第二章 奇術師は終焉を与える The_7th-Egde. 4

 インデックスは一人でさっさと銭湯へ向かってしまった。

 一方、上条は一人でトボトボ銭湯を目指していた。インデックスの後を追い駆けようと思ったのだが、お怒りの白いシスターは上条の姿を見るなり野良猫みたいに走って逃げてしまうのだ。そのくせ、しばらく歩いているとまるで上条を待ってたみたいにインデックスの背中が見えてくる。後はその繰り返し。なんかホントに気まぐれな猫みたいだった。

 まぁ銭湯ゴールは同じだし、いつか合流できるか、と上条は追い駆けるのをめたのだった。

 というか、ナマハゲよろしく暗い夜道で(見た目は)か弱い英国式シスターの女の子を追い回している姿をだれかに見られたら問答無用で現行犯逮捕という不幸な予感がしたからでもある。

「英国式シスター、ねえ」

 上条は暗い夜道を一人で歩きながら、ぼんやりと口の中で言った。

 分かってる。インデックスを日本の『イギリス教会』に連れて行ったら、彼女はそのままロンドンの本部へ飛ぶ。もう上条の出番はないだろう。短い間だったけどありがとう、君の事は忘れないよ、完全記憶能力あるし、というオチがつくに決まってる。

 何か胸にチクリと刺さるものがある上条だったが、かと言って何か別案がある訳でもない。インデックスを教会に保護してもらわなければ延々と魔術師に追われ続ける事になるし、インデックスの後を追ってイギリスまで飛ぶというのも非現実的だ。

 住んでる世界、立ってる場所、生きてる次元───何もかもが違う人間。

 上条は科学ESPの世界に住んでいて、彼女は魔法オカルトの世界に生きていて、

 二つの世界は、陸と海みたいに決して交わり合う事はないという、

 たったそれだけの話。

 たったそれだけの話が、のどに刺さった魚の骨みたいにイライラさせ


「あれ?」


 と、不意に空回りする思考が切れた。

 何かが、おかしい。かみじようはデパートの電光掲示板の時計を見る。午後八時ジャスト。まだまだ人が眠る時間でもないはずなのに、何だか辺りが夜の森みたいにひどく静まり返っている。妙な、違和感。

 そう言えばインデックスと一緒に歩いていた時から、だれともすれ違っていないが……。

 上条は首をひねりつつも、そのまま歩き続ける。

 そして、片側三車線の大通りに出た時、かすかな違和感は明確な『異常』に進化シフトした。

 

 コンビニの棚に並ぶジュースみたいにずらりと並ぶ大手デパートには誰も出入りしていない。いつも狭いと感じる歩道はやけにだだっ広く感じられ、まるで滑走路みたいな車道には車の一台も走っていない。路上駐車してある車はそのまま乗り捨てられたように無人。

 まるでひどい田舎の農道でも見ているようだった。


「ステイルが人払いOpila刻印ルーンを刻んでいるだけですよ」


 ゾン、と。いきなり顔の真ん中に日本刀でも突き刺されたような、女の声。

 気づけなかった。

 その女はものかげに隠れていた訳でも背後から忍び寄ってきた訳でもない。かみじようの行く手を遮るように、一〇メートルぐらい先の、滑走路のように広い三車線の車道の真ん中に立っていた。

 暗がりで見えなかったとか気がつかなかったとか、そんな次元ではない。確かに一瞬前までだれもいなかった。だが、たった一度まばたきした瞬間、そこに女は立っていたのだ。

「この一帯にいる人に『かここには近づこうと思わない』ように集中をらしているだけです。多くの人は建物の中でしょう。ご心配はなさらずに」

 理屈よりも体が──無意識に右手に全身の血が集まっていく。ギリギリと手首をロープで縛られるような痛みに、上条は直感的にコイツはヤバイと感じ取った。

 女はTシャツに片脚だけ大胆に切ったジーンズという、まぁ普通の範囲の服装ではあった。

 ただし、腰からけんじゆうのようにぶら下げた長さ二メートル以上もの日本刀が凍える殺意を振りまいていた。刀身はさやに収まって見えないが、まるで古い日本家屋の柱みたいな歴史を刻んだ漆黒の鞘が、すでに『本物』を裏付けていた。

かみじようとう、ですか───です」

 そのくせ本人は緊張した様子を見せない。まるで世間話のような気楽さが、かえって怖い。

「……、テメェは」

かんざきおり、と申します。……できれば、もう一つの名は語りたくないのですが」

「もう一つ?」

「魔法名、ですよ」

 ある程度予想していたとはいえ、上条は思わず一歩後ろへ下がった。

 魔法名──ステイルが魔術を使って上条を襲った時に名乗った『殺し名』だ。

「──て事は何か。テメェもステイルと同じ、魔術結社とかいう連中なんだな」

「……?」神裂は一瞬だけ不審そうにまゆをひそめ、「ああ、禁書目録インデツクスに聞いたのですね?」

 上条は答えない。

 魔術結社。一〇万三〇〇〇冊の魔道書を欲して、インデックスを追い回す『組織』。魔術を極め、世界のすべてをねじ曲げると言われる、『魔神』と呼ばれる人間に辿たどり着く事を望む『集団』。

「率直に言って」神裂は片目を閉じて、「魔法名を名乗る前に、彼女を保護したいのですが」

 ゾッとした。

 かみじようは右手という切り札を持っていながら、それでも目の前の敵に悪寒を覚えた。

「……嫌だ、と言ったら?」

 それでも、上条は言った。退く理由など、どこにもなかったから。

「仕方がありません」かんざきはもう片方の目も閉じて、「名乗ってから、彼女を保護するまで」

 ドン!! という衝撃が地震のように足元を震わせた。

 まるで爆弾でも爆発したようだった。視界のすみで、あおやみに覆われたはずの夜空の向こうが夕焼けのようなオレンジ色に焼けている。どこか遠く───何百メートルも先で、巨大な炎が燃え広がっているのだ。

「イン、デックス……ッ!!」

 敵は『組織』だ。そして上条は炎の魔術師の名前を知っている。

 上条はほとんど反射的に炎の塊が爆発した方角へ目を向けようとして、


 瞬間、神裂おりざんげきが襲いかかってきた。


 上条と神裂の間には一〇メートルもの距離があった。加えて、神裂の持つ刀は二メートル以上の長さがあり、女の細腕では振り回す事はおろかさやから引き抜く事さえ不可能に見えた。

 ───、

 なのに、次の瞬間。巨大なレーザーでも振り回したように上条の頭上スレスレの空気が引き裂かれた。きようがくに凍る上条のすぐ後ろ──斜め右後ろにある風力発電のプロペラが、まるでバターでも切り裂くように音もなく斜めに切断されていく。

「やめてください」一〇メートル先で、声。「私から注意をらせば、辿たどる道は絶命のみです」

 すでに神裂は二メートル以上ある刀をさやに収めている。あまりに速すぎて上条には刀身が空気に触れた所さえ見る事ができなかった。

 上条は動けなかった。

 自分が今ここに立っているのは、神裂がわざと外したから──かろうじてそう思うのが精一杯で、それさえ現実味がいてこない。あまりに敵が非常識すぎて理解が追い着かない。

 ドズン、と音を立てて上条の後ろで切り裂かれた風力発電のプロペラが地面に落ちた。

 本当にすぐそばにプロペラのざんがいが落下したというのに、それでも上条は動けなかった。

「……、ッ!」

 あまりの切れ味に上条は思わず奥歯をみ締める。

 神裂は、閉じていた片目をもう一度開いて、

「もう一度、問います」神裂はわずかに両の目を細め、「魔法名を名乗る前に、彼女を保護したいのですが」

 神裂の声には、よどみがない。

 まるで、この程度の事で驚くなと言わんばかりの、冷たい声だった。

「……な、なに、言って──やがる」

 足の裏に接着剤を塗ったように、前へ進むどころか後ろへ退く事さえできない。

 フルマラソンを走り終えた後のように両脚がガクガクに震え、力が抜けていくのが分かる。

「テメェを相手に、降参する理由なんざ───」

「何度でも、問います」

 シユン、とほんの一瞬だけ、何かのバグみたいにかんざきの右手がブレて、消える。

 ごう! という風のうなりと共に、恐るべき速度で何かが襲いかかってきた。

「!?」

 まるで、四方八方から巨大なレーザー銃を振り回されるような錯覚。

 それは、例えるなら真空刃で作り上げた巨大な竜巻。

 かみじようとうを台風の目にして、地面アスフアルトが、街灯が、一定の間隔で並ぶ街路樹が、まとめて工事用の水圧カッターで切断されるように切り裂かれた。宙を舞った握りこぶしほどもある地面の欠片かけらが上条の右肩に当たり、それだけで上条は吹っ飛ばされて気絶しそうになる。

 上条は右肩を押さえながら、首ではなく視線だけで辺りを見回す。

 一本。二本、三本四本五本六本七本───都合七つもの直線的な『刀傷』が平たい地面の上を何十メートルに渡って走り回っていた。様々な角度からランダムに襲う『刀傷』は、まるで鋼鉄の扉になまづめがす勢いで傷をつけているようにも見える。

 チン、という刀が鞘に収まる音。

「私は、魔法名を名乗る前に彼女を保護したいのですが」

 右手を刀のつかに触れたまま、神裂は憎悪も怒りもなく、本当にただの『声』を出した。

 七回。たった一度のざんげきさえ見えなかったのに、あの一瞬で七回もの『居合いり』を見せた。それも、その気になれば七回が七回とも上条の体を両断できる、必殺の七回。

 いや、刀がさやに収まる金属音は一度きりだ。

 おそらく魔術というだ。たった一度の斬撃の射程距離を何十メートルにも引き伸ばし、たった一度刀を抜いただけで七つの太刀たちすじを生むような『魔術』があるのだ。

「私のしちてんしちとうが織り成す『ななせん』の斬撃速度は、一瞬と呼ばれる時間に七度殺すレベルです。人はこれを瞬殺と呼びます。あるいは必殺でも間違いではありませんが」

 上条は無言で、右手を押しつぶす勢いで握り締めた。

 この速度と威力、そして射程距離。おそらくあの斬撃には魔術という名の『異能の力』がかかわっている。ならば、あの『太刀筋』そのものに触れる事ができれば、

「絵空事を」思考が、遮られた。「ステイルからの報告は受けています。あなたの右手はか魔術を無効化デイスペルする。ですが、それはあなたが右手で触れない限り不可能ではありませんか?」

 ───そう、触る事ができない限りかみじようの右手は何の意味も持たない。

 単なる速度だけではない。鹿正直に一直線なさかこと雷撃の槍ビリビリ超電磁砲レールガンと違い、変幻自在のかんざきおりななせんねらいを先読みする事もできない。上条が幻想殺しイマジンブレイカーを使おうものなら、七つの太刀筋は迷わず上条の腕を輪切りにする事だろう。

いくでも、問います」

 神裂の右手が、静かに腰のしちてんしちとうつかへと触れる。

 上条のほほを冷や汗が伝った。

 この『気まぐれ』が終わり、神裂が本来通り殺しにかかったら上条は間違いなく一瞬で八つに分断される。何十メートルという射程距離、街路樹をまとめて輪切りにする破壊力を考えれば、後ろへ逃げたり何かを盾にする、という考えは自殺行為にしかならない。

 上条は神裂との距離を測る。

 おおよそ一〇メートル。筋肉を引きる勢いで駆ければ四歩で相手の懐へ飛び込める距離。

 ……、動け。

 瞬間接着剤にい留められたような両足に、上条は必死に命令を送る。

「魔法名を名乗る前に、彼女を保護させてもらえませんか?」

 ……うごっ……け!!

 バギン、と。地面に張り付いた両足を無理矢理引きがすように、一歩前へ踏み込んだ。神裂のかたまゆがピクンと動く前に、上条は弾丸のように次の一歩を爆発させた。

「おおっ……ぁあああああああああ!!」

 続いてさらに一歩。後ろへ逃げる事も左右へける事も何かを盾にする事もできなければ、残るは一つ──前へ進んで道を切り開く他に方法がない。

「何があなたをそこまで駆り立てるのかは分かりませんが……、」

 神裂は、あきれよりも、むしろ哀れみの色が混じるため息を吐き出して、


 七閃。


 その時、辺りには砕かれた地面アスフアルトや街路樹の細かい破片がすなぼこりのように漂っていた。

 ごう! という風のうなりと共に砂埃が上条の眼前で八つに切断された。

「ぁ、──────オオッ!!」

 右手で触れれば消せる──頭では理解しても、心がとっさに回避を選んだ。頭を振り回すような勢いで身をかがめ、頭上を通りすぎる七つの太刀たちすじに心臓が凍える。

 計算も勝算もない。避けられたのは単純にたまたま運が良かっただけ。

 そして、さらに一歩──四歩の中の三歩目を一気に踏み出す。

 七閃がどれだけ得体の知れない攻撃だとしても、その基本は『居合り』だ。さや走りを滑走路にして、一撃必殺のざんげきを繰り出す古式剣術。それは逆に言えば、刀身がさやから抜けている間は居合りを使えない無防備な『たい』という事だ。

 次の一歩でかんざきの懐へ飛び込めば────勝てる。

 そう思ったかみじようの最後の余裕は、チン、という小さな音によってじんに撃ち砕かれた。

 鞘に収めた刀が立てる───あまりにも速すぎる、ほんの小さな金属音に。


 ななせん


 ごう! と上条のすぐ目の前で、ゼロ距離とも呼べるほど間近で。

 体の反射神経がとっさにけようとする前に、七つの太刀たちすじが上条の目の前に迫る。

「ち、くしょ……ぁああああああああ!!」

 攻撃という前向きなモノより、顔の前に飛んできたボールをとっさに受け取るような後ろ向きなモノで上条は目の前の太刀筋に向かって右手のこぶしを突き出す。

 それが『異能の力』であるならば、上条の右手は神や吸血鬼の力さえ消し飛ばす。

 ゼロ距離という事もあってか、七つの太刀筋はバラけず一つに束ねて上条へと襲いかかった。これならたった一度の幻想殺しイマジンブレイカーで七つすべてを吹き飛ばす事もできる。


 月明かりに青く光る太刀筋が、上条の拳を作る指の皮膚に優しく触れて、

 


「な……ッ!?」

 消えない。幻想殺しイマジンブレイカーを使ってもこの鹿げた太刀筋は消えてくれない。

 上条はとっさに手を引こうとする。だが間に合わない。そもそも飛んでくる日本刀の一撃に自ら手を差し出し、すでに太刀筋は上条の右手に触れてしまっているのだから。

 神裂はそんな上条の姿を見てほんのわずかに目を細めて、

 次の瞬間、辺り一面に肉を引き裂く水っぽい音が鳴り響いた。


 上条は血まみれの右手を左手で押さえつけ、その場でヒザを折ってかがんでいた。

 驚く事に、上条の五本の指はまだ切断されずにつながっていた。

 もちろんそれは上条の指が頑丈な訳でも、神裂の腕が鈍い訳でもない。上条の体が切断されなかったのは単純に、またもや手加減に加減を加えて見逃された、というだけだった。

 上条はヒザをついたまま、頭上を見上げる。

 真円の青い月を背負う神裂の目の前に、何か赤い糸のようなモノがあった。

 それはクモの糸のように見える。まるでつゆれたクモの巣のように、上条の血がついて初めて目に見えるようになった────七本の、鋼糸ワイヤー

「なんて、こった……」かみじようみして、「……そもそも魔術師じゃなかったのか、アンタ」

 あの馬鹿長い刀はただの飾りだったのだ。

 刀を抜いた瞬間さえ見えないのも無理はない。そもそもかんざきは刀を抜いていない。ほんのわずかにさやの中で刀を動かして、再び戻す。その仕草で、七本の鋼糸を操る手を隠していたのだ。

 上条の手が無事だったのは、五本の指が輪切りにされる直前に神裂が鋼糸をゆるめたからだ。

「言ったはずです。ステイルから話を聞いていた、と」神裂はつまらなそうに、「これで、分かったでしょう。力の量ではなく質が違います。ジャンケンと同じです、あなたが一〇〇年グーを出し続けた所で、私のパーには一〇〇〇年っても勝てません」

「……、」

 上条は血まみれのこぶしを、握る。

「何か、勘違いしているようですが」神裂はむしろ痛々しそうな目を向けて、「私は何も自分の実力を安い七閃トリツクでごまかしている訳ではありません。しちてんしちとうは飾りではありませんよ、ななせんをくぐり抜けた先には真説の『ゆいせん』が待っています」

「……、」

 血まみれの拳を、握る。

「それに何より────、私はまだ魔法名を名乗ってすらいません」

「……、」

 握る。

「名乗らせないでください、少年」神裂は、唇を嚙んで、「私は、もう二度とアレを名乗りたくない」

 握った拳が震えた。コイツはステイルとは明らかに違う、一発芸だけの人間ではない。基本の基本、基礎の基礎、土台の土台から上条とは全く作りが違う人間なのだ。

「……、降参、できるか」

 それでも、上条は握った拳を開かなかった。もう、感覚もない右手を、握る。

 インデックスは、コイツに背中をられたって上条を助けるために降参しなかった。

「何ですか? ……聞こえなかったのですが」

「うるせえっつったんだよ、ロボット野郎!!」

 上条は血まみれの拳を握り締め、目の前にいる女の顔面を殴り飛ばそうとする。

 が、それより前に神裂のブーツのつまさきが上条の水月みぞおちに突き刺さった。肺にめ込んだ空気がすべて口から吐き出されると同時、顔の横をしちてんしちとうくろさやで野球のバットみたいに殴り飛ばされる。竜巻のように体が回り、上条は肩から地面へたたきつけられた。

 痛みにうめき声をあげる前に、上条は自分の頭を踏みつぶそうとするブーツの底を見た。

 とっさに避けようと、横へ転がった所で、

ななせん

 声と同時、七つのざんげきかみじようの周りの地面アスフアルトを粉々に砕いた。四方八方からの爆発で細かい破片が爆弾のように吹き飛び、上条の全身に豪雨のようにぶち当たった。

「ごっ…ぁ……ッ!?」

 まるで五、六人にリンチされたような激痛に、上条はその場でのた打ち回る。そんな上条の前に、カツコツとブーツの底で地面を叩くようにかんざきは近づいてくる。

 立ち上がらなくては……と思うのに、足は疲れきったように動いてくれない。

「もう、良いでしょう?」むしろ痛々しそうな、小さな声だった。「あなたが彼女にそこまでする理由はないはずです。ロンドンでも十指に入る魔術師を相手に三〇秒も生き残れれば上等です、それだけやれば彼女もあなたを責める事はしないでしょう」

「……、」

 ほとんどもうろうとする意識で、上条は思い出す。

 そうだろう、インデックスなら上条が何をした所で責めたりするはずがない。

 だけど、と上条は思う。

 だからこそ、彼女がだれも責めずに一人で耐え続けるからこそ、上条はあきらめたくないのだと。

 あんなにつらそうな顔で、あんなにかんぺき微笑ほほえむ少女を、助けてやりたいと。

 死にかけの昆虫みたいに、壊れた右手を無理矢理に握り締める。

 まだ、体は動いてくれた。

 動いて、くれた。

「……、何でだよ?」

 上条は崩れ落ちたまま小さくつぶやいた。

「アンタ、すごくつまんなそうだ。アンタ、あのステイルとかってヤツとは違うんだろ。アンタ、敵を殺すのためらってんじゃねーか。その気になれば全部が全部、おれを必殺できたくせに、。……アンタはまだ、そこでだけの常識ある『人間』なんだろ?」

 神裂は、何度も何度も聞いてきた。

 魔法名を名乗る前にすべてを終わらせたい、と。

 ステイル=マグヌスと名乗ったルーンの魔術師は、そんなためらいなどじんも見せなかった。

「……、」

 神裂おりは黙り込んだ。激痛で意識が朦朧とする上条はそんな事にも気づけない。

「なら、分かんだろ? 寄ってたかって女の子が空腹で倒れるまで追い回して、刀で背中って、そんな事、許されるはずないって、もう分かっちまってんだろ?」

 血を吐くような言葉に、神裂は何もできずに耳を傾け続ける。

「知ってんのかよ。アイツ、テメェらのせいで一年ぐらい前から記憶がなくなっちまってんだぞ? 一体全体、どこまで追い詰めりゃそこまでひどくなっちまうんだよ」

 返事は、ない。

 かみじようには、分からない。不治の病の子供のためでも良い、死んでしまった恋人のためでも良い。何か『望み』があってインデックスをねらうなら、一〇万三〇〇〇冊を手に入れて世界の全てルールゆがめる(らしい)『魔神』になろうと言うなら、まだ分かる。

 けど、コイツは違う。

 コイツは『組織』の一人なのだ。言われたから、仕事だから、命令だから。そんな一言で、たった一言だけで、一人の女の子を追い駆け回して背中をるなんて常軌を逸している。

「何で、だよ?」

 上条は繰り返した。歯を食いしばるように、

おれはさ、テメェの命張って、死にもの狂いで戦って──それでもたった一人の女の子も守れねーような負け犬だよ。テメェらに連れ去られるのを、指をくわえて地面にいつくばって見ている事しかできねー弱者だよ」

 今にも泣き出しそうに、まるで子供のように。

「だけど、アンタは違うんだろ?」

 自分が何を言ってるかも分からずに、

「そんな力があれば、だれだって何だって守れるのに、何だって誰だって救えるのに」

 自分が誰に言ってるかも分からずに、

「……何だって、そんな事しかできねえんだよ」

 言った。

 悔しかった。

 それだけの力があれば、上条は守りたいモノを全て守り抜く事ができると思えるのに。

 悔しかった。

 そんなにも圧倒的に強い人間が、女の子一人を追い詰める事にしか力を使えない事が。

 悔しかった。

 まるで、今の自分はそれ以下の人間だと言われているみたいで。

 悔しくて、涙が出るかと思った。

「……、」

 沈黙に、沈黙を重ねた沈黙。

 上条の意識がハッキリしていれば、間違いなく驚いていただろう。

「……、私。だって」

 追い詰められていたのは、かんざきの方だった。

 たった一つの言葉だけで、ロンドンで一〇本の指に入る魔術師は追い詰められていた。

「私だって、本当は彼女の背中を斬るつもりはなかった。あれは彼女の修道服『歩く教会』の結界が生きていると思ったから……絶対傷つくはずがないからっただけ、なのに……」

 かみじようは、かんざきの言っている言葉の意味が分からない。

「私だって、好きでこんな事をしている訳ではありません」

 けれど、神裂は言った。

「けど、こうしないと彼女は生きていけないんです。……死んで、しまうんですよ」

 神裂おりは、泣き出す前の子供みたいに言った。

「私の所属する組織の名前は、あの子と同じ、イギリス教会の中にある───

 血を吐くように、言った。

「彼女は、私の同僚にして─────大切な親友、なんですよ」

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