。
先ほど通り過ぎたトラックの背後から、もう一台が接近していた。まさかここで2台連続とは、最悪のタイミングだ。ここで欄干から道路に飛び降りたら、轢かれる。しかし、欄干の上にとどまり続けるのも、バランスから考えてもう限界だ。もちろん、水面側に飛び降りるなど論外だ。それこそ、最も避けるべき結末である。
いっそのことトラックに飛び乗ってしまおうか。しかし、トラックにうまく飛び乗れる自信もない。欄干に留まるという選択をした。これもまたやはり賭けであった。
さて、いつまでも賭けに勝ち続けるはずもない。彼は負けた。バランスを崩した彼の体は、トラック通過の風圧に煽られ、静かに欄干から湖面側に飛び出した。暗い、黒い、重たい湖面が視界を埋め尽くす。一瞬、周囲がスローモーションになったように感じられた。落ちる速度も、体の回転も、近づいてくる湖面も。全てがゆっくりで、自分の目で見ているはずなのに、画面の中の映像のようだ。今まさに自分の身に起こっていることが現実であると、認められないのだろうか。
湖面が近づく。まだ死にたくない。しかし、意外に死はそこまで強く感じられなかった。湖面が近づく。水が重たそうだ。泳げるのかな。この日の外気温は2度。ということは、水温は10度を下回るであろう。水に入った瞬間に身動きが取れなくなる可能性の方が高かった。湖面が近づく。だめだ、この水温では人間は3分も保たない。そして、3分以内に岸まで泳ぎ着く自信などあるわけない。湖面が近づく。放課後の教室の何気ない会話が思い出される。湖面が近づく
***
「はじめまして。君が空から降ってきたときは、どうしようかと思った。無事だったようだね、よかった」
目の前には、同年代と思しき女子が立っていた。とりあえず自分の体の状況だけ確認する。痛みを感じる部分はない。記憶も鮮明だ、特に異常はない。何より特筆すべきなのはーそう、全身のどこも水に濡れていないことだ。自分は九頭竜湖の湖面に墜落したのではなかったか?状況が飲み込めない。
自分の体は、大きな柔らかいソファの上に横たわっている。目の前には大きな椅子があり、見知らぬその人物はそこに綺麗な姿勢で腰掛けていた。そして、この部屋はものすごく片付けられていて、掃除も行き届いているようだ。俺という予期せぬ訪問者が来たから、慌てて片付けたのだろうか。仮にいつもこんな綺麗に部屋が整理整頓されているのだとしたら、彼女は只者ではない。前には大きな白い棚が、後ろには大きな黒い棚があった。よく見ると、両方とも鍵がかかっているように思える。なぜだろうか?よほど高価な品物か、あるいは大量の現金でも入っているのだろうか。彼女は、明るくて綺麗な声で、遠慮なく喋り出した。
「覚えてる?私が窓から外を眺めていたら、君が空から降ってきたー文字通り、空からだよ。でも、見た目は普通の同年代の男子だったし、どこも怪我はしていないように見えたから、とりあえず家の中に運んどいた。そんで、そこのソファに寝かした。そしたらその後、私がコーヒーを一杯作り終わらないうちに、君は目を覚ました」
俺は、確かに水面へ落ちていったはずだ。そして、彼女は空から落ちてきたという。ここですでに一つ、矛盾が生じる。俺が落ちていった九頭竜湖の湖面が、この家の上空につながっていたのか?いや、そんなことはありえない。
仮に俺はすでに死んでいて、ここが死後の世界であるならば、納得もいくだろう。しかし、ここは死後の世界ではないと確信できる。自分の体の感覚はあるし、意識もそのまま、何よりこの家の生活感あふれる内装。どれも、現実世界にしか存在しえないものだ。念の為に、一応確認しておいてもいいが。
いや、その前に、助けてくれたお礼を言うのが先だろうか。いずれにせよ、会話がこの状況を解決する糸口になるのは確かだ。
「はじめまして。とりあえず、助けてくれてありがとうございます。本当に心から感謝申し上げます。ただ、この場所についていくつか質問したいのですが…まず、ここは死後の世界とかじゃないですよね?」
「死後の世界?ふふ、どこから来たのか知らないけど、相当怖い思いをしたんだね。でも安心しな、ここは紛れもなく現実。時刻は2月23日15時26分、場所は福井県和泉村箱ヶ瀬、私は二条時子。この集落に住む高校3年生だよ」
はっきりと正確な時刻を覚えていたわけではないが、自分が橋から落ちたのも15時ごろだっただろうか、時刻はほとんどずれていないらしい。そして、地名が箱ヶ瀬なのも同じ。と言うことは、時間も場所もほぼ変わっていないのだろうか。
しかし、ここの行政区分は福井県和泉村?おかしい、ここは福井県大野市だったはずだ。それに、箱ヶ瀬には国道158号線と九頭竜湖しかない。こんな集落など、果たしてあっただろうか?何か、決定的な違和感がある。
「なるほど。ここに落ちてくる前に僕がいた時間、場所と概ね同じですね。ただ、僕とあなたとの間には、何か無視できないほど大きな違いが横たわってる気がします」
「君も、そう思うかい?奇遇だな、私もだ」
「で、それを突き止めたいのですが。まず、はっきりさせたいのは、ここがどこか、という点です。福井県大野市箱ヶ瀬ですよね?」
「ふぇ?大野市?それは隣の市じゃない?ここは和泉村だよ」
「その、和泉村、というのがよくわからないのですが。僕が岐阜県から福井県に入ったとき、そこはすでに大野市でした。僕の知っている限り、和泉村という村は福井県には存在しない」
「どうしてそんなことを言うんだい?ここは絶対に和泉村だよ、ここに18年住んでる私が言うんだから間違いない。いきなりどこの誰かも知らない奴に、私の住んでいる自治体は存在しません、なんて言われてもね。あるものはあるんだよ」
どうやら議論は平行線だ。とりあえずこれはこのままにしておいて、次の話題に移ろう。まだまだ違和感はたくさんある。
「それから、この集落は箱ヶ瀬、ということでしたが…箱ヶ瀬のどの辺りです?僕が歩いてきた感じでは、この辺りには湖とそれに沿って走る国道しかなくて。集落はちょっと見つけられなかったのですが」
「なんだって?湖?どこの湖なの?私、この辺に湖があるなんて知らないよ」
「いや、九頭竜湖ですよ。ここには湖はない、と言うのは、ここには湖しかない、ということの間違いでしょう?」
「え?九頭竜湖?九頭竜川なら流れてるけど、湖なんてないよ。仕方ないなあ、ここ箱ヶ瀬集落について教えてあげる。この集落は、九頭竜川沿いに広がる平野に位置する。両側を山に挟まれて平地の部分は狭いけれど、川の恵みを受けて土地は肥沃。川の水は美味しいし、季節に応じて魚もとれる。何より、この私が18年間も過ごしてきたんだ!素晴らしい土地だよ」
俺の知っている箱ヶ瀬と違う。違いすぎる。そりゃあ、九頭竜ダムができて川が堰き止められる前は、箱ヶ瀬にまだ湖はなかったかもしれない。ダム湖はなく、その代わりに川辺に豊かな土地と集落が広がっていたのかもしれない。しかし、今となってはそのすべてはダム湖である九頭竜湖の底に沈み、湖と国道だけが地上に残っているはずであった。
「何か気付いたのかい?大丈夫、時間はたっぷりあるよ、焦ることはない。安物の豆で悪いけど、コーヒー飲む?」
「ありがとうございます…いただきます」
俺の斜め後ろに置かれているコーヒーのドリッパーを取るために彼女は身を乗り出した。俺の顔の目の前を彼女の顔が通り過ぎる。距離としてはものの数センチしか離れていないのではないか。彼女の息遣いが目の前に感じられて、心拍数が急激に上昇した。もし鏡があったら、フェノールフタレイン入りの水酸化ナトリウム水溶液よりも赤い自分の顔を見ることができたかもしれない。
ああもう、面倒臭い、ここで明らかにしておこう。正直に言う。名を二条時子というらしいが、彼女は俺の好みのタイプのど真ん中だった。あまりにもど真ん中すぎて引いているくらいだ。多分人としても好きなんだろうが、その前に異性として好きだったーこれは前例のないことだ。なにしろ、水面に墜落して、気がついたらめちゃめちゃ理想の女子が目の前に現れたのだ。これでどうかしない方がどうかしている。
ちなみに、何が好きかというと、もちろん外見はそうなのだが、何より惹かれたのは彼女の持つ雰囲気だ。なぜだかわからないが、異常に惹かれた。一目惚れと言ってしまええば、そうなのだろう。とにかく、時子さんと1秒でも長く一緒にいたかったし、時子さんのことを少しでも多く知りたかった。
もうすでに、ここがどこか、なぜここに来たのか、違和感の正体は何か、などは割とどうでも良かった。そんなことより、時子さんの個人的な情報の方がはるかに重要だ。なんなら、こんな話は今すぐにでもやめて、もっと聞きたいことは他にいくらでもあった。
時子さんの趣味とか、通っている学校とか、家族とか、現在の目標や志望校とか、将来の夢とか、交際している相手はいるのかとか(最重要事項)、知りたいことはいくらでもある。ただ、いきなり空から落ちてきた初対面の人間とそんな話をするわけもないが。
などということは、口が裂けても言えない。あと、安物の豆といった割にはコーヒーが美味しい。そういえば、今日は朝から何も食べていなかったことを思い出した。
「コーヒー、雑味でてない?」
「大丈夫、香り高くて美味しいです。コーヒーの味を感じられるということは、やはりここは現実世界に違いないんですね」
「まだそれ言ってんの?だから現実だって言ってるじゃん!」
時子さんはそう言って、俺を突然後ろから抱きしめた。いよいよ冷静さを保てそうにない。心拍数が上がるどころか、一周回って心臓が止まりそうだ。俺は、爆発寸前のダイナマイトの気持ちがわかった気がした。
「これでも、私が現実じゃないって疑うの?まだ私が幻だと思ってるわけ?」
「い、いえ!現実、現実、間違いなく現実です!ただちに信じます!」
「信じてくれたならいいんだけどねー。あ、コーヒーのカップ片付けるよ、ちょうだい」
台所に向かう時子さんの後ろ姿を見て、ある発想が浮かんだ。かなり恐ろしく、そして突飛だが、これによって現在の状態はすべて説明できる。というか、この状況の全てに辻褄が合う説明はこれしかなかった。しかし、これを確かめるには勇気が必要だった。それは、俺と時子さんとの間にある隔たりを、決定的なものにしてしまうからだ。しかし、確かめるしかない。あえて確かめようとはしなくても、いずれは明らかになることだ。
「あの、一応念の為に確認しておきたいんですけど。今日は2月23日ですよね?それって、西暦何年の2月23日ですか?」
「何をそんなに当たり前のことを聞いてるの?今年は1967年でしょ」
「え?」
「ふぇ??」
謎はすべて解けた。解けてしまった。1967年の段階では、おそらく九頭竜ダムは建設途中だ。すなわちダム湖である九頭竜湖は存在せず、箱ヶ瀬にはまだ集落がある。自分が今いるこの場所も、今はこうやって民家があるがやがてダムの完成に伴って水没し、2024年時点では湖底になっているのだろう。
2024年のあの日、俺は九頭竜湖の湖面に落ちた。しかし、湖面スレスレで、空間座標はそのまま、時間座標だけがずれて1967年に移動した。2024年の湖面は、1967年では集落の上空だ。湖底の高さにある箱ヶ瀬集落(水没前)から見たら、湖面の高さから落ちてきた俺は、おそらく空から落ちてきたように見えるだろう。
それから、行政区分の謎も、これで解決できる。時子さんはここが和泉村といった。1967年ではそうだったのだろう。しかし、その後集落は水没し、和泉村は消滅、大野市に吸収された。2024年時点では、ここはもう大野市だ。
「時子さん、全部わかりました!」
気のせいだろうか、今度は時子さんの顔が若干赤くなっている気がした。
「わかったんだ、すごいね。めっちゃ気になる、教えて!でも、ほぼ初対面のくせに私を名前で呼ぶとは、生意気だね。まあ、生意気な人間は嫌いじゃないよ」
しまった、つい心の声が漏れ出てしまっていた。ほぼ初対面の異性を名前で呼ぶなんて、確かに馴れ馴れしいにもほどがある。違うんです、あなたが好きだったから心の声が漏れ出てしまったんです、心の中では畏れ多くも時子さんと名前で呼ばせていただいていたのですが、まさか声に出す気なんて全くなくて、ただ、あまりにも好きだったものですから、つい声に出て名前を呼んでしまったわけで、なんとも申し訳ございません!!
「いや、なんで君がうろたえてるの!?むしろ、空から降ってきたほぼ初対面の男子からいきなり名前で呼ばれて、こっちが驚いてるわ!普通、二条さん、って呼ぶはずだよ?しかも、さっきからなんか態度おかしいし。どうしたの、着地の時に頭ぶつけておかしくなった?それとも、もともとアホなの?」
「いえ、大変失礼いたしました。これは違うんです。私の頭がおかしくなったというわけではなく、なんというか、その、」
「まあ、いいや。べつに、私も君から名前で呼ばれて悪い気はしないから、名前で呼んでいいよ。あと、その敬語もそろそろいらないんじゃない?私たち、ほぼ同い年だよね?」
「そうですね、僕も高校三年生なので、同い年です」
正確には、1967年の高校三年生と2024年の高校三年生なので57歳差だが、今この空間においては、まあ同い年という認識でいいだろう。
そんなことより、時子さんを名前で呼ぶ権利と敬語なしで話す権利を獲得したのは、非常に重要な成果だ。親密度は他人から知り合いを通り越して、軽い友達まで急上昇である。正直すごく嬉しい。
「それで、話を戻すけど、わかったって言ってたよね。何がわかったの?」
「あ、その話でしたね…いや、その話だったね、続けるね。時子さんは、僕がどこから来たと思う?予想とかしてた?」
「え、私の予想を話すね。君は、グライダーか何かの試験飛行中だった。そして福井の町の方に向かって飛んでいっている途中に、何かのトラブルで墜落、この集落の上空から落下した。さっきから態度がおかしかったり、私の知ってる常識と違う常識を持っているのは、着地の際に君が頭をぶつけておかしくなっちゃったから。どう?納得がいく説明って、このくらいしかないでしょう?」
「残念ながら不正解、しかもめちゃくちゃ的外れだね。僕の頭は至って正常だよ」
「なんでだよ!じゃあ、もったいぶらずに早く正解を教えてよ」
真剣に予想をして話す時子さんが可愛かったので、もう少しこのまま泳がせておこうとも思ったが、とりあえず事実を話さないことには前に進まないだろう。僕は2024年に九頭竜湖に落ちた人間であることを伝えた。
タイムスリップなんて突飛な話、さすがにそう簡単に信じてもらえるわけがないと思っていたが、意外にも時子さんはすんなり納得してくれた。というか、むしろ腑に落ちたといった感じですらあった。常識的に考えたら、タイムスリップなんてあり得るはずもなく、俺の頭がおかしいだけだと思われるはずだ。何か、タイムスリップについて心当たりがあるのだろうか。
「私が信じている伝説があってね。ここ、九頭竜川の上流域には、神様が住んでるの。九頭竜様っていうんだけどね、多分、今回のタイムスリップも、九頭竜様の悪戯だと思う」
「え?九頭竜?何の神様なの?僕をタイムスリップさせるほど強い権限を持ってるの?というか、神様って本当にいたんだ。まあ、自分が実際にタイムスリップしたからには、信じざるを得ないね」
「九頭竜様は、9次元空間を統べる神様。その9つの首は、この世界の基準となる9つの座標軸なんだ」
「え?座標軸?もう少し…わかりやすく説明していただきたく存ずるんだけど…」
「私たちの認識している世界は、4次元だよね。3次元の空間に、1次元の時間を合わせた世界。その座標軸は、x軸、y軸、z軸、t軸…言い換えれば、タテ、ヨコ、高さ、時間。すなわち、緯度、経度、標高、時間だ。ここまでわかる?」
「流石にわかるよ。僕も一応、理系の高校生の端くれだし」
「でも、超弦理論によると、この宇宙は実は10次元で構成されているんだよね。だから、私たちの認識している4つの座標軸の他に6つも座標軸があるってこと」
「なるほど。そんで、九頭竜がそれにどう関係するの?」
「私たちは4次元の世界を生きてるけど、九頭竜様は9次元の世界を生きてる。それも、九頭竜様こそが9次元の世界の座標軸なんだ。九頭竜様の9つの首は、それぞれ9つの座標軸。でも、私たちには、x, y, z軸の首しか見えないから、見えたとしても三頭竜かな。あとの首は、私たちには見えない別の次元にあるから」
「なるほど。じゃあ、九頭竜は、どうやって僕をタイムスリップさせたんだろうか」
「うーん、君の体は立体、つまり3次元だから、xかyかzの首で掴めるよね。そうやって、その首で君の体を掴んだあと、t軸の首で君を飲み込んだんじゃない?そしたら、君はt軸の首の中を滑り落ちる…つまり、t軸座標、時間座標を滑り落ちる。時間座標の中を57年分滑り落ちた君は、今ここにやってきた」
不思議なことではあったが、それしか俺のタイムスリップを説明できる論理はない。それに、時子さんの言うことを聞いていると、突飛な話だとしても、なんだかそれが本当のことであるように思えた。
それから、話を聞いていて思ったが、時子さんはおそらく相当、頭がいい。人の賢さは、話していれば大体わかるものだ。ちなみに、俺の好きな女性は「自分より頭が良いか同等くらいで」「積極的に話してくれて」「自分の話もきちんと聞いてくれて」「相槌を打つだけでなく自分の意見なども話してくれて」「仮に話が合わなくても、会話を継続するために歩み寄ろうとする努力をしてくれる」人だった。ドンピシャじゃねぇか、ちくしょう。じゃあ、もう俺は時子さんのことが好きだな。というか、そんなことはもうすでにわかりきっていたか。
いずれにせよ、俺をタイムスリップさせた九頭竜とかいう神様?あるいは妖怪?は、確かに実在しているようだ。
「すごいね、こんな福井県の山奥の辺鄙な田舎に、九頭竜がいたなんて知らなかった」
「ちょっと、辺鄙な田舎ってなに!?もう一回説明してあげようか。ここは九頭竜川上流域、箱ヶ瀬集落。山と山に挟まれて平野は狭いけど、九頭竜川の恵みを受けて土地は豊か、川の水は美味しく、魚も取れる、素晴らしい土地だよ。それに、ここではみんな、九頭竜様を信じてる。九頭竜様は、私たちが信じることによって生まれる、共同の幻影だから…私たちがいるところにしか、九頭竜様は存在し得ないんだよ」
「そっか。じゃあ、九頭竜様は、ここにしか存在しないんだね」
「うん、ここにしかいない。でも、君の話だと、もうすぐここからもいなくなるね。この集落は、ダムの完成に伴って水没する。ここに住んでいた人々はみんな散り散りになって、おそらく名古屋の都市圏に引っ越してくだろうから。ここはいい土地だけど、出て行けるなら出て行きたいというのもまた本音だと思う。
私、さっき、ここは素晴らしい土地だと言ったけど、半分本当、半分誇張だよ。冬は雪に閉ざされて、家の中から一歩も出られないんだ、今日のようにね。屋根の雪下ろしはしないといけないし、車がないと移動もできたもんじゃない。通ってる大野市の高校まではここから50km以上離れてるけど、公共交通機関なんてないから、ここからは通えない。だから、越前大野の親戚の家から通ってるんだ。それでも遠いけどね。だから、毎日走っても学校にギリギリ間に合うかどうかで」
「そうなんだ。それは…大変だね。僕なんて、家からわずか6.4kmの高校に通ってて、しかも電車は10分に1本のペースで走ってるから、めちゃくちゃギリギリに起きても間に合う。それにもかかわらず、毎日遅刻ばっかりしてるけどね」
「え、何それ、羨ましいな。というか、2024年になっても遅刻ってなくならないんだ。もっとなんかすごい、ぶわーって感じの未来技術でなんとかなってると思ってた」
「技術は確かに進歩したよ。でも、人間はそのままだから」
「ふふ。君、深いこと言ってるようで、それ、意外と浅いからね?」
時子さんが笑った。可愛かった。可愛くて当然だと思った。表面的な可愛さとかではなく、いや、それももちろんあるが、何というか、自らの思考に一本の筋がはっきりと通っていて、それをきちんと尊重できている感じが好きだった。九頭竜とかいう神様はすごいが、真の神様は時子さんの方だろう。この時間が永遠に続いてほしいと、文字通りの意味で、そう本気で思った。
そのあと、時子さんは色々な話をしてくれた。この土地に伝わる、九頭竜に関する伝承はどれも面白かった。「栄光には没落を」「西への悲しい旅」「落武者の唯一の誤算」「歴史は勝者が紡ぐもの」「波の底に」…知らない話ばかりで、ストーリー展開としては典型的な民話だが、時子さんが語るのが上手いので、気づいたら引き込まれてしまった。本当に、この人の才能には際限がないのだろうか。
伝承を聞いていて感じるのは、この土地の豊かさと九頭竜信仰の強さだ。土地と住人とが密接に関わり合って九頭竜という共通の象徴を作り出し、この景色と文化を織りなしているのだろう。確かに時子さんの言う通りで素晴らしい土地だなと、素直に思った。
この後、そう遠くない未来、集落は水没するんだから、紡がれてきた物語もここで終わり。そして私が最後の語り手だね、と時子さんは言った。ただ事実を述べているだけに過ぎなかったが、なぜかたまらなく寂しかった。それでも、時子さんは明るく話す。
「でもね、九頭竜様は、あんまり乗り気じゃなかったの。最近はちょっと人間を助けすぎている。あまり自分が手を出し過ぎてしまうと、人間は竜だけを頼りにするようになり、自分たちの力ではなにもできなくなる。人間のためにもここは静観し、自分の力で解決してもらおうって」
「そんなの、人間にとってはめちゃくちゃ困るじゃん。感染力の強い疫病が流行って、もうすでに十人以上死んでるんだよね?九頭竜も、もったいぶらずに助けてあげなよ」
「その晩、村で緊急会議が招集された。どうしたら九頭竜にその気になってもらって、手助けをいただけるか…長老たちは、三日三晩のあいだ、寝たり起きたりしながら考えた」
「こういう時ってだいたい、お供え物とか財宝とかを差し上げて、誠意を見せたら動いてくれるのが定番だよね。そうはしなかったの?」
「考えてみて。時間軸を自在に動き回れる九頭竜様だよ?文字通り古今東西、すべての財宝・食物・知識・嗜好品を手に入れ放題。そんな九頭竜様がさ、何百年前の話だか知らないけど、そんな貧しくて古い時代のなけなしの捧げ物なんてもらって、喜んだり、感激したり、考えを変えたりする?私だったらそんな捧げ物、興味すら示さないね」
「うーん、確かにその通りだね。なら、もうおしまいじゃない?詰みだよ、詰み。この2024年の現代の最新技術だって、九頭竜にしたら古いおもちゃにしか見えないのに。昔の村なんて、尚更ダメだ。九頭竜の興味を示すものを捧げるなんて、不可能だね。ゲームオーバーだ。大人しく疫病に侵されて、バッドエンドだね」
「ちょっと、話を最後まで聞いてよ!わからないの?村人たちは提供できたんだよ、九頭竜様の気を引くようなものを!なんだと思う?」
「えぇ?現金はただの紙切れ、有価証券類も同じ。黄金も銀もただの鉱物だし、九頭竜様は見飽きてるだろうしね。米、麦、野菜、果物…ダメだな、どれをとっても品質は現代にすら劣る」
「ああ残念、思いつかないんだ。もし君がその時代に生まれてたら、疫病ですぐに死んだだろうね」
「うるさいなぁ。なら正解を教えてよ、というか時子さんは知ってるの?」
「音楽だよ。長老は、自分で作曲した曲を、代々集落に伝わる『青葉の琴』で弾いて、九頭竜様にお聞かせしたんだ。九頭竜様はその見事な作曲のセンスと演奏技術に感動して、直ちに疫病を村から一掃した。おかげで、村は救われたんだ」
「なるほど…音楽なら、確かに自らの手で新しく創造できるから、これまで九頭竜様が聞いたこともないものを見せられるね。似たものを聞いたことがあっても完全に一緒ではないし、弾き手の気分や性格を加えれば、さらに個性が出せる。これなら、全てを自在に操ることのできる九頭竜をも、感心させられるかもしれない。賢い長老だ」
「そう、金銀はどこの集落に捧げられたものでも同じ。紙幣にはデザイン性があるけど、一種類につき一枚ずつもらえればそれで満足。一回食べたことのある食べ物は、もう二回目はいらない。そんな、ある意味で飽き性、ある意味で独占欲がなく謙虚な、知的好奇心だけで生きてる九頭竜様には、芸術しか効かないんだよね」
「その通りだね、すごい!絶対覚えとく!九頭竜には芸術が定石か」
「ふふ、それ、多分今後の人生ではあんまり使わないよ。そして、この事件以降、村には、ある価値観が形作られた」
「へぇ、何だろ。音楽の力は偉大なり、とか?」
「何かを生産するのにしても、お金を稼ぐのにしてもそうだけど、これまでと全く同じことだけをやっているのは所詮、二流に過ぎない。小さなことでもいい、ごくわずかな変化だけどもいいから、何か自分だけの知恵を加えて、前に進めなさい、って。
もちろん、全員が音楽を作る必要はない。でも、ものづくりでも農業でもなんでもいい、自分の一番得意な分野において、何か一つでも新規性のある貢献をしよう。一人一人の貢献は小さくても、その積み重ねこそが文明を創造する。それこそが、名もないその一人一人がこの村に生きた証になるから」
いつの間にか、外が暗くなり始めていた。穏やかに流れる九頭竜川の水に、赤い夕日がきらきらと反射する。山が、川が、雪が、平野が、集落が、夕焼けに照らされていた。素直に美しいと思った。俺は、いつの間にこの風景を忘れてしまったのだろう。もともと知らなかった風景なのに、どこか知っていて、懐かしくて懐かしくて泣きそうになる。
この景色がいつまでも残ればいいのに、と思い、すぐに残酷な現実を思い出した。2024年、ここには…国道158号線とダム湖しかない。何度も言うが、湖の底だ。今のうちに、この景色を目に焼き付けておかなければ。
一人一人の創造的な活動の積み重ねこそが文明になると、時子さんはいった。では、この九頭竜ダムはどうなのだろうか。確かに、水力発電は莫大な量の電力を生み出す。その電気は街に送られ、人々の暮らしを支え、新たな文明の創造を支えるだろう。これこそが文明の営みだ。しかし、その陰で、誰にも見えないところで、今まさに、一つの文明が消えようとしているのだ。和泉村は文字通り消滅するのだ。それでいいのだろうか。
いや、これによって利益を得る人のほうが、損害を受ける人よりもよっぽど多いのだ。だから、これでいいのだろう。とりあえず今のところは、こう結論しておこう。それに、この時代を生きていない俺には口を出す権利なんてない。俺が今できることは、消える前にこの風景を記憶に留めておくことくらいだ。
いや、ちょっと待て。あまりに心に訴えかける風景だったのでつい気を惹かれてしまったが、目に焼き付けるべきは、こんな風景よりも時子さんの方だ。この風景は、2024年になっても日本のどこかには残っているだろう。しかし、時子さんより素晴らしい人に会うことは、俺の一生の中でもう二度とないかもしれない。
「お腹すいたね。なんか、ご飯食べる?夕食とかまだでしょ、作ってあげるよ」
「いえいえ、時子さんに料理を作っていただくなんて、なんと畏れ多い!僕にも何かさせてください!あ、でも、料理の腕に自信はないんですけど…」
「ここでは、冬は雪に閉ざされて家から出られないから、食事だけが唯一の楽しみなんだよ。私、腕に結構自信あるから、食べてみなよ」
「では、お言葉に甘えて、いただきます。ただ、食材の下準備と皿洗いは僕にさせてください。さすがに、野菜を切ったり皮を剥いたりくらいはできるんで」
「え?一番めんどくさい作業じゃん、やってくれるの!?嬉しいなぁ。久しぶりに私以外に食べてくれる人がいることだし、私もちょっと張り切ってみるね」
時子さんの顔が明るく華やいだ。この時俺は人生で初めて、野菜を切れる最低限の技術を教えてくれた家庭科の授業に心の底から感謝した。
共同作業は楽しかった。俺が皿を間違えたり、分量を間違えたり、野菜の種類を間違えたり、とにかく色々あったが、時子さんが笑ってくれたので、なんかもう全部楽しかった。紆余曲折あって完成した料理は、机の上いっぱいに広げられた。美味しかったことは言うまでもない。
できた料理の写真を撮り忘れてしまったが、撮る必要はないかと思った。インスタやX(旧Twitter)に投稿する必要もない。投稿するのは「いま」を誰かと共有するためだが、俺はこの瞬間を時子さんと共有できたら、他に何もいらない。本当に大切なものは、一番大切な人とだけ共有できたら、それでいい。2024年にいる家族とか、友達とか、そういった存在は全て無限遠に吹き飛ばされ、俺の前にはただ時子さんだけがいた。
食べたことのない、名前も知らない、魚を使った何かの郷土料理が特に美味しかったので、時子さんに聞くと、それは郷土料理を組み合わせて作った私の創作品だといった。もう一回食べたくて仕方がなかったが、レシピが難解すぎて習得は諦めた。
「ちなみに、さっきの民話の話だけど。長老の琴に感激した九頭竜は、直ちに疫病を村から一掃したんだよね?でも、どうやって一掃したの?神力を使って病原菌を全滅させた?でも、九頭竜の能力は9次元以内の座標移動だけだったと思うんだけれど」
「ふぇ?そんなこと気にしてたの?多分、当時より進んだ時代に行って、消毒液なり抗菌薬なり何なりを取ってきたんでしょ。私の時代にだって流石に消毒液くらいあるし、病原体の特定さえできれば薬が使える。君の時代なら当然さらに進んだ技術があるだろうね。それに、九頭竜様ならもっと先の時代にすら行けるから。なんとでもなる」
「え?そんな感じなんだ…それって、結局、九頭竜の能力で人間を助けたというより、人間が未来の人間の能力を前借りしただけのような。九頭竜自体の能力は、特にないのかな」
「九頭竜様には、座標移動以外に特に能力はないよ。それでいいんだ。人間の文明は九頭竜が作るものじゃない、人間が作るものだから。九頭竜様はそれをあくまでも優しく眺めて、見守って、楽しんでるだけ。気分が乗って、面白そうだと思ったら、たまに気まぐれで手を貸したり貸さなかったりするだけ。結局、妖怪や神様の存在は、人間の枠を出ることはないんだよ」
「そっか。じゃあ、俺も受験とかで、神頼みなんてしてられないな。自分の手と頭を動かして勉強して、紆余曲折の末、試行錯誤の果てに文明になんらかの新しい貢献をもたらして、そこで初めて九頭竜様に相手にしていただけるんだね。何も成し遂げないうちからいきなり神に頼ってる奴なんて、」
「論外だろうね。お賽銭、なんて問題じゃない。千円出そうが、一万円出そうが、九頭竜様にとってはただの紙切れ、当然だ。だって、九頭竜様はお金を使えないし、お金を使って手に入れたいものなんてないから。九頭竜様を動かすのは未知への探究心、それだけ。九頭竜様に注目して欲しかったら、何か新しいものを提供できる村人にならないと」
「わかった。俺、頑張るよ。九頭竜様に、ちょっとでも興味を持ってもらえるような、見守る価値が少しでもあると思われるような、そんな人間になれるように頑張る」
「よくぞ言ってくれた。期待してるよ。人間の文明は、すなわち君の手だ」
そう言って、時子さんは俺の手を握った。時子さんの両手で、俺の両手を優しく包み込むようにして、握った。たった今この瞬間までは、時子さんの話に感化された影響によって、文明に何かしらの足跡を残すようなひとかどの人物になるんだという決意と覚悟に燃えていたが、そんな崇高な理想は瞬間にして途端に吹き飛んだ。
そしてその代わりに、肌越しに伝わる時子さんの体温が俺の全てを支配した。もうそれ以外はどうでもいい。それ以外は考えられない。ちょっと黙っといてくれ、いま全ての神経細胞は手のひらに集中している。それ以外の情報を処理できる脳の空き容量など、一残っていない。え、九頭竜?そんなもの知ったこっちゃない。人間の文明?それがどれだけ素晴らしいのかは知らないが、時子さんの前では無に等しいに違いない。
しかし、誠に遺憾なことに、握ってからわずか3秒で時子さんは俺の手を離してしまった。何秒でも、いや何時間でも、というか何日でも握っていて欲しかったな。3秒だけなら最初からそう言っていてくれれば、もっと全神経を集中したのに。
まあ、手を離してくれたおかげで会話への集中力が戻ったから…よしとしよう。
「それから、さっきの話でもう一つ疑問に思ったのが、」
「また?疑問が多いね。でも、質問の多い人間は嫌いじゃないよ」
「九頭竜様を納得させるために長老が弾いた『青葉の琴』、あれは現存するの?あるとしたら、この地域の資料館とか?あるいは、重要文化財か国宝か何かになって、福井の街の方の博物館?」
「いや?まさか、そんな大きな規模じゃないよ。すぐそこにある」
「え!?集落の中にあるんだ、すごいね。どのあたりにあるの?公民館か、公会堂か、村役場か、寄合所かな」
「だから、すぐそこだよ。君の後ろの黒い棚の二段目」
「え!?この家!?ちなみに、『青葉の琴』は今も楽器として現役なの?」
「もちろん。楽器なんて、弾けて初めて意味があるからね。弾けない、ただ飾ってるだけの楽器を置いてるくらいなら、壊して薪燃料にした方がまだマシだ」
「ということは、時子さんも、琴…弾けるの?」
「まあ、大した腕前じゃないけど、一応、最低限はね。弾けないことはない、といった程度だけど。この青葉の琴は、弾くのが難しすぎる。初心者が使うやつじゃないよ。正直、これは最高難度級だと思う。他の琴で弾いたことがないから、よくわかんないけど」
「聴きたいな。青葉の琴の音色は聴きたいし、時子さんの演奏という意味でも聴きたい」
「だーめ。まだ、人前に見せられるような腕前じゃないんだから。私がどんなに下手くそだったとしても聴いてくれる、っていう絶対的信頼がないと。君には、まだちょっと早いかな。まあ、また気が向いたら聴かせてあげるね、私の下手くそな演奏」
「いや、どんなに下手でも聴くよ、最後まで聴きとおすよ!だって俺は時子さんが、」
「なあに?君は私が、どうしたの?」
ここまできても、好き、というたった二文字の度胸の度胸がない自分が、ひどく情けなかった。しかし、出ないのなら仕方がない。
「時子さんが、神のように尊敬できる存在だから。時子さんのことなら、何がきても受け入れる自信があるよ」
「ふぇ?大袈裟だなあ、私はそんな大した人間じゃないよ。ただ、毎日を必死に生きてるだけ。でも、君から尊敬されるのは嬉しいかな」
「まあ、また気が向いたら、琴、聴かせてね」
食後は、二人で食器を洗った。窓の外にはただひたすらの闇が広がってる。気温は氷点下だろう、雪はますます積もっていた。月明かりは静かに雪に降り注いで反射し、集落の全体を大いなる静寂が包む。この家の中という外界から隔絶された小さな世界―雪と氷と闇と静寂の外界に対して隔てられた、時子さんと俺だけによって構成される世界、ここだけは静寂の侵食を受けずに、煌々と明かりを灯し続けた。
時子さんはにわかに立ち上がって、大きな白い棚の4段目の茶色い袋に入っている、高級そうな豆を取ってきた。コーヒー好きなんだ、と聞くと、豆には割とうるさいほうだよ、と返ってきた。そういえば、最初に出会った時も、安物の豆といってコーヒーを淹れてくれた。というか、出会ってからまだ半日しか経っていないのか。もっとたくさんの時間を過ごした気になっていた。
いつもその豆を使っているのか、と聞くと、この豆は高いから気分がいい時だけ使う、いつもは昼に君が飲んだあの安い豆を使っているよ、と答えてくれた。貴重な豆なんだから一人で大事に飲んでるし、他人にはあんまり飲ませないんだけど、特別に君に飲ませてあげるんだよ、感謝しな、というありがたいお言葉も賜った。そして時子さんは、大事そうに豆を取りだし、一つ一つの動作を丁寧になぞるようにして、ゆっくりとコーヒーを抽出してくれた。
時子さんが淹れてくれた高級豆のコーヒーは、なんだか高貴で上品な香りがして、美しい味だった。最初の安い豆のコーヒーはこれとは違い、優しい香りで安心できる味だったので、あれはあれでありではあるのだが。
時子さんは、どう、香りがめちゃめちゃいいでしょ、やっぱ高級なだけあるよねー、と自慢げに語った。確かに違いはわかるが、あっちの安物にはあっちの良さがある気もする。というか、時子さんが自ら淹れて飲ませてくれる時点でこれ以上なく嬉しいから、味も香りも正直そんなに問題ではない。
だいたい、根本的な問題だが、そもそも俺はコーヒーにあまり詳しくない。とりあえず、気高くて澄んだ味がした、さすが高級豆だね、ありがとう、と伝えておくと、時子さんは満足そうだった。違いがわかってくれて嬉しい、飲んでもらって正解だった、といってくれて俺も嬉しかった。
そして、時子さんはコーヒーに関する持論を語ってくれた。曰く、砂糖やシロップを入れるのは外道。コーヒーフレッシュを入れるのは腐れ外道。微糖なぞ論外。カプチーノだのカフェラテだの、あんなものはコーヒーではない。甘いコーヒーというものは、ただのコーヒーっぽい清涼飲料水だから、あんなまがい物に騙されてはいけない。
せっかく豆の香りを楽しみ、深い味を底まで味わい尽くす飲み物なのに、わざわざ自らノイズを加えようとするなんて、どうかしている。甘いものしか飲めないお子様は、一生ジュースだけ飲んどけ。ブラックこそ至高。コーヒーといえばブラックコーヒーで、それ以外にはあり得るはずがないし、あり得てはいけない、と。
なかなか急進的な過激派思想だが、時子さんが言うんだったら、と、俺も何となく同意しかけてしまった。危ない危ない。
せっかく高級なコーヒーもあることだし、眠くなるまでは寝ないでお話ししていようか、と時子さんはいった。俺は全面的に同意した。
時子さんはまた立ち上がって、大きな黒い棚の6段目から古い錆びた剣を取り出した。そして机の上にゆっくりと置いた。かなり昔のものだろうが、一体いつのものかはわからない。丁寧に磨かれ、手入れされてはいるが、いかんせん古すぎるように見える。見ただけでは何の剣かはわからなかった。
時子さんは、この剣については触れないまま語り始めた。
「ねえ、平家物語を知ってる?貴族政権として栄華を極めた平氏の、戦いと没落の物語」
「うん、流石に知ってるよ。僕も一応、理系の中では文系側に属する高校生の端くれだからね」
「なら、話は早いね。この物語は、平家の都落ちから始まる」
***
京の都の六波羅の平家の屋敷では、東から木曾義仲率いる源氏の大軍が侵攻してくるのを受けて、緊急会議が行われていた。
「我が夫・清盛さまが亡くなってからというものの、平家の力はすっかり落ちてしまいました。一時は朝廷の親戚として、日本全国を所有していると言えるほどの力があったのですが。今となっては、もう遠い昔のことです」
「母上!それでは、戦いもせずに、この京を…捨てるというのですか?京を抑えている者がこの国の頂点です。それを…わざわざ捨てて、抵抗もせずに源氏に明け渡す?」
「宗盛、仕方がないのです。我々がここに留まれば、おそらく乱入してきた源氏軍と市街戦になりましょう。帝のいらっしゃる京で、血を流し、民を殺すわけには」
「しかし!我々は武士です!その武士が、戦わずして逃げるのは、屈辱の極み!」
「宗盛、我々は、武士であると同時に為政者なのです。私たち平家は、大いに権勢をふるい、帝を取り込み、民を仕えさせてきました。そして今、その支配は綻んでいる。ならば、敗者としての現実を受け入れ、最後を汚さずに、この都を去りましょう」
父・清盛が亡くなってからというものの、これまで平家に逆らえずにいた人々が、全国各地で一斉に反旗を翻してゆく。伊豆に流されていた源頼朝とその弟・源義経や、木曽の国の木曾義仲(源義仲)もその一部だった。彼らは次第に平家をも揺るがす大勢力へと成長する。そして、木曾義仲は今や大量の武士を集めて、ここ、京の都に侵攻してきた。
ここまで平氏は、天皇家と血縁関係を結ぶという貴族的政策によって権力を維持してきた。そのため和歌や漢詩などの貴族文化は得意だが、直接の武力によるぶつかり合いは好まない。ことに、敵が未開の地・関東や内陸部の山奥の野蛮な荒武者たちとあっては、京都で和歌を嗜んできた平家の人々が戦えるわけがなかった。
「そんな…全てを捨てて、逃げると…?」
「民のためを思い、潔く去れば、またどこかで再興の芽も出ましょう。しかし、ここで醜く抵抗して都を戦場にすれば、天下の恨みはつのり、挽回するべき時にもできません」
「現実を…受け入れる…」
「敗者にも、負け方というものがあります。綺麗な負けは、汚い勝ちよりも正しいはず。仮に今、我々が権力を失おうとも、我々が正しかったことは、いつかはきっと、きっと、歴史が証明してくれると信じています」
「わかりました、母上…私とて、京を戦禍に晒したくない。都の支配を維持したいのは我々平家の都合、されど、それはきっと民にとっては不要なもの。潔く去りましょう」
「よくぞ言ってくれました。それでこそ平家の棟梁ですね。期待していますよ、平家の未来は、すなわちあなたの手です」
そう言って、母・時子は、息子・宗盛の手を握った。清盛が亡くなって以降の平家の棟梁は、清盛の息子である宗盛が務めていた。彼の決断が平家の決断となる。ちなみに、時子(平時子)は二条大宮の娘で、清盛の妻かつ宗盛の母である。時子は優しくも毅然とした態度で、常に平家一門を見守り、支えていた。
こうして都落ちした平家は、山陽道を西へ西へと逃げていった。京都で栄華を誇っていた頃とは比べようもない悲惨さであった。移動手段が牛車などに限られるため、財産も食料もわずかしか持っていけない。主要財産である京都の屋敷は、もう捨ててしまった。それでも、平家の人々は、いつか京に帰る日を夢見て、ただ西へ歩いた。
普段はほとんど歩かない貴族も、動かない足をただ動かして歩いた。食べたこともないような下賤のものの食事も、生きるために食べた。そして、こんな状況でも彼らは貴族の心を忘れなかった。あるものは逃避行中でも笛を持ち、あるものは和歌を詠んだ。たとえ生活を庶民の水準に落としても、心だけは貴族を保っていた。
こんな状況でも明るく振る舞う平家の母・平時子は、一族に光を与えた。
「偉大な平家の物語に、苦難はつきものです。このくらいは苦労しないと、ストーリーに起伏が生まれなくてつまらないですからね。さあ、ここからですよ、面白いのは。
苦境に立たされた私たちが、いかにして偉大なる復活を遂げるのか?西に落ち延びる平家、運命やいかに?さて、この物語はどこへ向かうのでしょうか?再興か、あるいは滅亡か。続きが気になりますね!
そう、この物語の続きを描くのは私たち自身です!後世の人々に読まれても恥ずかしくないような軌跡を残せるように、堂々と生きていきましょう!」
宗盛も、棟梁として統率をとり、離れてゆきそうになった一族の心を繋ぎ止めた。
「我々のような、生まれながらに最強の立場にあった平家にとって、このくらいはちょうどいいハンデだな!軽く乗り越えて、源氏の奴らに目にもの見せてくれようや!」
そして、平氏には希望があった。それは、第81代天皇・安徳帝の存在である。安徳帝は清盛の娘・徳子と第80代・高倉帝の間に生まれ、わずか生後1ヶ月で即位。徳子の子ということは清盛と時子の孫ということであり、つまり平家の身内である。もちろん、安徳帝も平家の一員としてこの西への逃避行に加わっている。
平氏は京を失っても、帝を失ってはいないのだ。この国の主である帝が平家とともに逃げているということは、平家の正当性を保証してくれる。この幼い帝の存在こそが、平家の存在自体を支えているということだ。
さて、西に逃れた平家は、四国の屋島に仮の都を構え、そこに安徳帝の御所を作り、体制を立て直すことにした。幸いにも、源氏が仲間割れしてくれたおかげで、僅かな間、数年かだけ安息を取り戻すことができた。その時間を無駄にしないように、平家は西の国での勢力回復に勢力を注ぐことになる。
「皆さん、諦める必要はありません。私たちには、安徳帝がついていますし、三種の神器もある。だから、正義は私たちの方です。さらに、ここ四国は平家の地盤。ゆっくり休んで、いつか京都に舞い戻るための力を蓄えましょう。私たちに待っている未来は、きっと明るい。心配しないで」
「諸君、我々はきっと、きっと源氏から都を奪回できる!今は我慢の時だ。しかし、ここを耐え切れば、必ず何かしらの希望が見えるだろう!今こそ、一族の心を一つにして乗り切ろう!我々は、仲間割れで殺し合っている源氏の連中とは違うぞ!」
幼い安徳天皇、そしてその祖母であり清盛の妻だった時子、そして時子と清盛の息子で平家の現棟梁である宗盛、彼らを中心にして平家の人々は四国での新生活に励んだ。幸い、西国には源氏の介入がなく、平家を慕っている人々も多くいたので、平家は順調に力を取り戻してゆく。屋島の仮の都の生活にも慣れ、一族の人々の顔にも笑顔が徐々に戻ってきた。心に余裕ができたことの証拠だ。
屋島は京都から見るととんでもない田舎だが、住めば都、意外と暮らしやすい土地だった。盆地のため夏は暑く冬は寒い京都とは異なり、屋島は瀬戸内海沿岸気候に属するため、一年を通して気温変化が緩やかだ。穏やかな瀬戸内海からは多くの海の幸が得られ、平野部では作物もできる。夏は海で泳ぐことができ、冬も割と暖かい。
時子も宗盛も、流石にもう海ではしゃぐ年齢ではなかったが、安徳帝を連れて気晴らしに砂浜で寝そべったり、海岸を散歩したりした。平家一門はこの前にも神戸に住んでいたことがあったので、海には慣れ親しんでいた。安徳帝も、皆が泳ぎの練習をするのを真似て泳ごうとして、慌てて引き止められた。まあ結局この2年間で、安徳帝も時子も泳げるようになってしまったのだが。
平家にとってこの2年間は、意外と楽しい日々だったのかもしれない。長い夏休みのようなものだ。もっとも、京都奪還という大きな宿題はあったが。
そして、天皇がいるところが都だという考えに従うと、この2年程度、日本の都は京都ではなく屋島だったことになる。もちろん正式に遷都したわけではないが、平家の住むところ、すなわち安徳帝の住むところ、すなわち都である。文字通り、「住めば都」だ。
平家と安徳帝がのんびり西国田舎ライフを送っているころ、本物の都、天皇のいない京都は大混乱に陥っていた。源氏の仲間割れに都が巻き込まれたのである。
まず、京都には平氏を追い出した木曽源氏の木曾義仲(源義仲)が居座っていた。しかし、彼はあまりにも都の作法を知らない野生人であるため、京都の人々や貴族の反感を買ってしまった。平家統治時代の方が良かったという人が多い始末。そこで、源頼朝は木曾義仲に期待するのをやめ、義仲を殺そうとし、討伐軍を派遣した。
義仲は、自分が京都の作法に不案内であることにすら気が付かず、京都の人々の反感を買っていることも知らないまま、突如として、さっきまでの味方、打倒・平家で一致していた頼朝に命を狙われたわけである。
もちろん義仲にしたら酷い話だった。ここにきて、義仲はようやく頼朝の異常性に気がついた。しかし、気づいた時にはすでに遅かった。源頼朝の名の下に集まり、後白河法皇の支持も受けた義仲討伐軍は、あっという間に義仲を討ち取ってしまった。木曽の田舎から出てきて勢いよく平家を打ち破り、華々しく上京した豪傑にしては、あまりにもあっけない最期だった。1184年の1月の、雪が舞う日のことだった。
その間平家は源氏同士の争いを高みの見物していたが、もちろん、彼らはただ屋島で2年間遊んでいただけではない。この期間に四国の屋島を起点として勢力を立て直すことに成功し、再び京都を取り戻すための準備を整えていた。京都奪還計画も順調に進み、兵力の準備や計画も完了、あとは最終調整を残すのみとなっていた。本土への再上陸をし、京都へ帰るという2年来の念願は、現実になりつつある。
幸い、西国は平家の地盤だったから、参戦してくれる味方もよく集まる。なにしろ、こっちには帝と三種の神器があるのだ。本来は、平家が官軍であるはずなのだ。正当性は平家にあると、時子も宗盛も信じていた。
そして、1184年の1月、木曾義仲死去。源氏が源氏によって倒された。これにより、京都の源氏軍は大幅に弱体化する。これを受けて、ついに平家が反転攻勢に出た。宗盛率いる平家軍は、四国の屋島を船で出発、海を渡って本土に再上陸したのだ。上陸地点は大輪田泊、現在の神戸市兵庫区であった。
九条兼定の日記である「玉葉」によると、平家の軍勢は四国、紀伊から続々到着。九州の軍勢は未だに到着しないが、それでもその数は2万騎ほどにもなるという。2月には全ての軍勢を集合させて京都奪回の軍を起こし、安徳天皇を御所にお連れすることができるはずだ。全てがうまくいっていた。
「ここから、平家の新しい時代が始まる!全軍、上陸!!」
宗盛は興奮した声で上陸を命令し、久しぶりの本土の土を踏みしめた。住み慣れた屋島を離れたのは寂しかったが、京都に帰れることへの期待と興奮がそれを上回った。
「皆さん、今まで本当にありがとう。みんなのおかげで、都落ちからここまで立ち直り、ついに都を奪還できそうです。しかし、まだ戦は終わっていません。帝を御所の玉座にお座らせ申し上げるまでは気を抜かず、みんなで無事に京都に帰りましょう!私は今からでも、久しぶりの帰京が楽しみです」
時子も一族の前でにこやかに話した。平家一門には戦勝・祝賀ムードが広がっていた。将兵ともに、本土奪還の第一歩に興奮しているようだった。
その頃、京都を支配しているはずの源氏は、ほとんど壊滅状態であった。つい先月まで京都を支配していた木曾義仲の軍は、頼朝の命令で義経に滅ぼされ、戦闘できる状態にない。それに代わって義経が京都を支配したが、義仲と戦ったばかりであるため損害も大きく、京都より西の地域はもともと平家の地盤のため兵も思うように集まらない。
玉葉の2月4日の記述によると、源氏の軍勢はわずかに一、二千騎であったという。平家の2万騎の10分の1でしかない。源氏同士で仲間割れしていたのだから当然である。
さらに、源氏の総大将の頼朝は鎌倉に引きこもっていて、そもそも戦い自体に来ていない。大将不在、兵力10分の1、今や源氏軍は満身創痍だ。平家が京都を奪還しに来れば、源氏はあっという間に負けるはずであった。そこで、源氏は後白河法皇を通じて平氏に休戦を提案した。これ以上の犠牲を避けるため、といった名目である。
この突然の後白河法皇による休戦命令に、平時子は異議を唱えた。
「なんとまあ、あまりにも自分勝手な話ではありませんか。そもそも、最初に京都を侵攻して戦争を始め、平家を都落ちさせたのは源氏ですよね?それも、平家は京都を戦場にしないため、自ら退きました。
その後、源氏は京都を支配しましたね。しかし、源氏は勝手に仲間割れを起こし、京都を戦火に巻き込んだ上で自らも壊滅状態になった。そして、今度は内戦のせいで劣勢になったから、休戦してくれ、と平家に持ちかける。全く意味がわかりません」
他の平家の将兵も、この休戦命令には少なからず思うところがあるようだった。
―は?身勝手もここまでくると、むしろ清々しいのだが?少なくとも、源氏が勝手に劣勢になったことに関しては、自業自得、以外に形容のしようがない。そもそも、休戦の提案や和睦交渉など、圧倒的に劣勢な源氏側がすることではない。
いずれにせよ、こんな身勝手な休戦に乗ってあげる必要は微塵もない。平氏はこんな休戦の提案は却下し、2万騎を率いて安徳天皇を連れ、わずか数千の源氏軍を蹴散らして正々堂々と上洛して当然だし、咎められる謂れはないのだ。
とはいえ、平家は上品なお貴族様の集まりで、宗盛はまっすぐで純粋なお坊ちゃんだ。
「この休戦が後白河法皇の宣旨である以上、無視するわけにもいかないだろう。我々には安徳帝がいるが、今のところ、後白河法皇がこの国で最も権威の高い人である。仕方ない、ここは、後白河法皇の顔を立てて、休戦してあげても良いのではないか」
宗盛の寛大さにより、平家は仕方なく休戦してあげることに決めた。神戸に上陸した平家軍2万は、武装解除し、いったん休むことにした。2月6日のことであった。
さて。。。源義経率いる源氏軍は、翌2月7日、突如として、須磨一ノ谷(現在の神戸市須磨区)で武装解除していた平家軍を襲った。圧倒的に優勢で2万騎を数えた平家軍といえど、何の武装もしていないまま襲われては、まともに抵抗などできたものではない。平家の武将は、次々に討たれていった。後白河法皇の休戦命令は、卑怯な策略だった。
平家軍は組織的な戦闘もできないまま、船に乗って散り散りに瀬戸内海へ逃げていく。弓を持つものは矢を持たず、矢を持つものは弓を持たず、平家軍の慌てぶりはひどいものだった。源氏の狙っているのは三種の神器と安徳帝なので、宗盛はなんとか安徳帝は逃がそうと、混乱の最中、大輪田泊からなんとか船で逃げた。
しかし逃げ遅れた者も多く、多くの平家の武将が命を落とし、あるいは源氏に捕えられた。源氏軍は神戸を占領し、平家軍は壊滅し、合戦は2時間ほどで終わった。これが「一ノ谷の戦い」である。
この戦いで平重衡は捕虜となった。そこで源氏軍は、重衡と三種の神器の交換を提案する。安徳帝の持つ三種の神器を差し出せば代わりに重衡を返してやるぞ、ということだ。
時子は、息子である重衡が大切だったので、交換に応じようとした。
「重衡が、重衡が…かわいそうに、敵に捕えられて…宗盛、交換してやりませんか?」
「母上、交換には応じられません。源氏は、勝手に後鳥羽天皇を即位させました。もちろん、安徳帝は譲位なさってないので後鳥羽天皇に正当性はありませんが、三種の神器を渡してしまえば、あちらが天皇になり、安徳帝の正当性が失われます。それすなわち、平家の正当性が失われるということ。断じて容認できません」
「でも…三種の神器なんて、所詮はモノに過ぎません!正当性なんて、知らない!可愛い我が子、重衡の方がよっぽど大事です!」
「母上、冷静になってください。思い出してください、源氏がこの戦いで何をしたかを」 「嘘の休戦命令を出させて…奇襲してきた…」
「そうです、それが源氏のやり方です。では、尋ねます。仮に、交換に応じて三種の神器を渡したとして、源氏が約束を守って、無事に重衡が帰ってくる保証はどこにありますか?源氏を信用できる根拠は何ですか?」
「……………………………」
「信用してはいけません。三種の神器を渡してしまうと、もう源氏のペースに巻き込まれることになります。正当性を失い、こっちには兵も集まらなくなる。すなわち一族滅亡」
「しかし…では、重衡をあきらめろと!?」
「はい。それが、負け戦というものです」
「平家は、負けてなんかいない!いや、あんな卑怯なやり方で襲われて負けたと言われても、到底納得などできない!どう考えても源氏のが悪い!今は勝って調子よく振る舞えても、そのうち源氏の卑怯さと悪名は天下に轟き、後世の民に批判され続けるであろう!」
「されません。おそらく、源氏は勝者として、後世でも賞賛されるでしょう」
「どうしてだ!?」
時子の目には涙が滲んでいた。重衡は話していて辛そうだった。
「歴史は、勝者が紡ぐものだからです。勝者は源氏です。勝者に都合がいいように、歴史は書き換えられるでしょう。今までの歴史もそうであったように」
「そんな…」
「源義経は英雄となり、平家は逆賊です。一の谷では、正々堂々戦った上で源氏が勝利したことになるでしょう。兵力も書き換えられるかもしれません。あるいは、もっと突飛な描かれ方で、義経が英雄かのように印象操作されるかも」
「なんてひどい!そんなこと、許されるはずが…」
「こうなるのを防ぐ唯一の方法は、我々が勝者側になることです。何度でも諦めずにまた力をつけ直して、今度こそ完全に源氏を打ち負かす。そして、京都を取り戻す。これしか道はありません。少なくとも、我々が歴史の敗者である限り、どういう描かれ方をされても、文句は言えない」
「そうですね…勝つしかないんでよね」
「そして!勝つためには、どうしても、三種の神器を失うわけにはいかないんです。安徳帝の正当性が失われれば、我が軍に兵は集まらず、求心力も低下する。源氏との交渉でももう対等ではいられなくなり、いよいよ本当に逆賊になってしまいます。源氏には後白河法皇が、平家には安徳帝と三種の神器がついています。この平衡状態を自ら崩してしまえば、万に一つも平家の勝利は望めなくなるでしょう。重衡一人だけのために、三種の神器を、平家全体の運命を渡すわけにはいかないのです」
「わかり…ました…重衡は諦めます」
時子は大粒の涙をボロボロとこぼして、唇を噛んでそういった。宗盛はそれを慰めた。
「母上、何も重衡が死ぬと決まったわけではないんですよ。捕虜なので、源氏もすぐには殺さないでしょう。勝てば、あるいは取り返せるかもしれません」
「そう…ですね…信じて勝ちましょう…」
時子の頬はやつれ、明らかに憔悴していた。まるで、このわずかな時間の間に何年分も老けてしまったかのようだった。そして、この日以来時子の顔から笑顔は消えて、もう二度と戻ってくることはなかった。時子と重衡も、再会を果たすことはなかった(筆者注・平家滅亡後の1185年、重衡は留置されていた鎌倉から南都に送られ、木津川の河原にて斬首された。享年27)
平家物語では義経が崖から駆け降りて奇襲する「鵯越の逆落とし」が勇ましく描かれ、そのおかげで源氏は勝利した、とあり、その影響で逆落としは現在でも有名であるが、もちろん全くの作り話である。
玉葉には、義経が一の谷を攻めたという記述はあるものの、義経の逆落としについては一言も触れていない。なぜか。初めから、そんなものは存在しなかったからである。後世のエンタメである平家物語とは違って、玉葉は九条兼定の日記だから、創作をして虚構を付け加える必要がないのだ。
エンタメ大作「平家物語」によると、崖を駆け降りたのは義経とその親衛隊わずか70騎ほどだとあるが、いくら崖から駆け降りたところで、そんなに少数では2万騎の平家軍が動じるわけがない。むしろ、大将自らわずかな軍勢だけ率いて平家軍のど真ん中に包囲されにきたようなものであり、自殺行為だ。その程度の無謀な奇襲で流れを変えられるほど、戦争は甘くはない。
また同じく平家物語によると、一ノ谷の戦いにおける源氏の兵力は7万4千騎とあるが、そんなわけはないだろう。内戦直後であり、平家の地盤というかほぼ本拠地の神戸であり、そんな状況で源氏が7万騎も集められるわけがない。集まったところで、食料補給も持たない。実際には、玉葉の記述による千騎すら多いと感じるほどだ。
平家物語は、いくら創作の辻褄を合わせるために盛らなくてはならなかったにしても、少し盛りすぎではないか。まあ、エンタメ大作だから仕方のないことだ。面白さが最重要であり、正確性は二の次だ。
宗盛のいうとおり、歴史は勝者が紡ぐものだ。一ノ谷の戦いの過程は大いに書き換わり、それは源氏と北条の世・鎌倉時代になってから、平家物語という形で一般に広まった。繰り返すが、平家物語は平家滅亡からしばらく経ってから描かれた軍記物語で、勝者によるプロパガンダとまでは言わないが結果としてそうなっており、エンタメ色の強いものだ。
合戦シーンが激戦でないと読み応えがないから、本来は嘘の休戦と卑怯な奇襲によってあっけなく終わったはずの一ノ谷の戦いに脚色を加え、兵力を大幅に盛って、激しい戦いだったことにして、尚且つ源氏が格好良くなるように描いたのだろう。歴史では、そして軍記物語では、よくあることだ。
さて、一ノ谷の戦いによって大敗を喫し、瀬戸内海に追い出され、屋島になんとか帰還した平家の状態は悲惨なものだった。京都を取り戻すのは目前だったはずが、あっというまに壊滅状態。三種の神器こそ失わなかったものの、多くの将を失い、一族の心もバラバラになりつつある。
時子も、流石にもう明るく振る舞える状態にはなかった。時子の顔からはすでに笑みが消えており、そして平家一門の元気は、燃え尽きた焚き火のように消えた。
平家は壊滅したし、源氏による京都の支配も維持された。源氏も、これで満足して退いていくのではないか、と希望的観測をする者もいた。しかし、現実はそう甘くはなかった。源頼朝の命令を受けた源義経は徹底的に、執拗に平家を追撃する姿勢をとった。
義経は続いて、四国の屋島の平家の拠点を襲撃して撃破し、平家をさらに西へ追い落とす。平家はどんどん西へ西へと逃げ、なすすべもなく劣勢へと立たされる。
頼朝は、なぜここまで徹底的に平家を追い詰める政策をとったのだろうか。平家と安徳帝から何としてでも三種の神器を奪還して、源氏が新しく立てた後鳥羽帝に位を譲らせたかったのか。あるいは、頼朝の個人的な恨みから、平氏を完全に滅ぼし、皆殺しにしないと気が済まなかったのか。平時子は話す。
「そもそも。頼朝が平家を憎んでいること自体、筋違いなのです。その昔、頼朝の父・源義朝は、褒美が少ないという個人的な理由で平清盛を恨み、戦争を起こしました。そして何の関係もなかった二条天皇を幽閉し、京都の街を戦場にしました。ありえないことです。しかし、面倒見が良くて優しい素敵な私の夫・清盛の方が人望があって世渡りが上手だったので、義朝のやつは無事、戦いに負け、処刑されましたね。当然のことです。
さらに、義朝の長男・義平は清盛さまを恨み、清盛さまを暗殺しようと企てました。ありえません。もちろん、父と同様に処刑されました。これも当然のことです。
そして、後に恨みを残すのを防ぐため、義朝の三男・源頼朝も、父兄と同様に処刑されるはずでした。世の習いによる当然の処置ですね。
しかし、頼朝はまだ幼いから殺しては可哀想だという声があったので、優しすぎた清盛さまはその助命嘆願を聞き入れてしまい、頼朝を生かしてしまったのです。なんと寛大で慈悲深いことでしょうか。その結果、頼朝は伊豆に送られ、僧侶となり、静かに一生を暮らす権利を与えられたのです。もはや清盛さまに感謝すべきでしょう。
なのに、なぜか頼朝は清盛さまに対して恨みを抱き、反旗を翻して平家を討伐しようとして、この事態を招いたのです。全く意味がわかりません。父と兄が平家に殺されたのを恨んでいるのでしょうか。しかし、義朝と義平に関しては、彼らが勝手に始めた戦で彼らが勝手に負けて死んだのだから、自業自得としか言えず、それを恨んでいい道理など何一つないはずですが…」
まあ、筋違いであったとしても、頼朝が平家を恨んでいることに変わりはない。劣勢に立たされた平家は、その後も挽回することは叶わず、いよいよ本州の西の端・山口県の壇ノ浦にまで追い詰められ、最後の戦いをすることになった。海戦となれば、瀬戸内海近辺に住んでいて、海と船に慣れている平家に有利である。宗盛も最後の大逆転を夢見て、腹を括って一発勝負の賭けに出た。時子は、幼い孫である安徳帝を抱き抱えて、不安そうに船に乗っていた。
合戦は、午前は潮の流れのおかげで、平家に有利に進んだ。しかし、午後になって潮の流れが変わり、平家側の水軍に裏切り者も出たことで、一気に形勢が源氏側へと傾いた。日が暮れる頃には、平氏の敗北は決定的なものになっていた。何とか、安徳帝のいる御座船だけは守り切ろうとしたが、源氏はその船を見抜き、ついに攻めてきた。
宗盛が悲しい顔で時子に告げた。
「母上、申し訳ありません。これ以上は防げないようです。歴史の勝者になりたかったですが、どうやら、天は私に味方しなかったようですね。大人しく敗者の運命を受け入れ、後の世で悪役として描かれることにします」
「仕方がないですね。宗盛、ご苦労様でした。きっと、男は皆殺しでしょう。逃げ延びることはできないかもしれませんが…精一杯、足掻いてください。お前たちがこのような最期を迎えることになって、母は悔しく思います」
「あれ…母上は、どこへ?男は皆殺しですが、女は殺されないのが世の習い。三種の神器を持って降伏しに行けば、母上は許されるはずです。生きて京都に帰ったら、どうか私の亡骸を丁重に弔ってください…」
「残念ながら、それは聞けない願いです。私は降伏しません」
「どうして?しかし、降伏以外に何をするというのですか?他に選択肢はないでしょう。いずれにせよ、三種の神器はどうせ奪い取られるのだから、自ら差し出したほうが良い待遇を受けられやすいですよ」
「宗盛。もう会えないですが、来世とか、万が一どこか別の世界で会えたときには、この母を抱きしめてくれたら嬉しいです。今までありがとう、さようなら」
宗盛は涙を流した。時子は、別れに涙は必要ありませんよ、と言って踵を返し、三種の神器のうち草薙剣を掲げて、腰に差した。残り二つの三種の神器は、勾玉の箱に入れた。そして時子は海に向き合った。まだ幼い安徳帝を抱き抱え、腰には草薙剣、手には勾玉の箱を持っていた。
「安徳さま、この世でのご縁もつきました。いざ、極楽浄土に往生する道のりへと参りましょう。お手を合わせてください」
「どこにいくの?」
「波の下にも、都はございますよ」
そして、時子は帝と勾玉の箱を抱え、草薙剣を腰に差したまま、壇ノ浦の海に飛び込み自害した。この時代においては、女性は戦いに負けた側に与していても殺されず、生き延びることができたのに、時子はあくまでも源氏の手にかかることを拒んだのだ。おそらく、日本史において戦死した、それも腰に剣を差して戦場で亡くなった女性というのは、平時子が初だろう。
あれだけひどい仕打ちをし、時子から大切なもののほとんどを奪った源氏に降伏するというのは、時子にはありえないことだった。時子の手の中に残った最後の大事なもの、そう、安徳帝と三種の神器だけは渡すわけにはいかない。もう源氏は、次の後鳥羽帝を立てている。安徳帝は邪魔だから殺されるかもしれないし、正式に帝位を譲らざるをえないかもしれない。そして、三種の神器を渡してしまうと、源氏に正当性を与えてしまう。
三種の神器は、もう永遠に誰にも渡さない。このまま、波の底だ。この後の源氏の天皇に正当性なんか、絶対に与えてやらない。私の可愛い孫、安徳が最後の天皇だ。全ての力を失い、歴史の敗者となった時子の、最後にして精一杯の抵抗だった。
平教経をはじめとした主な武将たちも、次々に海へと飛び込んで自害、あるいは戦死した。その全てを見届けたあと、「見るべきものは見つ」といって平知盛も入水した。棟梁の平宗盛は、海へ飛び込んだものの源氏の手で引き上げられ、捕虜となり、その後、義経の命を受けて滋賀で斬首された。こうして、平家の血筋は途絶えた。
時子と安徳帝とともに海に沈んだ三種の神器は、源氏の手によって回収が試みられた。箱に入っていた八尺瓊勾玉と八咫鏡は発見されて無事回収された。これらは今においても現存していると考えられている。しかし、必死の捜索にもかかわらず、時子の腰に差さっていた草薙剣は、最後まで見つからなかった。こちらは今も見つかってはいない。
そのため、第82代後鳥羽天皇は、最後まで三種の神器が揃わないまま即位した。このことを、後鳥羽帝は生涯気にしていたという。
これで、物語は終わる。しかし、平家は本当に一人残らず全滅したのだろうか。否である。いくら頼朝が残忍とはいえ、平家一門全員が死に絶えたわけではない。平家の隠れ里伝説というのは、今、この現代になっても、日本全国いろいろなところにある。例えば、徳島県祖谷村、愛媛県平家谷、兵庫県香美町、そして、ここ福井県和泉村。
この和泉村の周辺地域には、あちこちの集落に平家の落人伝説が残されている。近隣の福井県大野郡西谷村(筆者注・1970年6月30日限りで廃村)にも、「平家踊」や「扇踊」などの平家にまつわる伝承の踊が伝わっており(筆者注・ともに県指定無形民俗文化財。村が廃村となった今でも、旧村人が大野市内で踊を続けている)、九頭竜川の源流付近には「平家岳」という山がある。いずれも、この近辺に居住していた平家の落人の存在を示唆するものだ。
もしかしたら、ここ福井県大野郡和泉村箱ヶ瀬集落も、平家の落人による集落だったかもしれない。何かしらの平氏の子孫がこの土地に逃げ延びてきて根付いて、それによって始まった集落だったかもしれない。
***
話し終わった時子さんは、テーブルの上に置いてあったあの古い錆びた剣を掲げて、腰に差した。その動作を見て、やっと気がついた。
「え…時子って名前って、もしかしてさ、」
遮るように時子さんが言った。
「私は二条時子だよ」
「てことは。草薙剣を差して水の底に沈んだはずの平時子は生きてて、これがその草薙剣ってこと?ということは、生き延びた平時子は、平家の落人伝説の通り、草薙剣を携えてこの集落に来てたってことか。そんで、その平時子と安徳帝の子孫が、時子さん…すなわち、二条時子、君のことだったという、」
興奮して喋る俺の口に時子さんは人差し指を添えて、首を傾げた。内緒だよ、というポーズだろうか。とりあえず一回黙ると、時子さんが言った。
「そういう、約束だったの」
「………?」
「君も、水面に落ちたところを九頭竜様に助けられて、今ここで生きてるよね?平時子さんもそれと一緒だよ。草薙剣を腰に差して入水した時子さんも、海面に落ちたところを、君と同じように。元々龍神ってのは、水の神様だから、水難救助をよくやるんだ」
「なるほど、やっぱり平時子と安徳帝と草薙剣は源氏から逃げ延びたんだ。だから、源氏が草薙剣を捜索しても見つけられなかったんだね。でも、そういう約束、っていうのは?」
「安徳帝と平時子は入水し死去、草薙剣は波の下に消失。日本史は一応こういうことになってるから、その歴史を掻き乱しちゃったらだめなの。だから、平時子は、自らの名前を出さず、素性を明かさず、歴史を乱さず、ここ九頭竜川の上流の山奥で静かに誰にも知られずに生活するならいいよっていう条件で、九頭竜様に助けてもらえた」
「それで、生き延びた平時子と安徳帝がこの集落にやってきて、落人伝説の元になって、時子さんの先祖になったわけか。あれ、じゃあ、時子さんの苗字が二条なのは、」
「平を名乗れなかったからだよ」
「二条ってのは、どっからきたの?」
「平時子の母親は、二条大宮だけど。これはさっきも一回話したね」
「え、そゆこと!?なるほど、そうだったんだ。え、じゃあ、その古い剣は、やっぱり平時子が持って逃げた、草薙剣の本物ってことで間違いないのか、」
ここまで言った途端に、時子さんは慌てて柔らかい手のひらを突き出して俺の口を覆い、押さえつけた。
「ほんっとによく喋るね、君は。喋りすぎだよ。さっき言ったでしょ?歴史を乱さないために、私は素性を隠さないといけないの。ほんとは、ここまで君にしゃべっちゃったのも、普通にアウトなんだからね?九頭竜様がもし聞いてたら、怒るよ、きっと」
「九頭竜様の怒りを買ったら、どうなるっていうの?」
「え、どうなるかわからないよ。とにかく、やめてよね、そんな危ないことは、ほんとに。いつどこで九頭竜様に聞かれてるか、わかったもんじゃないから。はい、もう、この話おしまい。この剣は片付けるよ」
「ごめん、ちょっと調子に乗りすぎた。でも、話してくれてありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
時子さんは、草薙、じゃなかった、ただの古い錆びた剣を黒い棚の2段目に丁寧にしまうと、もう一杯のコーヒーを淹れ始めた。しかし、先ほどの話には驚いた。時子さんは、本物の平時子の子孫…ゲフンゲフン、、、
というか実際の家系図的には平時子というよりむしろ、それと一緒に来た安徳帝の子孫だから、帝の血を引いている直系血族という可能性…ぐえっほごほごほ、いや、やっぱり深く詮索するのはよそう、何か良くないことが起こるかもしれない。触れてはいけないものには、触れないのが一番だ。時子さんのコーヒーでも飲んで、一旦落ち着こう。
そのあとも、夜はだんだんと深まっていった。交わされる会話は、あっちからこっちへと話題を変えながら、決まった方向性もなく進んでゆく。趣味のこと。毎日の生活習慣のこと。通っている学校のこと。家族のこと。現在の目標のこと。大学受験の志望校のこと。ちなみに、時子さんはやはり勉強が相当できるらしかった。雪国の冬の友達は学問しかいない、彼女はそう言って笑った。時代は違えど、同じ高校生どうし、ところどころで隔たりを感じながらも、共感の方が多かった。
俺は時子さんについて、多くのことを知ることができた。彼女についての大体の話は聞いたと言っていいだろう。しかし、どれだけ知っても、まだまだ知りたい、もっと聞きたいという欲望が尽きることはなかった。これが、好きということなのだろうか。さて、夜もふけるころ、将来の計画についての話になった。
「ここが水没したら、時子さんも、やっぱり出ていくの?」
「うん、箱ヶ瀬を出て…どこに行こうかな。どこにでも行けるね、将来は楽しみだ。でも、とりあえず、雪おろしのないところに行きたいかな。雪おろしは嫌いなんだ」
「てことは、九頭竜川流域、というか福井県内にすら留まらないんだね」
「もちろん。若いうちは、できるだけ遠くを目指したいんだ。人生でやりたかったことは全部やったあと、老いてから、またここに帰ってきたい」
「ここ、は、無理じゃない?水没するよ」
「そっか、そういえばそうだったね、完全に忘れてた、ふふふ」
「笑ってる場合じゃないよ!帰る場所がなくなっても平気なの?」
「もちろん寂しいけれど、それ以上に、私は私の将来が楽しみだから、平気だよ。やりたいことがたくさんあるから。もう私には、前しか見えてない。きっと未来は明るいよ」
その明るさと強さが、時子さんの雰囲気を形作っているのかもしれない。どうしてこんなに底抜けに明るく生きていられるのだろうか。ほんのごく一部に過ぎないが、時子さんという人間の根底に流れる何かが、少しだけ理解できた気がした。
「あの、引っ越しの準備とかはもうやってるの?家から全部引き上げないと。取り忘れがあっても、もう取りには戻れないよね」
「今は受験で忙しいけど、受かって東京の大学に行ったら、それと同時に荷物も持っていくつもり。この家には、大事なものがたくさんあるからね。コーヒーの袋は、絶対忘れないように持って行かなくちゃ。あと、青葉の琴もね。あれを忘れたらおしまいだ」
「草薙、じゃなかった、例の古い錆びた剣はどうするの?」
「え?もちろんこの家においていくよ?」
「それは、もったいなくない?持っていってあげても、」
「あれは、本来は波の下に沈んでいたはずのもの。私が持っているべきものじゃないんだ。せっかくのいい機会じゃん。この家においていったらちょうど、波の下になるから、本来あるべき形に収まるんだ」
「どっちにしても、波の下なのか。まあ、それが一番収まりがいいかもね。今、この時代に、実は草薙剣の本物持ってます、私は安徳天皇の子孫です、ってなったとしても、無用な混乱を招くだけのような気がするね」
「私はほんとは直系だったんだけど、剣もこれから沈むし、この里も出ていくし、これでおしまい。平家の隠れ里伝説は、これにて閉幕です」
時子さんのいう直系というのは、安徳帝からの直系子孫ということだろうか。まあ仮にそうだったとしても、もうこの里を出たら時子さんは二条時子というただの一般人だ。草薙剣が沈めば、この話を証明するものも何もなくなるし、なおさら一般人だ。
時子さんはこの水没を機に、源平の騒乱から1000年程度続いてきたこの集落の伝統をおしまいにして、受け継がれた歴史の重い荷を下ろし、平家の二条時子ではなく、個人の二条時子として生きていきたいのだろう。だから、あえて九頭竜に怒られるような危険を背負ってまで、平家と箱ヶ瀬の歴史の話を俺にしたのかもしれない。水没してこの代で終わりになる歴史の話を、これでおしまいだからと一人で抱え込んで完結せずに、あえて俺に話すことで、自らの荷を少しでも軽くしようとした。この集落と安徳平氏の長い歴史とその終焉を引き受けるには、一人ではしんどかったのだろう。自分以外にも知っている人がいれば、ある意味でその人も「共犯者」だから、少しは安心できる。
「時子さん」
「なあに?」
「あの、うまく言葉では言えないんだけど。時子さん個人としての価値は、この集落の1000年の伝統と、背負っている平家の家名と、安徳帝の直系血族という重みを全部足したものより、はるかに大きいと思う。平家の二条時子よりも、時子さん個人の方が、少なくとも俺にとってはずっとずっと魅力的だ。
だから、時子さんには、この伝統を放り出してでも、時子さんのやりたいことをやるために外の世界に出る権利があるし、そうするべきだと思う。草薙剣の重みに押しつぶされる時子さんなんて、見たくない」
「…ありがとう。何か、胸のつかえが取れた気がする。私で最後なんだよ。安徳平氏
(筆者注・安徳平氏→皇族から臣籍降下した貴族の家の呼び方。清和天皇から分岐した源の姓をもつ一族なら、清和源氏。時子の場合は、安徳天皇から分岐した平の姓を持つ一族なので、安徳平氏という呼び方になっている。なお正史において、安徳天皇は8歳で波の底に崩御したことになっているので、安徳平氏という貴族は存在しない)
も、箱ヶ瀬集落も。だから、私で終わりにしていいのかな、って、ずっと気にしてた。最後が私なんかでいいのかな、って。でも、君のおかげで気づいたよ。いいんだね、もう解放されても。そう、私自身の価値は、安徳平氏より、千年の歴史より、高いんだ。だから、私は私の行きたいところに行って、やりたいことをやる。ありがとう、励ましてくれて。私、強く生きるね」
俺よりもずっと明るく強く生きていたはずの時子さんを、俺が励ますことになるとは思わなかった。だとしても、時子さんのお力になれて嬉しい。
「正直、18年住みなれたここがなくなるのは、やっぱり寂しいけどね。それでも、どうしても、新しい世界に飛び出せる期待と興奮の方が、私の中では大きいかな。
今宵の私は、安徳平氏最後の当主、安徳帝の末裔、二条時子だ。そして!明朝からの私は、ただの二条時子だ。ただの二条時子は、まだ何者でもない。でも、来年には東京の大学に行って、そのあと世界に飛び出して、ただの二条時子じゃなくて、世界の二条時子になってやるんだから!
見てなさい、世界の時子さんは、安徳平氏第44代棟梁の時子さんよりも、はるかに強いんだからね!先祖の皆様方も、私の活躍を、指くわえて見守ってるといいわ」
「それでこそ時子さんだよ。九頭竜様の求めている人材―新しい何かを創造して文明を前に進める人、になってね。俺も、時子さんが作った世の中を次の時代でしっかり受け継いで、さらに進歩させられるように、頑張るから」
九頭竜が平時子と安徳帝を助けたおかげで生まれた、小さな小さな、しかし長く長く続く、この集落の文明。それが、もっと大きなダムという文明によって、今晩まさに消えようとしていた。厳密にはまだ村は水没していないが、時子さんが「ただの二条時子宣言」をした時点で、もう崩壊したと言っていいだろう。そしてその瞬間に、安徳帝と同じように九頭竜によって助けられた俺が立ち会っている。何だか不思議な感じだ。
ただ一つ確実に言えることは、最後の最後に時子さんという最高傑作を生み出した点において、安徳平氏千年の歴史も、箱ヶ瀬集落の努力も、大成功であったことは間違いないということだ。歴史の名もなき人々は、みんなよく頑張った。時子さんならきっと、千年の重みを受け止め、終わらせ、その先の未来を託すのに十分な人物だと言えるだろう。
「そういえば、九頭竜で思い出したんだけれど。九頭竜を信じる人がいるから、そこに九頭竜が存在する余地がある、って言ってたよね。ってことは、この集落が水没したら、九頭竜はいなくなるってこと。でも、九頭竜がそんな簡単に消える?9次元空間全ての座標軸を持っていて、自在になんでも操れるあの九頭竜が、そう簡単に消えてしまうとは思えないんだけれど。人間も生命も全部消えても、九頭竜だけは残りそう」
「いや、消えるよ。九頭竜を信じる人がいなくなれば、九頭竜もいなくなる。絶対にね」
時子さんは、力強くそう断言した。本当に九頭竜が消えるなんてことはあるのか?考えられる限り、この世界で最強の存在ではないか。
「君、誰もいない森の中で倒れた木は、音を立てるかい?」
「そりゃ、音は立てるんじゃない?それを聞く人はいないから、確かめようはないけど」
「そういうことだよ」
「え?どういうこと?」
「木が倒れても、その音を聞く人がいなければ、木が倒れたという事実は残らない。仮に九頭竜がこの土地にいたとしても、その引き起こす現象を観測し、物語として伝える人がいなければ、それは九頭竜がいないのと一緒なんだ」
「確かに、2024年に九頭竜湖岸を走るトラックはたくさんあるけど、誰も九頭竜なんて知らないし、気にも留めない。だったら、いかに強い力を持つ九頭竜といっても、付け入る隙なんてないね」
「そう、神様も妖怪も、そこに信じる人がいてこそ、初めて効力を持つからね」
「なら、もうすぐ九頭竜が消えるのは避けられないんだ…寂しい」
「確かに消えるよ、ここからはね。でも、九頭竜には最後の居場所がある。どこだかわかるかい?」
「九頭竜を信じる土地がなくなるんだったら…どこからもいなくなりそうだけど?」
「九頭竜を信じる土地が消えても、九頭竜を信じる人がいなくなるわけじゃない。九頭竜の最後の居場所、それは、個人の心の中だ。例えば、私はもうすぐここを出るけど、私の心の中には、ずっと九頭竜はいる。もちろん、君の心の中にもね。よかったね、心の中で九頭竜と同居する生活の始まりだ。仲良くしてあげてね、元の時代に戻っても」
「え?俺、元の時代に戻るの?」
「今、交わってはいけない二つの時間軸が交わっているから…この状態は異常だし、とても危険だ。夜の闇が外の世界とここを隔絶しているうちはまだいい。君は私にしか影響を与えられないからね。でも、夜が明けたら、新しい1日が始まって、外の世界が開かれる。そうなった時、ある意味で異物とも言える君の存在は、この世界にとって脅威でしかない。だから夜明け前に、九頭竜様が君のことを迎えに来ると思う」
「嫌だ」
そう、俺ははっきり言った。
「どうして?元の時代に戻れるなら、歓迎こそすれ、嫌な理由なんてないはずじゃない?まさか、君の『現在』より、技術も文化もはるかに遅れたこの1967年を生きたいわけないよね。というか、君には2024年に家族も友達もいるよね、帰らないとダメだよ」
「時子さん、俺はあなたが好きだ。だから、ここにいたい」
言ってしまった。もう取り返しはつかない。
時子さんは、ちょっと驚いて、ほんのわずかに恥ずかしそうにして、そのあと寂しそうな表情をした。
「ありがとう。嬉しいです。私、これまでの18年間で、こんなに面と向かって堂々と好きだと言われたのは初めてだよ。でも、私たちの間には、決定的な溝があるーというのは、もう知ってるよね?夜が明けたら、もう会えないんだよ」
もちろん知っている。それが、この世界のルールなのだろう。ならば仕方がない。しかし、ルールは破れなくても、その範囲内で、精一杯の抵抗はしたい。
「時子さん、その通りだ。でも、夜が明けるまでは!」
「うん、恋人でいよっか」
そして、夜が明けた。
***
もうまもなく日が昇りそうだった。太陽はまだ山の影に隠れているが、その明るさは隠しきれていない。天井から2番目の窓から眩しい光が差し込んできた。木も動物も川も、夜の間はただひたすら黒一色だった世界が鮮やかに色付けされる。夜の静寂の余韻を突き破って、朝一番の鶏の声が響いた。それを合図にして、あちこちで色々なものが蠢きだすのを感じる。今日も新しい1日が始まるのだ。
時間の流れは残酷だ。別れの時が刻一刻と迫っているのが感じられる。時子さんは、寂しそうな表情をして、言った。
「もう君は、私にとって大切な人だ。これで最後になるのなら、私の好きな人には、私の好きな琴を聴いてから別れてほしい。下手かもしれないけれど…でも、私は好きなんだ。この龍の琴も、そして君も。この世界の形見だと思って、聴いてくれる?」
「もちろん、聴くに決まってるよ。ぜひにでも聴きたい!聴かせて」
「そう言ってくれてよかった、安心した」
時子さんは黒い棚の二段目から青葉の琴を大切そうに取り出し、優しい旋律をほのかにかき鳴らしはじめた。最初の数秒だけ聴いて、すぐにわかった。時子さんは、あれだけ下手だ下手だと言っていたが、大嘘だ。詐欺にも程がある。どこが下手なんだ。これで下手ならば、全人類の音楽の才能は絶望的だ。
丁寧に、愛情を込めて奏でられる琴は上品で、この世のものとは思えない音色であった。時子さんはどこまでも見事に弾き、その限りない美しさといったら妬ましくなるほどだ。心に琴の音が染み渡り、まだ物足りない、まだまだ聞いていたいと思った。頼む、あと一瞬、あと一瞬でいいから、このままにしてはくれないか。
こんなことなら、昨日の夜、無理にでも弾いてもらえばよかった。どれだけ下手だからと拒絶されても、何重にでもお願いして、なんとか説得すればよかった。今になって悔やまれる。でも、なんとか間に合った。こうして、最後に少しでも聴くことができた。だから、後悔もそんなに大きくはない。
この時は気づかなかったが、後になってわかった。おそらく、この曲を演奏している途中の時点で、日はすでに昇っている。制限時間はすでに過ぎている。しかし、九頭竜は演奏中に俺を迎えには来なかった。
最後まで聞きたいという俺の気持ちに配慮してくれてのことか、最後まで弾きたいという時子さんの気持ちに配慮してくれてのことか。あるいは、九頭竜自身が、単純に時子さんの演奏を最後まで聴きたかっただけかもしれない。おそらく後者だろう。やはり九頭竜には、芸術が効く。また、新しく民話の一ページが紡がれてしまった。しかし、この物語を繋ぐ次の世代の集落は、もう存在しないが。
今まさに、この一瞬ごとに、この曲は確実に終わりに近づいている。しかし時子さんは、別れが来るそのときをできるだけ遅らせようと、可能な限りゆっくりと弾いているのが伝わってきた。龍の琴から弾き出される一音一音が、まだ別れたくないという切実な思いを響かせる。俺も全く同じ気持ちだった。だが、どれだけゆっくり弾いても、譜面が進む限り、有限の曲には必ず終わりが訪れる。
時子さんの長くて美して柔らかい手で、ついに最後の音が弾かれた。その余韻が、じんわりと部屋中を満たす。実際には、その音が響いているのは数秒のことだが、まるでスローモーションの映像のように引き伸ばされて感じられた。おそらく、俺の脳は全力でこの一瞬を味わったのだろう。そして、部屋中を満たす音の余韻が儚くも散ってしまったその瞬間に、
九頭竜はやってきた。目の前にやってきた。なるほど、確かに3本の首があった。x軸y軸z軸だろう。俺は、人生で初めて会うこの竜に、まずは仲間意識を覚えた。同じ演奏を聴き、同じ琴を好んだ同志として。この竜は、時子さんのあからさまな遅延行為にも目をつぶってくれたのだ。そして、九頭竜は歌うような低い声で俺にこう語りかけた。
時子の琴は見事であったな。この九頭竜も、心動かされてしまったほどだ。
さて、私は貴様を元の時代に連れて帰らねばならぬ。さあ、私のこの手に体を預けよ。時子に別れを告げるがよい。ただ、のんびりしている暇はないぞ。事は急を要するからな。貴様は禁を破った。大した度胸よ。もう一刻たりとも、貴様をこの時代に存在させるわけにはいかぬ。さあ、急げ。
「時子さん、さよなら。達者でね」
自然と涙が滲み出てきた。この時代に来て、初めて流した涙だ。
「何を泣いているんだい?別れに涙はいらない。私の知る限り、別れというのは、未来への希望と前進の象徴だ。私にも君にも、前には希望しかない。宗盛と時子の別れとは、状況が全然違うからね、悲しいことなんてないよ。明るくいこう」
そうは言っているが、見間違えだろうか、時子さんもなんだか涙をこらえているように見えた。それに2024年の時点では、ミネソタ大学の研究によって、涙に含まれる成分はストレス低減効果を示すことがわかっている。だから、精神的な健康のためにも涙を我慢する必要はないのだが。まあ、時代が違えば常識も違うな。
「時子さんも、泣いてもいいんだよ?強がらなくてもいい、悲しくてもいい。一回悲しんでおいた方が、むしろスッキリして未来に進める」
「そんなことないよ!私には前しか見えないから!昔を寂しがっている時間なんてない。あ、でも。ここはもうすぐ沈むけれど、私がいた、私の物語があった、私の先祖がいた、私の先祖たちの物語もあった、ってこと、そっちの時代に帰っても忘れないでね!波の下にも、都はあったんだよ!」
「もちろん。この世界での物語も、時子さんとその先祖たちの物語も、おそらく記録はされないけれど、俺が記憶しておくから。見るべきものは見つ、だね。もう、この世界は見届けた。この先、完全にバラバラだけど、お互いの時間軸でそれぞれの明るい未来を作っていこう」
「うん!君とはもう会えないけれど、来世とか、万が一どこか別の世界で会えたときには、この私を抱きしめてくれたら嬉しいな。ほんとにありがとね、ばいばい!」
俺と時子さんは、まるで友達同士が放課後の学校で別れる時のように別れた。あまりにも軽くて明るく別れたから、これが一生の別れになることなんて忘れてしまうくらいだ。いや、こんなに短い時間でこんなに親しくなってしまったからこそ、これが一生の別れになるということに現実感がなさすぎて、まるで明日もまた会うような感じになったのかもしれないな。
正直、今も、時子さんと一生の別れになると頭ではわかってはいるが、心ではわかっていない。現代に帰ったらまた会うような気分でいる。
最後に時子さんに目を向けた。いつの間にか、腰には草薙剣を差している。時子さんはまっすぐ俺の目を見て、柔らかく手を振って、優しく微笑んでくれた。きっと、こういうものを美しいというのだろう。
そこまでだ。制限時間はもう、とうに過ぎたぞ。このカレンダーをめくって、行き先の時間座標を指定しろ。前回中断したところから再開、だな。
出発地 1 9 6 7_0 2 2 4_0 6 3 5_0 0
到着地 2 0 2 4_0 2 2 3_1 5 0 3_3 6
これでよいか?いや、貴様に拒否権はないな。よいと言わなくても、出発する。
目の前の景色が次々に変わっていった。箱ヶ瀬に水が流れ込み、そして沈んだ。
***
気づいたら、俺は橋の上にいた。トラックはもう通り過ぎたらしい。とりあえず、次のトラックが来ないうちに橋を渡り切ろう。現在時刻は2024年2月23日15時3分、場所は福井県和泉村…じゃなかった、大野市箱ヶ瀬。九頭竜湖に沿って走る、国道158号線の路上だ。とりあえず、車に気をつけながら前に進もう。進むしかない。
少し進んだ道端には、「ふるさとの碑」があった。俺が橋に落ちる前に同じようなものの前を通り過ぎて、見ている余裕がないからと少しも見ずに素通りした、あの碑だ。今なら、全てがわかるだろう。前へ歩み寄って碑文を読んだ。
民情濃やかで地味又肥沃な誠に平和で富裕な部落であつたが、九頭竜川電源開発の犠牲となり昭和三十九年秋全部落が水没の悲運に遭い部落民は各地に離散した 我々は愛惜切なるこの地に記念碑を建立し何時までも故郷を懐旧するよすがにしたいと願う次第である
なるほど、確かに碑文にしてしまえばあっさり済むだろう。しかし、文字数行では表せない量の物語が、確かにこの集落にはあったのだ。時子さんは、あの後どうしただろうか。コーヒー豆は、全部を東京の新拠点に運び出すことができただろうか。草薙剣は、集落とともに、今もまだ水の底に眠っているだろうか。「水の底にも、都はあったんだよ」―大好きだった、あの時子さんの声が思い出される。
もうここには、158号線と九頭竜湖しかない。時子さんがいなければ、集落もないし、千年の歴史もないし、九頭竜もいない。全ては、アスファルトの道路とコンクリートのダムに置き換わってしまった。トラックは最高速度で飛ばす。乗用車もバイクも、相変わらずたくさん通る。ここは中京圏と北陸圏を結ぶ主要幹線である中部縦貫道の一部なのだ、交通量が多いのは当然である。
これでは、九頭竜も消えるわけだ。自分がいかなる強い力を持っていた妖怪だったとしても、この状態では去りたくもなるだろう。九頭竜が人間に対して一方的に力を加えることはできても、もう人間のほうは九頭竜を見てくれてはいないのだ。それはきっと、九頭竜にとって、とても寂しいことだ。
というところまで考えて、何となくわかった気がした。なぜ、九頭竜は水面に落ちた俺のことを助けたのか、という最初の疑問の答えが。
もしかしたら、この時代になってもここに徒歩でやってくる人間がいてくれたことが、九頭竜は嬉しかったのかもしれない。自らの足で土地を訪ねるということは、生身でその土地と向き合うということだー暴力的な速度による素通りではなく。だから、久しぶりに歩いてここにやってきた俺に対して、九頭竜は興味を示してくれた。
そして、俺の行動に注目していたところ、俺が橋から水へ落ちた。おそらく九頭竜は、俺が助けるに値する人間だと評価してくれたのだろう、民話において琴を弾いたあの長老のように。九頭竜は、時間座標をずらすことによって俺を助けた。
しかし、助けてもらった俺は、助けてもらったこと自体には大して感謝もせず、時間軸の異なる、道理に外れた恋愛にうつつを抜かし、色々と行き過ぎた行いをしてしまった。とうぜん、元の時代に強制送還だ。それでも、夜が明けるまで送り返すのを待ってくれた九頭竜はすごく寛大だと思う。もしかしたら九頭竜も、時子さんが別れ際に琴を弾くのを聴きたくて、それまで待っていただけかもしれないが。
まあ、九頭竜の気まぐれの理由がなんであれ、今の俺には何の関係もない。もう時子さんと会うことは永遠にないし、全ては終わったこと。この土地にいかなる思い出があったとしても、今のここにはなにもない。考えても何も進展はないどころか、考えるほどますます悲しくなるだけだ。
一瞬、もう一度同じ橋から湖面に飛び込んでしまおうかという考えが頭をよぎった。そうすれば、またあの時代に戻れるのではないか。正常なら思いつくはずのないことだが、そのとき、俺はすでに正常ではなかった。理性も、感情も、全てを1967年に置いてきてしまったからだ。今のこの土地には何もないと言ったが、今の自分にも何もない。ただ呼吸して拍動して生命が維持されているだけで、生きている気分にはならない。
焦点の合わない虚ろな目で、柵越しに湖面を覗き込もうとした。霧がかかったような思考。もしかしたら、俺はこのまま飛び込んでしまうのかもしれないなと思った。飛び込むか飛び込まないかは自分の判断のはずなのに、なんだか他人事のようだ。しかし、湖面を覗き込んだ瞬間、目が覚めてしまった。
冷たくて重たい湖面は、ただただ恐怖と緊張だけによって俺の心を支配し、たちまちのうちに俺を現実に引き戻す。思考に霧がかかっているとか、そんな問題ではない。俺を底なしに飲み込んでしまいそうな湖の恐怖は、思考の霧を簡単に突き破って、はっきりと脳の奥深くに到達した。
理性は何も感じない、感情も何も感じない、しかし本能が危険を感知する。最も原始的な形の危険がそこにあった。氷よりも冷たい手で身体中を撫で回されるような、全身で感じる純粋な恐怖。自ら進んでこんなところに飛び込むなど、あり得なさすぎる。冷静に考えてみれば、そんなこと、自害以外のなにものでもないではないか。正気に戻れ!正気に戻れ!一度は時子さんに破壊されてしまった脳の中の理性が復活し、危険信号を発する。
そうだ。時子さんの言葉を思い出せ。九頭竜様は、人間が前を向き続け、自らの力で文明を切り開いてゆくことを望んでいるのだ。だから龍の琴の長老を助け、俺を助け、時子さんを評価した。そして、俺自身がそうでありたいと願う姿も、そう、九頭竜様が求める人間の姿にほかならない。
それに対して、さっきまでの俺の姿勢はどうだ?この現実を現実と受け入れず、はるか昔に過ぎ去った過去に囚われ、あまつさえ自殺まがいのことすらしようとしている。過去に戻りたい、失ったものを取り戻したい、こんな態度は、九頭竜様が求めているものでも、時子さんが目指していたものでも決してない。
過去を反省するが後悔はしない。失ったものには執着せず、代わりに新しく得るものを探す。これが俺の理想とするはずの態度なのに、容易くそれとは真逆の方向に進んでしまった。私はなんと愚かなのか。危うく、刹那の悲しみに身を委ねて全てを失ってしまうところだったではないか。
それに、仮に俺がもう一度湖に沈んだとしても、九頭竜様はもう俺を助けることはないだろう。それこそが、九頭竜の本質だからだ。さて、いい加減現実と向き合おう。確かにここには何もない。しかし、この冷たいダム湖は大量の電力を生み出し、この無感情なアスファルト道路は今日の物流を支えている。一つの物語は失われ、それに代わって新しい物語が始まる。俺も、その姿勢を見習おう。このぽっかり空いてしまった脳の大部分を代わりに埋める何かを、探さなければ。
かつて時子さんがいた水の底を一瞥して、俺は前に歩き出した。今は考えている場合ではない。というより、このままではどうにかなってしまいそうだった。こっちの世界の日が暮れる前に、どうにか向こうまで歩きつかねば。
俺がそのあと、どうやって九頭竜湖駅まで歩きついたのかは定かでない。とりあえず、気づいたら辿り着いていた、とだけ言っておこう。辿り着いたことに対しての感慨は特になかった。旅の無事の終了を祝おうなどという気持ちに、なれるはずもない。というより、そもそも全くもって無事ではない。
18時35分、九頭竜湖駅を発車する汽車に乗った。一両編成の赤いディーゼル汽車は、ピーと甲高い汽笛を一つ鳴らして、低いエンジン音を唸らせ、ゆっくりと九頭竜湖駅を発車する。故郷が、思い出が、全てが、ぐんぐん遠ざかっていく。車窓は闇に包まれていて、車内の明かりが窓に反射していた。黒一色の車窓を眺めていると、だんだんとあの出来事の全てを否定したいような気持ちになってきた。
時子さんが「エンタメ大作」だと言っていた、あの平家物語の序文の一節を思い出す。ただ春の夜の夢の如し、というのがあったが、あれの通りだ。今回の旅は、まさに春の夜の夢のようだ。美しいが、儚くて、すぐに消えてしまう。今となっては、あの出来事自体が実在したのかどうか、それすら疑わしい。
大体、俺が1967年を過ごしたという証拠など、これっぽっちもないではないか。なに一つも持って帰ってきていないし、なに一つも置いていっていない。写真の一枚も撮っていない。あるのは肌の感触と、記憶だけだ。つまり、いくらでもごまかされうる。泡のようなものだ。実在性の確かめようがない。まじでない。
出会い、別れ、喜び、悲しみ、あまりにも感情の上下動が大きすぎたゆえ、なんだか気持ちが疲れてしまった。今はもう、こっちの世界で起きる大抵のことでは喜ばないし、悲しみもしない。あれ以降、些細なことで感情が揺れ動いてしんどくならないように、感受性が一時的に機能を停止したかのようだ。
これは、よくない。いつまでもずるずると引きずって、心が死んだままだ。この状態をどうにかするために、当然達する結論はただ一つーそう、あの出来事自体を否定してしまうこと。
なにが九頭竜だ、馬鹿馬鹿しい。そんなもの、いるわけがない。全ては幻想、まやかしだ。あの時、欄干の上から九頭竜湖の水面に落ちたのではなく、実は道路側に落ちたのだ。そしてトラックに跳ねられて幻を見ていたのだ。しかし、奇跡的に体のどこにも損傷はなく、すぐに幻から覚めて歩き出した。そういうことだ。間違いない。
あの出来事の実在性は保証されていない。すなわち、最初から起こらなかったのと同じこと。そう、目が覚めて朝食をとって学校へ行けば、その日どんな夢を見たかなんて忘れてしまうように、時子さんのことも忘れてしまえば、どんなに楽になるだろう。
浅い眠りの春の夜、夢見心地に春の風、泡が弾けて現実に戻り、「何だ夢か、もう少し、覚めてくれなくてもよかったのになァ」これでいいのだ。
あんな意味不明なこと、起こるわけがないし、起こってはいけない。もうこれ以上考えるな。忘れろ、ただの幻だ。忘れろ、ただの幻だ。
などと考えているうちに、20時14分、一両編成は春の夜の福井駅に滑り込んだ。ここで特急に乗り換えて、大阪に帰る。ここまできたら大丈夫だ、まず間違いなく今日中に帰れる。旅が無事に終わりに向かいつつあることに安心感が広がるが、安心も喜びもごく薄い濃度でしか感じなくなっている。どうしてだ?やはり、あの変な幻を見たからか。くそっ、早く忘れろというのに。ただの幻覚に惑わされているなんて情けない。
大阪・名古屋方面のホームに移動する。20時34分発の特急サンダーバード48号大阪行き。これに乗ってしまいさえすれば、今日の深夜には大阪だ。ほっとしたら喉が渇いた。大阪までは長いし、何か飲み物を買っておきたいな。自販機に向かった。
130円を投入して「微糖」のコーヒーのボタンを押そうとして、時子さんの声が蘇った。「甘いコーヒーは外道、微糖は論外」そうだった、時子さんはブラック以外認めていないんだった。くそっ、幻のはずなのに、一体何を思い出させられているんだ?
しかし、ここで屈服してブラックを買ってしまうと、時子さんに、すなわち幻に負けたことになる。かといって、微糖を買うこともできない。好きな人の嫌いなものを飲む気にはなれないからな。ということは、えっと、どうすればいい??
いっそジュースとかにしてしまおうと考えて、また時子さんが邪魔をしてきた。「甘いコーヒーを飲むやつの気が知れない。あれはコーヒーではなく、清涼飲料水だ。そんなに甘いものが好きなら、ジュースでも飲んでなさい、お子様らしく」だめだ、もう水以外何も飲めないじゃないかちくしょう。
もう仕方がない。はいはい、どうせ俺は時子さんのことが好きだよ、負けでいいよ、と呟いてブラックコーヒーを買った。結局、幻であれ何であれ、好きなものは好きなのだ。そして、好きな人の好きなものを好きになってしまうのも真理なのだ。それはもう、どうしようもないのだ。
やはり、時子さんには負けを認めざるを得ない。待合室に入り、席に座って負けのコーヒーを飲んだ。苦い味がした。時子さんの作ってくれたやつを思い出したが、時子さんのコーヒーの方がはるかに美味しかった。何だか悔しくなって、一気に飲み干した。そしてぼんやりと列車を待った。
そろそろ列車の時間が近いのでホーム上に来ると、突然、聞き覚えのある声が耳に響いた。間違いない。聞き間違えるはずがない。時子さんの声だ。57年前に聞いた、大好きだった、あの声だ。あれ、おかしいな、幻覚だったのなら、どうして耳にこんなにはっきりと残っている?とりあえず、声の主の話している内容を聞いてみる。
「でさ、君には絶対に琴の才能がある、今からでも琴の道に進まないか、なんて先生が言うの。んなわけなくない?別に、私、琴で生きていきたいわけじゃないし。雪国の冬の友達は、学問だけだよ?私は勉強して、来年は大学で上京するから。やっぱり、若いうちは遠くを目指したいよね。どこにでも行けるね、将来が楽しみだ」
声の主はそう話していた。振り返ると、その姿はまるで−時子さんそっくりだった。生き写しのようだった。年は…同い年くらいだろうか。話している内容からして、おそらく高校三年生だろう。
「時子さん?」
思わず大声で聞いてしまった。周りの視線を一斉に浴びるが、そんなことはどうでもいい。もちろん、時子さんではないことはわかっている。時子さんは1967年の高校三年生だ。ということは、2024年の高校三年生であるこの人が、時子さんであるわけがない。あるわけはないが、どうしても他人とは思えなかった。どうしても、時子さんだとしか思えなかった。
「時子さん?いや、私は時佳だよ。二条時佳。というか、あなた誰?私の知り合いじゃないよね?見た感じ同い年っぽいけど、まずこの辺の人じゃないよね?」
「いや、大変失礼しました。知り合いに似ていたもので、つい。人違いでした、無礼をお許しくだしさい」
「まあ、それは別にいいけど。というかさ、私もなんか君に見覚えあるかも。なんだろうな、他人とは思えない。どっかで会ったことある?」
「いえ、私とあなたでは、面識はないと思います」
「そっかなー。なーんか、どうしても知ってる気がするなー。なんでなんだろ」
「ちなみに。つかぬことをお伺い致しますが、今日福井にいらっしゃったご用事は?」
「ん?おばあちゃんのお葬式。おばあちゃんさ、ここからずっと山奥に行った辺鄙な村で育ったんだけど、そのあと色々あって、海外に出てめっちゃ働いて、すっごい資産家になって日本に戻ってきたんだよね。しばらくは東京にいたんだけど、最後はやっぱり福井に帰ってきた。そんで、結局福井で亡くなったんだ。お葬式では、なんか後輩の人から、世界の二条先輩、って呼ばれてたよ。
帰ってきてからは、最後に故郷を一目だけでいいから見たかったな、でもこの年からスキューバダイビングの資格を取るなんて無理だね、ってそう言ってた。どういう意味か、全然わかんなかったんだけど…というか、だから君は誰なの?」
「おばあちゃんは、最期、幸せそうでしたか?」
「うん!とっても、幸せそうだったよ。楽しかった、やりたかったことは全部やったって、そう言ってた!何だったっけ…みるべきものはすべてみつ、だったっけ…」
「そうですか、なら良かった、本当に良かった」
間に合うかな。急いでホーム上の自販機に走って、ブラックコーヒーを2本買った。それを持って、時佳さんの元へ戻った。そしてコーヒーを1本渡して、尋ねた。
「コーヒー、好きですよね?俺と乾杯しましょう。もちろん砂糖0のブラックです」
「え、うん、ブラック好き。それ以外は外道。でも、何でわかったの?」
「わからないわけがないです。さあ、俺と時佳さんの明るい未来に、乾杯!」
「え、あ、うん、かんぱーい。いや、ちょっと待て!君、やっぱなんかおかしいよ!」
「どこがですか?俺は最高に冷静で正常そのものですが?」
「なんか、君、すでに私のこと知ってるでしょ!というか、多分、私でも知らないことまで知ってるでしょ!」
「さあ?何のことやら、さっぱりですね。人違いでは?あ、そうそう、あなたはたぶん安徳平氏46代目にあたるんですが、そのこと聞かされてました?」
「アントク?兵士?何それ美味しいの?で、46代目?私、多分、庶民の家の生まれだと思うよ?ちゃんと聞いたことはないけど…」
「やはり、時子さんで終わりになったんですね。となると、若干寂しいような」
「さっきから、わけわからんことばっか喋ってないで、もっと系統立ててわかりやすく、私に説明してくれません?普通に気になるんですけど。あなたが誰なのかも、私とどんな関係性にあったのかも」
関係性・元カノの孫(同年齢)。うん、これは言わない方がいいな。
「強いて言うなら、ほぼ他人ですね。系統立てて話すほどのことは、何もありませんよ」
特急列車が、静かなブレーキ音とともにホームに滑り込んできた。扉が開いた。もう迷いはなかった。疲れて死んだはずの感情も、一瞬で生き返ってしまった。どうやら、致死量の悲しみへの特効薬は、致死量の喜びだけだったようだ。さっぱりとした心で乗り込もうとすると、後ろから声がかかってきた。
「ねえ!ちょっと!だから、結局、君は誰なの!?」
「あ、そうそう、おばあちゃんが生まれ育った村は『辺鄙な村』ではありませんよ。『半分素晴らしい村』が正しいですね。では、おばあちゃん…いや、時子さんによろしく」
「ちょっと待てー!君だけ勝手にスッキリするなー!なにがあったのか私にも教えろ!」
叫ぶ声を背中に受けて、俺は列車に乗り込んだ。どうしても他人とは思えないから、素性を明かして事情を話せと、時佳さんは叫んだ。俺は、この特急に乗らないと大阪まで帰れないんだ、ごめんね、とだけ言った。
今時間がないのならば、連絡先を交換しようと時佳さんはいった。なるほど、そういえば2024年には、離れていても連絡を取れる手段があったな。便利なことだ。
扉が閉まった。特急列車は、ゆっくりと加速を始めた。ホーム上の景色が、前から後ろに流れ始める。時佳さんの姿もだんだんと遠ざかってゆく。俺はそれを視界から消えるまで見届けて、9列A席のシートに腰を落ち着けた。俺が一歩も歩かなくても、列車は目的地まで俺を確実に運んでくれる。俺は、この旅が始まってから初めて、ようやく本当の意味で安堵することができた。いま心は穏やかで、何一つの迷いもない。感じなくなったのではない。感じてはいるが、動じなくなったのだ。
列車はぐんぐんと速力を上げて、駅構内から外の闇へと飛び出した。街の灯りが、前から後ろへとすっ飛んでゆく。いつの間にか、雨が止んでいるのに気がついた。上空に雲はなく、雨上がりの空気は澄んで、遠くまで見渡せる。街の灯りが強いので、空には満天の星空とまではいかないが、オリオン座くらいなら見える。もしここが1967年の和泉村なら、それはそれは美しい星空が見えていたであろう。
福井駅で時佳さんと乾杯した、コーヒー缶の蓋を開ける。プシュ、と気持ちいい音がして、深い香りが漂う。飲む。豆の香り高さを感じた。時子さんが淹れてくれたコーヒーにはまだ及ばないが、待合室で飲んだものより断然美味しい。豆の香りを感じながら、心地よい座席の揺れに身をあずけ、特急列車は夜の北陸本線を疾走する。
もちろん、時佳さんの仰っていた連絡先の交換などは、謹んでお断り申し上げた。もう既に、舞台の幕は下ろされたのだーそれも、美しい形で。ここからあえて続きを展開することはない。
美しいものには、美しいまま終わってほしいから。
***
かつて昔話の中に誇張せられているような奇跡が、
一般に承認せられていた時代がなかったら、今ある怪談のごときものだけが、
唐突として我々の間に生まれ出るわけがなかった。
—柳田國男著, 妖怪談議
完
***
筆者あとがき
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。お読みいただいて感無量なので、ここであえて何かを言うまでもないでしょう。最後に、筆者は水力電源開発および治水のためのダム建設には概ね賛成の立場であることを、ここに付記しておきます。文明が創造する未来は、昔から紡がれてきたいろいろなものを壊してまで手に入れる価値があると、信じていますので。犠牲の上に成り立っているこの文明社会で、私たちには犠牲を乗り越えて前に進む権利があるでしょうし、また、同時にその義務もあるのでしょうね。
波の下の夢 @snowhill4
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