第三章 魔道書は静かに微笑む "Forget_me_not." 1
意味が分からなかった。言葉の意味が分からなかった。
血まみれのまま道路に倒れ、神裂を見上げる上条は、痛みのショックで幻聴でも聞いたのかと思った。だって、ありえない。インデックスは魔術師に追われてイギリス教会に逃げ込もうとしたのに。後を追ってきた魔術師が同じイギリス教会の人間だった、なんて。
「完全記憶能力、という言葉に聞き覚えはありますか?」
神裂火織は言った。その声は弱々しく、その姿は痛々しく、それはロンドンでも十指に入る魔術師の姿とは思えなかった。それは、疲れきったただの女の子にしか見えなかった。
「ああ、一〇万三〇〇〇冊の正体、だろ」上条は切れた唇を動かし、「……全部、頭の中に入ってんだってな。言われたって信じらんねーよ、一度見たモノを残さず覚える能力なんて。だって、
「……、あなたには、彼女がどんな風に見えますか?」
「ただの、女の子だ」
「ただの女の子が、一年間も私達の追撃から逃れ続ける事ができると思えますか?」
「……、」
「ステイルの炎に、私の
そうだ。
「アレは、紛れもなく天才です」神裂は、断言するように、「扱い方を間違えれば天災となるレベルの。
「……、それでも」上条は血まみれの唇を
「そうですね」神裂は
「……?」
「彼女の脳の八五%以上は、
確かにそれはすごい話だろうが、今はもっと先に知りたい事がある。
「……だから、何だよ。アンタ達は何やってんだよ?
上条は、そこで音もなく奥歯を嚙み締めて、
「……それとも何か。インデックスの方が
信じられない。単に上条を利用しようとしているだけなら、わざわざ上条を助けるために危険を冒して背中を
それに、そんな理屈は何もなくても、上条は信じたくなかった。
「……、彼女は、ウソをついてはいませんよ」
神裂
まるで息が詰まったように、心臓が握り
「何も、覚えていないんです」
「私達が同じ
インデックスは、一年ほど前から記憶を失っているらしい、という話を。
「けど、待てよ。待ってくれ。なんかおかしいだろ、インデックスには完全記憶能力があるんだろ? だったら何で忘れてんだ、そもそもアイツは何で記憶を失っちまってんだ?」
「失ったのではありません」
どうやって、と問い
───名乗らせないでください、少年。
───私は、もう二度とアレを名乗りたくない。
「……どうして?」だから、代わりに言った。「どうして! アンタはインデックスの仲間だったんだろ! それはインデックスからの一方通行じゃねえ、アンタの顔見てりゃ分かるよ! アンタにしたってインデックスは大切な仲間なんだろ! だったら、どうして!?」
上条はインデックスが向けてくれた笑顔を思い出す。
あれは世界でたった一人の知り合いに対する、寂しさの裏返しでもあったはずだ。
「……、そうしなければ、ならなかったからです」
「何で!?」
上条が、ほとんど頭上の月に向かって
「そうしなければ、インデックスが死んでしまうからですよ」
呼吸が、死んだ。───理由もなく、肌に感じる真夏の熱帯夜の熱気が、一気に引いた。全身の五感が、まるで現実から逃げていくように薄れていく。
まるで……、まるで、死体になったような気分だった。
「言ったでしょう、彼女の脳の八五%は一〇万三〇〇〇冊の記憶のために使われている、と」神裂は、小刻みに肩を震わせながら、「ただでさえ、彼女は常人の十五%しか脳を使えません。並みの人間と同じように『記憶』していけば、すぐに脳がパンクしてしまうんですよ」
「そ、んな……」
否定。論理より、理屈より、上条はまず始めに『否定』を決定してから思考を回らせた。
「だって、だって、おかしい。お前、だって、残る十五%でも、
「はい。ですが、彼女には私達とは違うモノがあります。完全記憶能力です」神裂の声から、少しずつ感情が消えていく。「そもそも、完全記憶能力とは何ですか?」
「……一度見たモノを、絶対に忘れない、能力。だろ?」
「では、『忘れる』という行動は、そんなに悪い事ですか?」
「……、」
「人間の脳の
ところが、と
「彼女には、それができない」
「……、」
「街路樹の葉っぱの数から、ラッシュアワーで
……これは、これはどういう種類の物語なんだ? 悪い魔法使いに追われる薄幸の女の子がいて、
──だから、使える連中に連れ去られる前にこうして僕達が保護しにやってきた、って訳さ。
──魔法名を名乗る前に、彼女を保護したいのですが。
「……、いつまで、だ?」
上条は、聞いた。
否定ではなく質問してしまった時点で、心のどこかが認めてしまっていた。
「アイツの脳がパンクするまで、あとどれぐらい
「記憶の消去は、きっかり一年周期に行います」神裂は疲れたように、「……あと三日が限界です。早すぎても遅すぎても話になりません。ちょうどその時でなければ記憶を消す事はできないんです。……あの子の方も、予兆となる、強烈な頭痛が現れていなければ良いのですが」
上条はゾッとした。確か、インデックスは一年ほど前から記憶を失っている、と言っていた。
そして、頭痛。───上条はてっきり、回復魔法の反動でインデックスが倒れたと思っていた。事実、魔術に一番詳しいインデックス本人がそう言っていたのだから。
だが、インデックスが何か勘違いしていたとしたら?
もう彼女は、いつ頭が壊れてもおかしくない状態で動き回っていただけ、だったら?
「分かって、いただけましたか?」
「私達に、彼女を傷つける意思はありません。むしろ、私達でなければ彼女を救う事はできない。引き渡してくれませんか、私が魔法名を名乗る前に」
「……、っ」
「それに、記憶を消してしまえば彼女はあなたの事も覚えていませんよ。今の私達を射抜く目を見れば分かるでしょう? あなたがどれだけ彼女を
「……、」
そうして、上条はわずかな違和感を
「そんな彼女を助けた所で、あなたにとって何の
「……、何だよ。そりゃ」
違和感は、一瞬で爆発した。さながら、ガソリンに火を放つように。
「何だよそりゃ、ふざけんな! アイツが覚えてるか覚えてないかなんて関係あるか! いいか、分っかんねえようなら一つだけ教えてやる。
「……、」
「なんか変だと思ったぜ、単にアイツが『忘れてる』だけなら、全部説明して誤解を解きゃ良いだけの話だろ? 何で誤解のままにしてんだよ、何で敵として追い回してんだよ! テメェら、なに勝手に見限ってんだよ! アイツの気持ちを何だと
「───うるっせえんだよ、ド素人が!!」
上条の怒りが、真上から襲いかかってきた神裂の
「知ったような口を利くな!! 私達が今までどんな気持ちであの子の記憶を奪っていったと思ってるんですか!? 分かるんですか、あなたなんかに一体何が! あなたはステイルが殺人狂だとか言いましたけどね、アレが一体どんな気持ちであの子とあなたを見てたと思ってるんですか!? 一体どれほど苦しんで! どれほどの決意の下に敵を名乗っているのか! 大切な仲間のために
「な……、」
あまりの
腹の中から口の外へ、一気に血の味が
だが、激痛にのた打ち回る前に、頭上の月を背に
一体何の冗談か、脚力だけで真上に三メートルも飛び上がり、
「……!?」
ゴグギ、という鈍い音。
けれど、悲鳴をあげる事さえ許さない。
上条の目の前には、血の涙でも流しかねない、神裂の顔。
上条は、
これほどまでの『人間』の感情をぶつけられる事が、恐い。
「私達だって頑張ったよ、頑張ったんですよ! 春を過ごし夏を過ごし秋を過ごし冬を過ごし! 思い出を作って忘れないようにたった一つの約束をして日記や
まるで電動ミシンの針のように鞘の先端が連続して降り注いだ。
腕、脚、腹に胸に顔に───次々と降り注ぐ鈍器が体のあちこちを潰していく。
「……、それでも、ダメだったんですよ」
ギリ、と奥歯を
ピタリと、手が止まった。
「日記を見ても、アルバムの写真を眺めても……あの子はね、ゴメンなさいって言うんですよ。それでも、一から思い出を作り直しても、何度繰り返しても、家族も、親友も、恋人も、
ガチガチと震えて、もう一歩も動けないという感じで。
「私達は……もう耐えられません。これ以上、彼女の笑顔を見続けるなんて、不可能です」
あの性格のインデックスにとって、『別れ』は死のような苦痛だろう。
それを何度も何度も味わっていく、地獄のような
死ぬほどの
だから、神裂達は残酷な
インデックスの
インデックスの
「……、」
何となく、
コイツらは魔術のプロだ。不可能を可能にする連中だ。インデックスが何度も記憶を失っていく中で、『記憶を失わなくても済む方法』をずっと探し続けた事だろう。
だけど、それはたったの一度さえ
そして、記憶を失ったインデックスはステイルや
いつものように、いつもの笑顔で。
ゼロから接せられる事で、神裂達は自分で自分を責め、
だけど、それは。
「ふ、ざけんな……、」上条は奥歯を
この一年間、インデックスは
それが一番正しかった選択だなんて、絶対に認めない。認められない。認めたくない。
「じゃあ。
神裂は、
上条はボロボロの右手を動かし、顔面を襲う鞘を寸前で握って食い止める。
もう、こんな魔術師には恐怖も緊張もない。
体は、動く。
動く!
「テメェらがもう少し強ければ……」
もう肩も砕けている左腕を無理矢理に動かして、さらに鞘を摑む。ボロボロの体を使って無理矢理に立ち上がると、それだけで体のあちこちから血が
「その、体で……戦うつもりですか?」
「……、うる、せえよ」
「戦って、何になるんですか?」逆に、神裂の方が戸惑っているようだった。「たとえ私を倒した所で、背後には
それはそうだろう。
彼女達が本当にインデックスの仲間だったというなら、彼女を道具のように扱う教会のやり方に反発したはずだ。そこで反発できなかったという事は、それだけ力の差を示している。
「うるっ……せえっつってんだろ!!」
それでも、そんなの、関係ない。
ガチガチと。今にも死にそうな体を無理矢理に動かして、目の前の
何の力もないただの眼光に、ロンドンで十指に入る魔術師は一歩後ろへ下がっていた。
「んなモン関係ねえ! テメェは力があるから、仕方なく人を守ってんのかよ!?」
「違うだろ、そうじゃねえだろ!
ボロボロの左手で、神裂の
「テメェは、何のために力をつけた?」
ボロボロの右手で、血まみれの
「テメェは、その手で
力も何も出ない拳を、神裂の顔面へと
それでも、神裂は投げ出されるように後ろへ倒れ込んだ。
手を離れた
「だったら、テメェはこんな所で何やってんだよ!」崩れた神裂を、見下ろすように、「それだけの力があって、これだけ万能の力を持ってるのに……何でそんなに無能なんだよ……」
ぐらり、と地面が揺れる。
そう思った瞬間、上条の体は電池が切れたように地面に崩れ落ちた。
(起き、ろ……反撃が、くる……)
視界が、
上条は出血多量で視力も回復しない体を無理矢理に動かして、神裂の反撃に備えようとした。なのに、体は指先一本を、イモ虫のように動かすのが精一杯だった。
しかし、反撃はこない。
こない。
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