第二章 奇術師は終焉を与える The_7th-Egde. 2

 一夜明けると、本当に風邪かぜと良く似た症状が出た。

 高熱と頭痛に襲われて、インデックスはすぐにぶっ倒れた。鼻水やのどの痛みがないのはウィルスによるものではなく、それはあくまで『足りない体力を補おうと』しているだけで、つまり免疫力を高める風邪薬をいくら飲んだ所で何の解決にもならないという事を意味していた。

「……、で? 何だって下ぱんつなんだお前」

 おでこにれタオルを載っけたインデックスはとんの中の蒸し暑さが許せないのか、片足を布団の横からかみじように向けて、でろっと飛び出させている。上は淡い緑色のパジャマのくせに根元まで見えているふとももは目がつぶれるぐらいまぶしい肌色で、熱のせいか桜色に上気している。

 もえ先生はおでこの上の生ぬるくなったタオルを水を張った洗面器にじゃぶじゃぶ突っ込みながら、上条の顔を半目でにらみつつ言った。

「……上条ちゃん。先生は、いくら何でもあの服はあんまりだと思いました」

 あの服、というのは安全ピンまみれの白い修道服の事だろう。

 それについては上条も全面的に賛成だが、着慣れた修道服を奪われたインデックスは不機嫌そうなネコみたいに見えた。

「……、ていうか。何だってビール好きで愛煙家の大人な小萌先生のパジャマがインデックスにピッタリ合っちまうんだ? 年齢差、一体いくつなんだか」

 なっ、と小萌先生(年齢不詳)は絶句しかけたが、インデックスが追い討ちをかけるように、

「……みくびらないでほしい。私も、流石さすがにこのパジャマはちょっと胸が苦しいかも」

「なん……、鹿な! バグってるです、いくら何でもその発言はめすぎです!」

「ていうかその体で苦しくなる胸なんかあったんか!?」

「「……、」」

 レディ二人ににらまれた。上条、反射的に魂の土下座モードへ移行。

「ですです。ところで上条ちゃん、結局この子は上条ちゃんの何様なんです?」

「妹」

おおうそにもほどがあるですモロ銀髪へきがんの外国人少女です!」

「義理なんです」

「……、変態さんです?」

「ジョークです! 分かってるよはマナー違反ではルール違反ですよあーもう!」

「上条ちゃん」

 と、いきなり先生モードの口調で言い直された。

 かみじようも黙り込む。まぁ、もえ先生が事情を聞きたがるのも無理はない。ただでさえ得体の知れない外国人を連れ込んで、しかも背中には明らかに事件性をにおわせる刀傷、挙げ句の果てには『魔術』などという訳の分からないモノの片棒を担がされたのだ。

 これで黙って目をつむってろと言う方が無理難題というものだろう。

「先生、一つだけ聞いても良いですか?」

「ですー?」

「事情を聞きたいのは、この事を警察や学園都市の理事会へ伝えるためですか?」

 です、と小萌先生はあっさり首を縦に振った。

 何のためらいもなく、人を売り渡すと、自分の生徒に向かって言い捨てた。

「上条ちゃん達が一体どんな問題に巻き込まれてるか分からないですけど」小萌先生はにっこり笑顔で、「それが学園都市の中で起きた以上、解決するのは私達教師の役目です。子供の責任を取るのが大人の義務です、上条ちゃん達が危ない橋を渡っていると知って、黙っているほど先生は子供ではないのです」

 つくよみ小萌はそう言った。

 何の能力もなく、何の腕力もなく、何の責任もないのに。

 ただ真っぐに、あるべき所へあるべき一刀を通す名刀のような『正しさ』で、言った。

「本当に……、」

 ……この人にはかなわないと、上条は口の中だけでつぶやいた。

 こんなドラマに出てくるような、映画の中でも見なくなったような『先生』なんて、上条は十数年を生きてきたそれなりに長い人生の中でもたった一人しか見当たらない。

 だから、

「先生が赤の他人だったら遠慮なく巻き込んでるけど、先生には『魔術』の借りがあるんで巻き込みたくないんです」

 上条も、真っ直ぐと告げた。

 もう、無償でだれかの盾になるような人間が、目の前で傷つく所なんて、見たくなかった。

 小萌先生はちょっとだけ、黙った。

「むう。何気にかっくいー台詞せりふを吐いてごまかそうったって先生は許さないんですよー?」

「……、? けど先生、いきなり立ち上がったりしてどこへ……?」

「執行猶予です。先生スーパー行ってご飯のお買い物してくるです。上条ちゃんはそれまでに何をどう話すべきか、きっちりかっちり整理しておくんですよ? それと、」

「それと?」

「先生、お買い物に夢中になってると忘れるかもしれません。帰ってきたらズルしないで上条ちゃんから話してくれなくっちゃダメなんですからねー?」

 そう言った小萌先生は、笑っていたと思う。

 パタン、とアパートのドアが開閉する音が響き、部屋にはかみじようとインデックスの二人だけが取り残された。

(……気を遣わせちまったかな)

 何となく。あの何かたくらんだ子供みたいな笑顔を見ると、もう『スーパーから帰ってきた』もえ先生は『全部忘れていた』事にしてしまうような気がする。

 それでいて、後からやっぱり相談したとしても『どうして早く言わなかったんですか!? 先生キレイに忘れてました!』とかぷりぷり怒りながらうれしそうに相談に乗ってくれるんだろう。

 ふぅ、と上条はとんの中のインデックスの方を振り返る。

「……、悪りぃな。なりふり構ってられる状況じゃねえって分かってんだけど」

「ううん。あれでいいの」インデックスは小さく首を振って、「これ以上巻き込むのは悪いし……それに、もうこれ以上あの人は魔術を使っちゃダメ」

「?」上条はまゆをひそめる。

「魔道書っていうのは、危ないんだよ。そこに書かれてる異なる常識『じようしき』に、たがえる法則『ほうそく』──そういう『違う世界』って、善悪の前に『この世界』にとっては有毒なの」

『違う世界』の知識を知った人間の脳は、それだけで破壊されてしまうとインデックスは言う。コンピュータのOSに対応してないプログラムを無理矢理に走らせるようなモノなんだろうか? と上条は頭の中で翻訳した。

「……私は宗教防壁で脳と心を守ってるし、人間を超えようとする魔術師は自ら常識げんかいを超え、発狂するたどりつく事を望んでる。けど、宗教観の薄い普通の日本人なら──もう一度唱えれば、終わる」

「ふ、ふぅん……、」上条は受けた衝撃を何とか表に出さないように、「何だよ、もったいねえ。あのまま先生に錬金術とかやらせようとか思ってたのに。知ってんぞ錬金術、鉛を金に換える事ができんだろ?」

 情報ソースは女の子の錬金術師が主人公の道具アイテム調合RPGというのはもちろん内緒である。

「……、純金の変換アルス=マグナはできるけど──今の素材で道具を用意するとこの国のお金だと……えっと、七兆円ぐらいかかるかも」

「…………………………………………………………………………………………、超意味ねえ」

 上条の魂の抜けたつぶやきに、インデックスも弱々しく笑って、

「……だよね。たかが鉛を金に変換したって貴族を喜ばせる事しかできないもんね」

「けど、あれ? 冷静に考えてみたら、それって何なの? どういう原理? 鉛を金に換えるって、まさかPbAuの原子を組み替えるって、え?」

「よくわかんないけど、たかが十四世紀の技術だよ?」

「ばっ……て事はアレか? 原子配列変換って事でオッケーなの!? 加速器使わなくても陽子崩壊起こせて鹿でかい原子炉なくても核融合を引き起こせるってか!? ちょっと待て、そんなの学園都市でも七人しかいないだってできるかどうか分かんねーぞ!」

「???」

「待て、そんな不思議そうな顔すんな! えっと、えっと、あー。お前それがどれだけスゴイ事かって言うとな、アトミックなロボとか起動戦士が普通に作れちゃうぐらいなんだぞ!?」

「なにそれ?」

 男のロマンは一言でり捨てられた。

 ぐったりとうな垂れるかみじように、だかインデックスはとても悪い事をした気持ちになる。

「と、とにかく、儀式で使う聖剣やじようを今の素材で代用するって言っても、限界があるんだよ? ……特に神様殺しロンギヌスやり、ヨセフの聖杯、ゴルゴダの十字架The_ROODなんていう神様関連の聖具なんかは一〇〇〇年っても代用不可能らしいんだか……ッ……」

 興奮して一気にまくし立てようとした彼女は、二日酔いみたいにこめかみを押さえた。

 上条とうとんの中にいるインデックスの顔を見る。

 一〇万三〇〇〇冊もの魔道書。たった一冊読んだだけで発狂するようなものを、それこそ一字一句正確に頭に詰め込んでいくという作業は、一体彼女にどれだけの苦痛を与えるんだろうか?

 なのに、インデックスはたった一言も苦痛を訴えない。

 知りたい? と彼女は言った。自分の痛みなど無視して、まるで上条に謝るように。

 静かな声は、いつでも明るいインデックスだからこそ、より一層の『決意』を思わせた。

 先生のバカ、と上条は思う。

 上条にしてみれば、インデックスの抱えている事情なんてどうでも良かった。どんな事情があったとしても、見捨てることなどできるはずがないのだから。とにかく『敵』を倒してインデックスの身の安全さえ守れれば、彼女の古傷をえぐる必要はない、と思っていたのに。

「私の抱えてる事情モノ、ホントに知りたい?」

 インデックスと名乗る少女は、もう一度言った。

 上条は、覚悟を決めるように、答えた。

「なんていうか、それじゃこっちが神父さんみてーだな」

 なんていうか、本当に。───つみびとざんを聞く神父さんみたいに。


 何でだと思う? とインデックスは言った。

「十字教なんて元は一つなのに、旧教カトリツク新教プロテスタント、ローマ正教、ロシア成教、イギリス清教、ネストリウス派、アタナシウス派、グノーシス派。どうしてこんなに分かれちゃったんだと思う?」

「そりゃあ……」

 流し読みでも歴史の教科書を読んだ事がある上条なら何となく答えは分かる。だが、それを『本物』のインデックスの前で口に出すのは少し気が引けた。

「うん、それでいいんだよ」インデックスは逆に笑った。「宗教に政治を混ぜたから、だよ。分裂し、対立し、争い合って──ついには同じ神様を信じる人さえ『敵』になって。私達は同じ神様を信じながら、バラバラの道を歩く事になった」

 もちろん考えは色々ある。神様の言葉でお金を稼げると思った者、それを許せないと思った者。自分が世界で一番神様に愛されていると思った者、それを許せないと思った者。

「……交流を失った私達は、それぞれが独自の進化を遂げて『個性』を手に入れたの。国の様子とか風土とか──それぞれの事情に対応して、変化していったんだよ」小さく息をいて、「ローマ正教は『世界の管理と運営』を、ロシア成教は『非現実オカルトの検閲と削除』を。そして私のぞくするイギリス清教は……」

 インデックスは、わずかに言葉を詰まらせた。

「イギリスは、魔術の国だから」それが、苦い思い出のように、「……イギリス清教は魔女狩りや異端狩り、宗教裁判──そういう『対魔術師』用の文化・技術が異常に発達したんだよ」

 首都ロンドンには今でも魔術結社を名乗る『株式会社』がいくつもあるし、書類上だけの幽霊会社ならその一〇倍以上存在する。元々は『街に潜む悪い魔術師』から市民を守るためであったはずの試行錯誤は、いつしか極めすぎて『虐殺・処刑の文化』にまで発展してしまった。

「イギリス清教にはね、特別な部署があるんだよ」

 まるで自分の罪でも告白するように、インデックスはそっと言った。

「魔術師を討つために、魔術を調べ上げて対抗策を練る。」まさしく、シスターのように。「敵を知らなければ敵の攻撃を防げない。だけど、汚れた敵を理解すれば心が汚れ、汚れた敵に触れれば体が汚れる。だから『汚れ』を一手に引き受ける必要悪の教会が生まれた。そして、その最たるものが……、」

「一〇万、三〇〇〇冊ってか」

「うん」インデックスは小さくうなずき、「魔術っていうのは式みたいなモノだから。上手に逆算すれば、相手の『攻撃』を中和させる事もできるの。だから私は一〇万三〇〇〇冊をたたき込まれた。……世界中の魔術を知れば、世界中の魔術を中和できるはずだから」

 かみじようは自分の右手を見た。

 役立たずと思っていた右手。不良の一人も倒せないし、テストの点も上がらなければ女の子にモテる訳でもないと捨て置いていた右手の力。

 だけど、少女はそこへ辿たどり着くために地獄を見続けてきた。

「けど、魔道書なんてヤバいモン、場所が分かってんなら読まずに燃やしちまえば良いじゃねーか。魔道書を読んで学ぶヤツがいる限り、魔術師は無限に増え続けんだろ?」

「……重要なのは『本』じゃなくて『中身』だから。原典オリジンを消しても、それを知ってる魔術師がほかの弟子に伝え聞かせちゃったら意味がないの」

 そういう人間は魔術師じゃなくて魔導師って言うんだけどね、とインデックスは言う。

 ネットに流れるデータみたいなモノか、とかみじようは思う。元のデータを消した所で、コピーにつぐコピーで永遠にデータは存在し続ける。

「さらに、魔道書はあくまで教科書テキストだから」インデックスは苦しそうに、「……それを読み取っただけでは魔術師とは呼べない。そこから自分なりのアレンジを加え、新たな魔術を生み出してこその魔術師なんだよ」

 データというよりは、常に変異していくコンピュータウィルスみたいだった。

 ウィルスを完全に消滅させるには、ウィルスを解析して常にワクチンを作り続けるしかない。

「……それに、さっきも言ったけど。魔道書は危険だから」インデックスは目を細めて、「写本コピーの処分さえ、専門の異端審問官インクジシヨナーは両目を糸でって脳の『汚染』を防ぐ──それでも五年は洗礼を続けないと『毒』は抜け切らないけど。原典にいたっては人の精神では無理。世界中に散らばる一〇万三〇〇〇冊は、どうしようもないからこそ『封印』するしか道がなかったんだよ」

 まるで大量に売れ残った核兵器みたいな扱いだった。

 いや、実際。おそらく書いた本人だって予想外だったに違いない。

「チッ。それにしたって、魔術ってな『超能力者おれたち以外の普通の人間』ならだれでも使えるモンなんだろ? だったらあっという間に世界中に広まっちまうじゃねーか」

 かみじようはステイルの炎を思い出す。世界中のみんながみんな、あんな力を使えるようになったら。もう科学を土台にしている世界の常識そのものが崩れてしまうような気がする。

「それは……平気。魔術結社の連中も、やみに魔道書を外へは持ち出さないから」

「? 何でだよ? 連中にしたら、戦力なかまは多いに越した事ねーだろ?」

、なの。鉄砲持ってる人がみんな友達だったら、戦争は起きないよね?」

「……、」

 魔術を知ってるからと言って、みんながみんな仲間だという訳ではない。

 むしろ自分達の切り札の威力を知っているからこそ、無闇に『敵の魔術師』を作りたくない。

 まるで最新兵器の設計図みたいな扱いだった。

「ふぅん。大体分かってきた」上条は言葉をみ締めるように、「つまり、アレか。連中はお前の頭ん中にあるを手に入れたいって訳なんだな」

 世界中にある一〇万三〇〇〇冊もの原典オリジン、それを記憶あたまの中で完全に複製した写本コピーの図書館。それを手にする事は、つまり世界中の魔術のすべてを手に入れる、という意味だ。

「……、うん」死にそうな、声だった。「一〇万三〇〇〇冊は、全て使えば世界の全てを例外なくねじ曲げる事ができる。私達は、それを魔神と呼んでるの」

 魔界の神、という意味ではなく、

 魔術を極めすぎて、神様の領域にまで足を突っ込んでしまった人間という意味の、

 魔神。

 ……ふざけやがって。

 かみじようは知らず知らずの内に奥歯をみ締めていた。インデックスの様子を見れば分かる、彼女だって何も好き好んで一〇万三〇〇〇冊を頭にたたき込んだ訳ではない。上条はステイルの炎を思い出す。彼女は少しでも犠牲者を減らすために、ただそれだけのために生きてきたっていうのに。

 その気持ちを逆手に取る魔術師も気に食わなければ、そんな彼女を『汚れ』と呼ぶ教会も気に食わなかった。どいつもこいつも人間をモノみたいに扱って、インデックスはそんな人間ばっかり見てきたはずなのに。それでも他人の事ばかり考えている少女が一番気に食わなかった。

「……、ごめんね」

 何に対してイライラしているのか、上条は自分の事なのに全く分からない。

 ただ、その一言で上条とうは本当に、キレた。


 パカン、と軽くインデックスのおでこを叩く。


「……ざっけんなよテメェ。そんな大事な話、何で今まで黙ってやがった」

 犬歯をき出しにして病人をにらみつける上条に、インデックスの動きが凍りついた。何かとてつもない失敗をしたように両目を見開いて、唇が何かをつぶやこうと必死に動く。

「だって。信じてくれると思わなかったし、怖がらせたくなかったし、その……あの、」

 ほとんど泣き出しそうなインデックスの言葉はどんどん小さくなっていき、最後の方はほとんど聞こえなかった。

 それでも、、という言葉を上条は聞いてしまった。

「ふ、ざけんなよ。ざっけんなよテメェ!!」ブチリという音を確かに聞いた。「ナメた事言いやがって、人を勝手に値踏みしてんじゃねえ! 教会の秘密? 一〇万三〇〇〇冊の魔道書? 確かにスゲェな、とんでもねー話だったし聞いた今でも信じらんねえようなこうとうけいなお話だよ」

 だけどな、と上条はそこで一拍置いて、

?」

 インデックスの両目が見開かれた。

 その小さな唇は何かを呟こうと必死に動くが、言葉は何も出てこない。

「見くびってんじゃねえ、たかだか一〇万三〇〇〇冊を覚えた程度で気持ち悪いとか言うと思ってんのか! 魔術師が向こうからやってきたらテメェを見捨ててさっさと逃げ出すとでも考えてたのか? ざっけんなよ。んな程度の覚悟ならハナからテメェを拾ったりしてねーんだよ!」

 上条は口に出しながら、ようやく自分が何にイラついているのかを理解した。

 かみじようは単にインデックスの役に立ちたかった。インデックスがこれ以上傷つくのを見たくなかった、それだけだった。なのに、彼女は上条の身をかばおうとしても、決して上条に守ってもらおうとはしない。たったの一度さえ、上条は『助けてくれ』という言葉を聞いた事がない。

 それは、悔しい。

 とてもとても、悔しい。

「……ちったぁおれを信用しやがれ。人を勝手に値踏みしてんじゃねーぞ」

 たったそれだけの事。たとえ右手チカラがなくても、ただの一般人でも、上条には退く理由がない。

 そんなもの、あるはずがない。

 インデックスはしばらくほうけたように上条の顔を見上げていたが、


 ふぇ、と。いきなり、目元にじわりと涙が浮かんだ。


 まるで氷が溶けたようだった。

 えつを殺そうと引き結んだ唇が耐えられないようにむずむず動いて、口元まで引き上げたとんにインデックスは小さくみ付いた。そうでもしなければ幼稚園児みたいに大声で泣き出すと思うほど、インデックスの目元に浮かんだ涙がみるみる巨大になっていく。

 それはきっと、今この瞬間の言葉に対するモノだけではないだろう。

 かみじようはそこまでうぬれていない。自分の言葉がそこまで響くとは思っていない。きっと、今の今までめ込んできた何かが、上条の言葉を引き金にしてあふれ出してきただけなのだ。

 今の今までそんな程度の言葉さえかけてもらえなかったのか、と痛ましく思うと同時に、それでもやっぱり上条はようやくインデックスの『弱さ』を見たような気がして、少しうれしい。

 だが、やっぱり上条は女の子の涙を見ていつまでも喜んでいられるほど変態でもない。

 というか、超気まずい。

 何も知らないもえ先生が今入ってきたら、迷わず断罪しねと言われる気がする。

「あ、あーっ、あれだ。ほら、おれってば右手があるから魔術師なんざ敵じゃねーし!」

「……、けど、ひっく。夏休みの、補習があるって言った」

「…………言ったっけ?」

「絶対言った」

 一〇万三〇〇〇冊を一字一句覚える女の子は記憶力が抜群だったらしい。

「んなモンで人様の日常引っき回してゴメンなさいなんて思ってんじゃねーよ。いいんだよ補習なんて。学校側だって進んで退学者を出したい訳じゃねえ、夏休みの補習をサボりゃあ補習の補習が待ってるだけなんだ、いくらでも後回しにしてオッケーなんだってば」

 小萌先生が聞いたらそれはそれでしゆになりそうな言葉だが、まぁ今は放っておく。

「……、」

 インデックスは目に涙をめたまま、黙って上条の顔を見上げた。

「……じゃあ、何だって早く補習に行かなきゃとか言ってたの?」

「…………………………………………………………………………………………………、あー」

 上条は思い出す。そう言えば、あの時は彼女の修道服『歩く教会』を幻想殺しイマジンブレイカーでぶっ壊して素っ裸にした直後で、密室エレベーター級の沈黙が支配していたから、それで……。

「……予定があるから、日常があると思ったから、邪魔しちゃ悪いなって気持ちもあったのに」

「……あ、あっ。あーっ………」

「私がいると……居心地、悪かったんだ」

「……、」

「悪かったんだ」

 涙目でもう一度言われたとあってはごまかし切る事は到底不可能だった。

 ごべんばばびゴメンなさいっ! と上条とうは勢い良く土下座モードへ移行。

 インデックスは病人みたいにとんからのろのろ身を起こすと、両手で上条の左右の耳をつかんで、巨大なおにぎりにでもかぶりつくように頭のてっぺんに思いっきりみ付いた。


 六〇〇メートルほど離れた、雑居ビルの屋上で、ステイルは双眼鏡から目を離した。

禁書目録インデツクスに同伴していた少年の身元を探りました。……禁書目録かのじよは?」

 ステイルはすぐ後ろまで歩いてきた女の方も振り返らずに答える。

「生きてるよ。……だが生きているとなると向こうにも魔術の使い手がいるはずだ」

 女は無言だったが、新たな敵よりむしろだれも死ななかった事にあんしているように見える。

 女のとしは十八だったが、十四のステイルより頭一つ分も身長が低かった。

 もっとも、ステイルは二メートルを超す長身だ。女の身長も日本人の平均からすればやはり高い。

 腰まで届く長い黒髪をポニーテールにまとめ、腰には『りようとう』と呼ばれる日本神道のあまいの儀式などで使われる、長さ二メートル以上もある日本刀がさやに収まっている。

 ただし、彼女を『日本美人』と呼ぶのは少し抵抗があるだろう。

 格好は着古したジーンズに白いはんそでのTシャツ。ジーンズは左脚の方だけふとももの根元からばっさりられ、Tシャツはわきばらの方で余分な布を縛ってヘソが見えるようにしてあり、脚にはヒザまであるブーツ、日本刀もけんじゆうみたいな革のベルトホルスターに挟むようにぶら下げてある。

 こうして見ると西部劇の保安官が拳銃の代わりに日本刀を下げているようにも見える。

 香水臭い神父姿のステイルと同様、まともな格好とは思えなかった。

「それで、かんざき。アレは一体何なんだ?」

「それですが、少年の情報は特に集まっていません。少なくとも魔術師や異能者といったたぐいではない、という事になるのでしょうか」

「何だ、もしかしてアレがただの高校生とでも言うつもりかい?」ステイルは口にくわえて引き抜いた煙草たばこの先をにらんだだけで火をつける。「……やめてくれよ。僕はこれでも現存するルーン二四字を完全に解析し、新たに力ある六文字を開発した魔術師だ。何の力も持たない素人が、裁きの炎イノケンテイウスを退けられるほど世界は優しく作られちゃいない」

 いくら禁書目録インデツクスからの助言があったとして、それを即座に応用し戦術を練り上げる思考速度。さらには正体不明の右手。アレがただの一般人ならまさしく日本は神秘の国だろう。

「そうですね」神裂おりは目を細め、「……むしろ問題なのは、アレだけの戦闘能力が『ただのケンカっ早いダメ学生』という分類カテゴリとなっている事です」

 この学園都市は超能力者量産機関という裏の顔を持つ。

 ぎよう機関と呼ばれる『組織』に、ステイルや神裂は禁書目録の事を伏せるとはいえ、事前に連絡を入れて許可を取っていた。名実ともに世界最高峰の魔術グループでさえ、敵の領域フイールドでは正体を隠し続ける事は不可能と踏んだからだ。

「情報の……意図的な封鎖、かな。しかも禁書目録の傷は魔術でいやしたときた。神裂、この極東にはほかに魔術組織が実在するのかい?」

 ここで彼らは『あの少年は五行機関とは別の組織を味方につけている』と踏んだ。

 他の組織が、かみじようの情報を徹底的に消して回っていると勘違いしたのだ。

「……この街で動くとなれば、なんびとぎよう機関のアンテナにかかるはずですが」かんざきは目を閉じて、「敵戦力は未知数、対してこちらのぞうえんはナシ。難しい展開ですね」

 それはまさに勘違いだった。かみじよう幻想殺しイマジンブレイカーは『異能の力』を相手にしない限り効果はゼロ。つまり学園都市の使でチカラを測る事ができない。よって、不幸にも上条は最強クラスの右手を持っているのに無能力レベル0扱いなのである。

「最悪、組織的な魔術戦に発展すると仮定しましょう。ステイル、あなたのルーンは防水性において致命的な欠点を指摘された、と聞いていますが」

「その点は補強済みだ。刻印ルーンはラミネート加工した。同じ手は使わせない」まるでトレーディングカードのような刻印を手品師のように取り出し、「今度は建物のみならず、周囲二キロに渡って結界を刻む……使用枚数は十六万四〇〇〇枚、時間にして六〇時間ほどで準備を終えるよ」

 現実の魔術はゲームのようにじゆもんを唱えてハイおしまい、という訳にはいかない。

 一見そう見えるだけで、裏では相当な準備が必要となる。ステイルの炎は本来『一〇年間月明かりをめたぎんろうきばで……』とかいう代物なので、これでも達人レベルの速度と言える。

 詰まる所、魔術戦とは先の読み合いだ。戦闘が始まった時点ですでに敵の結界ワナにはまっていると考え、受け手は相手の術式ワナを読み、逆手に取り、さらに攻め手は反撃を予測して術式を組み直す───単純な格闘技と違い、常に変動する戦況を一〇〇手二〇〇手先まで読む所を考えると、それは『戦闘』という野蛮な言葉とは裏腹な、とてつもない頭脳戦と呼べる。

 そういう意味でも、『敵の戦力は未知数』というのは魔術師にとって大きな痛手だった。

「……、楽しそうだよね」

 と、不意にルーンの魔術師は双眼鏡も使わず、六〇〇メートル先を見てつぶやいた。

「楽しそう、本当に本当に楽しそうだ。あの子はいつでも楽しそうに生きている」何か、重たい液体でも吐き出すように、「……僕達は、一体いつまでアレを引き裂き続ければ良いのかな」

 神裂はステイルの後ろから、六〇〇メートル先を眺める。

 双眼鏡や魔術を使わなくても、視力八・〇の彼女には鮮明に見える。何か激怒しながら少年の頭にかじりついている少女と、両手を振り回して暴れている少年の姿が窓に映っている。

「複雑な気持ちですか?」神裂は機械のように、「

「……、いつもの事だよ」

 炎の魔術師は答える。まさしく、いつもの通りに。

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