第10話浄化の奇跡
当然ながらそれだけでは屍獣は死ぬことはない。ただ多少動きが鈍る程度なものだろう。
だがそれは、〝普通の人間〟がやった場合の話だ。ヴィーレの場合は話が違ってくる。
「これは……浄化の光?」
目の前で行われている光景を目にして、グレアは呆然と呟いた。だがそれは当然のことだろう。なにせ屍獣を完全に死者へと戻すことができる『浄化』という奇跡は限られた存在にしか行うことができず、浄化の奇跡を使える者はその全てが聖者や聖女という立場へと祀り上げられるのだから。市井にいる浄化を使える者など、いるはずがないのだから。
実際には、聖者たちに課せられたノルマさえこなすことができれば聖者、聖女としての役割を終えて一般人として過ごすことができる。だが、そのノルマが終わるのは大抵は老齢になってからの話であり、ヴィーレのように若い女性で浄化を行えるものは一般にはいないはずだった。
加えて、市井に戻った者達も自分が聖者だったとはあまり公言したりはしないので、聖者たちが一般人として暮らしていることを知らない者もいる。
なぜ聖者であったことを言わないのかと言ったら、端的に言えば保身のためだ。
歳をとった、ノルマをこなしたと言っても聖者としての能力は健在であり、まだまだ屍獣は世界にあふれている。だから、能力が使えるのなら少しでも浄化をすべきだと責め立てるのが人間というものだ。自分の安全のために、さも正しいことを言っているかのように他者に苦痛と責任を押し付ける。奇跡の裏にある代償のことなど考えもせず。いや、考えないどころか元から知らないのかもしれない。
ともあれ、そういった理由で誰も自分が元は聖者だったことなど触れ回ったりはしないどころか、隠してさえいるので、一般にはその辺りの事情は知られていない。グレアもそんな事情を知らない一般人の一人だった。だから今目の前に繰り広げられている光景に、ただただ驚くしかなかった。
そんなグレアの前で聖女としての力を使えば、いらぬ騒ぎが起こるかもしれない。それを考えると、この場では屍獣を浄化せずにグレアが最初に提案したとおりに逃げるのが最善だっただろう。だがそれでもヴィーレは力を使った。
ヴィーレとしてはグレアのことを信頼した、という意識はなかったが、悩むことなく聖女としての力を使ったということはグレアのことを信頼しているという無意識の表れだったのだろう。
「ヴィーレ……その力は……君は……」
だが、グレアに対する信頼を感じていたのはヴィーレの勝手であり、グレアがどう思うのかはグレアの勝手だ。
聖女としての力を見たグレアの頭の中には様々な考えが巡り、とっさに言葉を紡ぐことができずに口ごもりながらヴィーレを見る事しかできなかった。
それでも聞いておきたいことは存在しており、何か言わなければと口を開いた、その直後――
「ぎゃああああ!」
「っ!?」
「っ!」
「あ、ちょっ……ヴィーレ!」
森の奥、何者かが襲われているような声が聞こえてきた。その瞬間、ヴィーレは何を言うでもなく反射ともいえる反応の早さで屍獣に突き立てていた剣を引き抜き、そのまま走りだした。
そんなヴィーレを一人にしておくわけにはいかないし、自分が一人でいるこの状況もマズいと考えたグレアは、悲鳴の聞こえた方向へと走り去っていったヴィーレの後を追いかけるために自身も走り出そうとし――その足が止まった。
だがすぐに自分の足を殴りつけると、その痛みを引き連れてヴィーレの後を追うために走り出した。
「ハア、ハアッ……! ……あれは、傭兵? いやっ、ヴィーレは!?」
ヴィーレに置いて行かれること数分、グレアは背中の見えないヴィーレの後を追って必死に走り、ようやくただの森とは違うものを発見することができた
見つけたのは傭兵だった。片腕を失い、腹も何割か抉られてしまっている状態の男。すでに動くことはなく、その怪我の状態からこの者は屍獣に襲われ、先ほどの悲鳴はこの男のものなのだろう。
しかし、そんなもの、と言ってしまっては死者へ失礼になるのかもしれないが、そんなものよりもグレアにとってはヴィーレを見つけることの方が重要だったため、すぐに意識を傭兵の男から外してヴィーレのことを探し始めた。
だが、そうしてわざわざ探すまでもなくすぐにヴィーレの姿を見つけることができた。
発見したヴィーレは森の中で佇んでおり、その足元には先ほどグレアたちが倒した犬型の屍獣が二体。その屍を晒していた。
首を切り落とされただけで動きを止めているところを見るに、既に聖女としての力を使ったヴィーレが浄化を施したのだろう。
「倒したの?」
「はい。少し、遅かったようですが」
そう答えがヴィーレの視線は先ほどグレアも発見した傭兵の男へと向けられているが、この男も今はまだ問題ないが、あと数時間と経たずに屍獣として蘇り、動き出すだろう。
可能であればそうなる前に男の死体を破壊しておかなくてはならないのだが、そんな男に向かってヴィーレは歩き出していった。
そうして男の前までたどり着いたヴィーレは男の前で跪き、男の胸――心臓の上に手を当てた。
「せめて、次の生は幸福なものでありますように」
ヴィーレがそう呟いた直後、男の体は淡い光に包まれ、数秒ののちに光はフッと消えてしまった。
ヴィーレの行動の前後だけを見れば、何も変わっているところはない。何も知らない者が見れば、屍獣となる前に男の屍を破壊しようと提案してくることだろう。
だが、ヴィーレがなにをしたのかを、そばで見ていたグレアは理解していた。今の淡い光こそが本来の浄化であり、聖女達の起こす神の奇跡――『転生』なのだと。
「……さっきもだったけど、その力……もしかしてヴィーレは、聖女、なの?」
うっそうとした森の中、辺りには血の匂いが漂い、足元には死体が存在している場所であっても尚、祈りを捧げたヴィーレのことを美しいと感じたグレア。
彼はヴィーレの纏う雰囲気に吞まれかけたが、すぐにハッと気を取り直すとためらいがちにではあったが先ほどから気になっていたことをヴィーレへと問いかけた。
「いえ、違います」
「え……」
だが、半ば確信をもってかけられた問いは、ヴィーレによって否定されてしまう。
それによってグレアは驚きに目を丸くし、狼狽えたように視線を彷徨わせていたが、すぐにそれまでよりも心なしか鋭い視線でヴィーレのことを見つめた。
「でも、屍獣が……。屍獣を倒すのも、屍人になるのを防ぐのも、聖女にしかできないはずだよね?」
ヴィーレが無意識でありながらもグレアのことを信頼していたように、グレアもまたヴィーレのことを信頼していた。
にもかかわらず、ヴィーレがわかりきった嘘を言ってい自分の信頼を拒絶したと感じたグレアは、はっきりと意識したわけではないが自分のことを信じてくれないのかと憤りを感じ、詰るように問いを重ねた。
「ですが、能力は有していたとしても〝私〟は聖女ではありません」
「それは……っ!」
ハッとそこで気がついた。ミムスは娘を聖女として奪われ、殉職した。そこにもう一人の娘まで聖女となったら、娘を二人とも失うことになる。それを避けるために秘密にしていたのではないだろうか。
詰るような言葉を言って感情を吐き出したおかげか、多少なりとも冷静さの戻った頭にそんな考えが思い浮かび、グレアはそれ以上問い詰めることなく、バツの悪さから再び視線を彷徨わせた。
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