飛彩
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第一話
朝陽が僕の顔を照らす。
(んぐぅ……)
少し肌寒い季節になったな、と思いながら体を起こした。ちらっと窓の外を見ると、うっすらと雪が積もっている。これから昼になるにつれ、子どもたちの遊び声が大きくなっていくだろうと予感し、ボクは思わずため息をもらした。
「まったく、ヒトの子どもはずっと動き回らないとしんでしまうのかなぁ……」
『ふふっ、私も子どものときはそうだったよ』
朝の斜光に自ら照らされながら、孤独で何気ないことに思いを馳せる──そういう
生き物ではあるが──そんな時間はすぐに終わりを迎えてしまう。ボクは声のした方に振り向き、不満を漏らした。
「もう、せっかくネコが穏やかに朝の始まりを感じてるってのに」
『私は人だからノーカンってことにしといてよ』
目の前にいるのはボクよりもずっと大きい『ヒト』だ。きっと、ボクが目いっぱい体を広げて手を伸ばしても、彼のお腹を触ることはできないだろう。なんなら『かわいい』といわれるかもしれない。
『じゃあ、朝ごはん食べよっか』
「わかった、マスター」
『ほんと、その呼び方好きだよねっ』
そう言ってマスターはボクに微笑んで、自分の食事の準備を始めた。
そう、ボクは彼女を『マスター』と呼んでいる。テレビっていうマシンに映った、ヒトの言葉を話すネコがヒトのことをそう呼んでいたからだ。ボクがマスターと呼ぶたび彼女は微笑んでくれるのできっと喜んでくれているのだと思う。
また、窓の外を眺めた。
この生活が始まって、もう五年が経つ。長いようで短い、ボクとマスターだけの空間だ。毎日、のんびりとした生活を送っている、いや、送ることができている自分をたまに幸せだなと思う。ほら、こうしているうちに朝ごはんをマスターが準備してくれた。今日もぴったり時計の針は八を示している。
彼女が自身とボクの分の朝ご飯を持ってくるのにあわせて、ボクは定位置を離れた。
『いただきます。はい、どーぞ』
「ありがとう」
感謝を示しながら、『チュール』にかぶりつく。うん、おいしい。
そのまま、マスターの膝元に入り込み、ボクたちはまるで一心同体であるかのようにお互いの体温を近づけていった。
彼女はテレビを、ボクはひたすらにチュールにかぶりつきながら、他の家よりちょっと大きい空間の、ちっちゃいちっちゃい片隅で──
『──ごちそうさまでした』
しばらくテレビを見た後、『もうこんな時間か』と言いながら、マスターはやっとその腰を上げた。続くように、ボクもマスターの膝からどいて、定位置に戻る。
後片付けを済ませると、マスターはボクを抱きしめながら言った。
『じゃあ、今日も仕事頑張るね』
さっきテレビを見ていた表情とは打って変わって真剣な表情に切り替わるマスターを見て、ボクは静かに「がんばって」と告げた。
その鳴き声を聞いてから、マスターは頭につけていた”それ”を外す。そして、小さい板状の電子機器──テレビのように画面から光や音が発せられる、ヒトが大体持っているもの──を片手に持って二階へ上がっていった。
再び、ボクだけの静寂が訪れる。耳を澄ませなくとも、開け放たれた窓から入ってくる小鳥のさえずりや、木々のざわめきは、ボクが眠りにつくのに十分なBGMだった。
数分もかからずして、ボクはぐっすりと二度寝に入っていく。
──ふと気づいたら、暗い洞窟にいた。
さえずり? ざわめき? まして日光など届きそうもないほどの、暗黒。そこにちょっといるだけで頭がおかしくなってしまいそうなほどの、深淵を知ってしまったような薄暗さ。どうしてボクがここにいるかを考えるのがどうでもよくなる危機を漂わせるその洞窟に、ボクは一瞬で恐怖を、そしてここから脱出せねばという使命感を抱いた。
ひとまず、こういうときは冷静にならないと話にならない。呼吸を整えてあたりを見渡すと、みゃあみゃあ叫ぶまだ幼い仲間がいる。きっと、彼らと協力すれば大丈夫。最初はそう思った。そう、最初のうちは、だ。
ボクを含めて8匹いたはずのその仲間たちは、次第にその数を減らしていった。
七匹。みゃあみゃあ鳴いていたボクたちは、いつの間にか一匹が消えていることを知る由もない。
六匹になって、ようやく数が減っていることに気付いた。一瞬、二匹が脱出に成功したのではないかと勘ぐったが、それにしては脱出する数があまりにも少なく、二匹は洞窟の奥に救いを求めに言ったのだろうと結論づけることにした。
いなくなるのが三匹目になってようやくその事態の重大さにボクは気付いた。最も怖いのは、周りでみゃあみゃあと鳴く声は聞こえても、洞窟の暗闇によってその姿形は一切見ることができないことだった。それはボクを少しずつ、でも着実に精神的にやませるには十分だった。
四匹目。助けを求める声が、真の意味で半分になった。助かりたいという意思はきっと半分以下だったろう。
その後、残り二匹になって交わした会話以外のことは、よく覚えていない。
自分が今どこにいるのかすらもよくわからなくなったときに、残りの一匹がボクに話しかけてきた。そいつは、今までにいなくなった仲間たちよりも数年長く生きているような声質だった。
「なぁ、お前は”輪廻転生”を信じるか?」
りんねてんせい、という響きがボクの頭に響いた。
「りんねてんせい、ってなに?」
「それすらもわかんねぇのか、随分と閉鎖的な環境で育ってきたんだな。……もうお前と話すのが俺の最期を飾る会話だからな、特別に説明してやる。要は、ここで死んでもまた生まれ変わってこの世で生きていけるって考え方だ……。ほんとにあるとは思っちゃいねぇが、そういう概念を信じることは、少なくとも今みたいな状況じゃ救いになると思うぜ」
「……」
数分の沈黙が訪れる。短いようでとても、とても長い、そんな時間。
「おい、どうした?」
そいつは怯えた口調になって、暗闇にかぼそい鳴き声を溶かした。
返事はない。
そして、一匹のネコの鳴き声が消えた。
薄れゆく意識の中で、もう潮時なんだな、と心の片隅で感じた。
遠くからボクを呼ぶ声が聞こえるような気もするが、体と心が徐々に別々になっていくような、少しほわほわした感覚にどうこうする術を考えることもできなかった。
でも、一つ、死ぬ前に実感したことがある。
ずっと、死ぬときって怖いと思ってたんだけど。
どうやら、こんなにもあたたかいらしい。
そのとき、最期の会話が脳裏によぎった。
りんねてんせい、ボクにはできるかな──
そこで、目が覚めた。瞬間、それが夢だったことを悟る。
数え切れないほど何回も見た夢だ。
それを怖い夢と思うと同時に、ボクは安堵した。だって、ボクは死んでいない。しかも、こんなに幸せな毎日を送ることができている。
安堵した理由は、もう一つある。
あの夢には、続きがあった。というか、あの夢は昔、実際にこの世界で起こった話だ。
マスターと出会う前、つまり5年前にボクは暗闇の中にいたのだった。そのきっかけはよく覚えていないし、幼い頃のボクに覚えていろと言っても多分覚えていないだろう。あのときはきっとこれから先を考慮してもしきれないほど、人生、いや猫生で一番の危機だったことは間違いない。
でも、ボクが死にかけたギリギリのところで、マスターと出会うことができた。だから、ボクはあの夢を怖いだけだとは思っていない。むしろ、マスターと出会うきっかけをくれた貴重な出来事だったとも言えるのだ。
こうして、いつものように昔のことを思い出しながら次第に意識を覚醒させていくと同時に、今までとは確かに違う、ある違和感にようやく気づいた。
夢から覚めるのが、いつもより早い。
いつもなら必ずマスターが来た瞬間に目を覚ますはずだ。すべてを包容してくれる、マスターの穏やかな雰囲気を感じたあの瞬間に。
どうして? これじゃあただの怖い夢じゃないか。
それについて考えようと思った矢先に、別の、もっともっと大きい違和感が起こった。
──ドタドタドタ。
二,三人と思われる足音が一階に響いた。
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