4章 街の日常 昼
敷地面積はそれほど広くないものの、限られた面積を最大限に利用したその造りは、在学生に決して狭さを感じさせる事はない。池袋駅から近いという事もあり、東京近郊の人間にとっては在宅で通える高校として近年人気が高まり始めている。偏差値と共に入学の難度も
高い校舎からは周囲の風景が一望できるが、眼前に立ちはだかる60階建てのビルが優越感を与える事を許さない。反対側には
入学式はあっけないほど簡単に終わり、帝人と
「
自己紹介の際に、自分の名前の事で何か言われるのではないかという不安はあったが、名乗った後も特に反応は無い。どうやら同世代の人間というのは、
それとは逆に、帝人はできるだけ他人の事を知ろうとしてクラスメイト達の自己紹介に聞きいった。
軽い
「園原杏里です」
消え入りそうな声だったが、
他に気になる事が一つあるとすれば、帝人のクラスに一人欠席者が出たという事ぐらいだ。
ただ、彼女の欠席が告げられた瞬間、園原杏里が不安そうに空席の方を向いた事だけが気になった。
その後はつつがなくHRを終え、隣のクラスとなった
正臣は派手なピアスをつけたままであったが、周囲の人間と比べても特に違和感は感じない。私服が認められている高校である為か、
「あー、昨日はお前の引越し作業とかネットを
正臣の意見に反対する理由も無く、帝人はそのまま行動を共にする。部活の勧誘などは期間が指定されているようで、今はまだ素直に校門から出る事ができるようだ。
校門を出て、横目にサンシャイン60を見ながら
帝人にとって、
「どっか行きたいとこある?」
「あ、ええと……本屋って
60階通りの入口、ファーストフード店の前でそう尋ねると、正臣は少し考え込んだ。
「あー、本屋だったら、この辺じゃあジュンク堂が一番なんだが……何を買うつもりよ?」
「ええと、とりあえず帰ってから読む漫画でも買おうかと思って……」
それを聞いて、
「じゃあ、そこの奥にマンガを
正臣はゲームセンターのある十字路まで歩くと、そこを右折したところにある道へ入っていった。60階通りとはまた違った雰囲気に満ちた通りで、
今の帝人では駅から自分のアパートに帰るのが精一杯であり、少し裏道に入ってしまえばもう二度と自力では出て来れないような錯覚にすら陥った。
「なんか同人誌とかも売ってるみたいだけど」
同人誌。ネットに入り浸っている自分にとっては全くの未知領域ではなかったが、実際に自分で購入した事は無い。中学校の時にクラスの女子が何人かで騒いでいたような記憶があるが、ネットの情報などから、頭の中には既に18禁のイメージが
「は、入ってもいいの? 怒られない?」
「はぁ?」
正臣が
「
「いやいや、久しぶり」
「あー、
そこに立っていたのは、男女の二人組だった。昼間から外に出ているというのに、二人とも
そんな事を考えながら帝人が二人の方を見ていると、女の方が紀田に尋ねかけた。
「そっちの子は誰? 友達?」
「あー、こいつは
「へえ、今日から高校生になったんだ。おめでとう」
微妙に
「こっちの女の人が狩沢さんで、こっちが遊馬崎さん」
「……あ、え、ええと……
その名前を聞いて、遊馬崎と呼ばれた男が首を傾げる。まるで人形のような動きで、わざとらしい事この上ない。戸惑う帝人を前に、遊馬崎は
「ペンネーム?」
「なんで高校生一年生がペンネーム使うのよ。……ああ、ラジオとか雑誌投稿とか?」
「あ、あの、一応、本名です……」
「
「いや、
「そんな……照れるじゃないですか」
「
自分の話題にも関わらず会話から置いていかれている帝人は、どうしていいのか
「いやいやいや、ゴメンねぇ、時間とらせちゃって。どっか行く予定だったんでしょ?」
「いえ、そんな急ぎの用事でも無いので……」
突然気を使われた事に動転して、帝人は
「いやいや、いいっていいって、悪いね紀田君、時間とらせちゃってさ」
「私達はこれからゲーセン巡りだけど、
「ええ、ちょっとマンガを買いに」
それを聞いて、遊馬崎は後ろに手を回しながら、己の背にあるリュックをポンポンと
「いやいや、私達も
電撃文庫の名前は聞いた事がある。ライトノベルを中心に発行するレーベルで、時折ハリウッド映画の
「電撃文庫って一ヶ月にそんなに出るんですか?」
それに対して、狩沢がケラケラと笑いながら
「いやーね、違うわよ! 私の分と彼の分を一冊ずつと、あとは今晩使う本を十冊ぐらい見
「あと、燃える計算問題集『燃え算』とか。いやー、ジュビー
遊馬崎の話す単語の意味がよく解らず、帝人は助けを求めるように正臣を見る。
「……
小声で耳打ちする正臣の前で、遊馬崎は
「パンピーに何自慢してんのよ。あ、じゃあ私達もそろそろ行くわね。バァイ」
そのまま足早に去っていく二人を見て、帝人は不思議そうに
「電撃文庫を……今晩使う……?」
一体何に使うのか疑問だったが、
「いやー、
「おー、
二人は本屋で一通りの買い物を済ませ、60階通りをサンシャインの方角に向かって進む。
「それにしても、
「
「? そうなんだ」
何か引っかかるものを感じたが、特に突っ込む気も起きなかったので流す事にした。
「まあ、
「なんでもありだね」
「あらゆる話題に通じていれば、大抵の女と話合わせられるから」
「不純だ……」
今日は周囲の景色を見ながら歩こうと思い、できるだけ目線をあげながら移動する事にする。
通りの中で目立つのは、やはりシネマサンシャインに掲げられた大型ヴィジョンと、隣接する壁面に並ぶ映画の看板の数々だった。写真かと思いきや、一枚一枚写真の模写として手書きのイラストが描かれているのが
「え?」
それはこの通りで多く見かける黒人の客引きなのだが──異様なのはその姿だった。
身長は2メートルを超えると思われ、まるでプロレスラーのように太い筋肉がついている。更に目を引いたのは、その黒人が板前の
目を丸くしていると、不意に巨漢がこちらを向いて目が合ってしまった。
「オニイサン、ヒサシブリ」
「! ? ! !?」
初対面なのに再開の挨拶を交わされ、
「サイモン、久しぶりじゃんよー! 元気にしてた?」
「ンー、キダ、
「あー、金無いから今日は
「オー、ダメ。ソレシタラ、私ロシアの大地の
「大地なのに藻屑かよ」
静かに笑いながら会話を続け、正臣が適当なところで切ってその場を後にした。帝人も
「今の人も知り合い?」
「あー、サイモンっつってさ、ロシア系の黒人でロシア人がやってる寿司屋の客引きやってる」
──ロシア系の黒人?
「
「いや、マジだって。本当はサーミャってんだけどよ、みんな英語読みでサイモンって呼んでるんだ。どういう
「あいつは敵に回しちゃいけないからな。あいつが前にケンカを止めた時よお、おんなじぐらいの体格の
その言葉に先刻の戦車の
それから少し歩いたところで、帝人がポツリと
「
「ん、何が?」
「いや、
帝人としては素直に賞賛しただけなのだが、正臣は
「おだてても何も
「お
実際、
この街にやって来てから
帝人は
帝人は、別に自分がヒーローになろうと思っているわけではない。ただ、今までとは違う風を感じたいだけなのだ。帝人自身は気付いていないが、この街に初めて訪れた時に腹の奥底で感じた不安の中では、強い高揚感も同時に
そして、その高揚を、この街の新しい風を飼いならしている男が目の前にいる。わずか16
帝人は目の前の親友に自分の求める
だがしかし、次の瞬間──それらは全て打ち壊され、新たなる不安と高揚が少年の中に
「やあ」
それは、とても
それにも関わらず──正臣はその声を聞いた瞬間、まるで背中一面に矢を射かけられたかの如き表情となり、瞬時に脂汗を浮かべながら恐る恐る声のした方角に向き直る。
帝人もつられてそちらの方に目を向けると、そこには実に爽やかな顔をした好青年が立っていた。
「久しぶりだね、
フルネームで挨拶をする眼前の男に対し、正臣は帝人に初めて見せる表情となって
「あ……ああ……どうも」
完全にぎこちないその言葉に、
──
「その制服、
男の祝いの言葉は淡々としていたが、完全な無感情というわけではない。ただ単に。声色には必要最低限の感情の起伏しか表れなかったというだけだ。
「え、ええ。おかげさまで」
「
「珍しいっすね、
「ああ、ちょっと友達と会う予定があってね。そっちの子は?」
男が帝人の方に目をやり、二人の目線が一瞬だけ交錯した。普段なら目を
「あ、こいつはただの友達です」
普通ならば名前も添えて帝人を紹介するはずの正臣が、明らかにそれを避けている。しかし、男はそれを意に
「俺は
その名前を聞いて、帝人は
──思ったより普通の人だなあ。
そんな事を思いながら、とりあえず帝人も名乗っておく事にした。
「エアコンみたいな名前だね」
帝人のフルネームを聞いて、臨也は
何か会話を続けた方がいいのかと迷っていたが、帝人が口を開く前に臨也が軽く手を挙げた。
「じゃ、そろそろ待ち合わせの時間だから」
それだけ言って、足早に去って行ってしまった。その背中を見送りながら、正臣が背を伸ばしながら肩で大きく呼吸する。
「
「今の人が──そんなに怖い人なの?」
「怖いっていうか……いや……俺も
ガンジャ。突然出てきたその単語に、帝人は
「
それ以上は
帝人にとって、こんな
──この街には、自分の関われる非日常に限りなんて無いのかもしれない。
飛躍した考えだったが、彼はその思いと共に、この街と今後の生活に対する期待をどんどんと
町に来てから
無機質に見えていた人の群れが、今では街の活気を上げる聖者の行軍のように見える。
──きっと、これから
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