9章 ダブルヒロイン 傷娘編
時間は、
第六開発研究部の会議室の中で、鈍い打撃音が響き渡った。
「逃げたって……どういう事なの?」
矢霧
「あれが
彼女はその目を怒りと
「従順なフリをして、逃げ出す機会を
やがて、自分の怒りを必死に抑えつけるように
「……いいわ、『下』で動かせる連中を全部使って探させなさい。いつもみたいにコソコソする必要は無いわ、全力で動かして──トラブルが起こったら適当に処理させて」
「傷つけないように指示しますか?」
それに対し、
「惜しくはあるけれど──この際、生死は問わないわ」
♂♀
姉の居るはずの研究施設に向かい、
──ああ、これは愛なのだ。どうしようもなく、愛なのだ。
誠二が『彼女』に出会ったのは、今から5年程前の事だ。当時10
ガラスケースに入れられた『彼女』は──まるで幼い頃に読んだ童話のような、待ち人の到来を夢で望み続ける
成長を続けると共に、誠二は理性というものを心に
別段、生首が特殊な意思を持って
矢霧波江が、愛情の
そして、純粋な想いは、彼をただ行動に走らせる。
姉が研究と称して持ち去った『彼女』を見て、誠二は思う。──ガラスケースの中から彼女を自由にしてやりたい。彼女に世界を与えてやりたい。
それこそが『彼女』の望む事だと信じ、長年に渡って彼はチャンスを待ち続けた。姉の持つセキュリティカードを
だが──『彼女』を無事に外に連れ出した後も、『彼女』はその目を開いてはくれなかった。
首は自分の愛に
──一度手に入れてから手放した愛は、どうしてこうも
恋に恋する中学生がノートに書き溜めるような事を
「姉さんに任せるとは言ったけど……やっぱり彼女を一人にはしておけないよ。それに、いくら研究のためだからって、彼女を切り刻んだり頭の中をのぞいたりするなんて
事の重要さをまるで理解していない
「やっぱりあの時に返すべきじゃなかった。断固として抗議しなきゃ。姉さんだって
まるで身分違いの恋を打ち明ける貴族のようなセリフだが、彼の中ではその決意になんら後ろめたい事もなく、今の様子だけ見ればただの前向きな高校生なのだが──その彼女が、
だが、真に恐ろしい事は──この時点で
「いざとなったら、また姉さんのカードを
だが、誠二は知っていた。あれが実は清掃業者ではなく、研究室で『下』と呼ばれている、直属の『人
そして誠二は知っていた。この人買いを利用し始めたのは、
人体実験と言っても
──まったく
自分の事を
トラックの後ろにしがみついているそれは──いや、その人は首の回りに傷跡のようなものがあり──
その傷の上に
♂♀
駅前の大通りを、ヘッドライトの無いバイクが音も無く走る。
交番の前を通り過ぎるが、無音のバイクが前を過ぎ去った事を
首無し馬──コシュタ・バワーの
仕事が無い時、セルティはこうして自分の『首』を探して街を
日本に来て驚いたのは、自分以外の
ともあれ、デュラハンの行動範囲でそういった『超自然的な存在』を見つける事は、ほぼ不可能であるように思われた。
──これが人の世というものか。
そんな事も考えたが、首の無い自分は、
それに、せめて首を見つけるまでは、この
首の気配が途切れる場所を地図などでチェックすると、確かにこの
探すと言っても結局はパトロールの
そして当然──この20年間、何のヒントも得られはしなかった。
今日も
『
そんなわけにはいかなかった。確かに今の生活に不満があるわけではないが、自分の中に
信号が赤に変わり、セルティのバイクが無音のままで停車する。その時──道路わきの歩道から、自分に声をかける者の姿があった。
「あ、セルティ」
意識と視界をそちらに向けると──そこには、バーテン服を着た姿の男が居た。
新羅曰く、『この街で最も名前負けしている男』、
「ちょっと付き合ってくれないかな」
20年前から池袋を走り続けるセルティにとって、彼とは昔からちょっとした交流がある。
静雄の服は何箇所かナイフで切り裂かれたような
静雄の服をこれほど切り刻める人物だとすると、恐らくは
「臨也の
今の言葉だけを聞いていると、静雄は名前通りに
静雄は
特に理屈をこねくり回す人間が大嫌いで、
臨也が
新宿に移る時、臨也は置き
それ以来二人の対立は決定的なものとなり、どちらかがどちらかの街に行くたびにトラブルが起こる。トラブルと言っても単なる
「
サングラスをかけたバーテンダーと、ヘルメットを
静雄は大分酒が入っているようで、恐らくはサイモンの働く寿司屋で飲みまくったのだろう。
放置するのも気がひけたので、
「しかし──臨也の
その答えについてはセルティが知っている。臨也の
──昨日今日、二日続けているのは確かに珍しいな。
新宿を
「そういやあいつ、
そこまで
「何の騒ぎだ?」
静雄の
少し前の通りを、パジャマ姿の女──年は十代後半だろうか──が、おぼつかない足取りで夕暮れの街を歩いている。
もしかしたら
セルティとしてはなるべく目立つ
──そして、彼女はその場に凍りついた。
自分の記憶に
セルティは感情を一気に爆発させ、飛ぶように
フラフラと歩く女の手を
「やッ……ぁっぁあぁあぁ、イヤァァァアアアッ!」
周囲の目がセルティ達に注がれるが、セルティは興奮していてそれに気付いていない。ただ、顔を良く見せてくれと伝えたかったのだが、この状況ではPDAを出すこともままならない。
「あー、落ち着いてください。
静雄が助け舟を出そうとして近づいて行った。彼は何とか少女を落ち着かせようと、肩に手を置こうとしたのだが────
ドスリ
「あ……?」
静雄が振り返ると、そこにはブレザーを着た青年が立っており、身を
それは、
「あぁ……?」
「彼女を離せ!」
青年の叫びに、セルティもそちらを向いて──突然の流血
その
セルティはその後を追おうともしたが、何とか踏みとどまって背後を振り返る。そこには足にボールペンを二本突き立てられた静雄がいて、その後ろではブレザーを来た青年が三本目のボールペンを取り出していた。
周囲の人ごみがざわめき立ち、何人かの人間が
そんな
そして一言、
「良かった……」
何が良かっただと詰め寄ろうとしたセルティに、
「あ、
そして、サングラスを胸ポケットにしまいながら自分の
「ハッハぁ、一度言ってみたかったんだ。『ここは俺にまかせて先に行け』ってよ」
それは敵が恐ろしく強い時に成り立つセリフであり、今の状態ではどう見てもこの学生の命の方が心配だ──セルティはそう考えたが、ここは静雄の好意に甘えることにした。このままここに残って
セルティは両手をパシリと合わせて一礼すると、そのまま女を追うために自分の黒バイクへと
「待てッ!」
ブレザーの青年が、それを追って
「いや、お前が待て」
その
「あの子、君の彼女?」
「そうだ! 俺の運命の人だ!」
逃れようと手足をばたつかせながら、青年──
「……彼女、何であんなんなの?」
あくまで冷静なままで、静雄は相手の言葉に耳を傾けようとする。
「知るか!」
「じゃあ、彼女の名前は?」
「そんなもの知るか!」
遠目に見ていた
周囲を底冷えさせて奪ったその熱を、
「なぁんだぁぁぁそりゃあああ───────ッ!」
そして、そのまま青年の
「
その叫びは野次馬の放ったものだった。
誠二の身体は、信号によって停車した宅配便トラックの壁に
「好きな相手の名前も知らないってのはよぉー、ちょぉーっと無責任じゃぁねえのか? あ?」
全身を打ちつけれられて再び歩道に落ちた誠二に対し、静雄は再び
だが、全身に激しい
「人を好きになる事に……名前なんか関係ない!」
「あぁ?」
「じゃあ、なんで名前も知らない
「──
考えるように
「だから俺は、行動で示すッ! 彼女を守る、それだけだッ!」
静雄の顔面に向けて振り下ろされたペン。それをもう片方の手であっさりと受け止めると、静雄は怒りに目を赤く染めながら、口元でニヤリと笑って見せる。
「
静雄は誠二のペンを
「だから、これで
そのまま一気に身体を引き寄せ、誠二の額に自分の頭を思い切り
小気味いい音がして、そのまま誠二はガクリと
静雄はそんな誠二を置いて、さっさとその場から立ち去ろうとする。
「あー、抜いたら血ぃでるよなあ、これ……
そんな事を
「くそ……」
頭に激しい痛みを感じながら、誠二は静かに歩きだした。
「探さなきゃ……助けなきゃ……」
フラフラと歩く誠二のもとに、二人の
「君、大丈夫?」
「歩けるかい」
「大丈夫です。ちょっと転んだだけですから」
「いや、いいからちょっと交番まで来て
「話を聞くだけだから、それにその状態で歩くのは危ないよ」
警官は本当に親切心から言っている
なんとか彼女の姿を探そうとしていると──先刻の黒バイクの
「山さん、あのバイク!」
「今はいい、
警官達の言葉も耳に入らず、誠二はその女に目を
彼女は誰かに引き連れられるように地下へと入り──その手を引いていたのは──
「
女の手を引くクラス委員の姿を確認して、誠二はその場を
「あッ、君! 待ちなさい」
「無茶しちゃいかん」
警官二人に抑えられ、誠二はそのまま力なく暴れだす。万全の状態の彼ならばあるいは振りほどけたかもしれないが、静雄の一撃がまだ身体に残っており、思うように力が入らない。
「離せッ! 離せよッ! 彼女がッ! 彼女がそこに居るんだ! 離せ離せ離せ!
♂♀
「で、君の首が
『無理に信じろとは言わない』
「いや、信じるよ。君は
落ち込んでいるセルティを慰めるように、新羅が隣の部屋から力強い言葉を
「ふふ、
『誰が生涯の伴侶だ』
セルティは反論を打ち込むものの、その動きの中に新羅への嫌悪感は見られない。
「なんなら三つの益を努力・友情・勝利と言い換えても構わないよ」
『聞け。っていうか読めよ画面上の文字を少しは』
セルティは
「ならば
『友情は』
「お友達から始めましょうって事で一つ」
セルティは新羅のくだらない
『とにかく、落ち込んでばかりも居られない。いよいよ私の首が元に戻るかもしれないんだ。とりあえず、あの制服は
画面に長々と打ち込まれたその文章を見て、新羅は不思議そうな顔をして尋ねかけた。
「それで、どうするのさ」
『決まってるだろ? 私の首のありかを問いつめる』
「それで──どうするの?」
『どうって』
そこまで文字を打ち込んで、セルティは新羅の言いたい事に気が付いた。
「
何も答える事ができず、セルティの指がキーボード上で固まった。
「一人の人間として生きている『首』を、高校生の知り合いが居るっぽい君の首をどうしようっていうの? 君の為に、その首を
──首を完全に手に入れる為には、首を身体から切り離す必要がある。だが、身体を得て
最終的な結論に
『そもそも何で私の首に、私以外の身体があるんだ?』
「まあ、実際に見ていない私が何を言っても
新羅は少しの間考え込むと、おぞましい結論をあっさりと告げた。
「体格の合いそうな女の子を見つけて、適当に首をすげ替えたんじゃないかな」
その答えは確かにセルティも想像していたが、こうも淡々と言われてしまってはどうしようもない。複雑な心境のセルティに、新羅は更に自分の論を付け加えた。
「まあ、国かどこか──より大げさにするならば、軍の極秘研究機関があの『首』を手に入れたとして──様々な実験をし尽くした後は不死の軍隊を作っちゃえとかそういうノリで、首の細胞からクローン技術で全身を作って、デュラハンの持つ『記憶』を得る為にそのクローン体と首をすげ替えた────ってのはどうだろう」
『ゴールデンラズベリー賞は間違い無しだな』
ダメ映画賞と呼ばれる映画のイベントになぞらえながら、セルティは新羅の意見を半分聞き流した。だが、もう半分──どこかの研究所というのは大いにありえる話だ。
「まあ、クローンは飛躍しすぎだとしても、適当に死体と
『
「確かに、まともな人間のやる事じゃあない。だけど──きっかけさえあれば人間はなんでもするよ。例えば、
ある意味、人体実験よりもドロドロとした事を平気で語る
『とにかく──あの『首』と、一度話をしてみようと思う。話はそれか』
完全に文字を打ち終わる前に、新羅が力強く言い放つ。
「そうやって結論を先延ばしにするつもりかい?」
新羅の声は真剣そのもので、先刻までの
──
その思いを
『認めたく無いんだ。自分のしてきた事が──この20年間がすべて
文字列を寂しそうに見つめた後──それまで居間のパソコンの前でやりとりをしていた新羅が、セルティのいる隣の部屋の中に入ってきた。そして、セルティの隣に腰掛けながら、彼女のパソコン画面を直接
「無駄なんかじゃないさ。──君が生きて来たこの20年は無駄なんかじゃない。これからの人生に生かせば、どんな事だって無駄じゃないさ」
『何を生かせというのだ』
「例えば──僕と結婚すれば、これまでの20年はその
いけしゃあしゃあと言ってのける新羅に対し、セルティは
普段ならば単なる
『ひとつ聞いていいか?』
「いいよ」
このような事をストレートに尋ねて良いものか迷ったが、やがて決意したように、セルティはキーボードに指を躍らせる。
『新羅は、本当に私の事が好きなのか?』
それを読んで、新羅は大げさに
「何を今更!? あああ、心に
『私には首が無いぞ?』
「俺は君の中身に
『私は人間じゃない』
──自分は結局人間ではない。ただ、人間を模しているだけの
複雑な想い、伝えきれない思い。心の中に
『お前は怖くないのか? 人間以外に好意を持つ事が、自分とは物理法則すら異なる化物に対して、どうしてそんな事が言える?』
パソコンの文字列の勢いが早くなる。それに対応するかのように、
「20年も一緒に暮らしといて何を今更……。別に気にする事は無いんじゃないかな。俺と君の間で意思の
珍しく自分をアピールする新羅だが、四字熟語の使用にまだまだ心の
『お前の事は信用している。信用してないのは
せめて相手に
『私は、自信が無い。私がもしお前や、別の人間に対して恋をしたとして──恋愛の価値観は、私とお前は一緒なのか? ああ、私はきっとお前の事が好きなのだと思う。ただ、それが人間の言う恋愛感情なのかどうか、それが
「そんなのは、人間だれしも思春期に通る道だよ。人間は人間同士の価値観を共有してるわけじゃないんだからさ、俺だって自分の『好き』が
まるで何かを
「俺は昨日、君のデュラハンとしての価値観を知りたいと言ったが──その結果がどうであれ、俺が、君を好きだって事は変わらない」
今では完全に真剣な表情になった新羅が、照れも迷いも無い声で言葉を
その言葉を聞いて指を止めると、セルティは
『しばらく、考えさせてくれ』
「ああ、俺はいつまでも待つよ」
そう言って再び
『それにしても、本当に私でいいのか?
「はは、
『自分で言うな。というか、私は蓼か』
そうキーボードに打ち込みながら、セルティは自分の心に何か熱いものが
──ああ、きっと私に心臓があれば、きっと自分の鼓動音が耳に聞こえるのかもしれない。
そう思いながらセルティは思い悩む。やはり、自分と新羅達人間の間にはとてつもなく
デュラハンに心臓は無い。セルティの事を解剖した新羅の父親の話では、限りなく人間を模した構造をしているが──どの臓器も形だけで、何の機能もしていないとの事だった。血管はあるのに血も通っておらず、
10年程たったある日、新羅は言った。『君はきっと影なんだよ。君は首か、あるいは異世界にある本体か──そういった物の影なんだ。影が動くのにエネルギーがどうこう言っても仕方が無い』と。
影が意思を持って動くなどとは常識では考えられないが、自分自身の存在がどうやら常識ではないらしく、新羅の言う通り悩むのをやめる事にした。
とにかく、数日の間は自分の首に集中しよう。
そして──その結果によって、私は自分の生き方を決意する事にしよう。
セルティは
二人とも
そこまで考えて、彼女は意識を己に向ける。
──しかし──そんな事は、
彼女は相手の目を含む表情から感情を読み取ったが、本当にそうだという確信が持てないでいた。自分には何かを訴える目も、笑顔や怒り、悲しみを伝える顔を持たない。そもそも人間の感情を
怒りの目、悲しみの目、人間の倫理──そうしたものは、全てこの街で、知識として知りえた事だ。TVや漫画、映画など──
だからこそ、先刻新羅に伝えたような不安が常にある。
昔はこんな事は気にもしなかった。自分の首を求めて生きるのが精一杯だったからだ。しかし、ここ数年──ネットを通じて『人』との接触の機会が増えたことから、自分の感情や価値観がどれだけ人間と同じなのか、彼女は次第にそんなことを考えるようになっていった。
最初は新羅に教えられておっかなびっくりの状態だったが、今では仕事と首を
ネットの上で次第にセルティは人に触れていった。パソコンの向こうにいる相手とは、互いに顔も経歴も知らないまま。だが、確かにそこには関係が生じている。そもそも彼女には最初から顔が無いのだ。通常の社会での知り合いは新羅を中心として数人しかおらず、自分の正体を完全に知っているのは──新羅と新羅の父親のみだろう。首無しライダーの
必要以上に隠すつもりも無いが、自分から公開するつもりも無い。
──新羅はああ言ったが、自分は人としての価値観を手に入れたい。今の私の人格が『人間』であるというのならば、私はそれを失いたくない。
セルティは確かに人間ではない。だが、それに不安も感じている。
もし首を取り戻しても記憶が取り戻せなかったら、自分は一体どうあるべきなのだろうか──
人間はこういう気持ちの時に、どういう顔をするのだろう。
知識としては解っているのに、彼女にはどうしても答える事ができなかった。
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