『後追い星をやめた日』
1
地続きの大陸一つからなるこの世界にあって、大国と呼ばれるのは四つの国だ。
それぞれが東西南北に
四つの大国の力関係は絶妙なバランスで保たれており、この
──北のグステコ聖王国は厳しい寒さと
また、
オドグラスはグステコ聖王国の建国の際、自分を従えていた精霊使いに『聖王』の名と契約を交わし、以降の国家元首である『聖王』の選出にも常に
グステコ聖王国の国家元首である『聖王』とは、血や出自に
──西のカララギ都市国家は、他の三つの大国と比べれば歴史の浅い新興国家だ。
およそ四百年前まで、大陸の西部は数々の小国が
その状態に終止符を打ったのが、ホーシンと名乗る一介の商人だった。
身元も出自も確かでないホーシンは、ただその口先と商才と発想力だけでのし上がり、ついには武力で
結果、多くの小国はホーシンの足下に屈し、国家としての立場を都市と改め、
以来、ホーシンの名は立身出世の代名詞となり、ホーシン亡き後も残された足跡を
──南のヴォラキア帝国はもっとも古い歴史を持ち、長きにわたって国を『富国強兵』の理屈で皇帝が導く形をとってきた国家だ。
頂点に君臨する皇帝が絶対の権力を握り、帝国の
その形式は建国当初から変わっておらず、暗君によって帝国が
皇帝は帝位にある間に国内の各地で子を
そうした国柄を
他国との国交はあるが、基本的には
2
「なんでも領主様が新しい奥方様を
バーリエル領の領民にとって、その話題は野良仕事の合間に皮肉まじりに交わされる程度の話題でしかなかった。
自分たちの領地を取り仕切るライプ・バーリエル男爵に対して、領民たちはあまり良い印象を抱いていない。というより、むしろ印象は悪いというべきだった。
領民に対する配慮に欠けた税率に領法。親しまれるような振舞いどころか、顔を見せることすら
領主と領民の間でそれほど意識に溝が生まれていれば、それは反乱の種にもなりかねない。実際、そうした
しかし、領民の善心への配慮が足りない領主は、領民の悪心に対する警戒だけは常に欠かしていなかった。結果、企ては
どうせその後妻とやらも、自分たちの働きのほとんどを持っていって、自分たちには生き長らえるのが精いっぱいの
領主ライプの寿命が
それだけを希望に明日を生きる領民にとって、それが彼女への最初の評価。
プリシラ・バーリエルという赤い女を見る前の、最初の評価であった。
「はっ。ずいぶんと殺風景で、おまけに
その女は開口一番に、村一番の畑とその畑
声に込められた
そこに立っていたのは、赤い女だった。
太陽の日差しを映したような
己を
その視覚的な衝撃に、一目で高貴な相手とわかっていながら全員が反応を忘れる。
付け加えれば赤い女は、その過剰な服飾の印象を消し飛ばすほどに美しい。
その場にいたものは男女問わず、目の前の
「何をじろじろと
しかし、その
赤い女の言葉は屈辱的な侮辱だ。だが、その身分が自分たちと比較にならないのは見ればわかる。つまり、逆らうことで
「なるほどな。長年の
「お、お貴族様とお見受けします。本日はこの村に、どのような御用件で……?」
顔を伏せる領民を見渡し、納得した顔の女に畑
村で一番の畑と土地を持つ彼は、底辺の争いではあっても村の代表者だ。この場で貴族に用向きを尋ねる資格があるのは彼しかいない。
「そう
畑主に顔を近づけ、
畑主と赤い女との間には親と子ほども年齢差があるが、女が放つ濃密な色香は年の差を忘れさせて男に女を想起させる。魔性、そう表現するのが
「ふむ、ふむ……なるほどな」
畑主をたじろがせてからは、女は我が物顔でそこいらの畑を見て回っている。
領民たちはその間、女が言った通りにその姿を盗み見ているのが手いっぱいだ。野良仕事を再開して文句を言われる筋合いはないのだが、誰もそれをしようとは思わない。
他と違うことをして、あの赤い女の注意を引くことを誰もが恐れていたのだ。
「そうさな。まずはこことここ、それからそちらの二つでよいか。どれもさほど変わらぬが
一通り、周辺の畑を見て回った女が納得した顔で
それから彼女は畑主をじろりと見やり、彼が
「そこな凡夫。貴様がこの村で一番大きい畑持ちじゃな」
「は、はい。その通りです」
「貴様の畑は見ればわかる。
侮蔑と
領民にとっては領主が天上人。すっかりその認識に
「まあ、貴様の畑はよい。比較する対象としてちょうどよい踏み台よ。
女が指定したのは、大畑主の持つ土地に比べて
名乗り出るその村人を見て、赤い女はその
それは
「まあよい。枯れ切った苗に水を与えてこそ、誰しもに変化がわかるというもの」
耳元で
そして囁きを終えると、女は満足した顔で腕を組む。組んだ腕の上で
「言い忘れたが、妾はプリシラ・バーリエル。ここいら一帯の、バーリエル男爵領の新たなる領主である。この場にいないものにも伝え聞かせよ。今日のような無礼を妾が寛大にも許すのは、無知と
そうして女は、我に返った領民たちにとって絶望的な言葉を残して去った。
後々になって領民たちは、あのプリシラと名乗った人物がライプ・バーリエル男爵の
そして若い娘であった事実が、老齢のライプのように、老いによって立場を
今後も長きに
プリシラの来訪に誰もがそんな不安と恐怖を抱き、一
──プリシラが指定した男の畑が、ありえないほどの豊作に見舞われたからだ。
3
「なんつーか、正直、意外だったぜ。姫さんがこんだけ
気安い調子で放たれる声は、しかしくぐもってどこか聞き取りづらいものだった。
カチカチと金属同士が
頭部が黒の鉄兜で覆われているのは前述の通りだが、その強固な防備を固めているのは首から上だけ。
あらゆる意味で変態的な特徴だが、中でも
──その鉄兜の男には、左腕が肩から存在していないのだ。
珍妙な格好に特徴的な欠損まで抱えた男は、ただそこにいるだけで異様な存在感を持っている。それが赤い女──プリシラ・バーリエルの
「意外、とはどういう意味じゃ?
「いやぁ、勝手な想像だったんだけどさ。姫さんは釣り堀の魚を繁殖させるために何もしないタイプだとばっかり思っててよ」
「ならば妾が貴様を厚遇してやっている理由がなくなるな。そう思わんか?」
「言われてみりゃそうだ。そいつはオレの考え違いだったわ」
素直にプリシラの言い分を認めて、鉄兜の男──アルは太い右腕で兜の上から頭を
ただ、従者のその態度にプリシラは何ら反応しない。彼女がずんずんと迷いない足取りで進んでいくと、その姿に気付いた周囲の人々が声を上げる。
「あ! プリシラ様だ!」「
一人が彼女に気付くと、その声に気付いて大勢が家々から飛び出してくる。一様に明るい顔をした村人たちは、口々にプリシラを
「うむ。それでよい。存分に
誰に向けたというより、その場で歓声を上げる全員へ投げかけたプリシラの言葉。
決して大きい声ではないのに、彼女の声はどこまでも突き抜けて届く力がある。その力ある言葉の内容が内容だけに、
「わかりました!」「プリシラ様のためならば!」「太陽姫万歳!」
村人たちは反感を覚えるどころか、彼女の傲慢な演説を快く受け入れている。
その
──鉄兜の男、アルがプリシラの騎士として認められたのは数日前。さる理由で騎士を定める必要のあったプリシラが、その目的と趣味を優先した武闘大会が開催した。
男爵夫人の騎士を、出自を問わず募集するという触れ込みから大勢が名乗り上げ、実際に盛況となった大会。アルはそこで、プリシラの眼鏡に
主従と呼ぶには、まだ時間も
思慮深いように見えて、思いつきを即座に実行する。領民に対して接するように親しみがあるかと思えば、ふいに見せる横顔は背筋が凍るほど冷酷であったりする。女性らしさだけを詰め込んだように見える肢体は、アルの
結果、数日を共に過ごしても何もわからないのが現状の主への印象だ。
「ほれ、アル。何を突っ立っておるか。凡夫共が貴様に興味津々じゃぞ。
「それは姫さんの方で説明してくれりゃぁいいじゃねぇか」
「口の利き方に気をつけよ、アル。貴様の分を
ちょっと印象を修正していれば、これだ。一秒前までご機嫌だった顔つきが、ほんのささやかな時間の間にゴミを見る目に早変わりする。
「ああ、今のはオレが悪かった。言われてみりゃ、主人に紹介の手間ぶん投げる従者がいるかって話だわな。悪い悪い、許してちょんまげ」
「よい。許す。ただし、あとでチョンマゲが何か教えてもらうぞ」
思わぬ一言が功を奏したらしく、アルはプリシラの不興の兆しからかろうじて抜ける。それを確認して
4
「プリシラ様は素晴らしいお方です。僕にとっては救いの女神様であります」
おっかなびっくり、慣れない手つきでお茶を
場所はバーリエル男爵邸の談話室。座り心地に高級感のあるソファにだらしなく尻を預けて、アルは休憩時間を全力で
「シュルトちゃんは姫さん大好きだから、そう答えそうだとは思ってたがよ」
少年の返答に含み笑いし、アルは差し出される紅茶のカップを持ち上げる。それから彼は頭を軽く上に向け、首下に生じる
常に
「俺のマナー……行儀悪さが気になるかい?」
じっと自分を見ている少年──シュルトの視線に気付き、カップを置きながらアルは低い声で問いかける。その質問にシュルトは小さく息を詰めた。
線の細い少年だ。色白の肌に、癖のある桃色の髪。紅の
まだ幼いといっていい少年が、黒の使用人服を着て執事の
「学がねぇんだ。お行儀の知識がないのは大目に見てくれよ。わかるだろ?」
「僕も、アル様と同じように無学であります。だから、アル様の振舞いに文句を言えるほど立派ではないと思っています」
「正直は美徳で、素直は子どもの特権だな。格好はちっとは様になってきたと思ったが、中身はまだそれに伴わねぇと。シュルト先輩はここきてどのぐらいだっけ?」
「僕がプリシラ様に拾われて、やっと三
先輩、という皮肉にもシュルトは反応しない。それがどうした意味なのか、農村の孤児上がりの少年に理解しろと言っても
この少年執事シュルトは、プリシラが領地の農村から連れ帰った孤児であった。
そのままシュルトは、プリシラのお眼鏡に
「姫さんの眼鏡に適ったのが、幸運か不幸かは難しいとこだがな」
「プリシラ様に拾っていただいて、僕はとても感謝しているであります。あのまま村に残っていれば、今頃はとっくに土の下だったはずでありますから」
「
慈善事業など絶対にしないという態度に見えて、孤児を救済したりもする。かといって
果たしてプリシラは、領民やシュルトが信じている女神であるのか。それともアルが時折、背筋を凍らされる残酷な魔女であるのか。
「魔女。魔女ね……」
自分で考えた単語を口にして、その陳腐さに思わず笑ってしまう。
この世界ではタブーで知られる『魔女』の単語。その単語が意味するものがどれほどの
「アル様は……」
「んん?」
物思いにふけっていたアルを、ふいにシュルトが不安げな目で見つめて呼ぶ。
「プリシラ様の騎士になられた、でありますよね? あの方を、守ってくださる。あの方の味方だと、信じていいんでありますよね?」
少年は胸の不安を解消する術として、アルからの力強い言葉を求めている。だが、
「その聞き方じゃぁ、味方だろうが何か
アルの答えにシュルトが傷付いた顔をしたのがわかった。
しかし、その表情を見てもアルの心に
少年の向けてくる純粋な
以前と同じ失敗を繰り返すような
「──なんじゃ。どこへいったかと思えば、このようなところで陰気な茶会か」
わずかに沈黙が落ちる談話室に、唐突に飛び込んでくるのは上空から見下す美声だ。
ノックもなしに乱暴にドアを開け、屋敷の女主人は
「シュルト。
「取り柄がそれだけって、オレよりよっぽど言い切りやがるな、姫さん」
「事実であり、妾が口にすればさらに力を持つ真実となる。今のシュルトに他の何の価値がある。それでも、他の無価値な凡俗共と比べればいささかマシよ。その評価も、妾の期待を裏切り続けるなら取り消す必要があるがな」
談話室で話す二人を眺めて、プリシラは鼻を鳴らしながらそう言い捨てる。思わずアルが苦笑する
「ぼ、僕は頑張るでありますっ! で、ですから……見捨てないで……っ」
「泣いて
「それでよい。自分の足下を変える気骨がなくば、貴様風情など
「
「姫さん、相手はガキだぜ。もちっと、いたわりと思いやりがあっていいと思うね」
「この世の無常は大人も子どもも男も女も関係なく降り注ぐものじゃ。
「姫さん?」
その正体がなんであるのか、アルが見極める前にプリシラの表情が変わる。
「生きとし生ける全てが平等。──ただし、妾を除いてではあるがな」
「姫さん……」
笑みだ。プリシラは
それはアルが騎士として仕えたそのときから、何度となく聞いた彼女の持論。
「──この世の全ては、妾にとって都合が良いようにできておる」
それがプリシラの自信の根拠であり、彼女という存在を飾り立てる最高の言葉。
一笑に付されて当然の発言なのに、
「そら、シュルト。今しがた言った通りじゃ。この世の全ては妾の都合通り……なれば、
「は、はい。すぐに紅茶を
「たわけ。そこな茶器の中身などとうに冷め切っておる。ましてや妾にアルの
「それだけは許してください! すぐに
ポットを抱えて、シュルトは談話室を飛び出していく。
小さな足音が遠ざかるのを聞きながら、アルは唇を
「姫さんって、本当に性格が悪ぃな」
「落ち着き払った仕事のできる執事もよいが、子どもらしく
「あいつも災難な……。姫さんの興味を引いちまったばっかりに」
「何が災難か。妾と言葉を交わし、手ずから給仕までできる。これほどの幸運、世の男共が血涙を流して
シュルトを
その欲しがりな視線に対し、アルは「へいへい」とやる気なく応じるだけだ。
「不敬な男よ。妾の
「なんでしょうか、お姫様」
「──
その冷たい
シュルトを追い払い、周囲の気配が消えてから話題を振るあたり抜け目がない。適当な話題にさらりと爆弾を
事前にこの流れをシミュレートしていなければ、無様を
「悪巧みってほどじゃねぇな。今は純粋に見極めのときって感じだ。オレがこそこそと
「妾の目も耳も妾自身も、常人より美しいだけでなく機能性も高い。ましてやここは妾の領地にして妾の庭ぞ。
「そんだけ何もかも自分のもの扱いされちゃ、
「あのような老骨、勝手に泣かせて枯らしておけばよい。いっこうに構わぬ」
「
罰がその程度で済むはずもないが、
「いや? たかだか、家中をまさぐられた程度のことで
しかし、その警戒はプリシラの思わぬ返答によって
「……そ、れでいいのかよ?」
「男が鼻を鳴らして、
「貴様の
「────」
「会って数日、
少なくとも、今の彼女の言葉に
「……てっきりオレは、『自分と他人を比べるなんて不敬。ただ貴様らは、妾の姿だけを見て威光に目を奪われておるがよい』とか言われると思ってたぜ」
「自分に自信がないものほど、そうして他に目を向けさせるのを恐れるのじゃ。妾は妾がこの世で唯一至上の確信がある。
胸の谷間から
「妾が世界一美しい
「……ああ、そりゃ傑作だな」
口元を広げた扇子で隠し、それでも隠れ切らない笑みを浮かべたプリシラ。彼女のその
その
そしてアルはそのプリシラの理解に気付けないほど、動揺していた。
驚きがあった。頭を殴りつけられたような、そんな錯覚すら覚えていた。
自分の目の前に立っている
それがいったい、何に見えているのか──。
「プリシラ様! 大変遅くなったであります! お茶を
「遅い!!」
考え込む答えが出る前に、ドアを開けてシュルトが部屋に飛び込んでくる。
プリシラの怒声がそれを出
そうしてひどく無防備でいる主人と、顔を
5
書斎に入るのはこれが二度目だが、以前にも同じ
換気の足りない部屋にこもる悪い空気と、月日を
結果、書斎には余人が足を踏み入れるのを
「遅い」
出
しかし、目の前の人物はそんな行いをユーモアと許すほど寛大ではない。
「遅い」
繰り返し伝えられる、先ほどと一言違わず同じ
「おそ──」
「大変失礼しました。なにせお屋敷が広いもんで、急な呼び出しだとあっちへこっちへ確かめながらになっちまいます。今、何かおっしゃいました?」
わざと三度目の叱責に応答を
その反応にいくらか
部屋の左右を書棚に囲まれ、
その見た目に反して、
老人の名はライプ・バーリエル。バーリエル男爵領の領主であり、赤い女ことプリシラを妻に迎えたバーリエル邸の主人。アルにとっては形式上、剣を
もっとも、そうした敬意に値する相手とはアルは全く思っていないが。
「アレの自由に付き合って、領内を毎日のようにうろついているそうだな」
「アレっておっしゃいますと?」
「──っ。アレはアレだ。我が妻、プリシラに決まっている!」
「ですよね。いえ、確認したまでで。名前で呼ばなくなるのは、夫婦間の愛情が冷めてきてる証拠じゃないかと母に教わったもんで」
「貴様は
「ヴォラキアの剣奴のみんながみんな、生まれながらに闘技場に
「ふん。野蛮な帝国連中が好きそうな光景だな。趣味の悪さが目に浮かぶわ」
吐き捨てるライプの偏見に、アルは珍しく同意した。
剣奴時代のことは、正直なところ思い出したくない。
毎日のように行われる命懸けの戦いで、名誉や武力を競うなどアルの性分には合っていなかった。今は命からがら生き延び、こうしていられる安息を
「まあ、今は貴様のことなどどうでもいい。それよりもプリシラのことだ。アレが毎日のように領地を巡り、勝手をやっていることを貴様はどう思う」
「物好きだな、とは思いますよ。俺のイメージ……ああ、考える領主の縁者としての過ごし方とは少し違うかなってね。領民にはえらい受けがいいみたいでしたが」
「受けがいい、か。ふん、物珍しがっておるだけよ。たまたまアレの
机に
領民に人気がある、という部分が
まさか愚痴を聞かされるために呼び出されたのではあるまいか、とアルは
「姫さんを
「慧眼などと馬鹿馬鹿しい。アレが運ぶのはもっとおぞましい何かだ。そうでなくてどうしてアレが、『血染めの花嫁』などと
肩をすくめるアルが、ライプの口にした異名を聞いて動きを止めた。
その反応に、ライプはやっと我が意を得たりとばかりに
『血染めの花嫁』とは、今はバーリエルの家名を名乗るプリシラに付きまとう悪名だ。
まだ二十歳にも満たない乙女であるプリシラだが、ライプの妻となったように、彼女が
そして過去の七度、いずれの婚姻も
伴侶たちの死はいずれも、戦死・病死・事故死と原因が一定ではなく、プリシラは
ただ、ライプだけはそれらの条件に当てはまらないとアルは思っていた。
すでに性欲が枯れた老年であるというのも理由だが、何よりライプにはプリシラの色香に狂った盲目さがない。それは彼女を
つまりこの老人には、プリシラを
そしてその理由こそが──、
「来る王選の候補者でなくば、誰があのような女狐を懐に囲うものか。甘い顔をすれば限度を知らずにつけ上がる。貴様を騎士にしたあの
「……ずいぶん、言葉を飾らずに言ってくれるもんですね。オレが姫さんに告げ口して、関係が悪くなるとか考えないんで?」
口汚い上に、薄汚い
王選──それはルグニカ王国を揺るがす大事変。病によって根絶やしにされる王族に代わり、新たな王を選出する龍がもたらす未来への試練だ。ライプは王国の未来を記す予言板の管理を任される男で、王家の病没前に王選の情報を
そして先手を打ち、候補者としての資格を持つプリシラを妻として
見え見えの
「貴様はそのような
「……よくおわかりで」
剣の柄に触れていた手を挙げ、アルは敵意がないことをアピールする。
「ですが、それならそれで何をお望みで? ぶっちゃけ、
「そうでもない。もともと、貴様の立場には私の息がかかったものが立つはずだった。あの荒くれ者を集めた
「あらまぁ、出来レース」
「それもアレの
プリシラの
「使用人のシュルトは? あの小僧っ子も姫さんが拾ってきた拾い物だろ?」
「あの小僧にも貴様と同じ話はしてある。孤児上がりでは手の届かないような
「ふーん」
プリシラのためにと豪語していたシュルトが思い出される。とはいえ、特に思うところはない。自分優先は生物の本能だ。厚遇されたことが理由の忠誠心なら、より厚遇される方に気持ちが傾くのも当然である。それはアルも例外ではない。
「旦那様がオレに何を期待してるのかは了解しました。んで、オレの
「──くく。そうだ、それでいい。なに、悪いようにはせん。無論、プリシラとてそれは同じだ。私の悲願のためにも、アレには健康でいてもらう必要がある。アレも、小僧も、貴様も、私の下で全員が幸福を受け取るだけでいいのだからな!」
提案を受け入れるアルの態度に、ライプは上機嫌に
その高笑いにアルは、「悪いな、姫さん」と裏切りを決意した主人へ
──その心情のときですら、脳裏に浮かぶプリシラの幻影は勝ち誇った笑みだった。
6
ギリアン・エンデュミオンと名乗る騎士が、バーリエル領を訪れた。
上から下まで、真っ当かつ上等の騎士──それがギリアンという青年の印象だ。
「彼はエンデュミオン家の三男だ。二人の兄が父の領地経営を手伝う
そう言って、隣に立つ美青年を紹介したのは誰であろうライプ・バーリエルだ。
そして当然ながら、老人はアルやシュルトに客人を紹介するようなことはしない。ライプの正面で、ギリアンを無遠慮に眺めるのは男爵夫人、プリシラだった。
「
「馬鹿を言うな。誰がお前のように美しい妻を手放すものか。今日のことは彼の希望と、そして私からの少しばかりの気遣いと思うがいい」
「気遣いとは、らしからぬことじゃな」
鼻を鳴らすプリシラは、ライプの申し出を信じる気がさらさらない。ライプは表面上は
そんなライプが爆発する前に、ゆっくりと前に出るのはギリアンだった。
「この度は突然の訪問、そして無礼な申し出をいたしまして申し訳ありません」
洗練された
「ですが、バーリエル領でプリシラ様のお
「ほう。礼儀は弁えておるようじゃな。妾の
美辞麗句を並べ立てるギリアンに、上機嫌なプリシラがアルの方を見る。彼女の背後に立って、従者の務めを果たしていたアルは苦笑の代わりに肩をすくめた。
「よい。妾の肌に触れ、騎士の礼を果たすのを許す。望外の幸福と心得よ」
「は。ありがたき幸せ」
厳かに言って、プリシラが手をそっと差し出す。ギリアンはその白い指先を壊れ物を扱うように触れると、手の甲に口づけして騎士の礼を果たした。
そこだけ切り取れば、なるほどまるでおとぎ話の一幕を切り取ったような光景だ。
「して、老骨よ。貴様の連れてきた男は
「簡単な話だ。日頃、私は執務が忙しく、領地を巡るお前に付き添うことができない。一人であちこちを回らせていること、いつも
「
言葉を選ぶライプに対して、プリシラの方は取り付く島もない。
頭髪の後退したライプの額に血管が浮かぶ。が、それでも老人は笑顔を保った。
「そう言うな。つまり、日頃は我慢をさせているお前のために、今日は見映えのいい青年を供につける。彼は女性に対しても紳士な男だ。きっとお前も気に入るだろう」
「過分なご期待ですが、それに沿えるよう努力いたします。プリシラ様、よろしければこのわたくしめにその栄誉をお与えください」
自制の限界が訪れそうなライプに代わり、ギリアン自身がフォローに入る。
ライプはともかく、ギリアンの方の
「ま、いいじゃろう。たまには無骨な
「……そうするといい。ギリアン殿、妻を頼むぞ」
「はっ! この命に代えましても」
少しばかり大仰で芝居がかった言い回しだが、かえってそれがプリシラには受ける。
ギリアンは自前の地竜──青い体皮をした見事な名竜を連れていた。いかにも血統書がついていそうな優秀な地竜は、プリシラの審美眼も大いに楽しませた。
華麗に地竜を操り、せがむプリシラと二人乗りで地竜にまたがると、ギリアンは白い歯を光らせながら
「やっと行ったか。歯の浮くようなことを言わせおって。憎たらしい娘だ」
そうして二人を見送って、やっと肩の力を抜いたライプが吐き捨てる。その変わり身の早さにアルは小さく笑い、それからプリシラたちの消えた方を見て、
「ギリアン・エンデュミオン、ね。アレも
「当然だ。だが、ギリアンは他の手駒とは手間の掛け方が違うぞ。わざわざ遠方のエンデュミオン家を頼り、長い時間をかけて準備をしてきた。腕が立てば出自を問わなかった武闘大会とは、私との
「
「ふん。その
その背に続きながら、ふとアルはプリシラの消えた方へ足を止めて振り返った。
当然だが、もう彼女の姿はどこにも見えなかった。
7
──悪巧みを交わすときは必ず書斎で。
ひょっとすると、ライプにはそんな
「執務室すらどこに耳があるかわからんが、この書斎だけは安全だ。我がバーリエル家が代々、密談を交わすために用意された一室だからな」
表情の変化は
それは彼の悲願の舞台である、王選開始の日取りが目前に迫ってきているというのも大いに影響しているのだろう。
「王都の方じゃ、今頃は大わらわになってたりするんスかね」
「王城は今さらのように馬鹿騒ぎをしている頃だ。国王とその血族が助からぬことなど、とっくの昔にわかりきっていたことだろう。問題から目を背けて、王国の存続について先送りにし続けた結果がこれだ。無能の集団が、
話している間にボルテージが上がり、ライプの額に血管が浮かび上がる。血の管を今にも千切りそうなほど
国王
「普段から嫌ってる連中を手玉にとれて、
「私もそうなると思っていたのだがな。かえって、無能共に冷遇されてきた己を
「そりゃお怒りで」
自分から話を向けておいてなんだが、他人の恨み
気のない返事をしながら、アルは部屋の隅で小さくなっているシュルトの方を見る。少年は自分がこの場にいる理由がわからない様子で、白い顔をずっと下に向けていた。
「王都の間抜け共の話は今はいい。時間の無駄だ。それよりも、いよいよ待ちに待った王選が始まる。そのための話をせねばならぬ」
「姫さんが候補者、って点に関してはすでに報告を上げてあるんで?」
「無論だ。まず、竜歴石の記述が真実であると
そこで一度、ライプは苦い顔をして言葉を切った。
「予言の報告をしたその場で、上級貴族の一人が徽章を光らせた。候補者がその場に一人居合わせたのが、私にとって唯一の誤算だ」
「へぇ。そいつはずいぶんとラッキーな奴がいたもんだ。ちなみに誰が徽章を?」
「カルステン公爵……クルシュ・カルステンだ。婦女子の分際で、父親に譲られた爵位を恥知らずにも
実感のこもったため息には、アルもさすがに同意見を思いながら苦笑する。
王選の候補者は、ルグニカ王国に伝わる徽章の宝珠を輝かせることができる。その条件を満たす五人を見つけ出し、王座を競わせるのが王選の内容だ。
ただ、その候補者の選出条件には解明されていない部分が多い。共通点も、血も、加護ですら今のところは決定打とは思えない。
「ちなみに
「……それについて、貴様に教えてやる義理はない。少し話しすぎたが、余計な
「……さいで」
話を切り上げるライプに、アルは素直に引き下がる。
大人しくアルが話を聞く姿勢を見せると、ライプは鼻から長い息を吐いた。それから老人は部屋の隅にいるシュルトに舌打ちし、
「貴様もいつまでそうしているつもりだ。わざわざ私が話をしてやる時間を作った。小さくなっている
「は、はい……失礼します……」
奥の
「話を無駄に長引かせるつもりはない。本題に入るぞ。──ギリアンだが、私はあの男にプリシラの騎士をやらせるつもりでいる」
「はいはい、早速待ってくださいや。したら、オレの立場はどうなります?」
ライプの意見に手を挙げ、アルは待ったを呼びかけながら問いかける。
「オレ、姫さんの騎士って扱いで屋敷に置いてもらってるわけですが」
「安心しろ。貴様を
「その点はそこまで心配しやしませんが、そうまでして騎士を取っ換えるってのには何の意味があるんで? もちろん、
「それは簡単な話だ。民衆は騎士らしい騎士を従者にした主従の絵面を好む。王族以外が玉座に
熱弁を振るうライプの言葉に、アルは意外に感心して
つまりはイメージ戦略というわけだ。見映えのいい騎士と姫を用意し、初見の時点での受け入れやすさを変える。それは王選で候補者同士争う関係上、無視できない影響を持つことになるだろう。せせこましいといえばそれまでだが、
「勝率をわずかでも上げるため、なんでもやる姿勢は素直に尊敬しますわ」
「評価の下し方がいささか気に食わんが、まあいい。民衆の騎士像として、ギリアンは申し分のない仕上がりのはずだ。プリシラも見た目だけなら、おぞましいほどに人目を
「あー、ただ一個だけ問題が」
ほくそ笑む老人に水を差す形になるが、自信満々な作戦にアルは
「あの姫さんが、自分の決定を
「なんだ、そんなことか。つまらん心配をするな」
アルの懸念を鼻で笑い飛ばし、ライプは机の上を指で
「見目のいい騎士と、
「いやぁ、そりゃねぇですね。ナンパ勝負なら百戦全敗。それどころか、下手したら剣で勝負しても勝てない可能性がありますわ」
「ならばそういうことだ」
アルの情けない答えに満足げに
老人の
「あ、あの……」
合理性に納得するアルとは別に、おずおずと手を挙げたのは黙っていたシュルトだ。
「なんだ。貴様も私の考えにケチをつけるつもりか?」
「そ、そんなつもりじゃ! あ、あのですね……あの、プリシラ様は……」
ライプの
「プリシラ様に、ひどいことはしないでありますよね?
「……そんなことか。つまらないことを言うな。私の目的は何度も言っている。そのために必要なプリシラを、どうして私が自ら害する必要があるのだ」
シュルトの子どもらしい心配に、ライプは舌打ちしながら吐き捨てる。
「アレが玉座に
「まぁ、姫さんの性格上、どう考えても王選を辞退なんてありえねぇだろうけど」
売られた勝負は買うだろうし、そもそもこの世の
知らず、玉座までの道を
「そうでありますか。よ、よかったであります……」
シュルトも、ライプの答えに胸を
しかし、そんな二人の
「扱いづらい娘ではあるが、
計画の最終段階を明らかにしたライプの一言で、粉々に打ち
「──え?」
意味が呑み込めず、シュルトが
老人は
「なんだ、聞こえなかったのか? あの娘の
「……そんな
「貴様らには想像もつかんだろうがな。世の中には想像を絶する
夢物語の
「は、話が違うであります!」
冷静に事実を受け入れるアルと違い、裏返った声を上げたのはシュルトだった。
「プリシラ様には何もしないって、
「何もしないなどと言ってはいない。危害は加えないといったのだ。アレが無事でなければ玉座など望めん。だから健康体を損なうつもりはない。何の問題がある」
「プリシラ様が、プリシラ様でなくなったら……そんなの、意味が……っ」
声を
「
いやらしく口元を
「アレを好きにしたいなら、玉座に
「────ッ」
これ以上ない女性
その発言に顔を
しかし、ライプはそれをあっさりと
「屋敷に主人である私に手を上げるとは、
子どもを
今のライプの動きには、七十を目前にした老人とは思えぬ鋭さがあった。長年絶えずに抱き続けてきた野心は、これほどまでに人の体を活力で満たすものなのだ。
「焼け死ぬがいい。内臓を
手にした短筒の先端をシュルトへ向け、ライプは虫を
マナの高まりが書斎の大気を揺らし、
「……何のつもりだ?」
「急にボールがきたので、つい」
シュルトが焼き払われる寸前、アルの
「何の理由があってその小僧を
「そんな怒るといよいよ血管が千切れますぜ、
激怒するライプの前で、おどけてみせながらアルは本音を話していた。
自分にも、どうしてシュルトを
なのに今、アルはライプに反論したシュルトを庇って、老人と敵対してしまった。
「アル様、も……」
「シュルトちゃん、苦しいなら泣いてていいぜ? 内緒にしといてやるから」
「アル様も……プリシラ様が、好きなんですよね……?」
「────」
アルの
そしてその言葉を聞いた瞬間、アルの全身を衝撃が突き抜ける。
長い長い、ため息をこぼしてアルは納得した。
「あぁ、なんだ、バッカでぇ。……オレ、こんな簡単なことに気付かなかったのか」
気付いてしまえばすんなりと、これまでの
「血迷ったことに気付いたか? ならば、今すぐにそこを……」
「わかったよ。やっとわかった。オレの馬鹿だな。すぐ気付きゃよかったぜ」
首を横に振り、アルは
「姫さんのエロ
「──この、愚か者がぁ!!」
「シュルト! 今すぐに部屋の外に出ろ! あとのことはなんとかしちゃる!」
「うっ……く、はいであります!」
痛みに顔をしかめながらも、シュルトは懸命に走ってドアに飛びつき、そのまま振り返らずに部屋を出た。いい判断だ。だが、ライプはその判断を
「貴様らはどこまでも愚かだな! 何故、貴様らだけを書斎へ呼んだと思う。屋敷の他の使用人は、
「周到なこって。でも、まだわからねぇぜ? 旦那を人質にしちまえば……」
「簡単に押さえ込めると思うか、若造が。私も若い時分、
老人が手にする短筒は『ミーティア』だ。効果はおそらく、使用者の魔法の威力の底上げ──単純な効果だが、それ
彼我の戦力を比較して、アルは自分が有利ではないと即座に判断。つまり、
「条件は整ってる。──切り札を切るのに
「馬鹿が……」
「馬鹿は否定しねぇよ。あんたに恨みはねぇ。運が悪かった。……いや」
そこで言葉を切り、アルはシニカルな笑みの響きを声に乗せながら、
「──星が悪かったのさ」
「────っ!」
言い切った直後、ライプがもはや
ライプの
それは
音を立てて首だけの
「何が切り札だ。くだらん。まったくもって、何もかもがくだらんぞ」
そう考えて、書斎のドアノブに手を伸ばす。
「──星が悪かったのさ」
「────!?」
瞬間、聞こえた声に絶句してライプは背後を振り返った。
するとそこに、ライプに対して背を向けた男が立っている。それは鉄兜を
「あれ? どこに……」
「ゴーアぁ!!」
間抜けな男の声に聞く耳持たず、ライプは短筒に魔力を通して再び男を焼き殺す。
放たれる火炎が男を焼き
惨状が書斎の床を改めて汚し、ライプは意味のわからない状況に後ずさる。
「な、なんだ? 今のは何が、何が起こったと……」
「──星が悪かったのさ」
またしても、男の声が、聞こえた。
8
「──星が悪かったのさ」
聞こえた。その声が、再び
「あれ? どこにいった?」
目の前で、敵を見失った男が左右を見渡す。それから男は振り返り、背後で座り込んでいたこちらに気付くと、とっさに
「なんだ。やる気なくなってんな。その様子からすると……今回は加害者の方か。なるほどな。あんたも相当ついてねぇ」
同情するように言って、男はへたり込む老人の前でしゃがんだ。
「一秒前まであんな元気だったってのに、一気に
「──ろして」
「あん?」
その男に届くように、老人はゆるゆると顔を持ち上げて、
「ころして、くれ……」
それだけが救いであるかのように、老人はひたすらにそれを求めていた。
その
「
立ち上がり、兜の男は青龍刀を軽く担ぐと、老人の首に
そして、刃は無常にも振り切られ、老人の首が鮮血を上げて宙を舞う。
やっと、老人の悪夢は──、
「──星が悪かったのさ」
終わらなかった。
9
すっかり髪が抜け落ち、
うわ言を繰り返し、
「しかしこれ我ながら引くわ、どうなってんだ」
重たい老人の体を引きずりながら、アルは自分で自分にドン引きしている。
殺さず無力化、それも長い目で見て無力化したのはまさに最適解といえるが、これがライプの
「まぁ、クソジジイと美少女じゃ罪悪感が違うな。そう考えると気楽だわ」
早々に自分を正当化する発想をして、アルはそのまま屋敷の玄関ホールへ向かう。頼れる相手がいない以上、シュルトが逃げるのは屋敷の外しかないが、
「──アル様!」
玄関ホール、一階と二階とを
「
騎士を連れて帰宅したプリシラが、腰に手を当てて無駄に偉そうにしていた。彼女は上階のアルを見上げ、
「これ、アル。いつまで上から妾を見下ろしておるか、不敬であろう。とっとと降りてきて、妾のいない間の
「あー、了解。いけたらいくわ」
「いかにもくる気がなさそうな返事じゃな」
大階段の上でふざけるアルに、プリシラは片目をつむって無礼を許す。だが、そんな主従のやり取りに割り込むのは血相を変えた男だ。
「お待ちください、プリシラ様! あの
「んん? おお。よく見ればアルが引きずっておるのは老骨ではないか。どうした。ついにそこな老骨、己の愚鈍さに絶望して首でも
ギリアンの指摘に不謹慎な反応をするプリシラ。ぎょっとするギリアンだが、アルは彼女の態度に苦笑しながらライプを持ち上げ、
「んや、死んでない。訂正、体は死んでない。でもなんか心は急に死にました」
「急死か。ま、
「そんな言葉で
納得の姿勢を見せようとするプリシラに、ギリアンが猛烈に抗議する。彼はプリシラの前に踏み出すと、腰の騎士剣を引き抜いて段上のアルに突き付けた。
「貴様、風体の怪しい
「だから死んでねぇって」
「しかし! その
息巻くギリアンは見た目も相まって正義の騎士。一方で見下ろすアルは格好と生きる
ホールでは使用人たちが
切り札も、今は条件が整っていない。さて、どうしたものかとアルは悩む。
「どうやら自分の不利を悟ったようだな。ならば
盛り上がるギリアンが踏み出し、そのまま
だが、その最初の
「変わらず平穏な日々か。──つまらん」
プリシラはひどく退屈そうに言った。
そして背後から、手にした『真紅の剣』でギリアンを一太刀で斬り捨てる。
「な、ぁ──!?」
予想外の
「どんな口説き文句で
「なに、を……」
「昨日と同じものになど何の価値がある。変わらぬものなど退屈なだけじゃ。妾には常に新しきものを見せよ。それができないならせめて屍になって、腐って、肥やしになって、やがて自然と視界から消えよ。愚物め」
自分に対して好意的であった男に、プリシラは残酷な言葉を
目の前の赤い女が何を言っているのか、ギリアンにはきっと半分も理解できない。そしてそのまま、彼が理解に
「うわ……」
階段に倒れるギリアンの体が、突如として炎を
「姫さん、屋敷が火事になる前に消した方がいいんじゃねぇ?」
「たわけ。妾の陽剣が生み出した炎ぞ。妾の選んだものだけ燃やすに決まっておろう」
理解できない理屈だが、階段に敷かれた
ちなみにいつの間にか彼女が手にしていた真紅の剣は、再び
「まぁ、もう今さら姫さんの手品に驚くのも馬鹿馬鹿しいや。それより、この燃えてる人含めて
「人の焼ける
すっかり黒
「さては姫さん、とっくにこの
「初めから
「ぱねぇ。役者が違ったわ」
老人の長年の野心の
領民の人心
そう考えると、野心を抱えたまま正気をなくしたのは幸せだったのかもしれない。
「ところで、そこまで周到に仕返しする
「貴様にはその手の才能はないぞ、見ておれん。シュルトも同様じゃ。妾を見るたびにわかりやすく
「あ、えっと……ぷ、プリシラ様……」
ライプを階段に投げ出し、談笑するアルとプリシラの下にシュルトがやってくる。プリシラが腕を組んで胸を強調すると、シュルトは視線をさまよわせて迷う素振り。
一度はプリシラを
いざとなればフォローしなくては、とアルがささやかに気を張ったところ、
「ご無事でよかったでありますぅ……ぼ、僕は、僕は心配で……」
「ふむ」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたシュルトを見て、アルは自分の馬鹿さに呆れた。
まだ十歳前後の子どもの心に、どれだけ馬鹿な常識を押し付けて物事を測るのか。
あれだそれだと決めつけて、そのもの自体を見ようとしなかった
「まったくシュルトは
「わぶっ」
泣きじゃくるシュルトを抱きしめて、プリシラは愉快そうに少年の顔をドレスで
「なにその
「当たり前の話じゃが、よくぞ
「ジジイとエロ
「その率直さ、嫌いではないぞ。さて……」
プリシラは壇上で
「なんとまぁ
「愛する夫の意志を引き継いで、慣れない
「よく言うわ」
「姫さんもな」
似た者主従は笑い合い、ひとまずは家中をまとめた現状に満足した顔をする。
それからいまだに、プリシラの胸に挟まって目を白黒させているシュルト。少年の頭を両手で
「ほれ、どうした、シュルト。笑うがいい。貴様の大好きな
「は、はいっ。わかったであります!」
プリシラの指摘に背筋を正して、シュルトは律儀にも息を整えてから大きく笑う。
「ははははは、であります!」
「それでよい。それが済めば、次に何を妾が望むかはわかっておろうな?」
「紅茶を
「うむ!」
胸から
「まったくもって痛快よ。これでよい。なにせ──」
笑う少女の声を聞きながら、アルは自分がどうして、彼女を選んだのか自覚する。
何のことはない。簡単だ。自分もまた、この少女の魔性に魅せられただけなのだ。
「──この世界は、妾にとって都合の良いようにできておるのじゃからな」
《了》
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