『後追い星をやめた日』


    1


 地続きの大陸一つからなるこの世界にあって、大国と呼ばれるのは四つの国だ。

 それぞれが東西南北にはんを抱く国家であり、その他の小国は各々が大国の下にある属国として扱われているに過ぎない。

 四つの大国の力関係は絶妙なバランスで保たれており、このこうちやくは新興国家であるカララギを除けば、千年近く前から大きな変化を起こしていない。

 ──北のグステコ聖王国は厳しい寒さとけわしい山脈が連なり、人にとっても動物にとってもこくを強いられる国家だ。年間を通して降雪があり、作物などは寒さに強い品種が細々としか取れない。代わりに家畜の飼育と、切り立った山々にはこうせきの鉱脈がいくつも眠っており、採掘事業と魔鉱石の扱いで国力が維持されている。

 また、れいほうパルドキアの山頂には四大精霊の一角に数えられる、強大な力を持った聖獣オドグラスが君臨している。

 オドグラスはグステコ聖王国の建国の際、自分を従えていた精霊使いに『聖王』の名と契約を交わし、以降の国家元首である『聖王』の選出にも常にかかわっている。

 グステコ聖王国の国家元首である『聖王』とは、血や出自にかかわらず、聖獣オドグラスが国民の中から次代として選出することで成立するのである。

 ──西のカララギ都市国家は、他の三つの大国と比べれば歴史の浅い新興国家だ。

 およそ四百年前まで、大陸の西部は数々の小国がにらみ合いを続ける火薬庫の様相をていしていた。いずれの小国も国力に大差がなく、集中してたたかれることを恐れ、互いに気を張り続ける不毛な時代が長く続いていた。

 その状態に終止符を打ったのが、ホーシンと名乗る一介の商人だった。

 身元も出自も確かでないホーシンは、ただその口先と商才と発想力だけでのし上がり、ついには武力できつこうする小国たちを経済力という魔法で殴りつけた。いずれの国にも属さず、さりとてどの国の内部にもホーシンの所縁ゆかりのものが存在する悪魔のくだ

 結果、多くの小国はホーシンの足下に屈し、国家としての立場を都市と改め、すべての都市がホーシンを代表者としたカララギ都市国家が誕生するのである。

 以来、ホーシンの名は立身出世の代名詞となり、ホーシン亡き後も残された足跡を辿たどるように多くの才人が集まることとなる。そしてカララギ都市国家は、他の大国三つをして容易には手を出せない強国として成立したのだ。

 ──南のヴォラキア帝国はもっとも古い歴史を持ち、長きにわたって国を『富国強兵』の理屈で皇帝が導く形をとってきた国家だ。

 頂点に君臨する皇帝が絶対の権力を握り、帝国のまつりごとは全て皇帝が取り仕切る。

 その形式は建国当初から変わっておらず、暗君によって帝国がたんすることがなかったのは、皇帝の代替わりにおける壮絶なおきてが原因だ。

 皇帝は帝位にある間に国内の各地で子をもうけ、その子らに次なる帝位を懸けて争わせる習わしがある。皇帝候補にとって敗北は死を意味し、政争はこの世のぞうしゆうあくを煮詰めたようなせいさんな過程を辿り、一人の次代皇帝を選び出すのだ。

 そうした国柄をたつとぶ姿勢は帝国民にも浸透しており、力あるものと力ある帝国を至上とする帝国主義は当たり前の思想として広まっている。

 他国との国交はあるが、基本的にはよくな大地と安定した気候の恩恵で自国内で国家を維持する全てがまかなえるため、外交に積極的ではない。代わりに領土拡大の野心は常に抱いており、古くよりいさかいの絶えないルグニカへのけんせいは延々と続いている。


 ゆえに親竜王国ルグニカ南西部、バーリエル領は常に危難の気配にさらされていた。


    2


「なんでも領主様が新しい奥方様をむかえられたらしい」

 バーリエル領の領民にとって、その話題は野良仕事の合間に皮肉まじりに交わされる程度の話題でしかなかった。

 自分たちの領地を取り仕切るライプ・バーリエル男爵に対して、領民たちはあまり良い印象を抱いていない。というより、むしろ印象は悪いというべきだった。

 領民に対する配慮に欠けた税率に領法。親しまれるような振舞いどころか、顔を見せることすらまれな権力者に好意を抱けという方が難しい。

 領主と領民の間でそれほど意識に溝が生まれていれば、それは反乱の種にもなりかねない。実際、そうしたくわだてがされたことはここ十年の間に何度かあった。

 しかし、領民の善心への配慮が足りない領主は、領民の悪心に対する警戒だけは常に欠かしていなかった。結果、企てはむごい見せしめと共につぶされ、関係は日ごとに悪化する。

 ゆえに本来なら祝い事とされる領主のしゆうげんも、領民にとってはごと──もうとっくに老年に差しかかる領主が、としもなく迎えた後妻のことなど興味のはんちゆうになかった。

 どうせその後妻とやらも、自分たちの働きのほとんどを持っていって、自分たちには生き長らえるのが精いっぱいのたくわえしか残さない悪魔に違いない。

 領主ライプの寿命がついえ、世継ぎのいないバーリエル家が取り潰しになること。

 それだけを希望に明日を生きる領民にとって、それが彼女への最初の評価。

 プリシラ・バーリエルという赤い女を見る前の、最初の評価であった。


「はっ。ずいぶんと殺風景で、おまけにがいに欠けた顔ぶれよの」

 その女は開口一番に、村一番の畑とその畑ぬしを見やりながら言い放った。

 声に込められたべつと、はるか高みからこちらを見下し切った言葉の内容。顔を上げた多くのものがそこにこらがたい怒りを感じたが、その姿を見た瞬間に言葉を失う。

 そこに立っていたのは、赤い女だった。

 太陽の日差しを映したようなだいだいいろの髪をバレッタでまとめ、女性としてほうまんに過ぎる肉体を惜しげもなく露出した真紅のドレスをまとっている。薄く紅を塗られた唇が朱色の笑みをきざみ、自分を見る視線に応じるひとみも燃え盛る炎の赤に染まっていた。

 己をあおぐために手にしたせんすら赤いのだから、全身これ真紅の女だ。

 その視覚的な衝撃に、一目で高貴な相手とわかっていながら全員が反応を忘れる。

 付け加えれば赤い女は、その過剰な服飾の印象を消し飛ばすほどに美しい。

 その場にいたものは男女問わず、目の前のぼうに知らず全身をふるわせてしまう。

「何をじろじろとすいな目をわらわに向けておる。不敬であろうが、せんな愚民共め」

 しかし、そのかんがいも、続けざまに放たれる少女のせいに塗り替えられてしまう。遅れてべつに気付いた領民たちは、そろってひとみに怒りを宿しながらも、それを発露することを心の奥底へめ込んで顔を伏せた。

 赤い女の言葉は屈辱的な侮辱だ。だが、その身分が自分たちと比較にならないのは見ればわかる。つまり、逆らうことでえきになることは何もない。普段からそうするように、不平や不満に対してはこうべを垂れて、あらしが去るのを待つのが得策だ。

「なるほどな。長年のていかんが反骨心を根こそぎ奪い、負け犬根性をみつかせておるわけじゃな。あれであの老骨もいつぱしの貴族か。虐げてしつけるのは得意と見える」

「お、お貴族様とお見受けします。本日はこの村に、どのような御用件で……?」

 顔を伏せる領民を見渡し、納得した顔の女に畑ぬしが果敢に声をかけた。

 村で一番の畑と土地を持つ彼は、底辺の争いではあっても村の代表者だ。この場で貴族に用向きを尋ねる資格があるのは彼しかいない。

「そうくな、凡夫。わらわのようなが唐突に訪れれば驚きもしようが、妾の行いは妾の意思で誰に急かされるでもなく勝手にやらせてもらう。貴様らは望外の幸運として、妾のぼうを目の端で盗み見て時間を忘れておればよい」

 畑主に顔を近づけ、いきがかかるような距離で赤い女はなまめかしく語り聞かせる。それを受けて、畑主は目に見えるほどうろたえて後ずさった。無理もない。

 畑主と赤い女との間には親と子ほども年齢差があるが、女が放つ濃密な色香は年の差を忘れさせて男に女を想起させる。魔性、そう表現するのが相応ふさわしい。

「ふむ、ふむ……なるほどな」

 畑主をたじろがせてからは、女は我が物顔でそこいらの畑を見て回っている。

 領民たちはその間、女が言った通りにその姿を盗み見ているのが手いっぱいだ。野良仕事を再開して文句を言われる筋合いはないのだが、誰もそれをしようとは思わない。

 他と違うことをして、あの赤い女の注意を引くことを誰もが恐れていたのだ。

「そうさな。まずはこことここ、それからそちらの二つでよいか。どれもさほど変わらぬがゆえに、妾のまぐれに触れる己の幸運を解するがいい」

 一通り、周辺の畑を見て回った女が納得した顔でうなずいた。

 それから彼女は畑主をじろりと見やり、彼がふるえるのを見るとえんぜんと笑う。その微笑ほほえみがまた、よこしままを思わせるにもかかわらず目が離せないほど美しい。

「そこな凡夫。貴様がこの村で一番大きい畑持ちじゃな」

「は、はい。その通りです」

「貴様の畑は見ればわかる。ひんそうではあるが、土地ばかりは広い。朽ちた老木のたけに合わぬ野心を抱く、どこぞの領主と似ておるな」

 侮蔑とちようろうに満たされたその言葉が、他でもないライプを指していることに領民たちは全員が遅れて気付き、その不敬さに顔を青くする。

 領民にとっては領主が天上人。すっかりその認識にらされている彼らは、赤い女が領主より上の立場の可能性には気が回らない。実際、それは思い過ごしなのだが。

「まあ、貴様の畑はよい。比較する対象としてちょうどよい踏み台よ。わらわの威光にあずかれる幸運の持ちぬしは別におる。道向こうの、そこの四つの貧弱な畑の持ち主よ」

 女が指定したのは、大畑主の持つ土地に比べてせ細った荒れ地のような畑だ。その畑の持ち主は自分の畑同様に弱々しい姿をしており、一家そろって他の村人の温情に支えられて日々をつないでいるような有様だった。

 名乗り出るその村人を見て、赤い女はそのひとみにひどく残酷な感情をよぎらせる。

 それはけいべつ、嫌悪、いっそあくらつに見下す感情の大半であった。

「まあよい。枯れ切った苗に水を与えてこそ、誰しもに変化がわかるというもの」

 すくめられたように身を固くする領民から、女は退屈そうに視線を外した。それから彼女は痩せた畑を指差して、男に丁寧に何か言い聞かせる。

 耳元でささやかれる声はその男にのみ届き、女がどんな無理を突きつけているのかは周囲には伝わらない。ただ、人形のように首を縦に振る男を誰もがあわれに思っていた。

 そして囁きを終えると、女は満足した顔で腕を組む。組んだ腕の上でほうまんな胸が大いに揺れ、思わずのどを鳴らす男衆を女は横目にした。

「言い忘れたが、妾はプリシラ・バーリエル。ここいら一帯の、バーリエル男爵領の新たなる領主である。この場にいないものにも伝え聞かせよ。今日のような無礼を妾が寛大にも許すのは、無知ともうまいが許される今日のみである」

 そうして女は、我に返った領民たちにとって絶望的な言葉を残して去った。

 後々になって領民たちは、あのプリシラと名乗った人物がライプ・バーリエル男爵のむかえた後妻ということに気付いた。そんな人物がどうして供も連れずに領地に顔を出したのかはわからなかったが、そのぼうじやくじんさはライプの圧政のそれを思わせるもの。

 そして若い娘であった事実が、老齢のライプのように、老いによって立場を退しりぞく希望を遠ざけていたことに絶望することとなる。

 今後も長きにわたり、ライプの同じ悪辣な領法に苦しめられることになる。

 プリシラの来訪に誰もがそんな不安と恐怖を抱き、一げつ後にはそれを忘れた。


 ──プリシラが指定した男の畑が、ありえないほどの豊作に見舞われたからだ。


    3


「なんつーか、正直、意外だったぜ。姫さんがこんだけしたわれてっとはよ」

 気安い調子で放たれる声は、しかしくぐもってどこか聞き取りづらいものだった。

 カチカチと金属同士がこすれ合う音が声に重なるのは、そのこわがくぐもる原因──声のぬしの頭部を完全におおう、漆黒のてつかぶとの継ぎ目をしやべりながらいじる癖があるからだ。

 たい、というかひどく珍妙な格好をした人物だった。

 頭部が黒の鉄兜で覆われているのは前述の通りだが、その強固な防備を固めているのは首から上だけ。きたえられた体は山賊のような荒々しい印象の格好にまとめられ、足下はあろうことか皮で編んだ履物だ。肩からみすぼらしい麻布を掛けて首元を覆い、腰の裏に横に差した身幅の厚い無骨な剣がのぞいている。

 あらゆる意味で変態的な特徴だが、中でもひときわ目立つ箇所があった。

 ──その鉄兜の男には、左腕が肩から存在していないのだ。

 珍妙な格好に特徴的な欠損まで抱えた男は、ただそこにいるだけで異様な存在感を持っている。それが赤い女──プリシラ・バーリエルのかたわらに立つならなおさらだ。

「意外、とはどういう意味じゃ? わらわじんを超えたぼうを見よ。ぼんぼんえさついばひなどりのように、妾をしたうのは至極当然のことじゃろう、アル」

「いやぁ、勝手な想像だったんだけどさ。姫さんは釣り堀の魚を繁殖させるために何もしないタイプだとばっかり思っててよ」

「ならば妾が貴様を厚遇してやっている理由がなくなるな。そう思わんか?」

「言われてみりゃそうだ。そいつはオレの考え違いだったわ」

 素直にプリシラの言い分を認めて、鉄兜の男──アルは太い右腕で兜の上から頭をでる。ぐるりと物珍しげに周囲を見回しているが、その表情と顔色はうかがえない。

 ただ、従者のその態度にプリシラは何ら反応しない。彼女がずんずんと迷いない足取りで進んでいくと、その姿に気付いた周囲の人々が声を上げる。

「あ! プリシラ様だ!」「わらわひめ様だ!」「太陽姫万歳!」

 一人が彼女に気付くと、その声に気付いて大勢が家々から飛び出してくる。一様に明るい顔をした村人たちは、口々にプリシラをたたえてめやそした。

「うむ。それでよい。存分にはげむがよいぞ、凡愚共。妾の威光にこうべを垂れて従う限り、妾も慈悲を取り上げるほど薄情ではない。今後もゆめゆめ、それをおこたるな」

 誰に向けたというより、その場で歓声を上げる全員へ投げかけたプリシラの言葉。

 決して大きい声ではないのに、彼女の声はどこまでも突き抜けて届く力がある。その力ある言葉の内容が内容だけに、ごうまんさにアルなどはギョッとしてしまうのだが、

「わかりました!」「プリシラ様のためならば!」「太陽姫万歳!」

 村人たちは反感を覚えるどころか、彼女の傲慢な演説を快く受け入れている。

 そのあるじの人となりへの印象と、領民の態度のにアルは首をひねるばかりだ。

 ──鉄兜の男、アルがプリシラの騎士として認められたのは数日前。さる理由で騎士を定める必要のあったプリシラが、その目的と趣味を優先した武闘大会が開催した。

 男爵夫人の騎士を、出自を問わず募集するという触れ込みから大勢が名乗り上げ、実際に盛況となった大会。アルはそこで、プリシラの眼鏡にかなって騎士の立場を得た男だ。

 主従と呼ぶには、まだ時間もきずなも浅い関係。そばにいることを許されている間、アルはつぶさに自分のあるじを観察しているが、その底はどうにも見えないものだった。

 思慮深いように見えて、思いつきを即座に実行する。領民に対して接するように親しみがあるかと思えば、ふいに見せる横顔は背筋が凍るほど冷酷であったりする。女性らしさだけを詰め込んだように見える肢体は、アルのすきをついて剣を奪い取り、間一髪でこちらの首をはらうようなどうもうさすらはらんでいる。

 結果、数日を共に過ごしても何もわからないのが現状の主への印象だ。

「ほれ、アル。何を突っ立っておるか。凡夫共が貴様に興味津々じゃぞ。わらわごとの隣にある、あれぞ珍妙な男は何者なのかと」

「それは姫さんの方で説明してくれりゃぁいいじゃねぇか」

「口の利き方に気をつけよ、アル。貴様の分をわきまえぬ言動、面白いと見逃してやれるのがあと何度かは妾にもわからん。つまらんきようを買うべきではないな」

 ちょっと印象を修正していれば、これだ。一秒前までご機嫌だった顔つきが、ほんのささやかな時間の間にゴミを見る目に早変わりする。

「ああ、今のはオレが悪かった。言われてみりゃ、主人に紹介の手間ぶん投げる従者がいるかって話だわな。悪い悪い、許してちょんまげ」

「よい。許す。ただし、あとでチョンマゲが何か教えてもらうぞ」

 思わぬ一言が功を奏したらしく、アルはプリシラの不興の兆しからかろうじて抜ける。それを確認してあんに胸をで下ろしながら、アルは領民に自分の立場──プリシラに仕えることになった経緯を、面白おかしく適当にちようしながら語って聞かせたのだった。


    4


「プリシラ様は素晴らしいお方です。僕にとっては救いの女神様であります」

 おっかなびっくり、慣れない手つきでお茶をれた少年は、アルの問いかけに対してそんな答えを返した。言葉遣いが微妙に珍奇なのはごあいきようといったところか。

 場所はバーリエル男爵邸の談話室。座り心地に高級感のあるソファにだらしなく尻を預けて、アルは休憩時間を全力でおうしていた。

「シュルトちゃんは姫さん大好きだから、そう答えそうだとは思ってたがよ」

 少年の返答に含み笑いし、アルは差し出される紅茶のカップを持ち上げる。それから彼は頭を軽く上に向け、首下に生じるかぶとの隙間から器用に飲み物を差し入れた。

 常にかぶとを外さず、その素顔をさらさないのがアルの一貫した振舞いだ。兜を外せず、せきわんでもあるために彼の食事は決してぎようのいいものではない。片手で兜を浮かせて食事をとる、ということができないため、必然的に紅茶の飲み方と同じような食べ方になる。

「俺のマナー……行儀悪さが気になるかい?」

 じっと自分を見ている少年──シュルトの視線に気付き、カップを置きながらアルは低い声で問いかける。その質問にシュルトは小さく息を詰めた。

 線の細い少年だ。色白の肌に、癖のある桃色の髪。紅のひとみは自己主張が弱く、ともすれば少女と見間違うほどきやしやな印象を見るものに与える。年齢は十二、三といったところだが、体は見合った成長をしておらず、せいぜい十歳前後にしか見えない。

 まだ幼いといっていい少年が、黒の使用人服を着て執事のごとをしている。人によってはその姿に、微笑ほほえましさより痛々しさを覚えるものだろう。事実、アルはシュルトのたけに合わない背伸びの日々に痛ましさを感じていた。

「学がねぇんだ。お行儀の知識がないのは大目に見てくれよ。わかるだろ?」

 の上で乱暴に足を組み、アルはことさらぼうに振舞ってみせる。すると、シュルトはそれを見ながらゆるゆると首を横に振った。

「僕も、アル様と同じように無学であります。だから、アル様の振舞いに文句を言えるほど立派ではないと思っています」

「正直は美徳で、素直は子どもの特権だな。格好はちっとは様になってきたと思ったが、中身はまだそれに伴わねぇと。シュルト先輩はここきてどのぐらいだっけ?」

「僕がプリシラ様に拾われて、やっと三げつというところであります」

 先輩、という皮肉にもシュルトは反応しない。それがどうした意味なのか、農村の孤児上がりの少年に理解しろと言ってもこくなものなのだ。

 この少年執事シュルトは、プリシラが領地の農村から連れ帰った孤児であった。

 みがけば光る、などといってせ細ったシュルトを連れ帰ったプリシラに、屋敷の主人であるライプは相当におかんむりだったそうだが、プリシラは意に介さなかったらしい。

 そのままシュルトは、プリシラのお眼鏡にかなったという幸運に守られながら、衣食住を保障されて少年執事に仕立て上げられたというわけだった。

「姫さんの眼鏡に適ったのが、幸運か不幸かは難しいとこだがな」

「プリシラ様に拾っていただいて、僕はとても感謝しているであります。あのまま村に残っていれば、今頃はとっくに土の下だったはずでありますから」

可愛かわいい盲信だねぇ。俺としてはますます、姫さんが何を考えてて、どういう人柄なのか判断するのに迷う情報って感じがすごいんだが」

 慈善事業など絶対にしないという態度に見えて、孤児を救済したりもする。かといってすべてに手を差し伸べるわけではなく、拾い上げる条件も何もわからない。

 果たしてプリシラは、領民やシュルトが信じている女神であるのか。それともアルが時折、背筋を凍らされる残酷な魔女であるのか。

「魔女。魔女ね……」

 自分で考えた単語を口にして、その陳腐さに思わず笑ってしまう。

 この世界ではタブーで知られる『魔女』の単語。その単語が意味するものがどれほどのきようであるのか、他でもないアルこそがよく知っているのに。

「アル様は……」

「んん?」

 物思いにふけっていたアルを、ふいにシュルトが不安げな目で見つめて呼ぶ。

 はいぜん用の銀のお盆を胸に抱えるぐさは、ひどく女性っぽくてとうさくてきなものだった。

「プリシラ様の騎士になられた、でありますよね? あの方を、守ってくださる。あの方の味方だと、信じていいんでありますよね?」

 すがるようなシュルトの問いかけに、アルはかぶとの中のまぶたを閉じた。

 少年は胸の不安を解消する術として、アルからの力強い言葉を求めている。だが、

「その聞き方じゃぁ、味方だろうが何かたくらんでようが、『ああ、任せておけ。オレは姫さんの最高最強の騎士さ!』ってさわやかに答えるに決まってんだろうが。質問として不適当ってやつだぜ。残念ながらまたの挑戦をお待ちしておりますってな」

 アルの答えにシュルトが傷付いた顔をしたのがわかった。

 しかし、その表情を見てもアルの心につうようなものがよぎることはない。

 少年の向けてくる純粋なまなしを裏切ることに、アルは何らちゆうちよしない。目的のために他のものを切り捨てる。ある種、当然の割り切りが悲願のじようじゆには必要だ。

 以前と同じ失敗を繰り返すような、それだけは絶対に許されないのだから。

「──なんじゃ。どこへいったかと思えば、このようなところで陰気な茶会か」

 わずかに沈黙が落ちる談話室に、唐突に飛び込んでくるのは上空から見下す美声だ。

 ノックもなしに乱暴にドアを開け、屋敷の女主人はごうしやなドレスのすそを揺らしながら押し入ってくる。ほうまんな胸を持ち上げるように腕を組み、彼女は片目をつむって、

「シュルト。わらわが欲するとき、その場に居合わせてこそのじゆうそつじゃ。このようなところでその機を逃すなどごんどうだん。アルのごとかぶものと過ごしているなぞさらに悪い。可愛かわいげだけが取り柄の貴様に、むさ苦しさがうつったらたまったものではない」

「取り柄がそれだけって、オレよりよっぽど言い切りやがるな、姫さん」

「事実であり、妾が口にすればさらに力を持つ真実となる。今のシュルトに他の何の価値がある。それでも、他の無価値な凡俗共と比べればいささかマシよ。その評価も、妾の期待を裏切り続けるなら取り消す必要があるがな」

 談話室で話す二人を眺めて、プリシラは鼻を鳴らしながらそう言い捨てる。思わずアルが苦笑するごうまんさだが、シュルトは顔をそうはくにした。

「ぼ、僕は頑張るでありますっ! で、ですから……見捨てないで……っ」

「泣いてすがるな、見苦しい。わらわは泣き顔でもでられるが、最初からその慈悲を当てにするなど愚の骨頂じゃ。妾のじゆうそつぼんこつはいらぬ。己の価値を示し続けよ」

 ふるえる声を切って捨てるプリシラに、シュルトはあわててそでで自分の目元をぬぐった。わずかに目を赤くするシュルトが、それでも懸命に顔を上げる姿にプリシラはうなずく。

「それでよい。自分の足下を変える気骨がなくば、貴様風情などしかばねも同然じゃ。屍ならば土にかえれば肥やしにもなるが、土の上で死んだ風でいられては何にもならん。妾の空気を無駄遣いするでない。呼吸すら死ぬ気でせよ」

ようしやねぇ……シュルトも、いちいちそんな必死で呼吸してたらストレスで死ぬぞ」

 真面目まじめな顔で呼吸を始めるシュルトをたしなめ、アルはプリシラに肩をすくめる。

「姫さん、相手はガキだぜ。もちっと、いたわりと思いやりがあっていいと思うね」

「この世の無常は大人も子どもも男も女も関係なく降り注ぐものじゃ。の飢えが人の大小をけるか? えきびようの魔手が人のせんを差別するか? 生きる上ではすべての者が平等じゃ。鉄柵におおわれたおりに閉じ込められているわけでもあるまいに、自分の生き方を他者にゆだねてあんねいを得ようとするのはただの怠慢であろう」

「姫さん?」

 れつな言葉を発するプリシラは、その美しい横顔にいらちを浮かべていた。アルにはその苛立ちが、今しがた自分で発した言葉の後半にかかっていたように見えてならない。

 その正体がなんであるのか、アルが見極める前にプリシラの表情が変わる。

「生きとし生ける全てが平等。──ただし、妾を除いてではあるがな」

「姫さん……」

 笑みだ。プリシラはえんぜんと、この世で最もこくはくな笑みを浮かべてそう言い切った。

 それはアルが騎士として仕えたそのときから、何度となく聞いた彼女の持論。

「──この世の全ては、妾にとって都合が良いようにできておる」

 それがプリシラの自信の根拠であり、彼女という存在を飾り立てる最高の言葉。

 一笑に付されて当然の発言なのに、か笑い飛ばす気にならない魔法であった。

「そら、シュルト。今しがた言った通りじゃ。この世の全ては妾の都合通り……なれば、のどが渇いておる妾にとって、都合がいいのはどういうことじゃ?」

「は、はい。すぐに紅茶をぐでありますっ!」

「たわけ。そこな茶器の中身などとうに冷め切っておる。ましてや妾にアルのらしを飲めなどと、無礼を通り越して反逆じゃ。首をねるぞ」

「それだけは許してください! すぐにれ直してくるであります!」

 ポットを抱えて、シュルトは談話室を飛び出していく。

 小さな足音が遠ざかるのを聞きながら、アルは唇をほころばせるプリシラに肩をすくめ、

「姫さんって、本当に性格が悪ぃな」

「落ち着き払った仕事のできる執事もよいが、子どもらしくあわてふためく様も一興。まともなきゆうが欲しいなら、誰がわざわざ孤児など拾ってくるものか。シュルトにはしばし、ああしてわらわりようなぐさめる栄誉を与えておくことにする」

「あいつも災難な……。姫さんの興味を引いちまったばっかりに」

「何が災難か。妾と言葉を交わし、手ずから給仕までできる。これほどの幸運、世の男共が血涙を流してのどから手を出すほどの栄誉。あれほど幸運な童子は他におるまい」

 シュルトを使つかうことを正当化しながら、プリシラは言外にアルにも同様の感謝をささげるようにと要求してくる。

 その欲しがりな視線に対し、アルは「へいへい」とやる気なく応じるだけだ。

「不敬な男よ。妾のまぐれに首をねられかけたことも忘れておると見える。……まあよい。そうじゃ、時にアル」

「なんでしょうか、お姫様」

「──わるだくみは、進んでおるのか?」

 その冷たいこわに、アルは呼吸するのを止めてプリシラを見た。

 シュルトを追い払い、周囲の気配が消えてから話題を振るあたり抜け目がない。適当な話題にさらりと爆弾をほうり込むくだなど、実際に間近で爆風を受けたような驚きだ。

 事前にこの流れをシミュレートしていなければ、無様をさらしていただろう。

「悪巧みってほどじゃねぇな。今は純粋に見極めのときって感じだ。オレがこそこそとぎ回ってるのに気付いてたのかよ?」

「妾の目も耳も妾自身も、常人より美しいだけでなく機能性も高い。ましてやここは妾の領地にして妾の庭ぞ。ねずみの足音も虫の羽音も、聞こうと思えば勝手に届く」

「そんだけ何もかも自分のもの扱いされちゃ、だんのライプじいさまが泣くぜ」

「あのような老骨、勝手に泣かせて枯らしておけばよい。いっこうに構わぬ」

 うるわしい夫婦愛など望むべくもない関係だが、こうまでさつばつとしているのもなげかわしい。ただ、今は身近な仮面夫婦の将来をゆうりよしている場合ではない。

い回られるのが嫌ならどうする? オレはむちたたかれるのかね」

 罰がその程度で済むはずもないが、はんありと疑われるのも問題だ。最悪、プリシラを相手に切り札を使う選択も考慮に入れるが──、

「いや? たかだか、家中をまさぐられた程度のことでかんしやくは起こさぬ。そもそも、貴様のようなていやからまねき入れた時点で、このぐらいのは想定内よ」

 しかし、その警戒はプリシラの思わぬ返答によってねらいを外された。

「……そ、れでいいのかよ?」

「男が鼻を鳴らして、わらわの残り香を必死に求めるのは当然の成り行きじゃ。妾の色香に迷う男のさが、ことさらとがめるほど狭量ではない。それに……」

 まどっているアルに、プリシラはゾッとするほどなまめかしい流し目を送って、

「貴様のごとき流動する立場のものは、小舟を寄せるを選ばねば生きていけぬ。なれば見極めのために右往左往するのを咎めるは、鳥に飛ぶなというに等しい愚かさじゃ」

「────」

「会って数日、けん上がりのようへい風情。その忠誠がすでに妾に全霊で傾けられておる……そう信じるなど、夢見がちな愚劣愚考よ。思考放棄もはなはだしい」

 いまいましげに言い切るプリシラに、アルはそっと全身を支配していた警戒を解いた。

 少なくとも、今の彼女の言葉にうそはない。そう判断するに足ると思えたからだ。

「……てっきりオレは、『自分と他人を比べるなんて不敬。ただ貴様らは、妾の姿だけを見て威光に目を奪われておるがよい』とか言われると思ってたぜ」

「自分に自信がないものほど、そうして他に目を向けさせるのを恐れるのじゃ。妾は妾がこの世で唯一至上の確信がある。ゆえにそのような不安とは無縁である」

 胸の谷間からせんを抜き、音を立てて開いたプリシラは「それに」と言葉を継ぎ、

「妾が世界一美しいせきであることに疑いはないが、至上であるとは他に比べる玉石あって初めてわかることよ。妾の素晴らしさを理解するには、妾以外の凡俗と妾を比べる必要がある。貴様のそのしゆんじゆんも、結局は妾の偉大さを確認するための遠回しならいさんに他ならんというわけじゃ。どうじゃ、なかなか傑作であろう」

「……ああ、そりゃ傑作だな」

 口元を広げた扇子で隠し、それでも隠れ切らない笑みを浮かべたプリシラ。彼女のそのごうがんそんそのものの物言いに、アルは一拍遅れて同意した。

 そのかすかな躊躇ためらいをプリシラは指摘しない。したところで無意味と理解している。

 そしてアルはそのプリシラの理解に気付けないほど、動揺していた。

 驚きがあった。頭を殴りつけられたような、そんな錯覚すら覚えていた。

 自分の目の前に立っているとしもいかない少女が、以前とは違うものに見える。

 それがいったい、何に見えているのか──。

「プリシラ様! 大変遅くなったであります! お茶をれてきました!」

「遅い!!」

 考え込む答えが出る前に、ドアを開けてシュルトが部屋に飛び込んでくる。

 プリシラの怒声がそれを出むかえ、シュルトは恐縮しながら危うい手つきでお茶を準備。そのかたわらでプリシラは空いたソファに腰を下ろし、大胆に白い足を組んで待つ。

 そうしてひどく無防備でいる主人と、顔をにしてきゆうする少年執事を眺めながら、アルはなおも延々と思考に沈み続けていた。


    5


 かぶとの中に流れ込むにおいに、アルは人知れず顔をしかめていた。

 書斎に入るのはこれが二度目だが、以前にも同じかんがいを抱いたものだ。

 換気の足りない部屋にこもる悪い空気と、月日をた書物が放つ独特な臭い。それらの組み合わせには慣れているつもりだったが、そこに体臭をす香水の香りと、それでも誤魔化しきれないほど染みついた部屋のあるじの臭いが混ざると話は別だ。

 結果、書斎には余人が足を踏み入れるのを躊躇ためらうような空気がただよっていた。

「遅い」

 出むかえの悪臭にやる気をがれていたアルは、その無愛想な声にさらにげんなりする。最初から嫌々足を運ばされただけに、モチベーションはすでにマイナスだ。これで相手が無礼を許される相手なら、とっくに後ろの扉からエスケープしていたことだろう。

 しかし、目の前の人物はそんな行いをユーモアと許すほど寛大ではない。

「遅い」

 繰り返し伝えられる、先ほどと一言違わず同じしつせき。しわがれた声にはさげすみと侮辱が込められており、機嫌を損ねたアルに対してそれなりの応対を求めている。

 とがめるだけにき足らず、心を屈服させなくては気が済まない。器が小さいのだ。

「おそ──」

「大変失礼しました。なにせお屋敷が広いもんで、急な呼び出しだとあっちへこっちへ確かめながらになっちまいます。今、何かおっしゃいました?」

 わざと三度目の叱責に応答をかぶせてやると、不機嫌丸出しの舌打ちが生まれた。

 その反応にいくらかりゆういんを下げて、アルは改めて書斎の主をじっくり見やる。

 部屋の左右を書棚に囲まれ、こくたんの机に座る老人だ。年齢は七十目前と聞いているが、精力的な肉体には五十代の若さが宿っている。覇気に満ちたひとみと顔つきがそれに一役買っており、曲がっていない背筋ときたえられた体格もあってなかなかの人物にも見えた。

 その見た目に反して、せんで自分本位な俗物的性格であるのが致命的だが。

 老人の名はライプ・バーリエル。バーリエル男爵領の領主であり、赤い女ことプリシラを妻に迎えたバーリエル邸の主人。アルにとっては形式上、剣をささげた主人のはんりよということになるため、自然とうやまうべき相手といえるだろう。

 もっとも、そうした敬意に値する相手とはアルは全く思っていないが。

「アレの自由に付き合って、領内を毎日のようにうろついているそうだな」

「アレっておっしゃいますと?」

「──っ。アレはアレだ。我が妻、プリシラに決まっている!」

「ですよね。いえ、確認したまでで。名前で呼ばなくなるのは、夫婦間の愛情が冷めてきてる証拠じゃないかと母に教わったもんで」

 げきこうするライプに、アルは内心で舌を出しながら適当に応じる。

「貴様はけんと聞いているが、父母に覚えがあるのか?」

「ヴォラキアの剣奴のみんながみんな、生まれながらに闘技場にほうり込まれるわけじゃありませんぜ。成人してから借金したやつやら、犯罪者やらが放り込まれる方がよっぽど多いぐらいです。同い年ならたたき上げにぶった切られるのがオチですがね」

「ふん。野蛮な帝国連中が好きそうな光景だな。趣味の悪さが目に浮かぶわ」

 吐き捨てるライプの偏見に、アルは珍しく同意した。

 剣奴時代のことは、正直なところ思い出したくない。

 毎日のように行われる命懸けの戦いで、名誉や武力を競うなどアルの性分には合っていなかった。今は命からがら生き延び、こうしていられる安息をみしめる毎日だ。

「まあ、今は貴様のことなどどうでもいい。それよりもプリシラのことだ。アレが毎日のように領地を巡り、勝手をやっていることを貴様はどう思う」

「物好きだな、とは思いますよ。俺のイメージ……ああ、考える領主の縁者としての過ごし方とは少し違うかなってね。領民にはえらい受けがいいみたいでしたが」

「受けがいい、か。ふん、物珍しがっておるだけよ。たまたまアレのまぐれと思いつきが畑に実りをもたらした。それだけで領民はアレをまるで神龍のようにうやまっている。わかりきっていたことだが、愚かしいにも程がある!」

 机にこぶしたたきつけて、ライプは怒りにぎしりしている。

 領民に人気がある、という部分がかんさわったのだろう。それは連日、プリシラに同行して領地を回っているアルには想像がついた。プリシラの件は別にしても、領地の村々でのライプの評判は悪い。地に落ちているといっても過言ではないほどに。

 まさか愚痴を聞かされるために呼び出されたのではあるまいか、とアルはあきれる。

「姫さんをようするわけじゃありませんが、畑の一件が思いつきってのは違うかもしれませんよ。領地のどの村を回っても、姫さんは一定の結果を出してます。それぞれ土地の条件が違うどこででも、です。まぁ、けいがんって信じにくいのは同感ですが」

「慧眼などと馬鹿馬鹿しい。アレが運ぶのはもっとおぞましい何かだ。そうでなくてどうしてアレが、『血染めの花嫁』などとうわさされていると思う」

 肩をすくめるアルが、ライプの口にした異名を聞いて動きを止めた。

 その反応に、ライプはやっと我が意を得たりとばかりにしゆうあくな笑みを見せる。

『血染めの花嫁』とは、今はバーリエルの家名を名乗るプリシラに付きまとう悪名だ。

 まだ二十歳にも満たない乙女であるプリシラだが、ライプの妻となったように、彼女がこんいんを結ぶのはこれが初めてではない。八度目だ。

 そして過去の七度、いずれの婚姻もたんしている。原因は彼女のはんりよの死──つまり、プリシラは過去に七人の夫と死に別れる経験を重ねているのだ。

 伴侶たちの死はいずれも、戦死・病死・事故死と原因が一定ではなく、プリシラはすべての死に関与を疑われていながら、その疑惑をくぐって今日まで過ごしてきた。

 ゆえに彼女の存在は、それを知るものたちの間では不吉を呼び寄せる『血染めの花嫁』と有名である。それでもなお彼女を求める男が絶えないのは、その不吉な噂を忘れさせるほどにプリシラが美しいから。それも皮肉な話であった。

 ただ、ライプだけはそれらの条件に当てはまらないとアルは思っていた。

 すでに性欲が枯れた老年であるというのも理由だが、何よりライプにはプリシラの色香に狂った盲目さがない。それは彼女をうとむ、今の素振りからも明らかだ。

 つまりこの老人には、プリシラをめとった他の目的がある。

 そしてその理由こそが──、

「来る王選の候補者でなくば、誰があのような女狐を懐に囲うものか。甘い顔をすれば限度を知らずにつけ上がる。貴様を騎士にしたあのもよおしもそうだったな」

「……ずいぶん、言葉を飾らずに言ってくれるもんですね。オレが姫さんに告げ口して、関係が悪くなるとか考えないんで?」

 口汚い上に、薄汚いもくをライプは惜しげもなく暴露する。

 王選──それはルグニカ王国を揺るがす大事変。病によって根絶やしにされる王族に代わり、新たな王を選出する龍がもたらす未来への試練だ。ライプは王国の未来を記す予言板の管理を任される男で、王家の病没前に王選の情報をつかんでいた。

 そして先手を打ち、候補者としての資格を持つプリシラを妻としてむかえ入れて、彼女を王位にかせることで王国の全権を握ろうとしている。

 見え見えのもくであり、ライプを知るものなら誰もが思い至る結論だ。が、まさか当人の口からここまであからさまに語られるとは。この場でアルが忠心を発揮し、プリシラのためにと剣を抜く可能性を想像しないのだろうか。

 あきれるアルを見上げ、ライプはその口元にしゆうあくな笑みを浮かべた。

「貴様はそのようなきよはしまい? ざかしく自分の利益を追求してこそのようへいだ。けん上がりの貴様は、義憤などと安い感情と自分の命を引き換えになどできるはずがない」

「……よくおわかりで」

 剣の柄に触れていた手を挙げ、アルは敵意がないことをアピールする。

「ですが、それならそれで何をお望みで? ぶっちゃけ、だん様の考えは大したもんだとは思いますが、オレが協力できるようなことはないと思いますぜ」

「そうでもない。もともと、貴様の立場には私の息がかかったものが立つはずだった。あの荒くれ者を集めたもよおしで、実際に上位四名は貴様以外は私の手のものだ」

「あらまぁ、出来レース」

「それもアレのまぐれでご破算だ。アレの周囲には私に賛同するもので固めなければならない。その道理は貴様にもわかるだろう」

 プリシラのほんぽうさが計算できないものなら、せめて軌道を修正するために周囲はそうらなくてはならない。当然の成り行きだ。だが、それならば、

「使用人のシュルトは? あの小僧っ子も姫さんが拾ってきた拾い物だろ?」

「あの小僧にも貴様と同じ話はしてある。孤児上がりでは手の届かないようなぜい、それを約束すれば一も二もなく飛びついたわ。しよせん、アレの目利きなどその程度」

「ふーん」

 プリシラのためにと豪語していたシュルトが思い出される。とはいえ、特に思うところはない。自分優先は生物の本能だ。厚遇されたことが理由の忠誠心なら、より厚遇される方に気持ちが傾くのも当然である。それはアルも例外ではない。

「旦那様がオレに何を期待してるのかは了解しました。んで、オレのたいぐうと今後の動きについてお話いただければと存じますが」

「──くく。そうだ、それでいい。なに、悪いようにはせん。無論、プリシラとてそれは同じだ。私の悲願のためにも、アレには健康でいてもらう必要がある。アレも、小僧も、貴様も、私の下で全員が幸福を受け取るだけでいいのだからな!」

 提案を受け入れるアルの態度に、ライプは上機嫌にのどを鳴らして笑った。

 その高笑いにアルは、「悪いな、姫さん」と裏切りを決意した主人へつぶやく。

 ──その心情のときですら、脳裏に浮かぶプリシラの幻影は勝ち誇った笑みだった。


    6


 ギリアン・エンデュミオンと名乗る騎士が、バーリエル領を訪れた。

 せいかんな顔つきと、しいまなしを持つじようだ。輝く金髪は陽光にきらめき、細身ながらきたえられた肉体は無骨なアルとは華やかさが違う。仕立てのいい騎士服は青年の魅力を引き立て、腰の宝剣は生半可なわざものでないことが素人目にもはっきりと見てとれた。

 上から下まで、真っ当かつ上等の騎士──それがギリアンという青年の印象だ。

「彼はエンデュミオン家の三男だ。二人の兄が父の領地経営を手伝うかたわら、剣才のあった彼は騎士として武名を高める旅へ出た。今日は無理を言って、当家にとうりゆうしてもらえるよう願い出たというわけだ」

 そう言って、隣に立つ美青年を紹介したのは誰であろうライプ・バーリエルだ。

 そして当然ながら、老人はアルやシュルトに客人を紹介するようなことはしない。ライプの正面で、ギリアンを無遠慮に眺めるのは男爵夫人、プリシラだった。

ぼんこつの話はわかったが、そのような男をわらわに紹介する意図がわからぬ。よもや老い先短い己の分をわきまえ、別の男をあてがってやろうなどと血迷ったのではあるまいな」

「馬鹿を言うな。誰がお前のように美しい妻を手放すものか。今日のことは彼の希望と、そして私からの少しばかりの気遣いと思うがいい」

「気遣いとは、らしからぬことじゃな」

 鼻を鳴らすプリシラは、ライプの申し出を信じる気がさらさらない。ライプは表面上はおだやかさを取り繕いながらも、内心で唇をんでいるのが目に見えるようだ。

 そんなライプが爆発する前に、ゆっくりと前に出るのはギリアンだった。

「この度は突然の訪問、そして無礼な申し出をいたしまして申し訳ありません」

 洗練されたぐさと、女を惑わせる低い美声だ。ギリアンはその場でプリシラにひざまずき、

「ですが、バーリエル領でプリシラ様のおうわさを耳にして以来、こうしてお会いできる日を待ち望んでおりました。天上のけんげん、まさしくと実感しております」

「ほう。礼儀は弁えておるようじゃな。妾のぼうはまさにこの世のものではない。にもかかわらず、とこに降りてしまった矛盾──まったく、罪なおなよの」

 美辞麗句を並べ立てるギリアンに、上機嫌なプリシラがアルの方を見る。彼女の背後に立って、従者の務めを果たしていたアルは苦笑の代わりに肩をすくめた。

「よい。妾の肌に触れ、騎士の礼を果たすのを許す。望外の幸福と心得よ」

「は。ありがたき幸せ」

 厳かに言って、プリシラが手をそっと差し出す。ギリアンはその白い指先を壊れ物を扱うように触れると、手の甲に口づけして騎士の礼を果たした。

 そこだけ切り取れば、なるほどまるでおとぎ話の一幕を切り取ったような光景だ。

「して、老骨よ。貴様の連れてきた男はわらわの最初の目にはかなったが、この先に何を求めている? 気遣いと貴様は言っていたがな」

「簡単な話だ。日頃、私は執務が忙しく、領地を巡るお前に付き添うことができない。一人であちこちを回らせていること、いつもがゆく思っていた」

どう師代わりとはいえアルがおるし、老骨を連れていても邪魔なだけじゃ。妾は介護などするつもりはない。余計なお世話というやつじゃな」

 言葉を選ぶライプに対して、プリシラの方は取り付く島もない。

 頭髪の後退したライプの額に血管が浮かぶ。が、それでも老人は笑顔を保った。

「そう言うな。つまり、日頃は我慢をさせているお前のために、今日は見映えのいい青年を供につける。彼は女性に対しても紳士な男だ。きっとお前も気に入るだろう」

「過分なご期待ですが、それに沿えるよう努力いたします。プリシラ様、よろしければこのわたくしめにその栄誉をお与えください」

 自制の限界が訪れそうなライプに代わり、ギリアン自身がフォローに入る。

 ライプはともかく、ギリアンの方のしんな態度には不自然さはない。プリシラは首を左右にひねって考え込み、ちらとアルの方を見てから、

「ま、いいじゃろう。たまには無骨なてつかぶとより、多少なりとも目に映える男の顔を眺めて過ごすのも悪くあるまい。配慮、なるほど大義である」

「……そうするといい。ギリアン殿、妻を頼むぞ」

「はっ! この命に代えましても」

 少しばかり大仰で芝居がかった言い回しだが、かえってそれがプリシラには受ける。

 ギリアンは自前の地竜──青い体皮をした見事な名竜を連れていた。いかにも血統書がついていそうな優秀な地竜は、プリシラの審美眼も大いに楽しませた。

 華麗に地竜を操り、せがむプリシラと二人乗りで地竜にまたがると、ギリアンは白い歯を光らせながらさつそうと屋敷の前から走り去っていった。

「やっと行ったか。歯の浮くようなことを言わせおって。憎たらしい娘だ」

 そうして二人を見送って、やっと肩の力を抜いたライプが吐き捨てる。その変わり身の早さにアルは小さく笑い、それからプリシラたちの消えた方を見て、

「ギリアン・エンデュミオン、ね。アレもだん様のごまの一つなんで?」

「当然だ。だが、ギリアンは他の手駒とは手間の掛け方が違うぞ。わざわざ遠方のエンデュミオン家を頼り、長い時間をかけて準備をしてきた。腕が立てば出自を問わなかった武闘大会とは、私とのつながりを消すのにかけた労力が違う」

わるだくみにどこまでも全力投球。その点は、だん様を素直に尊敬しますよ」

「ふん。そのたくらみに手を貸す貴様も同類だ。──ついてこい。ギリアンをアレと会わせた理由と、今後の方針について話をする」

 あごをしゃくり、ライプはローブのすそを揺すりながら屋敷の中へ戻っていく。

 その背に続きながら、ふとアルはプリシラの消えた方へ足を止めて振り返った。

 当然だが、もう彼女の姿はどこにも見えなかった。


    7


 ──悪巧みを交わすときは必ず書斎で。

 ひょっとすると、ライプにはそんなこだわりがあるのだろうか。

 ぎ慣れない悪臭に口で呼吸しながら、アルはぼんやりとそんなことを考える。

「執務室すらどこに耳があるかわからんが、この書斎だけは安全だ。我がバーリエル家が代々、密談を交わすために用意された一室だからな」

 表情の変化はかぶとのおかげで知られないはずだが、ライプは敏感にアルの内心を読み取って応じてきた。ここへきて、老人の神経は研ぎ澄まされている。

 それは彼の悲願の舞台である、王選開始の日取りが目前に迫ってきているというのも大いに影響しているのだろう。

「王都の方じゃ、今頃は大わらわになってたりするんスかね」

「王城は今さらのように馬鹿騒ぎをしている頃だ。国王とその血族が助からぬことなど、とっくの昔にわかりきっていたことだろう。問題から目を背けて、王国の存続について先送りにし続けた結果がこれだ。無能の集団が、やつらは何もわかっていない!」

 話している間にボルテージが上がり、ライプの額に血管が浮かび上がる。血の管を今にも千切りそうなほどふんがいするライプは、つい先日にくだんの予言を明らかにしたばかりだ。

 国王ほうぎよの話が市井に広がり、王選の実現へ向けて上級貴族たちは動き出している。そのすべてが、ライプに一歩も二歩も遅れての初動であることは事実だった。

「普段から嫌ってる連中を手玉にとれて、たのしんできたんじゃないんですかい?」

「私もそうなると思っていたのだがな。かえって、無能共に冷遇されてきた己をかえりみて不愉快さが増しただけだ。なにが賢人会だ。家の位と年齢だけで集められたもうろく共のまり場ではないか。無能筆頭のマイクロトフも、のうずいまで愚かを詰めたボルドーも、根こそぎまとめて魔獣にはらわたを食わせてやりたいほどだ」

「そりゃお怒りで」

 自分から話を向けておいてなんだが、他人の恨みこつずいを聞くのも退屈なものだ。

 気のない返事をしながら、アルは部屋の隅で小さくなっているシュルトの方を見る。少年は自分がこの場にいる理由がわからない様子で、白い顔をずっと下に向けていた。

「王都の間抜け共の話は今はいい。時間の無駄だ。それよりも、いよいよ待ちに待った王選が始まる。そのための話をせねばならぬ」

「姫さんが候補者、って点に関してはすでに報告を上げてあるんで?」

「無論だ。まず、竜歴石の記述が真実であるとやつらに知らしめねばならん。候補者がルグニカしようを光らせることができると、そう証明する必要がな。本来ならプリシラに光らせる役目をやらせ、王選参加の一番乗りを主張したかったのだが……」

 そこで一度、ライプは苦い顔をして言葉を切った。

「予言の報告をしたその場で、上級貴族の一人が徽章を光らせた。候補者がその場に一人居合わせたのが、私にとって唯一の誤算だ」

「へぇ。そいつはずいぶんとラッキーな奴がいたもんだ。ちなみに誰が徽章を?」

「カルステン公爵……クルシュ・カルステンだ。婦女子の分際で、父親に譲られた爵位を恥知らずにもかかげる小娘よ。野蛮な剣術狂いで、奇特な従士を連れていることでも有名な変人だ。徽章も何を選んだやら。……プリシラが選ばれている時点で、そのようなことを考えるのは無駄でしかないがな」

 実感のこもったため息には、アルもさすがに同意見を思いながら苦笑する。

 王選の候補者は、ルグニカ王国に伝わる徽章の宝珠を輝かせることができる。その条件を満たす五人を見つけ出し、王座を競わせるのが王選の内容だ。

 ただ、その候補者の選出条件には解明されていない部分が多い。共通点も、血も、加護ですら今のところは決定打とは思えない。

「ちなみにだん様は、姫さんが候補者ってのはどうやって見つけたんで?」

「……それについて、貴様に教えてやる義理はない。少し話しすぎたが、余計なせんさくはするな。貴様はただ、私の指示に従っておればよいのだ」

「……さいで」

 話を切り上げるライプに、アルは素直に引き下がる。

 大人しくアルが話を聞く姿勢を見せると、ライプは鼻から長い息を吐いた。それから老人は部屋の隅にいるシュルトに舌打ちし、

「貴様もいつまでそうしているつもりだ。わざわざ私が話をしてやる時間を作った。小さくなっているひまがあるなら、少しでも貢献する姿勢を見せろ」

「は、はい……失礼します……」

 奥のこくたんの机に座るライプと、その正面に立つシュルト。アルは書棚から抜かれた本が床に積んであるのを見て、その上にどっかりと腰を下ろした。

「話を無駄に長引かせるつもりはない。本題に入るぞ。──ギリアンだが、私はあの男にプリシラの騎士をやらせるつもりでいる」

「はいはい、早速待ってくださいや。したら、オレの立場はどうなります?」

 ライプの意見に手を挙げ、アルは待ったを呼びかけながら問いかける。

「オレ、姫さんの騎士って扱いで屋敷に置いてもらってるわけですが」

「安心しろ。貴様をほうり出すようなはせん。貴重なごまを簡単に手放せないし、口封じするのも手間がかかる。騎士とは立場は異なるだろうが、屋敷に居場所は作っておいてやろう。それは心配いらん」

「その点はそこまで心配しやしませんが、そうまでして騎士を取っ換えるってのには何の意味があるんで? もちろん、だん様の手駒ってのも重要なんでしょうが」

「それは簡単な話だ。民衆は騎士らしい騎士を従者にした主従の絵面を好む。王族以外が玉座にく形になる以上、国民の支持はこれまでのように無条件には得られない。愚かしく単純な国民には、わかりやすく熱狂できる偶像が必要なのだ」

 熱弁を振るうライプの言葉に、アルは意外に感心してまゆを上げていた。

 つまりはイメージ戦略というわけだ。見映えのいい騎士と姫を用意し、初見の時点での受け入れやすさを変える。それは王選で候補者同士争う関係上、無視できない影響を持つことになるだろう。せせこましいといえばそれまでだが、

「勝率をわずかでも上げるため、なんでもやる姿勢は素直に尊敬しますわ」

「評価の下し方がいささか気に食わんが、まあいい。民衆の騎士像として、ギリアンは申し分のない仕上がりのはずだ。プリシラも見た目だけなら、おぞましいほどに人目をきつけるのは認めている。事前準備はばんじやくだ」

「あー、ただ一個だけ問題が」

 ほくそ笑む老人に水を差す形になるが、自信満々な作戦にアルはねんを抱いていた。不機嫌なまなしを向けられながら、アルは自分のかぶとの金具を指でいじりつつ、

「あの姫さんが、自分の決定をくつがえしますかね? オレ、姫さんが開いたもよおしで姫さんの指定で姫さんの騎士になったわけで。そこ曲がるかちょい不安が」

「なんだ、そんなことか。つまらん心配をするな」

 アルの懸念を鼻で笑い飛ばし、ライプは机の上を指でたたきながら、

「見目のいい騎士と、きようてつかぶとの男。女がどちらを選ぶかなどわかりきったことだ。それとも貴様、自分がギリアンよりも女に好かれる自信があるのか?」

「いやぁ、そりゃねぇですね。ナンパ勝負なら百戦全敗。それどころか、下手したら剣で勝負しても勝てない可能性がありますわ」

「ならばそういうことだ」

 アルの情けない答えに満足げにうなずき、ライプはの背もたれをきしませる。

 老人のたくらみはおおよそ理解した。なるほど、頷ける内容ばかりだったと思う。ただ、

「あ、あの……」

 合理性に納得するアルとは別に、おずおずと手を挙げたのは黙っていたシュルトだ。

「なんだ。貴様も私の考えにケチをつけるつもりか?」

「そ、そんなつもりじゃ! あ、あのですね……あの、プリシラ様は……」

 ライプのけわしい視線に小さくなりながら、シュルトは息をんで続ける。

「プリシラ様に、ひどいことはしないでありますよね? だん様は、プリシラ様を王様にするために……そのために、色々とお考えなんでありますよね?」

「……そんなことか。つまらないことを言うな。私の目的は何度も言っている。そのために必要なプリシラを、どうして私が自ら害する必要があるのだ」

 シュルトの子どもらしい心配に、ライプは舌打ちしながら吐き捨てる。

「アレが玉座にく道を整えるのが私の役目だ。むしろ、アレが仮に王選を拒んだとしても参加を強要する。お前たちにも同じ役割が求められると思え」

「まぁ、姫さんの性格上、どう考えても王選を辞退なんてありえねぇだろうけど」

 売られた勝負は買うだろうし、そもそもこの世のすべては自分のものと豪語してはばからない少女だ。合法的に国が手に入るなら、当たり前のようにそれをするだろう。

 知らず、玉座までの道をばくしんするプリシラを思い浮かべ、アルは笑っていた。

「そうでありますか。よ、よかったであります……」

 シュルトも、ライプの答えに胸をで下ろしている。報酬を理由にライプの手先にくらえしていようと、拾ってくれたプリシラへの恩義は失っていないらしい。プリシラも王座に就き、自分にもほうがある。彼にすれば万々歳の結果だろう。

 しかし、そんな二人のかんがいは、

「扱いづらい娘ではあるが、のろいでかいらいにしてしまえば意のままに動かせる。玉座に人形を座らせ、王国は晴れて私の手の内というわけだ」

 計画の最終段階を明らかにしたライプの一言で、粉々に打ちくだかれていた。

「──え?」

 意味が呑み込めず、シュルトがかすれた声を漏らす。

 老人はあくらつな笑みを浮かべ、シュルトのその反応に肩をすくめて見せた。

「なんだ、聞こえなかったのか? あの娘のやつかいな自意識は邪魔だ。王選が始まる前は大目にも見てやれたが、行動の一つ一つの重要性が増す今後は野放しにはできん。王城でのおが済み次第、自意識を奪って我が傀儡とする」

「……そんな、簡単にできるんで?」

「貴様らには想像もつかんだろうがな。世の中には想像を絶するしゆうあくの需要が多い。『じゆじゆつ』をあつせんする便利なやからも、とうの昔につなぎができている」

 夢物語のたぐいではなく、ライプのさくぼうは現実的なものだ。呪術師による呪いで、プリシラの自意識を奪う。それも実現可能な内容なのだろう。

「は、話が違うであります!」

 冷静に事実を受け入れるアルと違い、裏返った声を上げたのはシュルトだった。

「プリシラ様には何もしないって、だん様はそう言っていたはずであります!」

「何もしないなどと言ってはいない。危害は加えないといったのだ。アレが無事でなければ玉座など望めん。だから健康体を損なうつもりはない。何の問題がある」

「プリシラ様が、プリシラ様でなくなったら……そんなの、意味が……っ」

 声をふるわせるシュルトに、ライプは不愉快そうな顔を向ける。ひとみが残酷な色を宿し始めるのは、目の前の少年の利用価値と不快感をてんびんにかけている証拠だ。

れいごとを抜かすな、小僧。貴様は報酬に釣られて、すでにアレを裏切った身だ。今さらアレの身を憂う資格などない。それともなんだ。貴様もアレの色香に惑ったのか? いんばいの魔性にまれるなど、男児として情けない限りだが……そうだな」

 いやらしく口元をゆるめ、ライプは立ち上がって机越しにシュルトに顔を寄せ、

「アレを好きにしたいなら、玉座にいた後ならそうさせてやる。あんなぜいにくの塊の何がいいのか私にはわからんが、貴様らにはそれがすいぜんものなのだろう?」

「────ッ」

 これ以上ない女性べつとプリシラへの侮辱。

 その発言に顔をにして、シュルトのきやしやな腕がライプへと伸びた。

 しかし、ライプはそれをあっさりとけると、代わりに机の上にあった短筒をシュルトの胸へとたたきつける。苦鳴を上げ、シュルトは書斎の床を転がっていく。

「屋敷に主人である私に手を上げるとは、しつけのなっていない野良犬はこれだから困る」

 子どもをようしやなく殴りつけたライプは、床でもんぜつするシュルトを見下ろす。

 今のライプの動きには、七十を目前にした老人とは思えぬ鋭さがあった。長年絶えずに抱き続けてきた野心は、これほどまでに人の体を活力で満たすものなのだ。

「焼け死ぬがいい。内臓をがし、体中の穴という穴から煙をけ。そのみじめなり様を見ることで、この屈辱のあがないとしてくれる」

 手にした短筒の先端をシュルトへ向け、ライプは虫をつぶまなしで罰を実行する。

 マナの高まりが書斎の大気を揺らし、けんげんする破壊が幼い体をじゆうりんし、シュルトという存在が炎の中でちりへと変わる──、

「……何のつもりだ?」

「急にボールがきたので、つい」

 シュルトが焼き払われる寸前、アルのせいりゆうとうは短筒をねらって放たれていた。下から振り抜かれる刃にとっさに退き、ライプはいまいましげに唇をゆがめた。

「何の理由があってその小僧をかばう。貴様は黙って見ていればいい。その立場に収まることを、貴様は了承したはずだろうが!!」

「そんな怒るといよいよ血管が千切れますぜ、だん。いや、オレもなんでこんな風に体が動いちまったのかわからねぇんですが……」

 激怒するライプの前で、おどけてみせながらアルは本音を話していた。

 自分にも、どうしてシュルトをかばったのかわからないのだ。合理的に考えれば、ライプの話を自分の都合のために利用するのが最善だ。

 なのに今、アルはライプに反論したシュルトを庇って、老人と敵対してしまった。

 、どうして、わからない。

「アル様、も……」

 どうの素振りを見せるアルの背後で、シュルトがうめきながらこちらを見ている。

「シュルトちゃん、苦しいなら泣いてていいぜ? 内緒にしといてやるから」

「アル様も……プリシラ様が、好きなんですよね……?」

「────」

 アルの戯言たわごとを無視して、シュルトは絞り出すようにそう言った。

 そしてその言葉を聞いた瞬間、アルの全身を衝撃が突き抜ける。

 長い長い、ため息をこぼしてアルは納得した。

「あぁ、なんだ、バッカでぇ。……オレ、こんな簡単なことに気付かなかったのか」

 気付いてしまえばすんなりと、これまでのまどいに答えを出すことができる。

「血迷ったことに気付いたか? ならば、今すぐにそこを……」

「わかったよ。やっとわかった。オレの馬鹿だな。すぐ気付きゃよかったぜ」

 首を横に振り、アルはせいりゆうとうを握ったままのせきわんで肩をすくめて、

「姫さんのエロ可愛かわいさに共感できねぇジジイと、仲良くわるだくみなんてできねぇってな!」

「──この、愚か者がぁ!!」

 たんを切った直後、ライプの左手が机の引き出しを抜いてアルへ投げつける。迫るそれを青龍刀でたたり、足下の本をライプへり飛ばしてアルは叫ぶ。

「シュルト! 今すぐに部屋の外に出ろ! あとのことはなんとかしちゃる!」

「うっ……く、はいであります!」

 痛みに顔をしかめながらも、シュルトは懸命に走ってドアに飛びつき、そのまま振り返らずに部屋を出た。いい判断だ。だが、ライプはその判断をあざわらい、

「貴様らはどこまでも愚かだな! 何故、貴様らだけを書斎へ呼んだと思う。屋敷の他の使用人は、すべてすでに私の賛同者だ。部屋を出た小僧の末路は決まっている!」

「周到なこって。でも、まだわからねぇぜ? 旦那を人質にしちまえば……」

「簡単に押さえ込めると思うか、若造が。私も若い時分、に戦場で鳴らしたわけではないぞ。いくさばたらきならば、ボルドーにすらおくれは取っていない!」

 えるライプから放たれる闘気は、それがハッタリではないことを証明している。

 老人が手にする短筒は『ミーティア』だ。効果はおそらく、使用者の魔法の威力の底上げ──単純な効果だが、それゆえに打開策は存在しない。

 彼我の戦力を比較して、アルは自分が有利ではないと即座に判断。つまり、

「条件は整ってる。──切り札を切るのに躊躇ためらいはねぇ」

「馬鹿が……」

「馬鹿は否定しねぇよ。あんたに恨みはねぇ。運が悪かった。……いや」

 そこで言葉を切り、アルはシニカルな笑みの響きを声に乗せながら、

「──星が悪かったのさ」

「────っ!」

 言い切った直後、ライプがもはやけんせい抜きに短筒を引き上げ、魔力を解放した。

 ライプのてのひらを伝い、短筒を通ってマナが圧倒的な力を得る。『ミーティア』の先端から抜ける魔法の威力は、通常の威力の五倍以上にふくれ上がるのだ。

 それは戯言たわごとを抜かしたてつかぶとの胴体を直撃し、のけ反る体の中心で爆発。しやくねつに人体が焼かれる悪臭と、飛び散った血肉と内臓が書棚にぶちまけられる。

 音を立てて首だけのかぶとせいりゆうとうが床に転がり、ライプは惨状を退屈そうに眺めた。

「何が切り札だ。くだらん。まったくもって、何もかもがくだらんぞ」

 まみれの書斎を横切り、ライプは部屋の外へ向かおうとする。万一ではあるが、逃げた小僧がプリシラと合流されては困る。早々に見つけ出し、始末しなくては。

 そう考えて、書斎のドアノブに手を伸ばす。

「──星が悪かったのさ」

「────!?」

 瞬間、聞こえた声に絶句してライプは背後を振り返った。

 するとそこに、ライプに対して背を向けた男が立っている。それは鉄兜をかぶり、片手に青龍刀を握ったせきわんの男で──、

「あれ? どこに……」

「ゴーアぁ!!」

 間抜けな男の声に聞く耳持たず、ライプは短筒に魔力を通して再び男を焼き殺す。

 放たれる火炎が男を焼きがし、絶叫する鉄兜はまたしても粉々になった。

 惨状が書斎の床を改めて汚し、ライプは意味のわからない状況に後ずさる。

「な、なんだ? 今のは何が、何が起こったと……」

 ふるえる己に気付き、ライプは深呼吸をする。額に浮かぶ大量の冷や汗。それをそでで乱暴にぬぐいながら、老人は状況を整理しようと顔を上げ、

「──星が悪かったのさ」

 またしても、男の声が、聞こえた。


    8


「──星が悪かったのさ」

 聞こえた。その声が、再びを打っていた。

「あれ? どこにいった?」

 目の前で、敵を見失った男が左右を見渡す。それから男は振り返り、背後で座り込んでいたこちらに気付くと、とっさにせいりゆうとうを構え直した。しかし、

「なんだ。やる気なくなってんな。その様子からすると……今回は加害者の方か。なるほどな。あんたも相当ついてねぇ」

 同情するように言って、男はへたり込む老人の前でしゃがんだ。

 よだれを垂らす老人は、その男の顔を見上げることもしない。

「一秒前まであんな元気だったってのに、一気にとし相応に老けたな。何回やったんだか知らねぇが、まさか二桁でけたんじゃねぇよな? 確かめようもねぇけど」

「──ろして」

「あん?」

 ささやくような声がして、かぶとの男は首をかしげる。

 その男に届くように、老人はゆるゆると顔を持ち上げて、

「ころして、くれ……」

 それだけが救いであるかのように、老人はひたすらにそれを求めていた。

 そのこんがんに男はやるせなさを覚えたように肩を落として、

可哀かわいそうに。エロ可愛かわいさが理解できないだけで、人はわかり合えないものなのね」

 立ち上がり、兜の男は青龍刀を軽く担ぐと、老人の首にねらいを定める。

 そして、刃は無常にも振り切られ、老人の首が鮮血を上げて宙を舞う。

 やっと、老人の悪夢は──、


「──星が悪かったのさ」


 終わらなかった。


    9


 すっかり髪が抜け落ち、ひとみくぼんだライプを連れてアルは書斎を出た。

 うわ言を繰り返し、よだれを垂らす老人は完全に正気を失っている。

「しかしこれ我ながら引くわ、どうなってんだ」

 重たい老人の体を引きずりながら、アルは自分で自分にドン引きしている。

 殺さず無力化、それも長い目で見て無力化したのはまさに最適解といえるが、これがライプのもくとどれほどあくらつさで違いがあるというのか。

「まぁ、クソジジイと美少女じゃ罪悪感が違うな。そう考えると気楽だわ」

 早々に自分を正当化する発想をして、アルはそのまま屋敷の玄関ホールへ向かう。頼れる相手がいない以上、シュルトが逃げるのは屋敷の外しかないが、

「──アル様!」

 玄関ホール、一階と二階とをつなぐ大階段へアルが差し掛かったところで、下からこちらを呼ぶ声がした。見れば、玄関ホールには屋敷の使用人が大勢と、扉の前にシュルトが立っている。おまけにその少年のかたわらには、

わらわの留守の間に、ずいぶんと騒がしく過ごしていたようじゃのう」

 騎士を連れて帰宅したプリシラが、腰に手を当てて無駄に偉そうにしていた。彼女は上階のアルを見上げ、ねた顔つきで鼻を鳴らすと、

「これ、アル。いつまで上から妾を見下ろしておるか、不敬であろう。とっとと降りてきて、妾のいない間のさいを説明せよ」

「あー、了解。いけたらいくわ」

「いかにもくる気がなさそうな返事じゃな」

 大階段の上でふざけるアルに、プリシラは片目をつむって無礼を許す。だが、そんな主従のやり取りに割り込むのは血相を変えた男だ。

「お待ちください、プリシラ様! あのかぶとの男、ライプ様に何かした様子では?」

「んん? おお。よく見ればアルが引きずっておるのは老骨ではないか。どうした。ついにそこな老骨、己の愚鈍さに絶望して首でもったか?」

 ギリアンの指摘に不謹慎な反応をするプリシラ。ぎょっとするギリアンだが、アルは彼女の態度に苦笑しながらライプを持ち上げ、

「んや、死んでない。訂正、体は死んでない。でもなんか心は急に死にました」

「急死か。ま、としが歳じゃからな。老木にはそういうこともあろう」

「そんな言葉でされていいはずがないでしょう!」

 納得の姿勢を見せようとするプリシラに、ギリアンが猛烈に抗議する。彼はプリシラの前に踏み出すと、腰の騎士剣を引き抜いて段上のアルに突き付けた。

「貴様、風体の怪しいやからなれど、プリシラ様の従者と聞いて見過ごしてきた。だが、どうやら見過ごしてはならないものだったらしい。ライプ様にはむごいことをした」

「だから死んでねぇって」

「しかし! そのどく、決してプリシラ様には向けさせまい。プリシラ様をお守りするお役目は、これからは私が引き継ぐ!」

 息巻くギリアンは見た目も相まって正義の騎士。一方で見下ろすアルは格好と生きるしかばねライプのせいで悪役街道まっしぐらだ。

 ホールでは使用人たちが固唾かたずんで状況を見守っている。とはいえ、本心からアルを心配しているのはシュルトだけだろう。他の使用人は全員がライプのごま、仮にギリアンを突破できても、その後の見通しはかなり暗い。

 切り札も、今は条件が整っていない。さて、どうしたものかとアルは悩む。

「どうやら自分の不利を悟ったようだな。ならばいさぎよられるがいい。貴様がどんなよこしまたくらみを持っていたかは知れないが、プリシラ様の今後のあんねいは私が守ろう。変わらず平穏な日々をもたらし、彼女の道行きに幸いを!」

 盛り上がるギリアンが踏み出し、そのままいつせいにアルへと斬りかかろうとする。

 だが、その最初のり足の爆発が起きる直前だ。

「変わらず平穏な日々か。──つまらん」

 プリシラはひどく退屈そうに言った。

 そして背後から、手にした『真紅の剣』でギリアンを一太刀で斬り捨てる。

「な、ぁ──!?」

 予想外のざんげききようがくの声を上げ、背中に深手を負ったギリアンが階段に倒れ込む。その体をあしにしてあおけに転がし、プリシラはあえじようの鼻先に切っ先を突き付けた。

「どんな口説き文句でわらわを魅せるのかと思いきや、道中だけでなく見せ場ですらも退屈な男よ。挙句の果てに、変わらぬ平穏を妾へ贈るじゃと? 凡愚ここに極まれりじゃ」

「なに、を……」

「昨日と同じものになど何の価値がある。変わらぬものなど退屈なだけじゃ。妾には常に新しきものを見せよ。それができないならせめて屍になって、腐って、肥やしになって、やがて自然と視界から消えよ。愚物め」

 自分に対して好意的であった男に、プリシラは残酷な言葉をようしやなく浴びせる。

 目の前の赤い女が何を言っているのか、ギリアンにはきっと半分も理解できない。そしてそのまま、彼が理解に辿たどり着く機会は永遠に奪われる。

「うわ……」

 階段に倒れるギリアンの体が、突如として炎をき上げたのだ。傷口を火元として延焼する火災は、ギリアン・エンデュミオンという美丈夫をしやくねつの抱擁で逃さない。

 のどを焼かれ、ギリアンは悲鳴も上げることができないままに焼けていく。

「姫さん、屋敷が火事になる前に消した方がいいんじゃねぇ?」

「たわけ。妾の陽剣が生み出した炎ぞ。妾の選んだものだけ燃やすに決まっておろう」

 理解できない理屈だが、階段に敷かれたじゆうたんにはギリアンの炎が燃え移っていない。どうやら事実らしいと確認して、プリシラの規格外さにアルは思わずあきれた。

 ちなみにいつの間にか彼女が手にしていた真紅の剣は、再びこつぜんと姿を消している。

「まぁ、もう今さら姫さんの手品に驚くのも馬鹿馬鹿しいや。それより、この燃えてる人含めてもろもろはどうする?」

「人の焼けるにおいは何度いでも不快じゃな。貴様ら、とっとと片付けよ」

 すっかり黒げになったギリアンを、プリシラの指示を受けた使用人たちがちゆうちよせずに手早く片付けていく。その様子にアルは一つの納得を得た。それは、

「さては姫さん、とっくにこのじいさんのたくらみを暴いてやがったのか」

「初めからわらわを利用して、国の権力を握ろうとしていた点は隠しておらなんだ。ならば老骨が打つ手など容易に想像がつく。羽虫が耳元を飛び回って煩わしさを感じる前に、飛び立つ羽根と足をもいでおくのは必然じゃろうが」

「ぱねぇ。役者が違ったわ」

 老人の長年の野心のどうぶりと、てのひらもてあそばれていたぶりに思わず笑ってしまう。

 領民の人心しようあくはもちろん、屋敷の中にも本当の意味で味方はいなかったわけだ。プリシラに掌握されていなかった唯一の味方も、今はこんがり焼かれて炭になっている。

 そう考えると、野心を抱えたまま正気をなくしたのは幸せだったのかもしれない。

「ところで、そこまで周到に仕返しするはずを整えてたんなら、どうしてそのあたりのことをオレらに話しておかなかったんだよ。おかげで変な小芝居しちまった」

「貴様にはその手の才能はないぞ、見ておれん。シュルトも同様じゃ。妾を見るたびにわかりやすく狼狽うろたえおって。笑いをこらえるのに苦労する身にもなるがいい」

「あ、えっと……ぷ、プリシラ様……」

 ライプを階段に投げ出し、談笑するアルとプリシラの下にシュルトがやってくる。プリシラが腕を組んで胸を強調すると、シュルトは視線をさまよわせて迷う素振り。

 一度はプリシラをたばかる側に回ったことを謝罪するつもりなのかもしれない。だが、それはそれで言葉を選ばなくてはげきりんに触れかねない。

 いざとなればフォローしなくては、とアルがささやかに気を張ったところ、

「ご無事でよかったでありますぅ……ぼ、僕は、僕は心配で……」

「ふむ」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしたシュルトを見て、アルは自分の馬鹿さに呆れた。

 まだ十歳前後の子どもの心に、どれだけ馬鹿な常識を押し付けて物事を測るのか。

 あれだそれだと決めつけて、そのもの自体を見ようとしなかったあわれな老人が、誰にも味方してもらえずに孤独についえたのをこの目で見てきたというのに。

「まったくシュルトはやつじゃのう。ええい、妾のドレスを汚す許可を与える」

「わぶっ」

 泣きじゃくるシュルトを抱きしめて、プリシラは愉快そうに少年の顔をドレスでれいぬぐってやる。それから目を回す少年を胸にはさんだまま、アルを振り返る。

「なにそのうらやましいポジション」

「当たり前の話じゃが、よくぞわらわを選んだ。めて遣わす」

「ジジイとエロ可愛かわいい美少女なら美少女を選ぶ。誰だってそうする。オレもそうする」

「その率直さ、嫌いではないぞ。さて……」

 プリシラは壇上でうつろな目をするライプを見やり、小さく鼻を鳴らした。

「なんとまぁあわれにも、妾の形式上の夫は領主としての能力を失った。このままではバーリエル領の未来が危ぶまれる。こうなっては、妾が当家の代表として全権を握るのも致し方ない話じゃ。そうじゃな?」

「愛する夫の意志を引き継いで、慣れないしつせい者としての仕事に奮闘する良妻。美しい少女の盲目的な行いとは、涙を誘うシナリオじゃねぇか。泣けてくる」

「よく言うわ」

「姫さんもな」

 似た者主従は笑い合い、ひとまずは家中をまとめた現状に満足した顔をする。

 それからいまだに、プリシラの胸に挟まって目を白黒させているシュルト。少年の頭を両手でつかみ、髪をかき混ぜながらプリシラは、

「ほれ、どうした、シュルト。笑うがいい。貴様の大好きなわらわは今、ご機嫌じゃ。ならばじゆうそつがどうすればいいのかは、わかっておるな?」

「は、はいっ。わかったであります!」

 プリシラの指摘に背筋を正して、シュルトは律儀にも息を整えてから大きく笑う。

 ほおに手を当てて無理やり笑顔を作り、声がれるほど大きな声で。

「ははははは、であります!」

「それでよい。それが済めば、次に何を妾が望むかはわかっておろうな?」

「紅茶をれてくるであります!」

「うむ!」

 胸からせんを抜き、音を立てて開いたプリシラが階段を下りていく。その背中にアルが続き、笑い声を上げるシュルトも並んで歩く。

「まったくもって痛快よ。これでよい。なにせ──」

 笑う少女の声を聞きながら、アルは自分がどうして、彼女を選んだのか自覚する。

 何のことはない。簡単だ。自分もまた、この少女の魔性に魅せられただけなのだ。

「──この世界は、妾にとって都合の良いようにできておるのじゃからな」


《了》

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