第三章 魔道書は静かに微笑む "Forget_me_not." 4
夜になった。
らしい、というのは本調子でない上条も眠ってしまい、気がつけば夜になっていたせいだ。小萌先生の部屋には時計がないため、今が何時か分からない。
この三日間、よっぽど緊張していたのか、インデックスは一気に疲れに襲われたように眠りこけていた。口を半開きにして眠るその姿が、何だか母親の看病に疲れた子供みたいだった。
インデックスはもはや最初の目的である『イギリス教会に
時々寝言で自分の名前を呼ばれるたびに、くすぐったい気持ちになった。
安心した子猫みたいに無防備な寝顔を見せるインデックスに、上条は複雑な気持ちになる。
彼女がどれだけの決意を見せても、結局は教会の思惑通りなのだ。インデックスが無事教会に辿り着いても、途中で魔術師に捕まっても、結局何を選んでどう転がった所で
と、不意に電話が鳴った。
小萌先生の部屋にある電話は、もはや
常識的に考えるなら電話に出るべきだが、小萌先生の電話を勝手に取っても良いんだろうかと上条は思う。思うが、結局、受話器を
『私です─────と言って、伝わりますか?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、折り目正しい女の敬語だった。どこか内緒話でもするように、声を殺している感じが受話器を通しても感じ取れる。
「
『いえ、お互い名は記憶しない方が身のためでしょう。あの子は……
「そこで寝てるけど……、ってか、お前そもそも何で電話番号知ってんだ?」
『そもそも住所を知っていたのと同じです、調べただけですよ』神裂の声には余裕がない。『あの子が起きていないなら丁度良い、そのまま話を聞いてください』
「?」
『───前にも触れましたが、あの子のリミットは今夜午前零時です。必然的に、私達はその時刻に合わせて
上条の心臓が凍りついた。
分かっていた。それ以外にインデックスを助ける方法がないのは分かっていた。けれど、目の前に『
「け、ど……」上条は、浅い息を吐きながら、「そんなもん、何でわざわざ
『……、』
受話器は、黙っていた。
決して無音なのではなく、押し殺した呼吸音の混じる、人間じみた無言だった。
『……。それなら、別れの時間は必要ありませんか?』
「な……ッ」
『正直に言います。私達が初めてあの子の記憶を消そうとした時は、三日前から「思い出作り」に夢中になりました。最後の夜はあの子に抱き着いて
「な、め───やがって」上条は思わず受話器を握り
『……、』
「いいか、分っかんねーようなら一つだけ教えてやる。俺はまだ諦めちゃいねえ。いや、何があっても諦める事なんかできるか! 一〇〇回失敗したら一〇〇回起き上がる、一〇〇〇回失敗したら一〇〇〇回
『これは対話でも交渉でもなく、ただの伝達であり命令です。あなたの意思がどうであれ、刻限と共に我々はあの子を回収します。それを止めるようでしたら、あなた自身を砕くまで』
魔術師の声は銀行の受付のように滑らかだった。
『あなたは、私の中に残っている人間らしい「優しさ」を頼りに交渉しようと思っているのかもしれませんが……だからこそ、私は厳命します』
魔術師の言葉は、ただ単純な敵意や
まるで、無駄な努力をするたびに傷を増やしていく人間を止めようという響きがある。
「ふ、……ざけんなよ」
それが妙に
「どいつもこいつも
『……。魔術では、何もできませんよ。胸を張る事はできませんが、あの子の前で虚言を吐く事も不可能です』神裂は、己の奥歯を嚙み砕くような声で、『できるようならば、とっくにやっています。こんな残酷な
「……、何だよ、それ」
『状況が分からなければ、
「……、」
『我々は魔術師です。「魔術」によって作られた環境では、「魔術」によって
「魔術の専門家が作り上げた対オカルト用の防御システムだってか。うざってえ、インデックスの一〇万三〇〇〇冊使えばどうとでもなるだろ! アイツを押さえりゃ神様の力を手に入れられるだなんて
『魔神、の事ですね。教会は、
くそったれが、と上条は口の中で毒づいた。
「……確かインデックスの頭の八割は『一〇万三〇〇〇冊の知識』に食われちまってんだよな」
『はい。正確には八五%だそうですが。
「───なら、
『……、』
電話の向こうが黙り込んだ。
ありえるか? と
例えば、それは『科学』とか。
だとすれば、その橋渡しをする人間がいた方が良いに決まってる。見知らぬ国を歩いて様々な人と交渉する場合、現地で通訳の人間を雇うように。
『……、そう、思っていた時期もあったんですけどね』
ところが、
『正直、私はどうして良いのか分からない状態です。自分が絶対と信じていた
「……、」
その先の
『────正直、だからと言って大切なあの子を
予想がついたのに、実際に耳にするとそれは一気に脳みそまで突き刺さった。
『
「な、めやがって。試した事もねえくせに良く言うぜ。そんなら一個質問だ。テメェ、記憶を殺すなんて簡単に言ってるけどよ、そもそも記憶喪失ってのが何なのか分かってんのかよ?」
答えはない。
やっぱり
「お前、良くそれで完全記憶能力だの記憶を奪うだのって語ってられたよな。一言で記憶喪失っつっても色々あるのに」ページをめくりながら、「老化……ってかボケもそうだし、アルコールで酔っ払って記憶がなくなるのもそうだ。アルツハイマーっていう脳の病気もそう、TIA……脳の血液が止まると記憶は飛ぶ。またハロセン、イソフルラン、フェンタニールなどの全身麻酔とか、バルビツール酸誘導体やベンゾジアゼピン類なんかの薬の副作用で記憶を失う事もあるんだぜ」
『??? べんぞ……何ですか?』
「簡単に言えば、人の記憶を『医学的』に奪う方法なんていくらでもある、って訳だよ。テメェらにできない方法で、一〇万三〇〇〇冊をえぐり取る方法が、って意味だ
神裂の吐息が、ギクリと凍る。
だが、これは『記憶を取り除く』という事より『脳細胞を傷つける』ようなものだ。
しかし、上条は
「それに、ここは学園都市だぜ?
本心の頼みの綱は、むしろこちらの方だった。
受話器の向こうは、何も言わない。
上条は、そんな『迷い』らしきものを見せ始めた神裂を
「で、どうする魔術師? テメェはこれでもまだ人の邪魔をするのか? 挑戦する事を
『……、敵を説得する言葉にしては、安すぎますね』神裂は、わずかに
上条は、しばらく黙り込んだ。
反論する言葉を頭の中に浮かべようとしたけど、たったの一つも存在しなかった。
ならば、もう認めるしかない。
「……、だよな。結局、分かり合う事なんざできねーんだな」
コイツを、同じ境遇にいて理解できるかもしれなかった人間を、完全に敵と認めるしかない。
『ですね。同じモノを欲する者同士は味方になる、という公式があれば世界は
上条は受話器を握る手に、わずかに力を込める。
そのボロボロの右手を、神様の
「─────それじゃ、潰すぜ。宿敵」
『私とあなたの
「上等だ、
ステイルだって決して上条より格下ではなかった。上条が勝てたのは、スプリンクラーという設備にステイルが負けたせいだ。ようは、戦い方次第で実力を埋める事はできるはずなのだ。
『先に伝えておきますが、次、あの子が倒れれば、もう
「
首を洗って待っています、と笑って通話が切れた。
上条は受話器を静かに置いて、それから夜空の月を見上げるように
「くそっ!」
まるで組み
電話ではあの魔術師に偉そうな事を言ったが、上条は脳外科医でもなければ大脳生理学の教授でもない。科学的に何とかなるかもしれないにしても、一介の高校生では具体的に何をどうすれば突破口になるかなんて見当もつかない。
見当もつかないのに、立ち止まる訳にはいかない。
まるでどこを見ても地平線しか存在しない砂漠の真ん中にポツンと取り残されて、自分の足で街まで戻ってこいと言われたような猛烈な焦りと不安が襲いかかってくる。
その魔術師達がどうして今すぐ襲ってこないのか、その理由は分からない。単に上条に同情しているだけか、それとも
上条は畳の上で丸くなってすやすや眠っているインデックスの顔を見た。
それから、よしっ! と気合を入れて起き上がる。
学園都市には大小一〇〇〇ヶ所以上の『研究機関』があるものの、一学生の上条にはコネもツテもない。それらを頼るには、やはり
たった一日も時間がないのに何ができる、と思うかもしれない。間近に迫ったインデックスの
人間を仮死状態にする薬、なんて言うとロミオとジュリエットじみた非現実的な
眠っている間も夢を見たりして頭を使うじゃないか、という心配はしなくて良い。
よって、上条に必要な事は二つ。
一つは、
一つは、魔術師の目をかいくぐってインデックスをここから連れ出す事、もしくは上条でも二人の魔術師を倒せるような環境を作り上げる事。
上条はまず小萌先生に電話をする事から始めた。
……と、思ったけれど、冷静になってみたら小萌先生の携帯の番号なんて知らないのだった。
「うわ、すっげーバカっぽい……」
半分以上本気で死にたい声を出しながら、自分の周囲をグルリと見回してみた。
何の変哲もない……むしろ狭いと感じられるほどの
この中から、あるかどうかも分からない『携帯電話の番号』を探せなど、ムチャクチャだと思った。まるで広大なゴミの埋立地から、昨日間違って捨てた乾電池を一本、探してこいと言われたような気分だった。
それでも止まっていられない。上条は辺り構わずモノをひっくり返してメモか何かに携帯電話の番号が書いてないかを探してみる。一分一秒が惜しいこの状況で、あるかどうかも分からないモノを探すなんて正気の
タンスの奥まで調べて本棚の本を全部引き抜いた。上条がこれだけ暴れても
自分はこんなに頑張ってるのにこうも完全にコタツ猫モードになってるインデックスを見ると異常にドツき回したくなってくるが、その時、家計簿らしき大学ノートに挟んであった一枚の紙切れがひらりと床に落ちるのを上条の目は見逃さなかった。
携帯電話の通話料金の明細書だった。
飛びつくように上条はその紙切れを拾い上げると、そこには確かに十一
電話番号を見つけるまでに随分、時間がかかったように思えた。
実際、それが何時間も
番号の通りにかけるとコール音三回で、まるで計ったように
まるで口から泡でも飛ばすように、上条は受話器に向かって自分でも理解しにくいような、全く頭の整理ができていない『説明』を叫んでいた。
『───んー? 先生の専攻は
大して詳しい説明もしていないのに、小萌先生はすらすらと答える。
こんな事なら最初っから小萌先生に相談してりゃ良かったと上条は本気で思う。
『けど、上条ちゃん。研究所の
「しとくです? ……ってダメだ先生。悪いけど一刻を争う状態なんだ、今すぐ
けどー、と小萌先生は人をイライラさせるような間を空けた後、
『だって、もう夜の十二時ですよ?』
は? と、上条は思わずその場で凍りつくかと思った。
部屋には時計はない。だが、たとえあったとしても、今の上条に時間を確かめる勇気はない。
ギチギチと。ギチギチと、視線をインデックスの方へ落とす。
「……いん、でっくす?」
上条は恐る恐る、声をかけてみる。
インデックスは動かない。まるで熱病で倒れた病人のように、眠りに落ちたまま反応しない。
受話器が何かを言っていた。
だが、上条は声を聞き取る前に受話器を取り落としてしまった。
カンカン、とアパートの通路を歩く足音が聞こえた。
───それでは、
まるで樹海の奥に降り注ぐ木漏れ日のように、
真円の月を背負い、二人の魔術師がそこに立っていた。
その時、日本中の時計の針は、きっかり午前零時を示していた。
それは、ある少女の
つまり、そういう事だった。
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